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冒険者適性Aランク でも俺、鍛冶屋になります  作者: むひ
アシェルの章

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エーテルの時代の幕開け5:血と金の地下劇場――仮面の戦士、誕生

その夜、グランベルク王都カストラムは、二つの顔を持っていた。


表通りでは、街路樹に設置されたマナ灯が温かな琥珀色の光を放ち、石畳を柔らかく照らしていた。その光の下では、一日の仕事を終えた市民たちが、安堵の表情で家路に就いている。商人たちは、売れ残った商品を店の奥にしまい込み、シャッターを下ろしていく。パン屋からは、明日の朝食用に焼かれる焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。


馴染みの酒場では、常連客たちが木製のテーブルを囲み、陽気にグラスを傾けている。麦酒の泡が口髭につき、仲間がそれを指差して笑う。誰かがリュートを奏で、古い民謡を歌い始める。他の客たちも、それに合わせて手拍子を打ち、声を合わせる。暖炉の火が、ぱちぱちと心地よい音を立てながら、部屋を暖めている。


教会の鐘楼からは、午後九時を告げる鐘の音が、静かに、そして厳かに響き渡った。その音色は、この都市が、法と秩序に守られた、平和で文明的な場所であることを、全ての市民に保証しているかのようだった。


子供たちは、母親に手を引かれ、眠たそうな目をこすりながら家へと帰っていく。「おやすみなさい」と挨拶を交わす隣人たち。窓からは、家族団らんの温かな光が漏れている。夕食の匂い、笑い声、穏やかな日常の音。


平和で、秩序立った都市の夜景。


それが、グランベルク王都カストラムの、表の顔だった。


しかし――


しかし、その輝かしい光の届かない裏通りでは、全く別の世界の帳が下りようとしていた。


大通りから一本、路地に入れば、そこは既に別世界だった。


マナ灯の光は、ここまでは届かない。代わりに、建物の隙間から漏れる、薄汚れた黄色い光だけが、わずかに道を照らしている。その光は不規則に明滅し、まるで瀕死の生き物の呼吸のように、弱々しく脈打っていた。


路地の壁は、湿気と苔で黒ずんでいた。ところどころ、剥がれ落ちた漆喰が、まるで皮膚病のような模様を作り出している。地面には、日中に市場から流れ出た汚水が溜まり、腐敗した野菜と、何か得体の知れない有機物の混ざった、吐き気を催すような悪臭を放っていた。


建物の窓は、ほとんどが板で打ち付けられているか、あるいは割れたまま放置されていた。いくつかの窓からは、病人の咳き込む声や、夫婦喧嘩の怒鳴り声が漏れ聞こえてくる。赤ん坊の泣き声が、途切れることなく続いている部屋もあった。


路地の隅では、浮浪者たちがぼろ布にくるまり、寒さに震えながら眠っていた。彼らの顔は、長年の貧困と絶望で、人間らしい表情を失っていた。空虚な目で、通り過ぎる人々を見つめるだけ。誰も、彼らに目を向けない。誰も、彼らに手を差し伸べない。


裏通りの奥には、怪しげな店が軒を連ねていた。


看板も出していない酒場。窓に赤いランプを灯した娼館。鉄格子で守られた質屋。黒い扉に何の表示もない、麻薬の密売所。そして、時折通り過ぎる、フードを深くかぶった怪しげな人影。


ここは、法の光が届かない場所。


ここは、王国が見て見ぬふりをしている場所。


ここは、社会の最底辺に落ちた者たちが、最後にたどり着く場所。


スラム街――


人々は、そう呼んだ。


そして、このスラム街の、さらに奥深く、最も光の届かない場所に、「それ」は存在していた。


地下闘技場。


血と金が渦巻く、欲望の坩堝。


## 影の少女――決意を纏いて


アシェルは、人通りの絶えた裏路地を、まるで影のように進んでいた。


彼女の足音は、ほとんど聞こえなかった。エルダンに教わった、足の裏全体で地面を感じながら歩く技術。体重を均等に分散させ、石畳に負荷をかけない。息を殺し、存在感を消す。


彼女の顔は、古びた、しかし精巧な銀の仮面で覆われていた。


それは、旅の途中でエルダンが護身用にと授けてくれたものだった。


「いつか、お前さんが自分の顔を隠さにゃならん時が来るかもしれん」


エルダンは、その仮面を渡す時、そう言った。


「人間ちゅうもんは、顔を隠せば、別の自分になれるもんじゃ。時には、そういう自由も必要じゃ」


仮面は、シンプルなデザインだった。


滑らかな銀の表面に、目の部分だけが開いている。鼻と口は覆われているが、呼吸を妨げないよう、内側に小さな通気孔が設けられていた。


その仮面をつけると、アシェルは、もはやアシェルではなくなった。


顔のない、名前のない、ただの戦士。


表情を読み取ることはできない。


感情を窺い知ることもできない。


ただ、その目だけが、仮面の奥で、静かに、しかし鋭く輝いていた。


学園の制服の上に、フードの付いた使い古した旅人のマントを羽織っている。そのマントは、かつてエルダンが着ていたもので、彼が旅立つ時に「いつか役に立つじゃろう」と言って残していったものだった。


マントは茶色に褪せ、所々に継ぎはぎがあったが、その生地は丈夫で、夜の冷気から身を守ってくれた。フードは深く、頭からすっぽりと被れば、顔全体を影に隠すことができた。


その小柄な姿は、完全に闇に溶け込んでいた。


身長は百五十センチに満たない。体重も、おそらく四十キロ程度だろう。華奢で、か弱く見える身体。


しかし、その小さな身体の中には、常人では考えられないほどの力が秘められていた。


生命を吸収する力。


生命を譲渡する力。


エーテルを操る、規格外の力。


アシェルは、ただ歩いているのではなかった。


一歩進むごとに、その意識は研ぎ澄まされ、周囲の世界へと繊細な触手を伸ばしていた。


彼女の特殊な感覚は、常人には知覚できない世界を捉えていた。


道端の石畳の隙間に根を張る、名もなき雑草。


その小さな葉から、微かに放たれる生命のエーテル。


それは、緑色の、柔らかな波動として、彼女の感覚に伝わってくる。


壁の蔦を伝う、小さな夜行性の昆虫。


その透明な羽を震わせるたびに、ごく微量のエーテルが空気中に拡散される。


それは、まるで小さな星のきらめきのように、彼女の視界に映った。


遠くのゴミ箱を漁る、痩せた野良猫。


その飢えた身体からは、弱々しいが、しかし確かな生命の波動が発せられている。


それは、オレンジ色の、揺らめく炎のように見えた。


それら、都市の片隅で懸命に生きる、小さな生命たちの放つ微細なエーテルを、彼女は慎重に、そして敬意を払って、自らの内に取り込んでいた。


彼女は、道端の雑草の近くで立ち止まった。


そして、そっとしゃがみ込み、その葉に指先を触れた。


目を閉じる。


呼吸を整える。


そして、意識を集中させる。


雑草の生命が、彼女の指先を通じて、身体の中へと流れ込んでくる。


それは、温かく、穏やかな流れだった。


しかし、アシェルは注意深く、その流れを制御した。


すべてを奪ってはいけない。


この小さな命を、殺してしまってはいけない。


必要最小限だけを、いただく。


雑草は、わずかに葉を萎れさせたが、枯れることはなかった。


まだ、生きている。


明日も、太陽の光を浴びて、光合成を続けるだろう。


(ごめんね。でも、少しだけ、力を貸して――)


心の中で、声にならない謝罪を繰り返しながら。


それは、彼女が森で独り生き抜いてきた中で、生存本能として身につけた技術だった。


生命そのものを奪い去るのではなく、相手が活動を停止しない、ぎりぎりの量のエーテルだけを、まるで朝露をそっとすくい取るかのように、繊細に吸収する。


母の時のような、あの暴走は、もう起こらない。


彼女は、自分の力を、完全にではないが、ある程度制御できるようになっていた。


エルダンの訓練のおかげで。


そして、リアンを救った、あの経験のおかげで。


アシェルは、路地を進みながら、次々と小さな生命からエーテルを吸収していった。


壁の苔。


地面の虫。


屋根の上で眠る鳩。


ゴミ箱の中で育つカビ。


その一つ一つから、ほんの少しずつ。


決して、命を奪わない程度に。


彼女の体内は、来るべき戦いに備え、徐々に、しかし確実に、制御可能なマナで満たされつつあった。


それは、試験塔の無機質なマナとは全く異なる、生きた、脈打つ力だった。


温かく、柔らかく、そして――彼女の意志に従順な力。


彼女の身体が、わずかに淡く光り始めた。


それは、内側から溢れ出る生命エネルギーの輝きだった。


しかし、彼女はすぐにそれを抑え込んだ。


今は、目立ってはいけない。


力は、リングの上で解き放つ。


## 偶然の情報――酒場での密談


地下闘技場への道筋を知ったのは、全くの偶然だった。


それは、昨日の夕方のことだった。


アシェルは、リアンのための薬草を探しに、街の市場を訪れていた。


しかし、どの店でも、本当に効果のある薬は高価すぎて、彼女には買えなかった。


途方に暮れた彼女は、市場の外れにある、古びた酒場の前を通りかかった。


その酒場は、「狐の尻尾」という名前で、明らかに怪しげな雰囲気を醸し出していた。


看板は傾き、窓ガラスは割れたまま放置され、扉からは安酒と煙草の匂いが漏れ出ていた。


アシェルは、別にその酒場に用があったわけではなかった。


ただ、そこを通り過ぎようとしただけだった。


しかし、その時――


扉が開き、中から聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「……だから言っただろ。ケンシンとかいうSATUMAの奴は乗ってこねえって」


その声は――サイラスだった。


アシェルは、反射的に、酒場の壁の陰に身を隠した。


サイラスは、数人の男たちと一緒に、酒場から出てきた。


その男たちは、明らかにならず者だった。


傷だらけの顔、粗末な服、腰に差した武器。


彼らは、酒場の入り口の脇にある、木製のベンチに腰を下ろした。


アシェルは、壁の陰から、そっと彼らの様子を窺った。


サイラスは、煙草に火をつけながら、続けた。


「あいつらは妙にプライドが高いからな。金のために戦うなんて、武士の恥だとか何とか言いやがった」


「ちっ、使えねえな」


一人の男が、唾を吐き捨てた。


「じゃあ、他の獲物はどうなんだ?エリート・ティアとかから、金に困ってる奴を引っ張ってこれないのか?」


「それが難しいんだよ」サイラスは、煙草の煙を吐き出した。「エリートは、学園からの支援が手厚いからな。金には困ってない。アデプトやファウンデーションも、奨学金でなんとかやっていける」


「じゃあ、お前と同じレメディアルは?」


「まあ、焦るなよ」サイラスは、ニヤリと笑った。「レメディアルには他にも面白いのがいる。あの『疫病神』の女とか、面白そうだぜ。あいつ、何か隠してるんだよな」


アシェルの心臓が、ドクンと跳ねた。


疫病神――


それは、彼女のことだ。


サイラスは、彼女のことを、地下闘技場に引き込もうとしている?


「それより今夜の場所は?」


別の男が尋ねた。


「いつもの『屠殺場の地下』か?」


「ああ、そうだ」サイラスは頷いた。「場所は変わってない。ただ、合言葉が変わった。今夜は『血と金』だ。忘れるなよ」


血と金――


アシェルは、その言葉を、しっかりと記憶に刻み込んだ。


「分かった。じゃあ、また後でな」


男たちは立ち上がり、それぞれ別の方向へと去っていった。


サイラスも、煙草を地面に投げ捨て、学園の方へと歩いていった。


アシェルは、壁の陰に隠れたまま、彼らが完全に去るのを待った。


そして、ゆっくりと、路地から出た。


屠殺場の地下。


血と金。


その断片的な会話から、アシェルは理解した。


地下闘技場は、王都北西の屠殺場――かつて食肉処理が行われていた、今は廃墟となった建物の地下にあるのだと。


そして、合言葉は「血と金」。


彼女は、その情報を手に入れた。


サイラスに直接尋ねることなく。


借りを作ることなく。


これで、彼女は一人で、地下闘技場に行くことができる。


リアンを救うために。


仲間を救うために。


そして――自分自身を証明するために。


## 屠殺場――死の匂いが染み付いた廃墟


アシェルは、スラム街の最も奥、人が近づかない場所へとたどり着いた。


そこには、巨大な廃墟が聳え立っていた。


かつての屠殺場。


王都が小さかった頃、ここで毎日、何百頭もの家畜が屠殺され、肉として市場に出荷されていた。


しかし、都市が拡大し、より効率的な処理施設が郊外に建設されると、この古い屠殺場は放棄された。


それから何十年も、この建物は放置されていた。


壁は崩れかけ、屋根は陥没し、窓ガラスは全て割れていた。


そして、最も恐ろしいのは、その匂いだった。


何十年も前に染み付いた、血と死の匂いが、今でも建物の壁に、地面に、空気に、深く刻み込まれていた。


腐敗した肉の匂い。


錆びた鉄の匂い。


絶望と苦痛の匂い。


それらが混ざり合い、この場所を訪れる者の胃を、激しく締め付けた。


アシェルは、その匂いに顔をしかめたが、前進を止めなかった。


廃墟の正面には、かつての正門があった。


しかし、その門は錆びついて久しく、今では使われていない。


代わりに、建物の裏手に、小さな鉄の扉があった。


その扉は、一見すると、ただの古い扉に見えた。


しかし、よく見ると、その扉の蝶番は新しく、錠前も最近交換されたものだった。


そして、その扉の前には、二人の男が立っていた。


見張りだ。


二人とも、大柄で、筋肉質で、明らかに戦いに慣れた者たちだった。


一人は、頭を丸刈りにし、顔に大きな傷跡がある男。


もう一人は、黒いフードを深くかぶり、顔が見えない男。


彼らは、無言で、じっと扉の前に立っていた。


アシェルは、深呼吸をした。


そして、意を決して、その二人に近づいた。


彼女の足音に気づき、二人の男が、同時に彼女を見た。


その視線は、鋭く、警戒に満ちていた。


「……何の用だ」


傷跡のある男が、低い声で問いかけた。


アシェルは、一瞬躊躇した。


しかし、すぐに決意を固め、小さく、しかしはっきりと言った。


「……血と金」


その言葉を聞いた瞬間、二人の男の表情が、わずかに変わった。


警戒から、興味へ。


そして――歓迎へ。


「ほう……」


傷跡の男が、ニヤリと笑った。


「新しい顔だな。初めてか?」


アシェルは、小さく頷いた。


「そうか」男は、アシェルを上から下まで見た。「随分と小さいな。本当に戦うつもりか?」


「はい」


「ふん……まあ、いいだろう」


男は、懐から大きな鉄の鍵を取り出し、扉の錠前を外した。


ガチャリ、という重い音が響いた。


扉が、ゆっくりと開かれた。


その向こうから、ひやりとした空気が、まるで地獄の吐息のように流れ出てきた。


そして――遠くから、微かに、人々の歓声が聞こえてきた。


「入れ」


フードの男が、扉の奥を指差した。


「ただし、死んでも文句は言うなよ」


アシェルは、頷いた。


そして、その扉をくぐった。


## 地獄への階段――血と汗の回廊


扉の向こうには、地下へと続く長い階段があった。


赤錆びた鉄の扉を開けると、ひやりとした、血と埃と、そして何よりも絶望の匂いが混じり合った、淀んだ空気が彼女を包み込んだ。


「……ここが」


アシェルは、思わず息を呑んだ。


階段は、狭く、傾斜が急だった。


壁は、粗く削られた岩で、ところどころに鋭い突起が飛び出している。


天井は低く、大人が通るには頭を屈めなければならないほどだった。


そして、階段全体が、湿気で濡れていた。


壁からは、常に水が染み出し、彼女の足元で不気味な水音を立てている。


ぽた、ぽた、ぽた――


その音は、まるで時を刻む時計のように、規則的に響いていた。


アシェルは、慎重に、一段一段、階段を降りていった。


足元が滑りやすく、何度か転びそうになった。


壁に手をつくと、その表面は冷たく、ぬめりがあった。


手を離すと、指先に、何か緑色のものがついていた。


苔だ。


あるいは、カビかもしれない。


アシェルは、それを服で拭い、さらに階段を降りていった。


階段を降りるにつれて、音が大きくなっていった。


最初は、微かな囁きのようだった。


しかし、徐々に、その囁きは明確な声になり、やがて歓声となり、そして轟音となった。


時折、遠くから、獣の咆哮のような音が聞こえてきた。


あるいは、男たちの野卑な怒号。


金属が金属にぶつかる、甲高い音。


そして――悲鳴。


短く、鋭い、苦痛に満ちた悲鳴。


それらの音が、階段の壁に反響し、まるで地獄の合唱のように、アシェルの耳に届いた。


彼女の心臓が、激しく鼓動していた。


恐怖が、彼女の全身を包み込もうとしていた。


引き返すべきだろうか。


この先に待っているのは、本当に地獄かもしれない。


死ぬかもしれない。


二度と、リアンに会えなくなるかもしれない。


しかし――


アシェルは、リアンの、あの苦しげな呼吸を思い出した。


咳き込みながら、それでも「大丈夫」と微笑む、あの優しい顔を。


仲間たちの、未来への希望を失った瞳を思い出した。


カインの、トラウマに苦しむ姿を。


サイラスの、この不公平な社会への怒りを。


その記憶が、恐怖にすくみそうになる彼女の足を、前に、前へと進ませた。


一歩、また一歩と、彼女は闇の中へと足を踏み入れていく。


階段は、長かった。


どれだけ降りても、まだ続いているように感じられた。


アシェルは、もう何段降りたのか、分からなくなっていた。


五十段?


百段?


それ以上?


まるで、地獄の底へと、どこまでも降りていくかのように。


やがて――


前方に、光が見えてきた。


それは、松明の揺らめく、オレンジ色の光だった。


そして、その光の向こうから、轟音のような歓声が聞こえてきた。


階段の終わりが、見えてきた。


アシェルは、最後の数段を降り、平らな地面に足をつけた。


そこは、小さな前室のような空間だった。


そして、その先に、さらに大きな扉があった。


鉄製の、重厚な扉。


その扉には、無数の傷がついていた。


剣で斬りつけられた跡。


斧で叩かれた跡。


そして――血の跡。


その扉の向こうから、凄まじい熱気と、人々の狂乱の声が漏れ出ていた。


アシェルは、その扉の前で立ち止まった。


そして、深呼吸をした。


一度。


二度。


三度。


エルダンに教わった、心を鎮める呼吸法。


恐怖を、呼吸と共に吐き出す。


決意を、呼吸と共に吸い込む。


彼女の心が、次第に落ち着いていった。


もう、恐怖はなかった。


あるのは、ただ、やるべきことをやる、という静かな決意だけ。


アシェルは、両手で扉を押した。


扉は、重かった。


彼女の小さな力では、なかなか開かなかった。


しかし、彼女は諦めずに、全身の力を込めて押し続けた。


そして――


扉が、ゆっくりと、きしみながら開いていった。


その瞬間――


轟音が、彼女を襲った。


## 欲望の坩堝――地下闘技場の全貌


アシェルの目の前に、信じられない光景が広がった。


それは、巨大な地下空間だった。


天井は、驚くほど高かった。おそらく、十メートル以上はあるだろう。


その天井は、自然の岩盤がそのまま露出しており、ところどころに鍾乳石が垂れ下がっていた。


そして、その広大な空間全体が、無数の松明とマナ灯で照らされていた。


松明は、壁に等間隔で取り付けられ、揺らめく炎が不気味な影を作り出していた。


マナ灯は、天井から吊るされ、青白い光を放っていた。しかし、それは学園の洗練されたマナ灯とは違い、粗末で、時折明滅する不安定なものだった。


その光の下で、アシェルは、この空間の全貌を見た。


中央には、直径三十メートルはあろうかという、巨大な円形の闘技場があった。


その床は、固く踏み固められた土だった。


しかし、その土は、もはや本来の茶色ではなかった。


長年にわたって流された血で、黒く、深く染まっていた。


所々に、まだ新しい血の跡が残っている。


そして、その血の跡の周りには、砂が撒かれていた。おそらく、血を吸収させるためだろう。


闘技場の周囲には、高さ二メートルほどの木製の柵が設けられていた。


その柵には、鋭い鉄の釘が無数に打ち込まれており、戦士が柵に叩きつけられれば、深い傷を負うことは確実だった。


そして、その柵の向こう側を、何百人もの観客が取り囲んでいた。


観客たちは、階段状に配置された木製の観客席に座っていた。


その席は、まるで古代ローマの円形闘技場のように、闘技場を中心に、同心円状に広がっていた。


最前列の席には、豪華な服を着た貴族たちが座っていた。


彼らは、宝石で飾られた指輪をはめ、高価な香水の匂いを漂わせ、銀の杯で葡萄酒を飲んでいた。


その顔には、退屈と、倦怠と、そして――刺激への渇望が浮かんでいた。


中段の席には、商人や冒険者らしき者たちが座っていた。


彼らは、実用的な服を着て、革の袋に金貨を詰め込み、真剣な表情で闘技場を見つめていた。


彼らにとって、これは娯楽ではなく、賭けだった。


金を稼ぐ機会だった。


最後列の席には、スラムの住人たちが立っていた。


彼らは、座る場所さえ与えられず、ただ立ったまま、闘技場を見下ろしていた。


その服は汚れ、顔は疲れ果て、目は虚ろだった。


しかし、闘技場で血が流れるたびに、その虚ろな目が、一瞬だけ、生気を取り戻した。


そして、彼らは皆、手に金貨や銀貨を握りしめ、狂ったように叫んでいた。


「殺せ!殺せ!」


「もっとだ!もっと血を流せ!」


「俺の賭け金を無駄にするな!」


「首を刎ねろ!」


「血を!もっと血を!」


その剥き出しの欲望の渦は、アシェルにとって、生まれて初めて見る、人間の最も醜い側面だった。


ここには、学園の秩序も、王国の法も、人間としての尊厳も、何も存在しなかった。


あるのは、ただ――


血と金。


暴力と欲望。


それだけだった。


しかし、アシェルは目を逸らさなかった。


この醜悪な世界で勝ち抜かなければ、リアンを救うことはできないのだ。


彼女は、唇を噛み、拳を握りしめた。


そして、闘技場の方へと、一歩を踏み出した。


## 混沌の受付――欲望の番人


闘技場の入り口近くに、受付があった。


それは、乱雑に組まれた木のカウンターがあるだけの、粗末なものだった。


カウンターの表面は、傷だらけで、所々に血の跡が染み付いていた。


そこに座るのは、片目に眼帯をつけた、百キロはあろうかという巨漢の男だった。


その男の顔は、無数の傷で覆われていた。


鼻は何度も折れたのか、歪んでいた。


耳の一部は、ちぎれていた。


そして、残った片目は、鋭く、冷たく、そして――どこか狂気を帯びていた。


彼は、分厚い帳簿を前に置き、羽ペンでそこに何かを書き込んでいた。


彼の横には、木製の箱が置かれており、その中には無数の金貨と銀貨が詰まっていた。


アシェルが近づくと、男は顔を上げ、彼女を見た。


その片目が、アシェルの小さな身体を、上から下まで舐めるように見た。


そして――男は、ゲラゲラと笑い出した。


「ぶはははは!何だこりゃあ!」


男の笑い声は、低く、そして下品だった。


「おい、嬢ちゃん!ここがどんな場所か分かってんのか!?」


アシェルは、何も答えなかった。


ただ、じっと、男を見つめていた。


男は、笑うのを止め、アシェルの仮面を、じっと見つめた。


「……見かけねえ顔だな」


男の声が、わずかに真剣さを帯びた。


「お遊びで来る場所じゃねえぞ、ここは。死んでも文句は言えねえからな」


「……戦いに来ました」


アシェルが、か細くも、しかし揺るぎない声で答えた。


その声は、仮面の下から、静かに、しかしはっきりと響いた。


男は、わずかに眉を上げた。


「ほう……」


男は、興味深そうに、アシェルを見つめた。


「威勢のいいこった。まあいい、死にたきゃ死ぬがいいさ」


男は、帳簿を開き、新しいページを開いた。


「新人枠なら、あっちの控室で待ってな。順番が来たら、そこの番号札で呼ばれるからよ」


男は、カウンターの横に吊るされた、木製の番号札を指差した。


「で、一応聞いておくが――名前は?」


アシェルは、少し間をおいて答えた。


「……シエル、です」


それは、彼女の本名ではなかった。


アシェルという名前の、最初の二文字を取っただけの、即席の偽名だった。


しかし、それで十分だった。


ここでは、本名など必要ない。


男は、その名前を帳簿に書き込んだ。


「シエル、ね。分かった」


男は、番号札の一つを外し、アシェルに渡した。


「二十七番だ。なくすなよ」


アシェルは、その札を受け取った。


木製の札は、手のひらに収まるほどの大きさで、「27」という数字が、焼き印で刻まれていた。


「控室は、あっちだ」


男が指差した先には、闘技場の脇にある、「新人控室」と乱暴に書かれた、ボロボロの木の扉があった。


「行け」


アシェルは、頷き、その扉へと向かった。


## 欲望の坩堝――控室の人間模様


アシェルは、控室の扉を開けた。


ギィ、という不快な音を立てて、扉が開かれた。


その向こうから、むせ返るような空気が流れ出てきた。


控室の中は、汗と、鉄錆と、そして安物の酒の匂いが入り混じった、息苦しい空間だった。


部屋は、十畳ほどの広さしかなかった。


しかし、その狭い空間に、既に十名ほどの男女が、それぞれの試合を待っていた。


彼らの装備は、粗末だった。


使い古した革鎧。


刃こぼれした剣。


柄が割れた斧。


錆びついた槍。


そのほとんどが、まともな武器屋では売っていないような、あり合わせの代物だった。


部屋の隅には、武器が無造作に積まれていた。


それらは、過去に死んだ戦士たちから回収されたものだろう。


血が染み付き、刃は欠け、柄は腐りかけている。


しかし、それでも、武器を持たない者にとっては、貴重な品だった。


控室の中央には、粗末な木製のベンチがいくつか置かれていた。


そのベンチに、戦士たちが座り、あるいは寝そべっていた。


ある者は、目を閉じて瞑想していた。


ある者は、武器の手入れをしていた。


ある者は、安酒を煽っていた。


ある者は、壁に寄りかかり、虚ろな目で天井を見つめていた。


そして、その瞳に宿る光もまた、様々であった。


借金に追われ、一攫千金を夢見る男。


その男の顔は、疲れ果て、目の下には深いクマができていた。


彼の手は震え、何度も額の汗を拭っていた。


おそらく、これが最後のチャンスなのだろう。


ここで勝てなければ、彼を待っているのは、借金取りの暴力か、あるいは――死か。


自らの力を証明したいだけの、血気盛んな若者。


その若者は、まだ二十歳にもなっていないだろう。


筋肉質の身体に、新しい革鎧を着て、磨き上げられた剣を握っている。


その目は、自信と、野心に満ちていた。


彼は、この闘技場で名を上げ、いつか冒険者ギルドに入ることを夢見ているのだろう。


あるいは、ただ日々の退屈を紛らわすため、この刺激的な場所を訪れる者。


その男は、中年で、太っており、明らかに戦士ではなかった。


おそらく、どこかの商人か、あるいは小役人だろう。


彼は、酒を飲みながら、他の戦士たちと冗談を言い合っていた。


彼にとって、これは娯楽だった。


ギャンブルだった。


命を賭けたゲームだった。


皆、学園のティア制度からはじき出され、この地下の世界にしか、己の居場所を見出せない、社会の落ちこぼれたちであった。


アシェルの、小柄で、しかも仮面をつけた異様な姿は、当然、彼らの好奇の的となった。


「なんだぁ、あのチビは」


腕に刺青を入れた、大柄な斧使いの男が、野卑な笑みを浮かべて言った。


「お人形さんごっこでもしに来たのか?」


周囲の数人が、それを聞いて笑った。


「ぎゃはは!確かに!あの仮面、祭りで売ってそうだな!」


「おい、嬢ちゃん!」


別の男が、アシェルに向かって声をかけた。


「怪我しねえうちに、おうちに帰りな。ここは、お前さんみてえな子供が来るとこじゃねえぜ」


その言葉に、また笑い声が上がった。


しかし、アシェルは、何も答えなかった。


彼らの嘲笑を、無視した。


彼らの侮蔑を、聞こえないふりをした。


ただ静かに、部屋の隅にある、空いていた木箱の上に腰を下ろした。


そして、目を閉じた。


エルダンに教わった呼吸法で、心を鎮める。


息を吸う。


体内のエネルギーが、胸の中心に集まる。


息を吐く。


そのエネルギーが、全身に広がる。


恐怖も、怒りも、今は不要だ。


必要なのは、目的を遂行するための、氷のような冷静さだけ。


アシェルは、自分の内側に意識を集中させた。


先ほど、路地で吸収したエーテルが、彼女の体内に満ちている。


それは、温かく、柔らかく、そして――力強い。


彼女は、そのエーテルを、ゆっくりと、全身に巡らせた。


筋肉に。


骨に。


神経に。


そして、心臓に。


全身が、戦いに向けて、準備を整えていく。


## 賭けの構図――数字で示される命の値段


控室の壁には、粗末な黒板が掲げられていた。


その黒板には、白いチョークで、本日の対戦カードと、それぞれのオッズが書きなぐられていた。


運営の雑さは、一目瞭然だった。


文字は乱雑で、所々消えかかっている。


選手の名前すらなく、ただ番号と異名が並んでいるだけ。


「新人二十七番 vs 鉄槌のゴードン」


「オッズ ゴードン1.1倍 新人20倍」


「新人十二番 vs 蛇の眼のリーナ」


「オッズ リーナ1.3倍 新人15倍」


「闘犬のブルート vs 血塗れのマルコ」


「オッズ ブルート2.1倍 マルコ1.9倍」


アシェルは、自分の名前――いや、番号を見つけた。


新人二十七番 vs 鉄槌のゴードン。


オッズ、ゴードン1.1倍。


新人、20倍。


その数字が意味することは、明白だった。


観客たちは、彼女が勝つことなど、全く期待していない。


ゴードンに賭ければ、ほぼ確実に勝てるが、儲けは少ない。


アシェルに賭けるのは、ただのギャンブルだ。


百に一つも勝つ見込みがない、捨て金だ。


しかし、もし万が一、アシェルが勝てば――


賭けた金額の二十倍が戻ってくる。


それは、一攫千金の夢だった。


控室にいた男たちも、その黒板を見て、囁き合っていた。


「おいおい、ゴードン相手に新人が当たるのかよ」


「こりゃあ、一方的な試合になるな」


「ゴードンの勝ちに全財産だ!オッズは低いが、確実な儲け話だぜ」


「俺は面白半分で、新人に銅貨一枚賭けてみるか。もし勝ったら、銀貨二十枚だぜ!」


「馬鹿言うな。あの新人が勝つわけねえだろ」


彼らの会話を聞きながら、アシェルは、自分の対戦相手――鉄槌のゴードン――について考えた。


鉄槌、という異名。


おそらく、重い武器を使う、力自慢の戦士だろう。


そして、オッズが1.1倍ということは、彼は常連で、ほぼ確実に勝つと予想されている。


つまり、強敵だ。


しかし、アシェルは恐れなかった。


彼女には、力がある。


常人にはない、特別な力が。


それを、今夜、この闘技場で、解き放つ。


## 狂乱の観客席――人間の最も醜い欲望


控室の壁には、いくつかの隙間があった。


木の板が、完全には組み合わされておらず、その隙間から、闘技場の様子を窺うことができた。


アシェルは、その隙間の一つに目を近づけ、外を覗いた。


闘技場では、今まさに、一つの試合が行われていた。


二人の戦士が、血みどろになって戦っていた。


一人は、巨大な両手斧を振るう、筋骨隆々の男。


もう一人は、双剣を操る、敏捷な女性。


二人とも、全身に無数の傷を負っていた。


血が、腕から、脚から、顔から、止めどなく流れ出ている。


地面は、既に血の海と化していた。


斧が振り下ろされる。


女性は、それをかろうじて避ける。


しかし、斧の刃は、彼女の肩をかすめ、深い傷をつけた。


「ぎゃああああ!」


女性の悲鳴が、闘技場に響き渡った。


そして――観客たちは、それを聞いて、さらに興奮し、叫んだ。


「いいぞ!もっとやれ!」


「殺せ!殺せ!」


「血だ!もっと血を流せ!」


「首を刎ねろ!」


アシェルは、その光景を見て、吐き気を感じた。


これは――


これは、人間なのか?


彼らは、同じ人間が苦しむ姿を見て、喜んでいる。


血が流れることを、娯楽としている。


命が失われることを、賭けの対象としている。


それは、あまりにも――醜悪だった。


しかし、アシェルは目を逸らさなかった。


これが、現実なのだ。


これが、彼女がこれから戦う場所なのだ。


この醜悪な世界で、彼女は勝たなければならない。


リアンのために。


仲間のために。


そして――自分自身のために。


闘技場では、戦いが続いていた。


女性は、既に限界だった。


呼吸は荒く、足元はふらついている。


しかし、彼女は諦めなかった。


双剣を握りしめ、必死に男に立ち向かっていく。


剣が閃く。


男の腕に、深い傷がつく。


しかし、男は怯まない。


彼は、斧を大きく振りかぶり――


そして、振り下ろした。


女性は、避けきれなかった。


斧が、彼女の胸に直撃した。


ゴガァン!


鈍い音が響いた。


女性の身体が、宙に浮き、そして地面に叩きつけられた。


彼女は、もう動かなかった。


胸から、大量の血が流れ出ている。


彼女の目は、虚ろで、既に光を失っていた。


死んだのだ。


アシェルの目の前で、一人の人間が、死んだのだ。


そして――


観客たちは、狂喜した。


「やったああああ!」


「ゴリアテの勝ちだ!」


「俺の賭けが当たった!」


金貨の音が、観客席のあちこちで響いた。


勝った者たちは、喜びに満ちた顔で、賞金を受け取っている。


負けた者たちは、悔しそうに舌打ちをし、次の試合のために、また金を握りしめている。


誰も、死んだ女性のことなど、気にかけていなかった。


彼女は、ただの賭けの対象だった。


ただの見世物だった。


そして今、彼女の死体は、闘技場の隅に引きずられ、そこに無造作に放置されている。


次の試合のために、場所を空ける必要があるからだ。


アシェルは、隙間から目を離した。


そして、深く息を吐いた。


これが、地下闘技場。


これが、血と金が支配する世界。


ここでは、命に価値などない。


あるのは、ただ――金だけ。


## リングへの呼び声――運命の時


アシェルは、木箱の上に座り、静かに瞑想を続けていた。


周囲の喧騒も、嘲笑も、彼女の耳には入ってこなかった。


彼女の意識は、完全に内側に向けられていた。


体内のエーテルの流れを感じる。


筋肉の一本一本に、力が満ちていくのを感じる。


心臓が、規則正しく、力強く鼓動している。


呼吸は、深く、穏やかだ。


彼女は、完全に、戦いの準備ができていた。


そして――


「――次ィ!新人枠、二十七番!入場しろッ!」


ついに、彼女の番が来た。


扉の外で、運営スタッフらしき男の、がらがら声が響き渡った。


控室にいた他の新人たちが、一斉にアシェルを見た。


憐れむような視線。


面白がるような視線。


侮蔑の視線。


同情の視線。


それらが、アシェルに向けられた。


「おい、マジかよ」


一人の男が、小声で言った。


「あのおチビちゃんが、鉄槌のゴードンとやるのか」


「一分もつかな……」


別の男が、首を振った。


「いや、三十秒ってとこだろ」


「可哀想に……」


女性の戦士が、同情的な目でアシェルを見た。


「まだ若いのに……」


しかし、アシェルは、彼らの言葉を無視した。


彼女は、静かに立ち上がった。


そして、腰に差していた短剣を、ゆっくりと鞘から抜いた。


それは、エルダンから譲り受けた、何の変哲もない一本の短い剣だった。


刃は、シンプルで、装飾は何もない。


しかし、その刃は、鋭く研がれ、わずかな光を受けても、鋭く輝いた。


柄は、使い込まれて滑らかになっており、アシェルの手に完璧にフィットした。


この剣で、エルダンは彼女に剣術を教えてくれた。


この剣で、彼女は獣と戦い、生き延びてきた。


この剣は、彼女の一部だった。


アシェルは、その剣の切っ先を、自らの胸の前に掲げた。


そして、深く、静かな呼吸を一つ。


目を閉じる。


心を鎮める。


(エルダン……見ていてくれ)


(あなたの教えを、私はここで、証明する)


(リアン……待っていて)


(必ず、あなたを救うための光を、この闇の中から掴み取ってみせる)


アシェルは、目を開けた。


仮面の下で、彼女の灰色の瞳が、これまでにないほど強く、そして鋭く、輝いた。


それはもはや、村で虐げられていた孤独な少女の瞳でも、学園で絶望していた落ちこぼれの生徒の瞳でもない。


守るべき者のために、自らの全てを懸けて戦うことを決意した、一人の「戦士」の瞳であった。


彼女は、短剣を鞘に戻した。


そして、控室の扉へと向かった。


扉に手をかける。


深呼吸。


一つ。


二つ。


三つ。


そして――


彼女は、扉を開けた。


その向こうから、轟音のような歓声が、彼女を迎えた。


観客たちの狂乱の渦。


血と金の匂い。


死の予感。


それらすべてが、アシェルを包み込んだ。


しかし、彼女は怯まなかった。


彼女は、観客たちの狂乱の渦巻く、血と砂のリングへと、その小さな、しかし揺るぎない一歩を、踏み出した。


闘技場の地面に、彼女の足が触れた瞬間――


観客たちの視線が、一斉に彼女に集中した。


そして――


笑い声が、闘技場全体に響き渡った。


「ぶはははは!何だありゃあ!」


「チビが出てきたぞ!」


「おい、あれ本気か!?」


「仮面つけてやがる!祭りの余興かよ!」


「一撃で終わるぞ、こりゃあ!」


アシェルは、その嘲笑を無視し、闘技場の中央へと歩いていった。


一歩。


また一歩。


彼女の足音は、観客たちの笑い声の中で、ほとんど聞こえなかった。


しかし、その一歩一歩には、確固たる決意が込められていた。


やがて、彼女は闘技場の中央に立った。


そして――


反対側の入り口から、彼女の対戦相手が現れた。


鉄槌のゴードン。


それは――まさに、巨人だった。


身長は、優に二メートルを超えている。


横幅も、アシェル二人分はあるだろう。


全身が、筋肉の鎧で覆われていた。


その筋肉は、まるで岩のように硬く、盛り上がっている。


腕は、丸太のように太い。


脚は、石柱のように太く、そして安定している。


そして、その男が握っているのは――巨大な戦鎚だった。


その鎚の頭部は、鉄の塊で、重さは優に五十キロは超えているだろう。


柄は、樫の木でできており、長さは一メートル以上ある。


その鎚を、ゴードンは、まるで玩具のように、片手で軽々と持ち上げていた。


彼の顔は、傷だらけだった。


鼻は、何度も折れたのか、完全に歪んでいた。


額には、深い傷跡が、まるで峡谷のように走っていた。


そして、その目は――冷たく、残忍で、そして――どこか空虚だった。


それは、何十人、いや、何百人もの人間を殺してきた、殺人者の目だった。


ゴードンは、アシェルを見て、ニヤリと笑った。


「へっ、また新人か」


その声は、低く、そして不快だった。


「しかも、ガキじゃねえか。こりゃあ、すぐに終わるな」


彼は、戦鎚を肩に担ぎ、アシェルに向かって歩き始めた。


その足音は、地面を揺らし、まるで地震のように、アシェルの足元を震わせた。


観客たちは、さらに興奮し、叫び始めた。


「やれ、ゴードン!」


「一撃で潰しちまえ!」


「血祭りだ!」


闘技場の上方から、鐘の音が響いた。


ゴォォォン――


それが、試合開始の合図だった。


ゴードンは、すぐに地を蹴り、アシェルに向かって突進した。


その巨体からは想像できないほどの速度で。


地面が、彼の足音で激しく揺れた。


そして――


戦鎚が、振り上げられた。


それは、まるでスローモーションのように、アシェルの目には映った。


巨大な鉄の塊が、彼女の頭上に迫ってくる。


もし、それが直撃すれば――


即死だった。


頭蓋骨が砕け、脳が飛び散り、彼女の命は一瞬で終わる。


観客たちは、息を呑んで、その瞬間を待った。


新人の、惨たらしい死を。


しかし――


アシェルは、動いた。

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