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エーテルの時代の幕開け:黄昏の街、闇への誘い

その夜、グランベルク王都カストラムは、二つの顔を持っていた。表通りでは、街路樹に設置されたマナ灯が温かい光を放ち、仕事を終えた市民たちが家路に就いたり、馴染みの酒場で陽気にグラスを傾けたりしている。平和で、秩序だった都市の夜景。しかし、その輝かしい光の届かない裏通りでは、全く別の世界の帳が下りようとしていた。


アシェルは、人通りの絶えた裏路地を、まるで影のように進んでいた。彼女の顔は、古びた、しかし精巧な銀の仮面で覆われている。それは旅の途中でエルダンが護身用にと授けてくれたもので、表情を窺い知ることはできない。学園の制服の上に、フードの付いた使い古した旅人のマントを羽織り、その小柄な姿は完全に闇に溶け込んでいた。


彼女は、ただ歩いているのではなかった。一歩進むごとに、その意識は研ぎ澄まされ、周囲の世界へと繊細な触手を伸ばしていた。道端の石畳の隙間に根を張る、名もなき雑草。壁の蔦を伝う、小さな夜行性の昆虫。遠くのゴミ箱を漁る、痩せた野良猫。それら、都市の片隅で懸命に生きる、小さな生命たちの放つ微細なエーテルを、彼女は慎重に、そして敬意を払って、自らの内に取り込んでいた。


(ごめんね。でも、少しだけ、力を貸して――)


心の中で、声にならない謝罪を繰り返しながら。それは、彼女が森で独り生き抜いてきた中で、生存本能として身につけた技術だった。生命そのものを奪い去るのではなく、相手が活動を停止しない、ぎりぎりの量のエーテルだけを、まるで朝露をそっとすくい取るかのように、繊細に吸収する。彼女の体内は、来るべき戦いに備え、徐々に、しかし確実に、制御可能なマナで満たされつつあった。それは、試験塔の無機質なマナとは全く異なる、生きた、脈打つ力だった。


地下闘技場への道筋を知ったのは、全くの偶然だった。昨日、薬草を探しに立ち寄った街の古びた酒場で、彼女は壁の陰に隠れるように座っていた。その時、聞き覚えのある声が耳に入ったのだ。同室のサイラスが、街のならず者らしき男たちと密談を交わしていた。


「……だから言っただろ。ケンシンとかいうSATUMAの奴は乗ってこねえって。あいつらは妙にプライドが高いからな」

「ちっ、使えねえな。じゃあ、他の獲物はどうなんだ?」

「まあ、焦るなよ。レメディアルには他にも面白いのがいる。それより今夜の場所は?いつもの『屠殺場の地下』か?」

「ああ、そうだ。合言葉は忘れるなよ。『血と金』だ」


その断片的な会話。アシェルは全てを理解したわけではなかったが、「金」「強い奴」「屠殺場の地下」という言葉の連なりが、彼女の心に危険な可能性を示唆していた。仲間を救うためなら、どんな危険な場所へも行かねばならない。


赤錆びた鉄の扉を開けると、ひやりとした、血と埃と、そして何よりも絶望の匂いが混じり合った、淀んだ空気が彼女を包み込んだ。


「……ここが」


彼女は息を呑んだ。狭く、傾斜の急な石段が、地下の奥深くへと、まるで地獄の喉笛のように続いていた。壁からは常に水が染み出し、彼女の足元で不気味な水音を立てている。時折、遠くから、獣の咆哮のような、あるいは男たちの野卑な怒号のようなものが、反響しながら聞こえてきた。


一歩、また一歩と、彼女は闇の中へと足を踏み入れていく。リアンの、あの苦しげな呼吸を思い出す。仲間たちの、未来への希望を失った瞳を思い出す。その記憶が、恐怖にすくみそうになる彼女の足を、前に、前へと進ませた。


混沌の受付と最初の洗礼


石段を下りきると、そこには、思いがけず広大な地下空間が広がっていた。天井は低く、剥き出しの岩肌からは常に水が滴り落ちている。だが、その薄暗い空間は、凄まじい熱気と喧騒に満ち満ちていた。


受付は、乱雑に組まれた木のカウンターがあるだけだった。そこに座るのは、片目に傷跡のある、百キロはあろうかという巨漢の男。彼は、訪れる者たちの顔を一瞥するだけで、身分を問うこともなく、入場料として銅貨三枚を受け取っていた。明らかに、学園の厳格な管理体制など、ここでは何の意味も持たないことを示していた。


「おい、嬢ちゃん。見かけねえ顔だな」

巨漢の男が、アシェルの仮面を胡散臭そうに見つめた。「お遊びで来る場所じゃねえぞ、ここは。死んでも文句は言えねえからな」


「……戦いに来ました」


アシェルが、か細くも、しかし揺るぎない声で答えると、男は面白そうに片方の眉を上げた。

「へっ、威勢のいいこった。まあいい、死にたきゃ死ぬがいいさ。新人枠なら、あっちの控室で待ってな。順番が来たら、そこの番号札で呼ばれるからよ。で、一応聞いておくが名前は?」


少し間をおきアシェルは答える。


「...シエルです」


男が指差した先には、「新人控室」と乱暴に書かれた、ボロボロの木の扉があった。扉の横には、木製の番号札が釘に引っ掛けられている。「二十七」という数字が刻まれた札を手に取り、彼女はその扉を押し開けた。


欲望の坩堝、控室の人間模様


控室の中は、汗と、鉄錆と、そして安物の酒の匂いが入り混じった、むせ返るような空間だった。十畳ほどの広さしかないその部屋には、既に十名ほどの男女が、それぞれの試合を待っていた。彼らの装備は粗末で、そのほとんどが使い古した革鎧に、刃こぼれした剣や斧といったあり合わせの物ばかりだ。


その瞳に宿る光もまた、様々であった。借金に追われ、一攫千金を夢見る男。自らの力を証明したいだけの、血気盛んな若者。あるいは、ただ日々の退屈を紛らわすため、この刺激的な場所を訪れる者。皆、学園のティア制度からはじき出され、この地下の世界にしか、己の居場所を見出せない、社会の落ちこぼれたちであった。


アシェルの、小柄で、しかも仮面をつけた異様な姿は、当然、彼らの好奇の的となった。

「なんだぁ、あのチビは。お人形さんごっこでもしに来たのか?」

腕に刺青を入れた、大柄な斧使いの男が、野卑な笑みを浮かべて絡んできた。

「お嬢ちゃん、怪我しねえうちにおうちに帰りな。ここは、お前さんみてえな子供が来るとこじゃねえぜ」


アシェルは、何も答えなかった。ただ静かに、部屋の隅にある、空いていた木箱の上に腰を下ろした。エルダンに教わった呼吸法で、心を鎮める。恐怖も、怒りも、今は不要だ。必要なのは、目的を遂行するための、氷のような冷静さだけ。


賭けの構図と観客たちの熱狂


控室の壁には、粗末な黒板が掲げられており、そこにはチョークで、本日の対戦カードと、それぞれのオッズが書きなぐられていた。運営の雑さは、一目瞭然だった。選手の名前すらなく、「新人二十七番 vs 鉄槌のゴードン」といった具合に、ただ記号と異名が並んでいるだけ。


「おいおい、ゴードン相手に新人が当たるのかよ。こりゃあ、一方的な試合になるな」

「ゴードンの勝ちに全財産だ!オッズは低いが、確実な儲け話だぜ」


壁の隙間から、闘技場本体の様子を窺うことができた。円形の闘技場は、直径三十メートルほど。その地面は、長年にわたって流された血と汗で、黒く染まっている。そして、その周囲を埋め尽くす観客たちの、狂乱とも言える熱狂。


観客層もまた、この場所の性格を如実に物語っていた。金に飽かしてスリルを求める、退廃した貴族たち。日々の鬱憤を、他者の暴力を見ることで晴らそうとする、下層階級の労働者たち。そして、学園の厳格な規律から逃れてきた、不良生徒たち。彼らは皆、酒を煽り、タバコの煙を吐き出しながら、リング上の血生臭い戦いに、野獣のような歓声を送っていた。


「殺せ!殺しちまえ!」

「腕をへし折れ!金のためだ!」


その剥き出しの欲望の渦は、アシェルにとって、生まれて初めて見る、人間の最も醜い側面だった。しかし、彼女は目を逸らさなかった。この醜悪な世界で勝ち抜かなければ、リアンを救うことはできないのだ。


リングへの呼び声


「――次ィ!新人枠、二十七番!入場しろッ!」


ついに、彼女の番が来た。扉の外で、運営スタッフらしき男の、がらがら声が響き渡る。控室にいた他の新人たちが、憐れむような、あるいは面白がるような視線を、アシェルに向けた。


「おい、マジかよ。あのおチビちゃんが、鉄槌のゴードンとやるのか」

「一分もつかな……。いや、三十秒ってとこだろ」


アシェルは、静かに立ち上がった。そして、腰に差していた、エルダンから譲り受けた、何の変哲もない一本の短い剣を、ゆっくりと鞘から抜いた。その切っ先を、自らの胸の前に掲げ、深く、静かな呼吸を一つ。


(エルダン……見ていてくれ。あなたの教えを、私はここで、証明する)


(リアン……待っていて。必ず、あなたを救うための光を、この闇の中から掴み取ってみせる)


仮面の下で、彼女の灰色の瞳が、これまでにないほど強く、そして鋭く、輝いた。それはもはや、村で虐げられていた孤独な少女の瞳でも、学園で絶望していた落ちこぼれの生徒の瞳でもない。守るべき者のために、自らの全てを懸けて戦うことを決意した、一人の「戦士」の瞳であった。


彼女は、控室の扉を開け、観客たちの狂乱の渦巻く、血と砂のリングへと、その小さな、しかし揺るぎない一歩を、踏み出した。

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