エーテルの時代の幕開け4:秋風の冷酷、そして命を賭した慈悲
冬の足音――レメディアル寮の凍てつく夜
秋が深まり、レメディアル寮に吹き込む風は、日ごとにその冷たさを増していた。十月も半ばを過ぎると、北風は容赦なく、寮の古い建物の隙間という隙間から侵入してきた。窓枠と壁の境目、扉の下の僅かな隙間、天井の梁と壁の継ぎ目――そのすべてから、冷たい空気が、まるで生き物のように這い込んでくる。
湿った石壁は、昼間に蓄えたわずかな熱を、夜になると容赦なく奪い去った。壁に手を触れると、まるで氷に触れたかのような冷たさが、指先から全身へと広がっていく。その冷気は、単なる物理的な寒さだけではなく、何か生命力そのものを吸い取っていくような、陰湿な冷たさだった。
マナ灯の出力も、冬が近づくにつれて不安定になっていた。おそらく、上位ティアの寮や校舎に優先的にエネルギーが配分されているのだろう。レメディアル寮の灯りは、日に日に暗く、そして頼りなくなっていった。夜になると、部屋の隅は完全な闇に沈み、そこに何があるのか、見えなくなった。
夜になれば、生徒たちはなけなしの毛布に身を寄せ合って眠りについく。しかし、その毛布も、長年の使用で生地が薄くなり、綿はところどころ固まって、もはや十分な保温効果を発揮しなかった。何人かの生徒は、自分の上着を毛布の上に重ね、それでも震えながら眠りにつく。
そんな凍えるような夜の静寂を、絶え間なく破るものが一つあった。
「……ゲホッ、ゴホッ……ゲホッ……」
リアンの、細く苦しげな咳だった。
それは、最初は小さな、乾いた咳だった。しかし日を追うごとに、その咳は激しさを増し、長く続くようになった。夜中に突然始まり、止まらなくなる。一度始まると、五分、十分と続き、その間リアンは身体を折り曲げ、必死に呼吸しようとするのだが、空気が肺に入っていかないようだった。
生まれつき病弱な彼女の身体は、この過酷な環境の変化に耐えきれずにいた。彼女の心臓は、正常な人間のそれよりも小さく、そして弱かった。医師たちは「先天性心臓マナ循環不全」と診断したが、その治療法は確立されておらず、ただ安静と、高価な魔法薬による対症療法しかなかった。
日中、リアンは気丈に振る舞っていた。食堂では、他の生徒たちと同じように席につき、笑顔で会話をしようとした。授業では、ノートを取り、教官の話に耳を傾けた。誰かが心配そうに声をかけると、「大丈夫よ」と、あの穏やかな笑みを浮かべた。
しかし、夜になると――
夜になると、その仮面は剥がれ落ちた。
咳が始まる。小さく、そして徐々に激しく。彼女は、同室の仲間たちを起こさないように、毛布を口に押し当てて、必死に音を殺そうとした。しかし、咳は彼女の意志など関係なく、容赦なく続いた。
そのたびに、寮の同室者たちは、不安な夜を過ごす。誰も眠れなかった。リアンの苦しそうな呼吸を聞きながら、ただ自分のベッドの中で、身を固くして、朝が来るのを待つしかなかった。
アシェルもまた、ベッドの下段で息を殺しながら、上段から聞こえてくる親友の苦しそうな呼吸に胸を痛めていた。
彼女は、毎晩、リアンの咳の音を数えていた。一晩に何度咳き込むのか。一度の咳がどれくらい続くのか。その間隔は、昨夜よりも短くなっているのか、長くなっているのか。
そして、その数字は、日に日に悪化していた。
最初の週は、一晩に五回ほどだった。
次の週は、十回を超えた。
そして今週――三十回を超える夜もあった。
アシェルは、暗闇の中で、天井を見つめながら、ただ無力感に苛まれていた。
「リアン、大丈夫……?」
ある夜、またリアンの咳が始まった時、アシェルは思わず声をかけた。上段のベッドから、苦しそうな呼吸音が聞こえてくる。
「うん……大丈夫……。ごめんね、うるさくして」
リアンの声は、いつもと変わらず優しかった。しかし、その弱々しさは隠しようもなかった。声がかすれ、一言一言の間に、呼吸を整える時間が必要なのが分かった。
「無理しないで。水、飲む?」
「ありがとう……でも、大丈夫。もう、すぐ治まるから」
しかし、咳はすぐには治まらなかった。さらに十分ほど続き、やっと、ゆっくりと静まっていった。
アシェルは、暗闇の中で、自分の拳を握りしめた。何かできることはないのか。何か、彼女を楽にしてあげる方法はないのか。
しかし、彼女には何もなかった。医学の知識も、魔法の技術も、金も。ただ、無力な自分がいるだけだった。
## 悪化の兆し――消えゆく光
ここ数日、リアンの症状は明らかに悪化していた。
それは、まず外見に現れた。白い肌は、さらに透明感を増していた。もはや「白い」というより、「透明」と表現した方が正確だった。彼女の肌を通して、その下を流れる静脈の青い筋が、はっきりと見えた。まるで、薄い和紙を通して、その向こう側が透けて見えるように。
銀色の髪も、輝きを失っていた。かつては、わずかな光を受けても、まるで月光のように柔らかく輝いていたその髪は、今や色褪せた灰色になり、生気を失っていた。櫛を通すと、何本もの髪が抜け落ち、リアンは小さくため息をついた。
唇の色も、健康的なピンク色から、青白く、そして時折紫がかった色へと変化していた。それは、酸素が十分に身体に行き渡っていない証拠だった。
食事も、喉を通らなくなっていた。
食堂で、アシェルが心配そうにリアンの皿を見ると、そこにはほとんど手つかずの食事が残されていた。スープは冷め、パンは固くなり、野菜は萎れている。
「リアン、少しでも食べないと……」
「ごめんね……。食べたいんだけど、喉を通らないの。何か、喉の奥に何かが詰まっているみたいで……」
リアンは申し訳なさそうに微笑んだ。その笑顔は、以前と変わらず優しかったが、その目には深い疲労の色が浮かんでいた。
アシェルは、リアンの食事を少しでも喉を通りやすくしようと、パンを小さくちぎり、スープに浸して柔らかくした。そして、一口ずつ、ゆっくりと食べさせた。
「ありがとう、アシェル……。あなたって、本当に優しいのね」
「当たり前でしょ。友達なんだから」
アシェルは笑顔で答えたが、その心は、不安で押しつぶされそうだった。
リアンの身体から放たれるエーテルは、日に日に弱くなっていた。
アシェルは、自分の特殊な感覚で、それを痛いほど感じていた。
人間の身体は、常に微量のエーテルを放出している。それは生命活動の副産物のようなもので、健康な人間であれば、一定の強度を保っている。
しかし、リアンのエーテルは――
それは、まるで消えかけの蝋燭の炎のように、弱く、儚く、揺らめいていた。
風が吹けば消えてしまいそうな、頼りない光。
アシェルがリアンの近くにいると、その微弱なエーテルが、まるで助けを求めるように、彼女の方へと引き寄せられてくるのを感じた。
それは、リアンの身体が、本能的に、周囲からエネルギーを求めているということだった。
しかし、この寮には、十分なエーテルの源など存在しなかった。
生徒たちは皆、何らかの問題を抱え、自分自身のエネルギーを保つだけで精一杯だった。植物も、動物も、この薄暗い寮にはほとんど存在しない。
リアンは、ゆっくりと、しかし確実に、枯れていっていた。
## 運命の夜――死の宣告
その夜、事態はついに最悪の局面を迎えた。
深夜二時を過ぎた頃だった。
アシェルは、浅い眠りの中にいた。彼女は、リアンの呼吸の変化を、無意識のうちに常に監視していた。だから、その変化に、すぐに気づいた。
「う……あ……っ……」
これまでとは明らかに違う、息が詰まるような呻き声が、アシェルの耳に届いた。
それは、咳ではなかった。
それは、もっと深刻な、何かが完全に詰まってしまったかのような、窒息の音だった。
アシェルは、瞬時に目を覚まし、ベッドから飛び起きた。
上段のベッドでは、リアンが胸を両手で押さえ、苦悶の表情で身をよじっていた。彼女の顔は、月明かりの中で、恐ろしいほど青白く見えた。口は大きく開かれ、空気を求めて喘いでいるが、呼吸が入っていかない。
彼女の目は見開かれ、そこには純粋な恐怖が宿っていた。
息ができない。
死ぬ。
そんな、生物として最も根源的な恐怖が、その瞳に映し出されていた。
「リアン!」
アシェルの叫び声が、静まり返った寮に響き渡った。
その声に、同室のカインが目を覚ました。彼は一瞬、状況が理解できず、ぼんやりとしていたが、リアンの様子を見て、すぐに飛び起きた。
「どうした!?」
「リアンが……息が……!」
カインは、すぐに廊下に飛び出し、大声で助けを求めた。
「誰か!助けてくれ!リアンさんが!」
その叫び声に、隣室の生徒たちも目を覚ました。扉が次々と開き、寝巻き姿の生徒たちが廊下に出てきた。
「リアンさんの様子がおかしい!」
「誰か、寮監を呼んで!」
「医務官も!早く!」
寮内は、一瞬にして混乱に包まれた。
アシェルは、リアンのベッドに駆け寄り、その手を握った。リアンの手は、氷のように冷たかった。まるで、既に死者の手のように。
「リアン、しっかりして!大丈夫、助けが来るから!」
しかし、リアンの呼吸は、さらに浅く、速くなっていった。彼女の唇は、完全に紫色に変色していた。
彼女の身体が、痙攣するように震えた。
そして、その震えが、ゆっくりと、止まり始めた。
「リアン!」
アシェルは、必死にリアンの名前を呼び続けた。しかし、リアンの瞳から、徐々に光が失われていくのが見えた。
その時、ドアが激しく開かれ、寮監と、学園の医務官が駆けつけた。
寮監は、太った中年女性で、いつもは無愛想で冷たい態度をとっていたが、今夜は違った。彼女の顔には、明らかな動揺の色が浮かんでいた。
「どいて!医務官が診る!」
生徒たちが道を開けると、医務官――初老の、痩せた男性――が、リアンのベッドに近づいた。
彼は、すぐにリアンの脈を取り、瞳孔の反応を確認し、胸に耳を当てて心音を聞いた。
そして――
彼の顔が、絶望的な表情に変わった。
医務官は、ゆっくりと立ち上がり、深いため息をついた。
「……手の施しようがない」
その言葉に、その場にいた全員が、息を呑んだ。
「心臓のマナ循環が、ほぼ停止している。血液は流れているが、それを動かすためのマナが、もう残っていない」
医務官の診断は、非情な死の宣告に等しかった。
「持って、あと一晩だろう」
その言葉が、重く、冷たく、部屋に響いた。
「できることは、もう何もない。苦痛を和らげる薬を投与するくらいだ。……ご家族には、私が連絡を入れておく」
医務官は、鞄から小さな薬瓶を取り出し、リアンの口に数滴垂らした。それは、痛みと恐怖を和らげるための、鎮静剤だった。
リアンの呼吸が、わずかに落ち着いた。しかし、それは回復の兆しではなく、ただ意識が薄れていっているだけだった。
医務官は、寮監に何か指示を出すと、重い足取りで部屋を出て行った。
寮監も、生徒たちに向かって、疲れた声で言った。
「皆、もう寝なさい。我々にできることは、もう何もないのだから」
しかし、誰も動けなかった。
皆、ただリアンのベッドを見つめていた。
その、細く、弱々しい身体を。
その、苦しそうな呼吸を。
そして、その場にいた誰もが、同じことを考えていた。
明日の朝、リアンはもう、ここにいないのだろうか、と。
寮内は、絶望的な沈黙に包まれた。
リアンの穏やかな微笑みは、この荒んだ寮にとって、数少ない癒やしの一つだった。彼女は、誰に対しても優しかった。病弱な身体で、自分自身が苦しんでいるにもかかわらず、他の生徒たちを気遣い、励まし、慰めてくれた。
彼女がいるだけで、この寮は、少しだけ、温かい場所になった。
その光が、今まさに消えようとしている。
## 絶望の中の決意――譲渡の覚悟
「そんな……嘘……」
アシェルは、その場に立ち尽くしていた。
周囲の音が、全て遠のいていった。寮監の指示する声も、生徒たちの囁き声も、何も聞こえなくなった。
ただ、リアンの弱々しい呼吸音だけが、異様にはっきりと聞こえた。
リアンがいなくなる?
あの優しい笑顔が、もう二度と見られなくなる?
あの、「アシェル、大丈夫?」と、いつも心配してくれた声が、もう聞けなくなる?
そんなこと――
そんなこと、あってはならない。
絶対に。
アシェルの心臓が、氷のように冷えていくのを感じた。しかし同時に、その胸の奥で、何かが激しく燃え上がるのを感じた。
それは、怒りでも、恐怖でもなかった。
それは、もっと根源的な、生命に対する、純粋な執着だった。
死なせたくない。
失いたくない。
守りたい。
その、シンプルで、しかし圧倒的な感情が、アシェルの全身を満たしていった。
医務官が去り、寮監が生徒たちを自室に戻らせようとした。
「さあ、皆、戻りなさい。明日も授業があるでしょう。ここにいても、何もできないのだから」
生徒たちは、渋々と、しかし従順に、自分の部屋へと戻り始めた。
カインも、サイラスも、他の生徒たちも。
皆、無言で、重い足取りで、それぞれの部屋へと消えていった。
だが、アシェルは動かなかった。
彼女は、ぐったりと意識を失いかけているリアンのベッドの傍らに立ち尽くしていた。
「アシェル、あなたも戻りなさい」
寮監が、疲れた声で言った。
しかし、アシェルは首を横に振った。
「……私は、ここにいます」
「何を言って……」
「リアンの、そばにいます。一人にはしません」
アシェルの声には、静かだが、動かしがたい決意が込められていた。
寮監は、アシェルの瞳を見て、何かを感じ取ったのか、それ以上何も言わなかった。ただ、小さくため息をつくと、部屋を出て行った。
一人残されたアシェル。
静まり返った部屋。
リアンの、か細い呼吸音だけが、規則的に響いている。
アシェルは、リアンのベッドの傍らに座り、その冷たい手を、そっと握った。
その灰色の瞳の奥で、静かだったはずの炎が、激しく燃え上がっていた。
(助けたい。この子を、失いたくない――)
その純粋で強烈な願いが、アシェルの内に眠る本能を、完全に解き放った。
彼女は知っていた。
自分には、力がある。
母の命を吸い取った、あの忌まわしい力。
しかし同時に、鉢植えの植物を癒やした、あの温かい力。
吸収と、譲渡。
奪うことと、与えること。
その両方が、彼女の中に存在している。
ならば――
ならば、その力を使えば、リアンを救えるかもしれない。
しかし、アシェルは講義で聞いた、ヘイスタック教官の警告を思い出した。
「外界からマナを体内に取り込もうとする行為は、エーテル汚染と呼ばれる極めて危険な現象を引き起こす。最悪の場合、死に至る」
逆もまた、真なのではないか。
自分の生命エネルギーを、他者に大量に譲渡すれば――
自分が、死ぬかもしれない。
しかし、アシェルは躊躇しなかった。
彼女の心は、既に決まっていた。
リアンを救えるなら、それでいい。
## 深夜の儀式――命を分かつ行為
深夜、皆が寝静まったのを見計らって、アシェルは行動を開始した。
彼女は、部屋の隅に置いてあった、あの鉢植えを手に取った。先日、彼女が譲渡の実験を行った、あの小さな植物。その葉は、あれ以来、確実に元気を取り戻していた。黄色かった葉は、今や健康的な緑色に変わり、新しい芽さえ出始めていた。
それは、アシェルの力が、確かに生命を救う力であることの、生きた証拠だった。
アシェルは、鉢植えをリアンのベッドの傍らに置いた。そして、月明かりだけが差し込む、薄暗い部屋の中で、リアンの冷たい手を、再び握った。
リアンは、鎮静剤の効果で、浅い眠りについていた。しかし、その呼吸は依然として弱く、不規則だった。時折、呼吸が止まりかけ、そしてまた再開する。まるで、心臓が、もう動くべきか止まるべきか、迷っているかのように。
「リアン……」
アシェルは、小さく彼女の名前を呼んだ。
「待ってて。今、楽にしてあげるから」
アシェルは、もう片方の手を、自らの胸に当てた。
そして、深く、深く、息を吸い込んだ。
彼女は、エルダンに教わった、あの呼吸法を思い出した。
剣を振るう時の、あの呼吸。
息を吸いながら力を溜め、吐きながら解き放つ。
しかし、今回は違う。
今回は、力を「解き放つ」のではない。
力を「譲り渡す」のだ。
アシェルは、自分の内側に意識を集中させた。
そこには、彼女が生まれてからこれまで、無意識のうちに吸収してきた、膨大な生命エーテルが蓄積されていた。
母から。
村の生き物たちから。
森の木々から。
旅の途中で出会った、無数の生命から。
それらすべてのエーテルが、彼女の身体の奥深く、まるで深い井戸の底のように、静かに、しかし膨大な量で、蓄えられていた。
(流れろ……私の中から、彼女の元へ……)
アシェルがイメージしたのは、剣に力を込めるのとは全く違う感覚だった。
怒りでもなく、憎しみでもない。
ただ、目の前の、消えそうな命を救いたいという、母性にも似た、温かく、そして力強い愛情。
彼女は、その感情を、自分の身体の奥底から湧き上がらせた。
そして、その感情を、エーテルの流れに乗せた。
その瞬間――
アシェルの指先から、淡い、しかし確かな光の粒子が流れ出し始めた。
それは、鉢植えの実験の時よりも、遥かに強く、遥かに多量だった。
光の粒子は、まるで蛍の群れのように、アシェルの手からリアンの手へと、ゆっくりと、しかし絶え間なく流れ込んでいった。
それは、アシェルがこれまで無意識に外界から「吸収」してきた、膨大な生命エーテルだった。
それが今、彼女の強い意志によって、逆の流れを生み出している。
体内から、体外へ。
自分から、他者へ。
生命を、分かち合う。
リアンの指先が、ぴくりと動いた。
それは、ほんの小さな動きだったが、アシェルは、その変化を見逃さなかった。
(効いてる……!)
アシェルは、さらに強く、自分のエネルギーを注ぎ込んでいった。
しかし、それは、想像以上に過酷な行為だった。
エーテルの譲渡は、単にエネルギーを渡すだけではなかった。
それは、彼女の生命そのものを分け与える行為だったのだ。
体内の熱が、急速に奪われていった。
最初は、手足の先が冷たくなった。
次に、その冷たさが、腕と脚を伝って、胴体へと広がっていった。
そして、胸の中心まで、その冷気が到達した時――
アシェルは、まるで氷水に浸されたかのような、激しい悪寒を感じた。
全身が震え始めた。歯がガチガチと鳴り、止められなかった。
視界が、白く霞んでいった。
目の前の光景が、まるで霧の向こう側にあるかのように、ぼやけて見えた。
そして、最も恐ろしいことが起こり始めた。
記憶が、失われていくのだ。
それは、最初は些細なことだった。
昨日の夕食に何を食べたか、思い出せない。
一昨日の講義で、教官が何を言っていたか、思い出せない。
しかし、徐々に、その欠落は大きくなっていった。
この寮に来てからの記憶が、砂の城のように崩れていく。
試験塔での記憶が、薄れていく。
エルダンとの旅の記憶が――
母の顔が――
故郷の村の風景が――
それらすべてが、まるで古い写真が色褪せていくように、徐々に、しかし確実に、アシェルの記憶から消えていった。
(……それでも、いい)
アシェルは、歯を食いしばって耐えた。
全身の筋肉が痙攣し、激しい頭痛が襲ってきた。
目の奥が焼けるように痛み、耳鳴りが響いた。
吐き気が込み上げ、何度も嘔吐しそうになった。
しかし、彼女は手を離さなかった。
リアンの、あの優しい笑顔を守れるなら。
リアンの、あの温かい声を守れるなら。
これしきの代償、何でもない。
記憶が消えても、身体が壊れても、構わない。
ただ、彼女に生きていてほしい。
それだけが、アシェルの願いだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
アシェルには、もう時間の感覚がなかった。
ただ、ひたすらに、エーテルを流し続けた。
自分の中の、あらゆるものを、リアンに注ぎ込んだ。
そして――
アシェルの意識が途切れそうになった、まさにその時。
リアンの胸が、大きく、そして深く、一度上下した。
それは、これまでの浅く弱々しい呼吸とは、明らかに違っていた。
深く、力強い、生命の呼吸だった。
「……ん……」
リアンの唇から、小さな声が漏れた。
彼女の瞼が、わずかに震えた。
そして、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
血の気を失っていた頬に、ほんのりと、温かい赤みが戻っている。
紫色だった唇も、健康的なピンク色に変わっていった。
彼女の身体から放たれるエーテルが、再び力強さを取り戻し始めた。
消えかけていた蝋燭の炎が、再び燃え上がるように。
アシェルは、その変化を確認すると、安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになった。
手を、リアンの手から離した。
そして――
倒れた。
アシェルの身体は、糸が切れた人形のように、床に崩れ落ちた。
全身は冷え切り、体温は危険なほど低下していた。
頭は割れるように痛み、意識は朦朧としていた。
彼女は、床に倒れたまま、ぼんやりと天井を見つめた。
(ここは……どこ……?)
(私は……誰……?)
短時間の、深刻な記憶欠落。
それが、「譲渡」の代償だった。
彼女は、今自分がどこにいるのか、なぜここにいるのか、さえ、一瞬、思い出せなかった。
ただ、一つだけ、はっきりと分かることがあった。
何か、とても大切なことを、成し遂げた、ということ。
そして、それは、正しいことだった、ということ。
アシェルは、その場で、意識を失った。
彼女の身体は、まるで泥のように重く、動かなかった。
冷たい石の床の上で、彼女は、まるで死んだかのように、動かなくなった。
## 奇跡の朝――そして静かな絆
翌朝。
東の窓から、朝日が差し込んできた。
その光が、リアンの顔を照らした。
リアンは、ゆっくりと目を開けた。
「……ん……」
彼女は、まるで長い眠りから覚めたかのように、ゆっくりと身体を起こした。
そして、周囲を見回した。
自分のベッド。自分の部屋。
いつもと変わらない、朝の風景。
しかし、何かが違った。
身体が、軽い。
呼吸が、楽だ。
胸の苦しさが、ない。
リアンは、自分の手を見た。昨夜まで青白かった肌に、健康的な血色が戻っている。
彼女は、深く息を吸い込んだ。
肺に、空気がすんなりと入ってくる。
これは、何ヶ月も感じたことのなかった、爽快な感覚だった。
「……何が……?」
リアンは、ベッドから降りようとした。
そして、床に何かが倒れているのに気づいた。
「アシェル!」
リアンは、すぐにベッドから飛び降り、アシェルの傍らに駆け寄った。
アシェルは、床に倒れたまま、意識を失っていた。
その顔は、恐ろしいほど青白く、唇は紫色に変色していた。
全身は冷え切り、まるで氷の彫像のようだった。
「アシェル!しっかりして!」
リアンは、必死にアシェルの身体を揺さぶった。
しかし、アシェルは反応しなかった。
「誰か!助けて!」
リアンの叫び声に、寮監と、他の生徒たちが駆けつけた。
「何事だ!?」
寮監がドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
昨夜、死の淵にいたはずのリアンが、健康そうに立っている。
そして、その足元に、アシェルが冷たくなって倒れている。
「これは……一体……」
寮監は、言葉を失った。
すぐに医務官が呼ばれた。
医務官は、まずリアンを診察した。
脈拍、呼吸、心音、すべてを確認した。
そして、信じられない、という表情で首を振った。
「……奇跡だ。昨夜、あれほど衰弱していたのに……今や、完全に健康体だ。いや、それどころか、同年代の平均よりも、心臓の機能が向上している」
医務官は、次にアシェルを診察した。
彼女の脈は微弱で、体温は危険なほど低かった。
「この子は……エーテル欠乏症だ。体内のマナが、ほぼ完全に枯渇している。まるで、何日も飲まず食わずで砂漠を歩いたかのような状態だ」
医務官は、アシェルに暖かい毛布をかけ、マナを補給する薬を投与した。
「あとは、安静にして、身体が自然に回復するのを待つしかない。幸い、命に別状はない。数日で、元に戻るだろう」
医務官は、リアンとアシェルを交互に見て、何かを察したようだった。
「……君は、何が起こったのか、知っているね?」
医務官が、リアンに問いかけた。
リアンは、小さく頷いた。
「彼女が……私を、救ってくれたんです」
その言葉に、その場にいた全員が、息を呑んだ。
寮内は、静かな、しかし確かな興奮に包まれていた。
「リアンさんが……!リアンさんの顔色が!」
「本当だ!昨日までとは、別人みたいだ!」
「熱も下がってる!呼吸も、すごく穏やかだ!」
誰もが、奇跡の訪れを信じられない、といった表情で囁き合っていた。
「これは、本当に、同じ人物なのか?」
「医務官殿も、信じられない、と仰っていた」
「一体、何が起きたというんだ……」
駆けつけた医務官も、自らの目を疑っていた。
「……信じられん。一体、何が起きたというのだ……。医学的には、説明がつかん……」
アシェルは、その輪から少し離れた場所で、壁に寄りかかりながら、ぼんやりとその光景を眺めていた。
彼女は、数時間前に意識を取り戻していた。
しかし、全身の倦怠感とめまいは、まだ残っている。
頭の中は、まるで濃い霧に包まれているようで、思考がうまくまとまらなかった。
記憶の一部も、まだ戻っていなかった。
昨夜、何が起こったのか、断片的にしか思い出せない。
ただ、一つだけ、はっきりと分かることがあった。
リアンが、生きている。
それだけで、十分だった。
「……アシェル?」
リアンが、ベッドの上から、弱々しいながらも、はっきりとした声で彼女の名前を呼んだ。
アシェルは、顔を上げた。
リアンは、ベッドに座り、アシェルをまっすぐに見つめていた。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「……ありがとう」
たった一言。
しかし、その言葉には、言葉にできないほど多くの感情が込められていた。
感謝、愛情、そして――罪悪感。
リアンは、全てを理解していた。
昨夜、夢うつつの中で、アシェルの温かい力が、自分の中に流れ込んでくるのを、確かに感じていたのだ。
そして、その代償に、アシェルが何を失ったのかも、理解していた。
「私のために……そんな、危険なことを……」
リアンの声が、震えた。
「馬鹿……馬鹿よ、アシェル……。あなたが死んでしまったら、意味がないじゃない……」
リアンは、顔を手で覆って泣いた。
アシェルは、壁から離れ、よろめきながらリアンの傍らに近づいた。
そして、リアンの手を、そっと握った。
「泣かないで、リアン」
アシェルの声は、弱々しかったが、優しかった。
「私は、大丈夫。少し疲れただけ。すぐに元気になるから」
「でも……」
「それに」
アシェルは、小さく微笑んだ。
「あなたが生きていてくれて、本当に嬉しい。それだけで、十分だから」
その言葉に、リアンは再び涙を流した。
しかし今度は、悲しみの涙ではなかった。
それは、感謝と、愛情と、そして友情の涙だった。
二人は、しばらくの間、ただ手を握り合っていた。
言葉は必要なかった。
この静かな時間が、二人の絆を、これまで以上に深く、強いものにしていた。
その、たった一言の感謝の言葉。
それが、アシェルの心に、これまで感じたことのない、温かいものを灯した。
(私は、独りじゃない。私には、守るべき人がいる。私の力は、そのためにあるんだ)
彼女の中で、何かが、はっきりと変わった。
もう、ただ孤独に耐えるだけの少女ではない。
仲間を、親友を守るためならば、どんな危険をも厭わない。
そんな、静かで、しかし鋼のように強い決意が、その胸に宿った。
アシェルは、窓の外を見た。
朝日が、学園の塔を照らしていた。
新しい一日が、始まろうとしていた。
そして、アシェルの、新しい物語も、今まさに始まろうとしていた。
## 現実の壁――金銭という名の枷鎖
しかし、その決意は、すぐに厳しい現実に直面することになった。
リアンの病状は、一時的に劇的に回復した。
彼女は再び歩けるようになり、食事も取れるようになり、講義にも出席できるようになった。
しかし、それは完治を意味しなかった。
リアンの先天性心臓マナ循環不全は、根本的な治療法がない病気だった。
アシェルの譲渡は、リアンの生命力を一時的に回復させたが、その効果は永続的ではなかった。
医務官の診断によれば、リアンは今後も、定期的に高価な魔法薬を服用する必要があった。
その薬は、「エーテル強壮剤」と呼ばれる、特殊な薬草と魔石を原料とした、極めて高価な薬だった。
一瓶で、銀貨五十枚。
レメディアル・ティアの生徒が一ヶ月に受け取る奨学金は、銀貨三枚。
つまり、一瓶の薬を買うためには、一年以上の奨学金を貯める必要があった。
そして、リアンは週に一度、この薬を服用する必要があった。
「どうしよう……。このままじゃ、またリアンが……」
アシェルは、自分の部屋で、なけなしの金銭を数えていた。
財布の中には、銅貨が数枚と、銀貨が一枚だけ。
これでは、一瓶の薬さえ買えない。
アシェルは、再び譲渡を行うことも考えた。
しかし、前回の譲渡の後遺症は、予想以上に深刻だった。
体力の回復には一週間かかり、記憶の欠落は部分的に残ったままだった。
エルダンとの旅の記憶の一部が、今でも思い出せない。
母の顔も、以前ほど鮮明には思い出せなくなった。
もし、再び譲渡を行えば、さらに多くのものを失うだろう。
そして最悪の場合、自分自身が死ぬかもしれない。
それでも――
それでも、リアンを救うためなら、彼女はそれを厭わなかった。
しかし、より良い解決策があるはずだ。
アシェルは、なけなしの金銭を握りしめ、街に出て安価な薬草を探した。
王都カストラムの市場は、活気に満ちていた。
商人たちが、大声で商品を宣伝している。
「新鮮な魚だよ!今朝獲れたばかり!」
「魔石、安いよ!品質保証!」
「薬草、各種取り揃えております!」
アシェルは、薬草を扱う店を一軒一軒回った。
「すみません、心臓に効く薬草はありますか?」
「心臓?……ああ、あるにはあるが、本格的な治療には向かないよ。せいぜい気休め程度だ」
店主は、小さな布袋を取り出した。
「これが、『心臓草』だ。お茶にして飲めば、多少は楽になるかもしれん。銀貨一枚だ」
アシェルは、その袋を買った。
しかし、その薬草の効果は、店主の言う通り、気休め程度にしかならなかった。
リアンは、そのお茶を飲んで、「ありがとう、少し楽になったわ」と微笑んだが、アシェルには分かった。
彼女は、自分を気遣って、そう言っているだけなのだと。
途方に暮れていた、その時だった。
## 偶然の盗聴――地下世界への扉
ある日の午後、アシェルは授業の帰りに、偶然、街の大通りで奇妙な会話を耳にした。
彼女は、市場で安い薬草を探した帰りだった。手には、ほとんど効果のない心臓草の袋を握りしめ、うつむきながら歩いていた。
その時、路地の角から、二つの声が聞こえてきた。
一つは、聞き覚えのある、皮肉っぽい声――サイラスだった。
もう一つは、力強く、訛りの強い声――島津ケンシンだった。
アシェルは、本能的に、路地の影に身を隠した。
別に聞き耳を立てるつもりはなかった。
ただ、サイラスと関わりたくなかっただけだ。
しかし、二人の会話は、否応なく彼女の耳に入ってきた。
「……ケンシンさんよぉ」
サイラスの声が、路地に響いた。
アシェルは、石壁の陰から、わずかに顔を出して、二人の様子を窺った。
サイラスは、いつもの皮肉っぽい笑みを浮かべながら、ケンシンに近づいていた。
ケンシンは、腕を組み、サイラスを冷たい目で見下ろしていた。その威圧感は、数メートル離れたアシェルにも感じられるほどだった。
「何の話じゃ、サイラス」
ケンシンの声は、低く、警戒に満ちていた。
「いやね」サイラスは、周囲を見回し、声を潜めた。「あんたほどの腕がありながら、学園の退屈な授業だけで満足できるのかい?」
「……続けろ」
「もっとスリルのある、そして何より『実入り』の良い場所があるんだがね。興味はないかい?」
アシェルの心臓が、わずかに速くなった。
実入りの良い場所?
彼女は、息を殺して、会話に耳を傾けた。
「実入り?」ケンシンの眉が、わずかに動いた。
「そうだ。一晩で、銀貨百枚、いや、運が良ければ金貨一枚も夢じゃない場所さ」
銀貨百枚――
アシェルは、思わず息を呑んだ。
それは、リアンの薬を二週間分買える金額だった。
金貨一枚なら、何ヶ月分も――
サイラスは、さらに声を潜めた。
「『地下闘技場』って言うんだが……聞いたことはあるかい?」
地下闘技場。
その言葉が、アシェルの耳に、はっきりと刻まれた。
ケンシンの表情が、わずかに変わった。
「……地下闘技場、か」
「ああ。王都の地下に広がる、秘密の闘技場さ。そこじゃ、毎晩、命懸けの戦いが繰り広げられている。観客は、大金を賭けて勝者を予想する。そして勝者には、賭け金の一部が報酬として支払われる」
サイラスは、ケンシンの反応を窺いながら続けた。
「学園の規則も、ティアの階級も、そこじゃ関係ない。ただ強い奴が、全てを手にできる。あんたみたいな、本物の戦士にとっちゃ、格好の稼ぎ場だと思うんだがね」
アシェルの心の中で、何かが激しく動いた。
ただ強い奴が、全てを手にできる――
そこなら、自分も――
しかし、その考えは、ケンシンの次の言葉で遮られた。
「興味はなか」
ケンシンの声は、冷たく、そして断固としていた。
「わいらは、金のために剣ば振るうちょるわけじゃなかでな。名誉も、誇りもなか戦いなど、ただの犬の喧嘩じゃ。そげんもんに、わいらの剣ば汚すつもりはなか」
ケンシンは、サイラスに背を向けた。
「二度と、そげん話ば持ってくるな。次は、容赦せんど」
その威圧感に、サイラスは一歩後ずさった。
「わ、分かったよ。悪かったな」
サイラスは、やれやれ、と肩をすくめて、その場を去っていった。
ケンシンも、反対方向へと歩いていった。
アシェルは、石壁の陰に隠れたまま、二人が完全に去るのを待った。
そして、ゆっくりと、路地から出た。
彼女の心は、激しく揺れ動いていた。
地下闘技場。
命懸けの戦い。
銀貨百枚。
金貨一枚。
リアンを救える。
仲間を救える。
しかし――
危険だ。
死ぬかもしれない。
ケンシンでさえ、「犬の喧嘩」と言って拒絶した場所。
でも――
でも、他に方法はないのだ。
譲渡は、自分の命を削る行為だ。
薬草は、気休めにしかならない。
奨学金は、薬の一瓶さえ買えない。
ならば――
アシェルは、拳を握りしめた。
(行くしかない)
彼女の中で、決意が固まり始めていた。
しかし、問題があった。
地下闘技場の場所が分からない。
サイラスに聞く?
いや、それは危険すぎる。
彼に借りを作れば、後々面倒なことになるかもしれない。
アシェルは、しばらく考えた。
そして、ある考えが浮かんだ。
その日の夜、アシェルは誰にも告げず、一つの決意を固めた。クローゼットの奥から、旅の途中で手に入れた、顔を完全に覆い隠すための古い仮面を取り出す。冷たい金属の仮面を手に取り、彼女は窓の外の暗闇を見つめた。
(待ってて、リアン。必ず、私があなたを守るから)
静まり返った寮を抜け出し、彼女は一人、仮面をつけて、街の最も暗い場所へと、その小さな、しかし確固たる足取りで、向かっていった。
学園の図書館。
そこには、王都の地図や、裏社会に関する資料があるかもしれない。
アシェルは、市場から学園へと向かった。
## 図書館での探索――禁断の知識
学園の図書館は、巨大な建物だった。
三階建ての石造りで、無数の書架が立ち並び、何万冊もの本が収められていた。
アシェルは、その入り口をくぐり、中へと入った。
図書館の中は、静寂に包まれていた。
わずかに聞こえるのは、ページをめくる音と、羽ペンが紙に走る音だけだった。
アシェルは、受付の司書に声をかけた。
「すみません、王都の地図はありますか?」
司書は、老いた男性で、分厚い眼鏡をかけていた。
「王都の地図?……ああ、あるよ。三階の地理学の棚だ。階段を上って、右奥に進めば見つかる」
「ありがとうございます」
アシェルは、階段を上り、三階へと向かった。
三階は、一階や二階よりもさらに静かで、人もほとんどいなかった。
ここは、専門的な学術書が収められている場所だった。
アシェルは、司書の指示通り、右奥へと進んだ。
そこには、地理学、都市計画、建築学などの本が並んでいた。
彼女は、「王都カストラム詳細地図」と題された大判の本を見つけ、それを手に取った。
近くの読書机に座り、その本を開いた。
地図は、詳細だった。
王都の全ての通り、建物、広場が記されていた。
しかし、地下闘技場のような非合法な施設は、当然、公式の地図には載っていなかった。
アシェルは、ため息をついた。
やはり、簡単にはいかないか――
その時、彼女の目が、地図の隅にある小さな注釈に止まった。
「北西スラム地区――治安悪化により、夜間の立ち入り非推奨」
北西スラム地区。
サイラスとケンシンの会話を思い出した。
地下闘技場は、おそらくそのような場所にあるはずだ。
アシェルは、その地区の地図を詳しく見た。
狭い路地が複雑に入り組み、古い倉庫や廃墟が点在している。
彼女は、その地図を記憶に焼き付けた。
そして、本を閉じ、元の棚に戻した。
次に、彼女は、別の棚へと向かった。
「社会学」「犯罪学」「都市の裏側」――
そのような本が並ぶ棚。
彼女は、「王都の影――裏社会の実態」という本を見つけ、手に取った。
その本を開くと、王都の裏社会について、詳細な記述があった。
盗賊ギルド、密輸組織、非合法な賭博場――
そして、地下闘技場。
アシェルの心臓が、速くなった。
本には、こう書かれていた。
「地下闘技場は、王都の最も暗い秘密の一つである。公式には存在しないことになっているが、実際には数百年前から続いている。その場所は定期的に変わるが、常に北西スラム地区の地下に存在する。入場には合言葉が必要であり、その言葉は定期的に変更される。現在の合言葉は不明だが、裏社会の情報網を通じて知ることができる。」
合言葉――
サイラスは、その合言葉を知っているはずだ。
しかし、彼に聞くのは危険だ。
アシェルは、しばらく考えた。
そして、ある考えが浮かんだ。
サイラスを尾行する。
彼が地下闘技場に行く時に、後をつければ、場所も合言葉も分かるはずだ。
危険だが、他に方法がない。
アシェルは、本を閉じ、図書館を後にした。
## 尾行の夜――闇の中の追跡
その日の夜、アシェルは寮の窓から、サイラスの部屋を見張っていた。
彼の部屋は、アシェルの部屋の斜め向かいにあり、窓から様子が見えた。
午後十時を過ぎた頃、サイラスの部屋の灯りが消えた。
しばらくして、彼の部屋の窓が開き、彼が窓から外へと出るのが見えた。
アシェルは、すぐに自分の部屋の窓を開け、外へと出た。
夜の学園は、静まり返っていた。
見回りの衛兵も、この時間にはほとんどいない。
アシェルは、暗闇の中を、サイラスの後を追った。
サイラスは、学園の敷地を抜け、王都の街へと向かった。
アシェルは、十分な距離を保ちながら、彼の後をついていった。
サイラスは、大通りを避け、裏通りを進んだ。
やがて、彼は北西スラム地区へと入っていった。
この地区は、昼間でも薄暗く、夜になると完全な闇に包まれた。
街灯もほとんどなく、建物の窓からわずかに漏れる光だけが、道を照らしていた。
アシェルは、さらに慎重に、サイラスの後を追った。
サイラスは、複雑に入り組んだ路地を進み、やがて、古い倉庫のような建物の前で止まった。
その入り口には、フードを深くかぶった男が二人、見張りに立っていた。
アシェルは、近くの建物の影に隠れ、様子を窺った。
サイラスは、見張りの男たちに近づき、何か言葉を交わした。
その声は、距離があるため、はっきりとは聞こえなかった。
しかし、アシェルは、唇の動きを読もうとした。
「……そう……き……えん」
蒼き炎?
それが合言葉なのだろうか?
見張りの一人が、扉を開けた。
サイラスは、中へと入っていった。
アシェルは、しばらく待った。
そして、意を決して、見張りの男たちに近づいた。
彼女は、深くフードをかぶり、顔を隠していた。
「……蒼き炎」
アシェルは、小さな声で言った。
二人の男は、アシェルを上から下まで見た。
「……小娘が、何しに来た」
一人の男が、低い声で言った。
「戦いに」
アシェルは、まっすぐに男を見つめた。
男は、しばらくアシェルを見ていたが、やがて肩をすくめた。
「まあ、いいだろう。死んでも文句は言うなよ」
もう一人の男が、扉を開けた。
アシェルは、頷き、その扉をくぐった。




