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エーテルの時代の幕開け:リアンの危機と地下への決意

秋が深まり、レメディアル寮に吹き込む風は、日ごとにその冷たさを増していた。湿った石壁は容赦なく熱を奪い、夜になれば生徒たちはなけなしの毛布に身を寄せ合って眠りにつく。そんな凍えるような夜の静寂を、絶え間なく破るものが一つあった。


「……ゲホッ、ゴホッ……ゲホッ……」


リアンの、細く苦しげな咳だった。生まれつき病弱な彼女の身体は、この過酷な環境の変化に耐えきれずにいた。日中は気丈に振る舞っているが、夜になると発作のように咳が始まり、そのたびに寮の同室者たちは不安な夜を過ごす。アシェルもまた、ベッドの下段で息を殺しながら、上段から聞こえてくる親友の苦しそうな呼吸に胸を痛めていた。


「リアン、大丈夫……?」

アシェルが心配そうに小声で尋ねる。

「うん……大丈夫……。ごめんね、うるさくして」

リアンの声は、いつもと変わらず優しかったが、その弱々しさは隠しようもなかった。


ここ数日、リアンの症状は明らかに悪化していた。白い肌はさらに透明感を増し、銀色の髪も輝きを失っている。食事も喉を通らないのか、ほとんど手を付けずに残していた。彼女の身体から放たれるエーテルは、まるで消えかけの蝋燭の炎のように、弱く、儚く、揺らめいていた。


その夜、事態はついに最悪の局面を迎えた。


「う……あ……っ……」


これまでとは明らかに違う、息が詰まるような呻き声が、アシェルの耳に届いた。彼女は飛び起きた。上段ベッドでは、リアンが胸を押さえ、苦悶の表情で身をよじっていた。呼吸は浅く、速く、まるで溺れているかのようだ。


「リアン!」


アシェルの叫び声に、同室のカインと、隣室の生徒たちも目を覚ました。

「どうした!?」

「リアンさんの様子がおかしい!」


すぐに寮監が呼ばれ、学園の医務官が駆けつけた。しかし、初老の医務官は、リアンを一目見るなり、深いため息をついた。


「……手の施しようがない。心臓のマナ循環が、ほぼ停止している」

医務官の診断は、非情な死の宣告に等しかった。「持って、あと一晩だろう。……ご家族には、私が連絡を入れておく」


その言葉に、寮内は絶望的な沈黙に包まれた。リアンの穏やかな微笑みは、この荒んだ寮にとって、数少ない癒やしの一つだった。その光が、今まさに消えようとしている。


譲渡の儀式


「そんな……嘘……」

アシェルの心臓が、氷のように冷えていくのを感じた。リアンがいなくなる?あの優しい笑顔が、もう二度と見られなくなる?そんなこと、あってはならない。絶対に。


医務官が去り、寮監が生徒たちを自室に戻らせようとした。

「皆、もう寝なさい。我々にできることは、もう何もないのだから」


だが、アシェルは動かなかった。彼女は、ぐったりと意識を失いかけているリアンのベッドの傍らに立ち尽くしていた。その灰色の瞳の奥で、静かだったはずの炎が、激しく燃え上がっていた。


(助けたい。この子を、失いたくない――)


その純粋で強烈な願いが、アシェルの内に眠る本能を、完全に解き放った。


深夜、皆が寝静まったのを見計らって、アシェルは再びリアンのベッドに近づいた。その手には、先日の実験で使った、あの葉が少しだけ元気を取り戻した鉢植えが握られていた。


(できるかもしれない。ううん、やるんだ)


彼女は、震える手で、リアンの冷たい手をそっと握った。そして、もう片方の手を、自らの胸に当てる。エルダンに教わった、深い、静かな呼吸を繰り返した。


(流れろ……私の中から、彼女の元へ……)


彼女がイメージしたのは、剣に力を込めるのとは全く違う感覚。怒りでもなく、憎しみでもない。ただ、目の前の、消えそうな命を救いたいという、母性にも似た、温かく、そして力強い愛情。


指先から、淡い、ほとんど目に見えないほどの光の粒子が流れ出し始めた。それは、アシェルがこれまで無意識に外界から「吸収」してきた、膨大な生命エーテルだった。それが今、彼女の強い意志によって、逆の流れを生み出している。


「……ん……」


リアンの指先が、ぴくりと動いた。アシェルは、その変化を見逃さなかった。彼女はさらに強く、自分のエネルギーを注ぎ込んでいく。


それは、彼女の生命そのものを分け与える行為だった。体内の熱が急速に奪われ、全身が氷水に浸されたかのような悪寒が走る。視界が白く霞み、激しいめまいが襲ってきた。頭の中で、大切な記憶が、砂の城のように崩れていくような感覚。母の顔、エルダンの声、故郷の村の風景……。それらが、エーテルの流れと共に、自分の中から失われていく。


(……それでも、いい)


彼女は、歯を食いしばって耐えた。リアンの、あの優しい笑顔を守れるなら、これしきの代償、何でもない。


どれほどの時間が経っただろうか。アシェルの意識が途切れそうになった、まさにその時。リアンの胸が、大きく、そして深く、一度上下した。規則正しい寝息が聞こえ始めた。血の気を失っていた頬に、ほんのりと、温かい赤みが戻っている。


アシェルは、安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになった。全身は冷え切り、頭は割れるように痛む。そして、今自分がどこにいるのか、なぜここにいるのかさえ、一瞬、思い出せなかった。短時間の、深刻な記憶欠落。それが、「譲渡」の代償だった。


彼女は、よろめきながら自分のベッドに戻ると、まるで泥のように深い眠りに落ちた。


静かな変化と新たな決意


翌朝、寮内は静かな、しかし確かな興奮に包まれてい た。

「リアンさんが……!リアンさんの顔色が!」

「熱も下がってる!呼吸も、昨日までとは比べ物にならないくらい、穏やかだ!」


誰もが奇跡の訪れを信じられないといった表情で囁き合っていた。駆けつけた医務官も、自らの目を疑っていた。

「……信じられん。一体、何が起きたというのだ……。医学的には、説明がつかん……」


アシェルは、その輪から少し離れた場所で、壁に寄りかかりながら、ぼんやりとその光景を眺めていた。全身の倦怠感とめまいは、まだ残っている。


「……アシェル?」


リアンが、ベッドの上から、弱々しいながらも、はっきりとした声で彼女の名前を呼んだ。

「……ありがとう」

リアンは、全てを理解していた。昨夜、夢うつつの中で、アシェルの温かい力が、自分の中に流れ込んでくるのを、確かに感じていたのだ。


その、たった一言の感謝の言葉。それが、アシェルの心に、これまで感じたことのない、温かいものを灯した。


(私は、独りじゃない。私には、守るべき人がいる。私の力は、そのためにあるんだ)


彼女の中で、何かが、はっきりと変わった。もう、ただ孤独に耐えるだけの少女ではない。仲間を、親友を守るためならば、どんな危険をも厭わない。そんな、静かで、しかし鋼のように強い決意が、その胸に宿った。


街角の誘い、そして地下への扉


だが、その決意は、すぐに厳しい現実に直面することになる。リアンの病状は一時的に回復したが、完治したわけではない。高価な薬を、継続的に服用する必要があった。


「どうしよう……。このままじゃ、またリアンが……」


アシェルは、なけなしの金銭を握りしめ、街に出て安価な薬草を探したが、気休め程度にしかならない。途方に暮れていた、その時だった。


彼女は偶然、街の大通りで、サイラスがSATUMAのリーダー、島津ケンシンに声をかけている場面を耳にしてしまった。

「……ケンシンさんよぉ、あんたほどの腕がありながら、学園の退屈な授業だけで満足できるのかい?」

サイラスは、いつもの皮肉っぽい笑みを浮かべていた。

「もっとスリルのある、そして何より『実入り』の良い場所があるんだがね。興味はないかい?『地下闘i 技場』って言うんだが……」


ケンシンは、その誘いを、一瞥もくれることなく一蹴した。

「興味はなか。わいらは、金のために剣ば振るうちょるわけじゃなかでな」


サイラスは、やれやれ、と肩をすくめてその場を去っていった。しかし、アシェルは、その「地下闘技場」という言葉を聞き逃さなかった。


(実入りの良い場所……。強い奴が、全てを手にできる場所……)


彼女の心に、危険な考えが芽生えた。もし、そこで自分の力を試せば……リアンを、そして寮の仲間たちを、本当に救えるだけの金を、手に入れられるかもしれない。


ケンシンは「実践は早すぎる」と反対するだろう。エルダンなら、きっと眉をひそめるに違いない。だが、もう迷っている時間はないのだ。


その日の夜、アシェルは誰にも告げず、一つの決意を固めた。クローゼットの奥から、旅の途中で手に入れた、顔を完全に覆い隠すための古い仮面を取り出す。冷たい金属の仮面を手に取り、彼女は窓の外の暗闇を見つめた。


(待ってて、リアン。必ず、私があなたを守るから)


静まり返った寮を抜け出し、彼女は一人、仮面をつけて、街の最も暗い場所へと、その小さな、しかし確固たる足取りで、向かっていった。

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