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冒険者適性Aランク でも俺、鍛冶屋になります  作者: むひ
アシェルの章

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エーテルの時代の幕開け3:理論の裂け目、そして静かなる叛逆

地下講義室――知識の墓場


レメディアル・ティアの授業は、常に湿った地下講義室で行われた。そこは学園の最も深い場所、まるで忘れ去られた記憶の底のような空間だった。天井は低く、成人男性が手を伸ばせば届きそうなほどで、圧迫感が常に生徒たちの肩に重くのしかかっていた。石造りの壁は、何百年もの歳月をかけて染み込んだ湿気のせいで、常にじっとりと濡れており、その表面には緑がかった苔が、まるで病んだ皮膚のように張り付いていた。


壁を伝う水の雫が、ぽた、ぽた、と一定のリズムで石床を打ち、その単調な音が、退屈な講義のBGMとなっている。天井の隅からは、時折、冷たい風が吹き抜け、講義室の空気を揺らした。その風は、まるで地下深くに眠る何か巨大なものの、ゆっくりとした呼吸のようだった。


マナの光も弱々しかった。天井から吊るされた魔導灯は、上位ティアの講義室で使われているものよりも明らかに出力が低く、黄ばんだ病的な光を放っている。その光では、教科書の小さな文字を追うには、生徒たちが身を乗り出して、目を細める必要があった。何人かの生徒は、既に諦めたように、ただぼんやりとその光を見つめているだけだった。


木製の長椅子は古く、長年の使用で表面が磨り減り、ささくれ立っている。座ると、ギシギシと不快な音を立てた。机の表面には、過去の生徒たちが刻んだ無数の落書きが残っていた。「いつか、ここから出てやる」「誰か助けて」「もう限界」――それらは、絶望と希望が入り混じった、名もなき魂たちの叫びだった。


その日の講義は、「マナ制御基礎理論」。週に三度行われるこの授業は、レメディアル・ティアの生徒たちにとって、最も重要でありながら、最も苦痛な時間だった。なぜなら、この授業で語られる「理論」は、彼らの多くにとって、決して自分のものにはならない、遠い理想の世界の話だったからだ。


教壇に立つのは、初老の魔術理論学者、マスター・ヘイスタックだった。彼の年齢は六十を超えているだろうか。白髪混じりの髪は薄く、額の皺は深く刻まれていた。かつては立派だったであろう学者のローブは、今や色褪せ、袖口はほつれ、肩には埃が積もっていた。背中は猫背気味で、杖をつきながら教壇へと向かうその姿は、まるで自らも忘れ去られた知識の化石のようだった。


彼はかつて有望な研究者だったと、古参の職員たちは語る。三十年前、彼は「マナ循環理論」という革新的な仮説を提唱した。それは、従来の一方向的なマナ放出理論に対し、生命体同士が相互にエネルギーを循環させる可能性を示唆するものだった。しかし、当時の学術界主流派は、その理論を「非科学的」「夢想家の妄想」として一蹴した。論文は却下され、彼の研究資金は打ち切られ、気づけば彼は、この学園の最底辺へと追いやられていた。


その瞳には、かつての情熱の残滓と、長い年月にわたって蓄積された諦観が、濁った水のように混じり合っていた。彼はもう、自分の理論を証明しようとはしなかった。ただ、学園が定めた教科書の内容を、機械的に、感情を排して読み上げるだけの存在になっていた。


「よろしいかな、諸君」


ヘイスタック教官の声は、埃っぽい空気の中でか細く響いた。その声には、かつて大講堂を満たしたであろう力強さのかけらもなかった。ただ、長年の習慣だけが、彼の口を動かしているようだった。


「マナとは、エーテルという生命エネルギーを高密度に圧縮・安定化させたものだ。諸君も既に何度も聞いているはずだが……まあ、念のため、もう一度説明しよう」


教官は、古びた黒板の前に立った。黒板の表面は、長年のチョークの粉で白く曇り、何度拭いても完全には綺麗にならなかった。彼は震える手でチョークを取り、ゆっくりと、しかし驚くほど正確に、複雑な図を描き始めた。


それは人体の断面図だった。肺、心臓、そして全身に張り巡らされた血管のような、マナの経路――「マナ回路」と呼ばれる、目に見えないエネルギーの流れの道筋。教官のチョークは、その一本一本の経路を、まるで生きた血管を描くかのように、丁寧に、しかし機械的になぞっていった。


「そして、我々が魔術を行使する上で最も重要なのは、このマナを、いかに正確に、いかに効率的に体外へ『放出』するか、という点にある」


教官は、人体図の手のひらの部分に、外向きの矢印を描いた。それは、体内から外界へと向かう、一方通行の流れを示していた。


「良いかね。マナの流れは、常に高密度な領域から、低密度な領域へと向かう。つまり、術者の体内――マナが高密度に蓄積された領域から、マナが希薄な外界へと放出されるのが、この世界の絶対的な法則なのだ。これを『マナ勾配の原則』と呼ぶ」


教官は黒板を指示棒で叩いた。コツン、という乾いた音が、静まり返った講義室に響いた。


「この原則に逆らうことは、川の水を下流から上流へ流そうとするのと同じく、不可能であるとされている。自然の摂理に反するのだ。これが、過去五百年にわたり、グランベルク王立学園が築き上げてきた、魔術理論の根幹だ」


教官の声には、わずかな苦味が混じっていた。それは、かつて自分が挑戦しようとした「異端の理論」を、今は自らが否定する側に回っているという、皮肉な運命への、静かな抵抗だったのかもしれない。


生徒たちのほとんどは、その難解な理論に気圧され、退屈そうに欠伸をしたり、窓の外の灰色の空を眺めたりしていた。この地下講義室の窓は、地上すれすれの位置にあり、そこから見えるのは、通り過ぎる人々の足元だけだった。貴族の子息の磨き上げられた革靴、商人の泥に汚れた長靴、時折通り過ぎる龍人族の優雅な足取り――彼らは皆、この地下の世界など知らずに、明るい地上の世界を生きている。


しかし、アシェルだけは違った。


彼女は最前列の、教壇のすぐ目の前の席に座っていた。他の生徒たちは、できるだけ教官から遠い後方の席を選んだが、アシェルは違った。彼女は、教官の言葉の一言一句を、まるで命綱にすがるかのように、真剣に耳を傾けていた。


彼女の灰色の瞳は、黒板の図に釘付けになっていた。その瞳の奥で、何かが静かに繋がり始めていた。それは、パズルのピースが、ゆっくりと、しかし確実に組み合わさっていく感覚だった。


(……体内から、外界へ?本当に、それだけなのかな……)


アシェルの心に、小さな疑問の種が蒔かれた。それは、彼女がこれまで感じてきた、言葉にならない違和感が、初めて明確な形を取り始めた瞬間だった。


彼女自身の体感は、この学園の「常識」とは明らかに異なっていたからだ。彼女が生き延びてこられたのは、外界から体内へ、一方的にエーテルを「吸収」する力のおかげだった。それは、教官が語る「マナ勾配の原則」とは、真逆の流れだった。


まるで、彼女だけが、逆さまの世界に生きているかのようだった。


アシェルは、自分の両手のひらを、机の下で静かに見つめた。この手は、母の命を吸い尽くした。村の生き物たちを怯えさせた。衛兵の少年に触れただけで、計測器を狂わせた。この手は、常に「奪う」手だった。


でも――と、彼女は思った――もし、逆ができるとしたら?


もし、この手が「与える」手になれるとしたら?


その考えは、あまりにも危険で、あまりにも希望に満ちていた。


## 講義の深淵――禁じられた可能性


ヘイスタック教官の講義は続いた。彼は次に、マナ制御の実践的な技法について説明を始めた。


「マナの放出には、三つの段階がある。第一段階は『集積』――体内に散在するマナを、特定の部位、通常は手のひらか杖の先端に集める過程だ。第二段階は『成形』――集積したマナを、使用する魔術の形に整える過程。第三段階が『放出』――成形したマナを、目標に向けて解き放つ過程だ」


教官は、黒板に三つの図を描いた。それぞれの段階でのマナの流れが、矢印と円で示されている。


「この三段階を、いかに迅速に、いかに正確に行うかが、魔術師としての技量を決定する。エリート・ティアの生徒たちは、この三段階を一秒以内に完了できる。アデプト・ティアで三秒、ファウンデーション・ティアで五秒……」


教官はそこで言葉を切り、教室を見回した。その視線には、同情と諦めが混じっていた。


「そして諸君……レメディアル・ティアの生徒たちは、この三段階のどこかに、何らかの障害を抱えている。集積が遅い者、成形が不安定な者、放出が弱い者……あるいは、その全てが不十分な者もいる」


その言葉に、教室の空気がさらに重くなった。何人かの生徒が、うつむいて机に額を押し付けた。リアンは、小さく咳き込んだ。カインは、相変わらず壁を見つめたまま、何の反応も示さなかった。


しかし教官は、そこで講義の方向性を、わずかに変えた。彼の声に、ほんの少しだけ、感情が戻ってきた。


「しかし……」


その一言に、アシェルは顔を上げた。


「極稀にだが、興味深い現象が報告されている。複数の術者が協力することで、個々のマナ放出量を遥かに上回る出力を生み出すケースだ。これは『共鳴増幅』と呼ばれる」


教官は、黒板の隅に、二つの人体図を並べて描いた。そしてその間に、波のような曲線を描き、二つの波が重なり合う様子を示した。


「理論的には、二人の術者のマナ波形が、偶然に同期することで起こるとされている。波と波が重なり合い、その振幅が増幅される……物理学で言う『共振現象』に似ている」


教官の目が、ほんの一瞬、かつての研究者の輝きを取り戻した。


「私が若い頃、この現象を目の当たりにしたことがある。二人の平凡な魔術師が、偶然にも完璧な同期を果たし、アーコン・ティアの魔導師に匹敵する火炎を生み出したのだ。その光景は……まるで奇跡だった」


教室に、一瞬だけ、静かな緊張が走った。生徒たちの何人かが、わずかに身を乗り出した。


しかし教官は、すぐに我に返ったかのように、首を振った。


「だが、そのメカニズムは未だ完全には解明されていない。再現性もない。学会では『偶然の産物』として処理されている。そして……」


教官の声が、再び冷たく、機械的なものに戻った。


「君たちレメディアル・ティアの生徒には、縁のない話だろう。共鳴増幅を起こすには、まず二人の術者が、それぞれ安定したマナ放出を行える必要がある。諸君にまず必要なのは、そのような高等技術ではなく、自分自身のマナを、最低限のレベルで安定して放出する基礎技術なのだから」


その言葉は、まるで冷水を浴びせられたようだった。わずかに前のめりになっていた生徒たちが、再び背もたれに身を沈めた。


しかし、アシェルは別のことを考えていた。


(共鳴……。もしかして、エルダンが教えてくれた呼吸法と関係があるのかもしれない)


彼女は、旅の剣士エルダンと過ごした三年間を思い出していた。彼が教えてくれた、呼吸と動作を一致させる技術。剣を振るう時、息を吸いながら振り上げ、吐きながら振り下ろす。その単純だが深遠なリズム。


そして、彼と一緒にいる時、アシェルの力は、いつもよりずっと穏やかだった。彼女の「吸収」は暴走せず、エルダンも彼女の力に怯えることはなかった。まるで、二人の間に、見えない調和があったかのように。


(あれは……共鳴だったのかもしれない)


アシェルの心に、新たな仮説が浮かび上がった。もし、自分の力を「他者に合わせる」ことができれば……もし、吸収だけでなく、与えることもできれば……


彼女は、講義を聞きながら、自らの指先を注意深く観察していた。


教室の中、彼女の隣の席には、リアンが座っていた。銀髪の少女は、いつものように顔色が悪く、時折、小さく咳き込んでいた。彼女の呼吸は浅く、弱々しかった。


アシェルは、リアンが近くにいる時、自分の指先から、ごく微量だが、何かが流れ出ているような、不思議な感覚を覚えることがあった。それは「吸収」とは違う、全く逆の流れだった。


そして――これは気のせいかもしれないが――その流れがリアンに向かうと、彼女の顔色が一瞬だけ、ほんの少しだけ良くなるような気がしていた。


それは既存の理論では説明できない、あまりにも微細な現象だった。おそらく、ヘイスタック教官に話しても、「気のせいだ」と一蹴されるだろう。


でも、アシェルは確信していた。これは、何か重要な手がかりなのだと。


講義が終わりに近づいた頃、教官は最後に、こう付け加えた。


「諸君、忘れてはならない。マナ制御とは、常に『内から外へ』だ。決して、その逆ではない。外界からマナを体内に取り込もうとする行為は、『エーテル汚染』と呼ばれる極めて危険な現象を引き起こす。制御不能なエーテルが体内に逆流すれば、マナ回路が破壊され、最悪の場合、即死する」


教官の声に、珍しく強い警告の色が混じった。


「過去に、そのような実験を試みた愚か者たちがいた。彼らは皆、悲惨な最期を遂げた。諸君は、決して、そのような危険な真似をしてはならない。これは、命令だ」


その言葉に、教室全体が、一瞬、凍りついた。


しかし、アシェルの心の中では、逆に、ある確信が芽生え始めていた。


(でも……私は、ずっとそれをやってきた。外界から、体内へ。そして、私は生きている)


彼女は、自分の両手を、静かに握りしめた。


(もし、私が特別なのだとしたら……もし、私がこの「禁忌」を安全に扱えるのだとしたら……)


## 講義室の片隅での小さな実験――禁断の一歩


講義が終わると、生徒たちは疲れ果てた表情で、ぞろぞろと教室を出て行った。重い足取りで、狭い階段を上り、地上の世界へと戻っていく。


リアンは咳き込みながら、カインに支えられて部屋を出た。サイラスは相変わらず、誰とも目を合わせずに、一人で立ち去った。


しかし、アシェルだけは、一人だけ席を立たず、静かにその場に残っていた。


彼女は、教科書を開いたまま、じっとその場に座っていた。しかし、その目は本のページを追ってはいなかった。彼女の視線は、教壇の方に向けられていた。


ヘイスタック教官は、疲れた様子で、黒板を布で拭いていた。チョークの粉が舞い上がり、薄暗い光の中で、まるで白い雪のように宙を漂った。


「……ヘイスタック先生」


アシェルが、おずおずと声をかける。その声は、湿った空気の中で、か細く響いた。


教官は、驚いたように振り返った。黒板消しを手にしたまま、眼鏡の奥の目を細めて、アシェルを見つめた。


「ん?……ああ、君か。アシェル君だったな。まだ残っていたのか。何か質問かね?」


ヘイスタック教官は、驚いたような、しかし少しだけ嬉しいような、複雑な表情を浮かべた。この授業で、生徒から質問を受けるなど、一体何年ぶりのことだろうか。おそらく、五年以上は経っているはずだ。


「あの……」


アシェルは立ち上がり、教壇の前まで歩み寄った。彼女の足音が、石床に静かに響いた。


「今日の講義で、先生が仰っていた……マナは、本当に体内から外界にしか流れないのでしょうか。その……逆は、あり得ないのでしょうか?」


その質問に、教官の眉間に深い皺が刻まれた。彼は黒板消しを教壇に置き、腕を組んだ。


「逆、だと?外界から体内へ、という意味かね?」


教官の声には、困惑と、わずかな警戒心が混じっていた。


「……馬鹿なことを。それはマナ勾配の原則に反する。あり得んことだ。君は講義を聞いていなかったのかね?外界のエーテルを体内に取り込めば、マナ回路が破壊される。それは自殺行為に等しい」


「でも……」


アシェルは食い下がった。彼女の灰色の瞳が、教官をまっすぐに見つめた。


「もし、とても強いエーテルの源が近くにあって、そして自分の体内のマナがとても少ない状態だったら……その時、勾配は逆転しませんか?低い方から、高い方へと、流れが変わるのではないでしょうか?」


その質問に、教官は言葉を失った。


彼の目が、わずかに見開かれた。それは、長年忘れていた何かを、突然思い出したかのような表情だった。


「……君は……」


教官の声が、かすれた。


「君は、一体何を……」


しかし、教官はすぐに我に返り、首を激しく横に振った。


「いや、いや、いや。面白い仮説ではあるがね」


ヘイスタックは、まるで自分自身に言い聞かせるように、早口で言った。


「学術的には、それは『エーテル汚染』と呼ばれる極めて危険な現象とされている。制御不能なエーテルが体内に逆流すれば、マナ回路が破壊され、最悪の場合、死に至る。これは確立された事実だ。過去の実験データが、それを証明している」


教官は、アシェルの肩に手を置いた。その手は、震えていた。


「君のようなレメディアルの生徒が、考えるべきことではない。そのような危険な思想は、今すぐ頭から追い出しなさい。まずは教科書の基礎を、しっかりと頭に叩き込むことだ。それが、君の役目だ」


そう言うと、教官は古い革の鞄を手に、足早に講義室を去っていった。その背中は、以前よりもさらに丸まり、まるで何か重いものから逃げているかのようだった。


扉が、ギィ、という不快な音を立てて閉まった。


一人残された講義室。


アシェルは、その場に立ち尽くしていた。教官の反応は、彼女に一つの確信を与えた。


(先生は……何かを知っている)


教官の目に宿った、あの一瞬の動揺。それは、単なる理論的な否定ではなかった。何か、彼自身が過去に経験した、あるいは目撃した何かに対する、恐怖と後悔の色だった。


アシェルは、ゆっくりと教室を見回した。


薄暗い講義室。誰もいない、静寂に包まれた空間。


彼女の視線が、教壇の隅に止まった。


そこには、教官が授業で使用していた、一台の簡易的な魔力計測器が、忘れ去られたように置かれていた。それは古い型式の装置で、木製の箱に、真鍮製のダイヤルと、小さなガラス管が取り付けられている。ガラス管の中には、マナに反応して光る特殊な液体が入っており、マナの流れを視覚的に確認できるようになっていた。


そして、窓際の棚には、小さな鉢植えが一つ、置かれていた。


それは、おそらく教官が個人的に育てているものだろう。この寮の乏しい日光では育ちが悪いのか、葉の色が少し黄色がかり、元気がない様子だった。土は乾き気味で、葉の先端が、わずかに萎れている。


アシェルは、衝動に駆られた。


自分の内にある、言葉にできない感覚を、確かめてみたくなったのだ。


彼女は周囲を見回した。廊下から人の気配はない。この時間、他の生徒たちは食堂か、自室に戻っているはずだ。


アシェルは、静かに窓際に近づき、鉢植えを手に取った。陶器の鉢は、ひんやりと冷たかった。彼女はそれを、慎重に、音を立てないように机の上に置いた。


次に、教壇の隅から、簡易計測器を持ってきた。それは思ったより重く、真鍮の部分が鈍く光っていた。彼女はそれを机の上に置き、装置の電源を入れた。


ジジジ、という微かな駆動音が響き、ガラス管の中の液体が、淡く青白く光り始めた。準備完了を示すランプが、ゆっくりと点灯した。


この計測器は、マナの微細な流れを感知し、その強度と波形を、ダイヤルの針の動きと、ガラス管内の液体の発光パターンで表示する単純な装置だ。上位ティアで使われる最新式の精密機器に比べれば、玩具のようなものだが、基本的な測定には十分だった。


アシェルは深呼吸をした。


彼女は、計測器のセンサー部分――小さな金属製のプローブを、鉢植えの葉の先、最も元気のない、黄色く変色した部分に、そっと近づけた。


プローブと葉の間は、わずか数ミリ。触れるか触れないかの距離。


アシェルは、もう一度、深く息を吸い込んだ。


そして、鉢植えの土に、もう片方の手の指先を、静かに触れさせた。


(もし……もし私の感覚が正しいなら……)


彼女は目を閉じた。


周囲の音が、遠のいていく。壁を伝う水滴の音も、遠くで聞こえる生徒たちの足音も、全てが遠くなり、彼女の意識は、ただこの小さな植物と、自分自身だけに集中していった。


彼女は、エルダンに教わった呼吸法を、ゆっくりと繰り返した。


息を吸う。体内のエネルギーが、胸の中心に集まっていく感覚。


息を吐く。そのエネルギーが、腕を伝い、指先へと流れていく感覚。


しかし、今回は違った。


彼女は、そのエネルギーを「放出」しようとはしなかった。学園が教える、鋭く、攻撃的な、外向きの力の使い方ではなく――


彼女は、体内のエネルギーの流れを、剣ではなく、この小さな植物に向けた。


怒りでも、恐怖でもない。


ただ、この弱々しい生命を「助けたい」という、純粋な思いだけを込めて。


それは、「放出」とは明らかに違う感覚だった。


マナを力任せに押し出すのではなく、自らの体の一部を、そっと分け与えるような、繊細で、温かい感覚。


まるで、母親が子供に乳を与えるような。


まるで、友人が友人の手を握るような。


まるで、太陽が大地を温めるような。


そんな、優しい、包み込むような感覚。


アシェルの指先から、淡い、ほとんど目に見えないほどの光の粒子が、ゆっくりと、まるで春の雪解け水のように、鉢植えの土へと染み込んでいった。


それは、彼女が村で母を失った時に、無意識のうちに放っていた、あの破壊的な吸収とは、全く異なるものだった。


あれは、飢えた獣の咆哮だった。


これは、慈しみの呼吸だった。


その瞬間――


ピッ。


簡易計測器が、微かな電子音を立てた。


アシェルは目を開けた。


計測器のダイヤルが、わずかに、しかし確実に動いていた。針が、ゼロの位置から、ほんの少しだけ右に振れている。


そして、ガラス管の中の液体が――


それは、通常のマナ放出時に見られる、鋭く、激しい、青白い閃光ではなかった。


代わりに、そこには、柔らかな、温かみのある、淡い緑色の光が、まるで蛍の光のように、ゆっくりと、優しく脈動していた。


その光は、波のように、ゆっくりと、リズミカルに明滅した。


まるで、穏やかな心臓の鼓動のような。


まるで、春の風に揺れる若葉のような。


まるで、生命そのものが奏でる、優しい子守唄のような。


それは、学園の理論が教える、鋭く、攻撃的な「放出」の波形とは、全く異質のものだった。


アシェルは、息を呑んだ。


(……これだ……!)


彼女は確信した。


これは、体内のマナを他者へ「出す」感覚。


でも、「放出」ではない。


それは――


「譲渡」。


そう、それが正しい言葉だった。


力を、攻撃として外に放つのではなく。


力を、贈り物として他者に渡す。


自分の生命の一部を、相手の生命と分かち合う。


それは、理論では説明できない、全く新しい力の使い方だった。


アシェルは、計測器から視線を外し、鉢植えの植物を見た。


そして――彼女は、小さく息を呑んだ。


先程まで黄色がかっていた葉が、心なしか、少しだけ緑色を取り戻しているように見えた。


葉の先端の萎れも、わずかに、しかし確実に、改善されているようだった。


まるで、長い冬の眠りから覚めた植物が、春の訪れを感じて、ゆっくりと目覚めていくように。


「……できた……」


彼女の口から、安堵のため息が漏れた。


彼女の目から、一筋の涙が流れ落ちた。


それは、喜びの涙だった。


この力があれば――


この力を正しく使えるようになれば――


リアンを、そして他の仲間たちを、本当に救えるかもしれない。


母のように、命を奪うだけの存在ではなく。


誰かの、命を支える存在に、なれるかもしれない。


アシェルは、震える手で、計測器の電源を切った。ガラス管の光が、ゆっくりと消えていった。


彼女は、鉢植えを元の場所に戻し、計測器も教壇の隅に戻した。


そして、自分の席に戻り、荷物をまとめた。


誰にも見られてはいけない。


この力は、まだ誰にも理解されない、危険な秘密なのだ。


ヘイスタック教官の警告が、頭をよぎった。


「エーテル汚染は、死に至る」


でも、アシェルは違った。


彼女は、その「禁忌」を、生まれた時から扱ってきた。


そして今、彼女はそれを、破壊ではなく、創造のために使う方法を、見つけたのだ。


彼女が講義室を去ろうとした、その時――


背後で、カチリ、という微かな音がした。


アシェルは振り返った。


しかし、そこには何もなかった。


ただ、薄暗い講義室が、静かに佇んでいるだけだった。


彼女は首を傾げ、そして扉を開けて、外へと出た。


## 記録された異端――機械の記憶


彼女が去った後、誰もいない静寂の中で――


教壇の隅に置かれた、簡易計測器の内部で、何かが動いた。


カチリ。


それは、装置内部に組み込まれた、自動記録装置の作動音だった。


この古い計測器には、測定したデータを、魔法的に刻印された記録媒体――小さな水晶板に自動保存する機能があった。それは、実験データの保全のために、かつて開発された技術だった。


今日の、あの異常な波形のデータは、極めて微小なログとして、確かに機器の記憶領域の片隅に記録されていた。


時刻:午後三時四十七分


測定対象:不明(植物性エーテル源と推定)


マナ流の方向:通常の放出パターンと異なる


波形の性質:既知の分類に該当せず


色彩:淡緑色(通常の青白色と異なる)


強度:極めて微弱、しかし安定


持続時間:約三十秒


特記事項:この波形は、過去のデータベースに一切の該当例なし


その記録は、水晶板の奥深く、誰も見ることのない場所に、静かに眠りについた。


しかし、いつか、誰かがそれを見つける日が来るかもしれない。


その時、世界は、再び音を立てて変わり始めるのかもしれない。


窓の外では、夕暮れの光が、地下講義室の小さな窓を斜めに照らしていた。


一日が終わり、新しい夜が始まろうとしていた。


そして、アシェルの小さな叛逆も、静かに、しかし確実に、始まったのだった。

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