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エーテルの時代の幕開け:基礎講義と理論という名の檻

レメディアル・ティアの授業は、常に湿った地下講義室で行われた。壁を伝う水の雫が、一定のリズムで石床を打ち、退屈な講義のBGMとなっている。マナの光も弱々しく、教科書の小さな文字を追うには、生徒たちが身を乗り出す必要があった。


その日の講義は、「マナ制御基礎理論」。教壇に立つのは、初老の魔術理論学者、マスター・ヘイスタックだった。彼はかつて有望な研究者だったが、数十年前に主流の学説と対立し、この学園の最底辺へと追いやられた過去を持つ。その瞳には、かつての情熱の残滓と、長い年月にわたって蓄積された諦観が、濁った水のように混じり合っていた。


「よろしいかな、諸君」ヘイスタック教官の声は、埃っぽい空気の中でか細く響いた。「マナとは、エーテルという生命エネルギーを高密度に圧縮・安定化させたものだ。そして、我々が魔術を行使する上で最も重要なのは、このマナを、いかに正確に、いかに効率的に体外へ『放出』するか、という点にある」


教官は古びた黒板に、チョークで複雑な図を描き始めた。それは、人体内のマナの流れと、それを体外へ放出するための理論モデルだった。


「良いかね。マナの流れは、常に高密度な領域から、低密度な領域へと向かう。つまり、術者の体内から、マナが希薄な外界へと放出されるのが、この世界の絶対的な法則なのだ。これを『マナ勾配の原則』と呼ぶ。この原則に逆らうことは、川の水を下流から上流へ流そうとするのと同じく、不可能であるとされている」


生徒たちのほとんどは、その難解な理論に気圧され、退屈そうに欠伸をしたり、窓の外の灰色の空を眺めたりしていた。しかし、アシェルだけは違った。彼女は、ヘイスタック教官の言葉の一言一句に、真剣に耳を傾けていた。その灰色の瞳の奥で、何かが静かに繋がり始めていた。


(……体内から、外界へ?本当に、それだけなのかな……)


アシェルの心に、小さな疑問の種が蒔かれた。彼女自身の体感は、この学園の「常識」とは明らかに異なっていたからだ。彼女が生き延びてこられたのは、外界から体内へ、一方的にエーテルを「吸収」する力のおかげだった。それは、教官が語る「マナ勾配の原則」とは、真逆の流れだった。


講義が進む中、ヘイスタック教官は一つの興味深い事例について言及した。

「極稀にだが、複数の術者が協力することで、個々のマナ放出量を上回る現象が報告されている。これは『共鳴増幅』と呼ばれるが、そのメカニズムは未だ完全には解明されていない。おそらくは、術者同士のマナ波形が偶然に同期し、一時的な高出力を生み出すものと考えられているが……」


教官はそこで言葉を濁し、首を振った。

「まあ、君たちレメディアル・ティアの生徒には、縁のない話だろう。諸君にまず必要なのは、自分自身のマナを、安定して放出する基礎技術なのだから」


その言葉に、教室の空気がさらに重くなった。しかし、アシェルは別のことを考えていた。


(共鳴……。もしかして、エルダンが教えてくれた呼吸法と関係があるのかもしれない。彼と一緒にいる時、私の力は、いつもよりずっと穏やかだった……)


彼女は、講義を聞きながら、自らの指先を注意深く観察していた。他の生徒たち、特に病弱なリアンが近くにいる時、自分の指先から、ごく微量だが、何かが流れ出ているような、不思議な感覚があった。そして、その流れがリアンに向かうと、彼女の顔色が一瞬だけ、ほんの少しだけ良くなるような気がしていた。それは既存の理論では説明できない、あまりにも微細な現象だった。


講義室の片隅での小さな実験


講義が終わると、生徒たちは疲れ果てた表情で、ぞろぞろと教室を出て行った。しかしアシェルは、一人だけ席を立たず、静かにその場に残っていた。


「……ヘイスタック先生」

アシェルが、おずおずと声をかける。


「ん?……ああ、君か。アシェル君だったな。何か質問かね?」

ヘイスタック教官は、驚いたような、しかし少しだけ嬉しいような、複雑な表情を浮かべた。この授業で、生徒から質問を受けるなど、何年ぶりのことだろうか。


「あの……マナは、本当に体内から外界にしか流れないのでしょうか。その……逆は、あり得ないのでしょうか?」


その質問に、教官の眉間に深い皺が刻まれた。

「逆、だと?外界から体内へ、という意味かね?……馬鹿なことを。それはマナ勾配の原則に反する。あり得んことだ」


「でも……」アシェルは食い下がった。「もし、とても強いエーテルの源が近くにあって、自分の体内のマナがとても少ない状態だったら……」


「……面白い仮説ではあるがね」ヘイスタックは、疲れたようにため息をついた。「学術的には、それは『エーテル汚染』と呼ばれる極めて危険な現象とされている。制御不能なエーテルが体内に逆流すれば、マナ回路が破壊され、最悪の場合、死に至る。君のようなレメディアルの生徒が、考えるべきことではない。まずは教科書の基礎を、しっかりと頭に叩き込みなさい」


そう言うと、教官は古い鞄を手に、足早に講義室を去っていった。その背中には、新しい可能性を探求する好奇心よりも、確立された理論を守ろうとする、老学者の頑なさが滲んでいた。


一人残された講義室。アシェルは、教壇の隅に忘れ去られたように置かれている、一台の簡易的な魔力計測器と、窓際に置かれた小さな鉢植えに目を向けた。鉢植えの植物は、この寮の乏しい日光では育ちが悪いのか、葉の色が少し黄色がかっている。


彼女は衝動に駆られた。自分の内にある、言葉にできない感覚を、確かめてみたくなったのだ。


アシェルは鉢植えを机の上に置き、その土にそっと指を触れた。そして、植物の葉の先に、簡易計測器のセンサーを慎重に近づける。この計測器は、マナの微細な流れを感知し、波形として表示するだけの単純な装置だ。


(もし……もし私の感覚が正しいなら……)


彼女は目を閉じ、エルダンに教わった呼吸法を、ゆっくりと繰り返した。体内のエネルギーの流れを、剣ではなく、この小さな植物に向ける。怒りでも、恐怖でもない。ただ、この弱々しい生命を「助けたい」という、純粋な思いだけを込めて。


それは、「放出」とは明らかに違う感覚だった。マナを力任せに押し出すのではなく、自らの体の一部を、そっと分け与えるような、繊細で、温かい感覚。彼女の指先から、淡い、ほとんど目に見えないほどの光の粒子が、鉢植えの土へと染み込んでいく。


その瞬間、簡易計測器が、ピ、と微かな電子音を立てた。表示盤の波形モニターに、これまで見たこともない、滑らかで、穏やかな曲線が、ほんの一瞬だけ、現れては消えた。


それは学園の理論が教える、鋭く、攻撃的な「放出」の波形とは、全く異質のものだった。それはまるで、穏やかな心臓の鼓動のような、生命そのものが奏でる優しい波形だった。


(……これだ……!)


アシェルは確信した。これは、体内のマナを**他者へ「出す」**感覚。理論では説明できない、全く新しい力の使い方だった。彼女はこの感覚を、まだ適切な言葉で表現することはできなかった。ただ、「譲渡」とでも呼ぶべき、温かな行為であることだけは理解できた。


鉢植えの植物を見ると、先程まで黄色がかっていた葉が、心なしか、少しだけ緑色を取り戻しているように見えた。


「……できた……」

彼女の口から、安堵のため息が漏れた。この力があれば、リアンを、そして他の仲間たちを、本当に救えるかもしれない。


アシェルは、自分の小さな発見に心を躍らせながら、急いで計測器の電源を切り、鉢植えを元の場所に戻した。誰にも見られてはいけない。この力は、まだ誰にも理解されない、危険な秘密なのだ。


彼女が講義室を去った後、誰もいない静寂の中で、簡易計測器の内部記録媒体が、カチリ、と微かな音を立てた。今日の、あの異常な波形のデータは、極めて微小なログとして、確かに機器の記憶領域の片隅に記録されていた。

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