エーテルの時代の幕開け:異邦からの訪問者 "SATUMA"
学園での日々は、静かで、灰色だった。レメディアル・ティアの生徒であるアシェルにとって、試験塔で下された無慈悲な判定は、今なお胸の奥に冷たい澱となって沈んでいた。彼女の住まう寮は、学園の広大な敷地の最も北西の隅、巨大な本校舎が落とす長い影の中に、まるで忘れ去られたかのようにひっそりと建っていた。「灰色の揺りかご」と揶揄されるその建物は、湿った北風が常に吹き付け、石壁は黒ずんだ苔に覆われている。人工的なマナの光しか満足に届かない薄暗い部屋の、鉄格子が嵌められた小さな窓から見える世界は、活気に満ちているはずなのに、どこか硝子一枚を隔てた遠い国の出来事のように感じられた。毎朝聞こえてくる上位ティアの生徒たちの闊達な声も、マギア工房から立ち上る発展の煙も、自分とは無関係な世界の響きと色だった。ここでの一日は、鈍い灰色の光と共に始まり、同じ色の影と共に終わる。
その、淀みきった停滞の空気を、まるで嵐のように破ったのは、遠い東の大陸、大和国からの特別な留学生たちの到着だった。彼らは、畏敬と、そして少々の困惑を込めて、ただ一言、「SATUMA」と呼ばれていた。
その言葉の正確な意味を知る者は、今の大和国にも、そしてこのグランベルクにもほとんどいなかった。学園の図書館で最も博識とされる司書でさえ、「古代の部族名か、あるいは失われた武術流派の名称ではないか」と首を捻るばかりだ。ただ、「古き良き和の国の、荒ぶる武人精神を受け継ぐ者」という、漠然としているが故に強烈なイメージだけが、神話のように一人歩きしていた。神王クラルが五十数年前に大和国の存亡の危機を救ったことで始まった両国の深い交流は、今や恒例となっていたが、その中でも「SATUMA」と称される一団は、毎年、異質で、強烈すぎるほどの個性を放っていた。
その日の午後、学園でも最大級の広さを誇る中央訓練場では、ファウンデーション・ティアの生徒たちが、魔法実技の基礎訓練を受けていた。教官であるマスター・オーガスタスが、魔法陣の正確な幾何学的構成について、金属性の指示棒で宙の図形をなぞりながら、神経質そうに説明している。
「いいかね、諸君。魔法陣の線一本の乱れが、術式全体の崩壊を招くのだ。慎重に、そして知性をもって、正確に描きなさい!」
その時だった。訓練場の隅、他の生徒たちとは明らかに違う出で立ちの一団が、彼ら自身のざわめきと共に、周囲の注目を集め始めていた。
「おい、見ろよ。今年も来たぜ、例の『SATUMA』が」
「うわ、本当だ……。相変わらずすごい格好だな。あれは本当に制服なのか?」
生徒たちの視線の先にいたのは、十数名の東洋的な顔立ちの留学生だった。彼らは、本来であれば寸分の違いもなく着用することが義務付けられている学園の制服を、まるで古着のように着崩し、その上から黒を基調とした、動きやすそうな独自の羽織を無作法に重ねている。しかし、見る者の目を最も奪うのは、彼らが腰に差しているものであった。それは、学園で定められた、宝珠が埋め込まれた正規の魔法の杖ではなく、どう見ても「刀」や「木刀」としか形容できない代物だった。
その一団の中心に、まるで岩のようにどっしりと立っていたのは、一際鋭い眼光を持つ青年、島津ケンシン。まだ十七歳だというのに、その佇まいには歴戦の古強者のような風格と、周囲を寄せ付けない威圧感があった。日に焼けた精悍な肌に、風を受けても微動だにしない短く刈り込んだ黒髪。彼は、他の生徒たちが必死に魔法陣の練習をしているのを、まるで子供のままごとでも見るかのように、腕を組み、あからさまに興味なさそうな表情で眺めていた。
「ケンシンさぁ、こん授業は退屈じゃっど。こげんことすっ暇があったら、早う実戦はなかとけ?」
ケンシンの隣にいた、小柄だが筋肉質で、まるで猿のように敏捷そうな少年、西郷タケルが、独特の訛りが強く混じったグランベルク語でぼやいた。
「待っちょれ、タケル。郷に入っては郷に従え、ちゅうこっちゃ」ケンシンは視線を動かさずに答えたが、その声にも、隠しきれない退屈さが滲んでいた。「親父殿にも言われたろ。『グランベルクのやり方も、一度は見てこい』ち」
「しかし、見てみい。あんなチマチマした細い線ば描きよって、日が暮れるわ。こいは魔法の訓練ちゅうより、女子どものお習字の授業じゃなかか?」
タケルの悪気のない大声に、近くで魔法陣を描いていた女子生徒たちが顔を赤らめて俯いた。オーガスタス教官の額に、太い青筋が浮かんだ。
「――そこの留学生諸君!授業に集中したまえ!」
オーガスタスの、癇癪玉が破裂したかのような金切り声が、訓練場に響き渡った。「そしてその腰に差している物は何だ!再三注意したはずだ!学園で許可されているのは正規の『杖』のみ!そのような野蛮な鉄の棒を訓練場に持ち込むことは、学園の規則に反する!断じて許さん!」
ケンシンは、ゆっくりと、面倒臭そうにオーガスタスの方を向いた。そして、悪びれる様子など微塵も見せずに、腰に差した、使い込まれて黒光りする木刀を、ことん、と鞘から少しだけ抜いて見せた。
「先生さぁ、こいは刀じゃなか。わいらの『杖』でごわす」
その、あまりにも堂々とした主張に、オーガスタスは言葉を失った。「杖……だと?それはどう見ても、樫の木を削って磨いただけの棒ではないか!」
「そうですとも」タケルが続いた。「こん『杖』にマナば込めて、相手ば物理的にぶっ叩くのが、わいらのやり方でごわす。こん国の魔法は、どげんも回りくどくて、いかん」
「ぶっ、ぶっ叩く、だと……?」オーガスタスの顔が、怒りのあまり熟したトマトのように赤く染まった。「魔法とは、繊細で、緻密で、知的な芸術なのだ!そのような蛮族のごとき発想、教育者として断じて許しがたい!よろしい!ならば、その自慢の『杖』とやらで、この最新式の訓練用ゴーレムを停止させてみたまえ!できなければ、その棒切れは没収の上、君たち全員、即刻退学だ!」
教官が震える指で指差したのは、高さ三メートルはあろうかという、最新式の訓練用石造りゴーレムだった。
「しゃあないのぉ……。こういう頭の硬かお人には、実際に見せんことには分からんごつある。おい、タケル、おはんがやれ。ただし、派手に壊すなよ」
「よっしゃ、任せときやんせ!」
タケルは一歩前に出ると、詠唱も魔法陣も完全に無視し、腰の木刀を一気に抜き放った。それは、見事なまでに滑らかな、何十年も使い込まれたであろう樫の古木で作られた年代物だった。彼は、一度深く息を吸い込んだ。訓練場の生徒たちは、彼が一体どのような高等な術式を披露するのかと、固唾を飲んで見守った。
タケルは、ゆっくりと木刀を肩に担ぐように構えた。そして――。
「チェストォォォォォーーーーーッ!!」
獣の咆哮のような、腹の底からの絶叫。それは、後にアシェルも知ることになる、SATUMA特有の「猿叫」と呼ばれる、敵を威嚇し、自らの闘争本能を極限まで高めるための気合の発声だった。次の瞬間、タケルは大地を蹴った。彼の動きは、マナの流れというより、純粋な物理法則の発露だった。風を切り、一直線に、まるで砲弾のようにゴーレムへと突進する。
「な、何を……!?詠唱はどこだ!?」
オーガスタスが呆然とする中、タケルはゴーレムの懐に一瞬で飛び込むと、その硬い石の胴体目掛けて、渾身の力で木刀を叩きつけた。
ゴガァァァンッ!!
木と石がぶつかったとは思えない、凄まじい破壊音が響き渡った。ゴーレムの胸部装甲が、まるで湿気たビスケットのように砕け散り、内部で青白い光を放っていたマナ炉のコアが、完全に剥き出しになる。
「な、馬鹿な……木刀の一撃で、錬金術師ギルド特製の強化石材が……!」オーガスタスが、信じられないといった表情で叫ぶ。
だが、タケルの攻撃はそこで終わらなかった。彼は、間髪入れず、砕けた装甲の隙間から露出したコアに向かって、再び木刀を振り下ろした。今度は、先程の力任せの一撃とは全く異なる、全ての力が先端の一点に凝縮されたかのような、剃刀のように鋭い一撃だった。
「チェストォッ!」
パリン、という、場違いなほど軽い音と共に、マナ炉のコアが、まるで薄いガラス玉のように粉々に砕け散った。力の供給源を完全に失ったゴーレムは、全身の光を失い、関節からきしむ音を立てながら、ガラガラと音を立ててその場に崩れ落ちた。
訓練場は、水を打ったように静まり返った。目の前の、あまりにも非現実的な光景を、誰もが呆然と見つめるだけだった。
「……こんなもんじゃろ」タケルは木刀の先についた石の粉を、ぷ、と息で吹き飛ばすと、まるで散歩でも終えたかのように、何事もなかったかのようにケンシンの元へ戻っていった。
この日、アシェルは「SATUMA」という存在を初めて目の当たりにした。彼女は、レメディアル・ティアの寮の、小さく汚れた窓から、その一部始終を見ていたのだ。魔法の理論や、マナの数値など、この学園が何十年もかけて築き上げてきた絶対的な秩序を、まるで子供の砂遊びを嘲笑うかのように、純粋な気迫と、たった一回の物理的な一撃で覆す存在。彼らが放つ、荒々しくも、どこまでも生命力に満ちた強烈なエーテル。それは、アシェルがこれまで感じてきた、病弱な仲間たちの弱々しい波動とは全く異なる、燃えるような生命の炎そのものだった。
「すごい……」アシェルの心に、初めて憧憬と呼べる感情が芽生えた。数値で測られることのない、規格外の「強さ」。
その日の夕方、底位の寮に戻る、人通りの少ない裏道を歩いていると、アシェルは偶然、SATUMAの一団とすれ違った。
「おう、そこの嬢ちゃん」ケンシンが、ふと、道の隅を俯きがちに歩くアシェルに気づいて声をかけた。「見かけん顔じゃな。新入りか?」
アシェルは驚いて、小さな肩を震わせ、こくりと頷いた。
「……ほう。わっぜえ(すごい)、エーテルが渦巻いちょるな、おはん」ケンシンは、アシェルの周りに漂う、尋常ならざる気配を、生まれ持った武人の本能で見抜いていた。「こりゃあ、面白か。名前は、何ちゅうと?」
「……アシェル、です」と、か細い声で彼女は答えた。それが、アシェルと「SATUMA」との、運命的な最初の出会いであった。
しかし、その鮮烈な出会いも、彼女の日常をすぐに変えるには至らなかった。アシェルが案内されたのは、例の寮の三階にある、四人一部屋の狭い部屋だった。扉を開けた瞬間、埃と、薬草の苦い匂い、そして微かな諦めの空気が混じり合った、独特の匂いが鼻をついた。部屋には、粗末な木製の二段ベッドが二つと、傷だらけの机が一つあるだけ。壁には、かつての住人が書きなぐったであろう「ここから抜け出してやる」という落書きが、薄っすらと残っていた。
「……あ、新入りの子?」
窓際のベッドの上段から、か細い声がかかった。声の主は、アシェルと同い年くらいの少女だった。彼女の名前はリアン。陽の光を浴びていないかのような透き通るほど白い肌に、繊細な銀髪。だがその美しさは、病的な儚さと常に隣り合わせだった。彼女は生まれつき心臓が弱く、十分なマナを体内で練ることができない。激しい運動はもちろん、長い詠唱も彼女の身体には大きな負担となるため、このレメディアル・ティアに配属されたのだ。
「よろしくね。私はリアン。こっちのベッドの上はカイン」
リアンが指差したもう一つのベッドの上段では、顔に火傷の痕跡が残る青年が、膝を抱えて壁に向かって座り込んでいた。彼の名はカイン。かつてはエリート・ティアを嘱望された天才だったが、実験中のマナ暴走事故で親友を失い、自らも深い傷を負った。それ以来、彼は魔法そのものに深い恐怖を抱き、自らの力を封じ込めている。
「……」
カインは何も言わず、アシェルを一瞥しただけだった。その瞳には、癒えることのない罪悪感と、世界への不信が深く刻まれていた。
ベッドの下段には、もう一人、快活そうな見た目とは裏腹に、その目に鋭い光を宿す少年が座っていた。彼は、貧しい鉱山町の出身であるサイラス。才能はあったが、高価な魔導書や杖を買う金がなく、正規の教育を受けられなかったため、基礎訓練不足と判定された。彼は常に、この不公平な階級社会を見返す機会を窺っていた。
「へえ、あんたが噂の『測定不能』ちゃんか」サイラスは、アシェルを値踏みするような視線で見つめながら、皮肉っぽく笑った。「面白いじゃないか。俺たちみたいな『規格外』の吹き溜まりへようこそ」
アシェルは何も答えず、空いているベッドの下段に、なけなしの荷物を置いた。エルダンから貰った古い銅貨を、ぎゅっと握りしめる。ここが、これから数年間を過ごすことになる、彼女の新しい「家」だった。
寮での生活が始まって一ヶ月、アシェルの孤立は深まるばかりだった。原因は、彼女自身が放つ、特異なエーテルの気配にあった。彼女の「吸収体質」は、他者の生命エネルギーを無意識のうちに微量ながら奪ってしまう。それは彼女自身にもまだ完全には制御できない、悲しい宿命だった。彼女が部屋にいるだけで、リアンの呼吸は僅かに苦しくなり、カインのトラウマは刺激され、悪夢にうなされることが増えた。サイラスは彼女の得体の知れない力を警戒し、不用意に近づこうとはしなかった。
食堂でも、アシェルは常に一人だった。彼女がテーブルに着くと、周りの生徒たちが囁き合いながら席を立っていく。
「あの子……なんだか空気が重くなる……」
「そばにいると、力が抜けるような気がするの……」
彼らは悪意からそうしているわけではなかった。ただ、本能的に、アシェルの持つ規格外の力を感じ取り、恐れているのだ。
「……一人の方が、楽だ」アシェルは自分に言い聞かせた。孤独には慣れている。だが、リアンが心配そうにこちらを見つめる視線を感じるたびに、胸の奥がチクリと痛んだ。「ごめんなさい……」と心の中で謝りながら、彼女はいつも一人で食事を終えた。
彼女の唯一の慰めは、あの日以来、寮の窓から遠くに見えるSATUMAたちの訓練を眺めることだった。「おい見ろよ、ケンシンさぁの剣捌き!ありゃあもう芸術じゃ!」「タケル先輩のチェスト、今日はいつもよりキレが良いごわす!」遠くからでも聞こえてくる彼らの活気ある声。学園の理論では説明できない、荒々しくも生命力に満ちたその力。彼らが放つ強烈なエーテルは、この無機質な学園の中で、唯一、アシェルの心を躍らせるものだった。
その視線に、ケンシンは気づいていた。寮の三階の、小さな窓からこちらを見つめる、孤独な少女の存在に。彼は何も言わなかった。だが、その鋭い瞳の奥に、同じ「規格外」の存在に対する、静かな関心が宿り始めていた。「あの子……」ケンシンはタケルの破壊行為を眺めながら、ぽつりと呟いた。「わいらと同じ匂いがすっど」
アシェルが寮生活の閉塞感に絶望しかけた頃、予期せぬ人物が彼女に声をかけた。常に斜に構え、誰とも深く関わろうとしなかったサイラスだった。ある日の夕食後、一人で古い魔導書を読んでいたアシェルの前に、サイラスが音もなく現れた。
「よう、『疫病神』ちゃん」
サイラスの口調は相変わらず皮肉っぽかったが、その目には以前のような侮蔑の色はなかった。代わりに、何かを企むような鋭い光が宿っていた。
「……何か用?」アシェルは本から目を上げずに答えた。
「別に。ただ、あんた、このままここで腐って終わるつもりか?って思っただけだ」サイラスはアシェルの向かいの椅子にどっかりと腰を下ろした。「あんたのその力、ただもんじゃねえだろ」彼は声を潜めた。「おかしな噂、俺の耳にも入ってるぜ。試験塔で、ほんの一瞬、衛兵に触れただけで、計測器が一瞬だけ跳ね上がったってな」
アシェルは驚いて顔を上げた。「見てたの……?」
「まあな」サイラスは肩をすくめた。「俺は俺で、情報を集めるのが得意なんでね。で、どうなんだ?その力、もっと有効に使ってみる気はねえか?」
「有効に……?」
「そうだ。金になる使い方さ」サイラスの瞳が、暗い光を放った。「この学園にはな、表の顔とは別の、裏の顔がある。そこじゃ、ティアなんて関係ねえ。ただ強い奴が、全てを手にできる」
サイラスの言葉は、アシェルの心に、危険で、しかし抗いがたい魅力を持つ、甘い毒のように染み込んでいった。彼が語る「裏の世界」。それは、彼女が初めて自らの意志で選択できる、新しい道なのかもしれない。