同居人(7)二七日②
二七日②
俺は、高山君にいじめられてはいない。今日のように、ふざけて足を引っ掛けられたことはあった。でも、いじめというほどのことではない。
第一、あの頃の高山君は、弱そうな人間には誰にでもちょっかいを出していた。今もそうかもしれないが……。
入学してまずやられたのは、松島君だった。
松島君と高山君は、一年生のとき同じクラスだった。のんびりした性格で、ちょっと人よりテンポが遅く、そこに目をつけられたようだ。
俺と益田君と松島君の三人は、小学校からのゲーム友達だ。
そろって卓球部に入り、クラスが違っても行動を共にすることが多かった。
五月の終わりだった。今日と全く同じシチュエーションで、三人一緒に通り抜けをした。その時は俺が足を引っ掛けられて、転んだ拍子にズボンのひざが擦り切れた。もっとも、俺が狙われたわけではない。彼に一番近かった、それだけだ。
母さんに破れたズボンを見せると、まず、「誰にやられたの」と聞いた。
俺は、「自分で転んだ」と答えた。
母さんは、「ドジ」と笑った。
それから、高山君には近づかないよう気をつけた。
でも、松島君は同じクラスだし、そうはいかないところもあったようだ。
パシられたり、小突かれたり、物を隠されたり……。でも、松島君は笑っていた。俺や益田君に訴えに来たこともない。だから、嫌がっていたのかどうか、あれはいじめだったのかどうか、俺には判らない。
ただ、俺が嫌だった。それを見るのが嫌だった。助けることのできない自分が嫌だった。次は自分かもしれないと考えるのが、もっと嫌だった。
『それで、逃げたんだ』
そうかもしれない。
だからと言って、学校に行かなくなったのはそれが原因とは思えない。
じゃあ、何が。と聞かれたら、本気で困るけど。
勉強したくなかった。これが一番近いだろう。
『それじゃあ、ただの怠けでしょ』
おっしゃる通りです。
でも、俺は思ってしまったんだ。
なんで、みんなで同じ部屋に入って同じ方向を向いて同じ事を勉強しなくちゃいけないのか、て。
理由は分からないし、誰かに聞くこともしなかった。
『真っ当な疑問だけど、周りから見ると怠け者の言い訳にしか聞こえないよ』
確かにね。おっしゃる通りなんでしょう。
『だからぁ、運動しなきゃね』
だからって、何でテニスなんだ?
『やっぱり、一度始めたことは最後まで遣り遂げなきゃね』
社会人向けテニススクール。
三年前、新任校でテニス部の副顧問を命じられた母さんは、テニスを習い始めた。生徒に負けるのが悔しいから、とか言っていたように記憶する。
毎週金曜日、夜七時三十分から九時まで。結構熱心に通っていた。
ところが、その年の夏、おばあちゃんが入院してそれどころじゃなくなった。その時はすぐに退院したけれど、冬の初めに再入院し、三月に亡くなった。
四月、俺が中学に入学したとき、「クラブはテニス部にしようよ」と盛んに声をかけてきて、ちょっと心が揺らいだ。が、大会で、母さんが俺を見つけたときどういう反応をするか想像したとき、背中がぞわっとしたので止めた。かといって、団体競技はやりたくないし、陸上部で走るなんてとんでもない。文化部という手もあったが、どこも女子部員ばかりで敷居が高かった。それで、益田君に誘われるまま卓球部に入った。
おばあちゃんが亡くなって、バタついていた家族が落ち着いたころ、待っていたように母さんはテニスを復活した。その矢先、今度は俺が学校に行かなくなって、結局やめてしまった。
『面白くなり始めた頃にやめたから、もう一度やり直したいのよ』
なんて格好の良いことを言うけど、行ってみて分かった。
テニスのコーチは、ライダーシリーズの主役を張りそうなイケ面だった。
まさかのコーチ目当て?
母さんぐらいのおばさんたちが、キャッキャ言って教えてもらっている。
母さんも、あんなだったのだろうか。息子として、複雑。
父さんは、若い頃スポーツマンだったらしい。反して、母さんは運動音痴の文学少女だったとか。で、父さんに憧れて結婚したらしいけど、今の二人からは想像できない話だ。それくらい、父さんは出不精でおなかが出っ張ってるし、母さんは元気溌剌だった。死んでなお。
時の流れって、残酷だな。
気になるコーチの指導は、親切丁寧、しかも分かりやすい。
何より、自分自身が教えるのを楽しんでいるというか、テニスって楽しいよね、という気持ちがすごく伝わってきて、他のおばさんが教えてもらっているのを見ているだけで自分もできそうな気がする。ましてや、手取り足取り直接指導してもらうと、初心者の俺でもすぐに上達しそうな錯覚に陥る。
もしかしたら、母さんは色恋抜きで、本気でテニスを楽しんでいたのかもしれない。何しろ、好奇心旺盛な人だったから。
そう、思いたい。息子として……。
休憩のとき、コーチがわざわざ傍に来て話し掛けてくれた。
「お母さんのこと、大変だったね。寂しくなっただろう」
その言い方が、先生も寂しがってくれているようで、ちょっとほろっときそうになった。
あんまりいい人だから、何も言わずにいるのは失礼だと思った。それで、一生懸命言葉を探した。
「お母さんって、どんな生徒でしたか」
俺の問いに、先生は爽やかに笑った。
「とても熱心ないい生徒さんでしたよ」
「上手だったんですか」
その問いにも、先生は爽やかに笑った。
「あんなに上達しない人も珍しかったね」
間髪いれずに、母さんがつぶやいた。
「ほっといて」
先生は「えっ」と俺の顔を見た。慌てて首を横に振る。
俺は何も知りません。
土曜日、学校は休みだ。
それなのに、俺は朝から起きていた。
しかも、新聞を読んでいた。もちろん、俺が読んでいるわけじゃない。母さんが勝手に読んでいるのだ。
洗濯機がピーと鳴ると、中身を出して干す。
それが終わると、掃除機を出して、家中かけて回る。
『これがすんだら、次は勉強するからね』
「やめてくれ。頭が変になる」
『大丈夫。家の手伝いして頭が変になった人なんて、聞いたことないから』
「そういう問題じゃない。俺はやりたくない」
『こんな楽しいこと』
俺は抵抗を試みるが、自分の身体なのに思うように動かせない。
なぜ、身体は母さんの言うことを聞くのだ?
『意志の弱い男だ』
母さんは鼻で笑って、俺の身体を自由気ままに扱う。
そして俺は、二年間避けていた勉強をさせられる。
母さんはご丁寧にも、一年生のワークを取っていて、途中までやっているその続きを埋めていく。ものすごい速さで埋めていく。
しかも、ただ問題を解くだけではない。
声を出して読み、声に出して答えを書いていく。
「静かにやれないのか」
『日本人は、日本語を声に出して読むときに、一番脳が活性化されるんだ』
「俺の脳なんだから、ほっといてくれよ」
『だめだよ。もう、私の脳なんだから』
そうして、俺は負ける。
本当に、このまま乗っ取られてしまうかもしれない。
そうなったら、俺はどうなるんだろう?