同居人(3)初七日②
初七日②
とにかく、誰もいないところへ行きたかった。
で、トイレしか思いつかなかった。
個室に入ってカギをかけると、大きく息をついた。こんなに走ったのは久しぶりだ。
「だから、何だって」
『この身体もらって、人生やり直すから』
やっぱり聞き間違いじゃなかったようだ。
「どういうことさ」
『君、あの朝のこと、覚えてないの?』
忘れるわけが無い。
あの朝、母さんが死んだ日の朝、俺たちはけんかをした。
原因は、きっと寝不足だ。
空が明るくなってきた頃だった。
ようやく眠くなった俺は、ゲームを保存しスイッチを切った。その時、階段を下りる足音がして、母さんが部屋のふすまを開けた。
「まだ起きてたの?」少しとがった声だった。
「これから寝るところです。母さんこそ、こんな時間にどうしたの?」
「最後だし、ちょっと早く行こうかなって」
俺は、つい事実を指摘してしまった。
「本当は眠れなかったんだろう? 夜中に何度もトイレに行ってたし。行事の前の日は眠れないなんて、小学生かよ」
いつもなら、母さんはからっと笑い飛ばしただろう。けれど、その朝はせせら笑いが返って来た。
「余計なお世話よ。それより、寝なくていいからこのまま起きてなさい。明日から早く起こす予定だったし、丁度いいわ」
ムカついた俺は、
「そんなことのために仕事辞めるのか。生活苦しくなるってのに」と、毒づいた。
母さんは、逆切れした。
「歩夢がちゃんと朝起きてくれたら、辞めようなんて思わなかったわ」
昨日までは「辞めたら何をしようか」と楽しそうに話していたくせに、今更、そんなことを言うか? 俺も切れた。
「辞めたくないなら、辞めなきゃよかったんだ。俺は頼んでない」
責任を擦り付けられるのはごめんだ。
父さんと母さんが、俺の生活リズムが狂わないよう一生懸命だったのは知っている。
朝が来るとカーテンを開け、日光を浴びせられた。夜はとにかくベッドに追い立てられた。そのおかげで、去年までは何とかなっていた。
けれど、年を越えて狂い始めた生活は、今や完全に昼夜逆転状態だった。
「朝起きる生活をしなきゃ、復帰したとき困るでしょ」
「復帰? 学校に行く気はない」
「何言ってんの。だいたい、成長期の、人生で一番素晴らしい時期を、家に引きこもって無駄にして、もったいない」
「どうだっていいだろ。俺の人生だし」
「私だったら、もっといろいろ、何でも挑戦するのに。そうよ、やりたいことは一杯あるのに時間がないのよ。そんなに時間を無駄にするなら、お母さんと代わってちょうだい」
そんな言い合いをした。
ほんの十分ほどの間に、もっとたくさんのことを言い合った。
そして、俺の最後の言葉は、「もう、帰ってくるな」だった。
でも、母さんは、
「何、偉そうに言ってんの。ここは私の家だから、出て行くのは君の方だ」
と、怒鳴り捨てて仕事に行った。
だから、絶対戻ってくるはずだ。母さんは、そういう人だ。
そう思っていた。
そして、家には、死体が戻ってきた。
で、魂は幽霊になって、俺の中に戻って来た?
「母さんが、私だったらもっと人生楽しむよ、みたいなこと言って、俺と……」
『代わってちょうだい、って言ったでしょ』
確かに。
「でも、だからって、こんなの有りか」
『何でも有りよ』
母さんが、確かに、にまーっと笑った。目には見えないことでも脳裏に映る、ということは、実際あるのだ。
『母さん、やりたいことがいっぱいあるのよね』
夢見るようにつぶやく。
『大人になると、自分の時間なんて、ほんと、無いし』
歌うようにささやく。
『それに、今度生まれるときは男がいいなあ、なんて、昔から思ってたし』
「だからって、こんなの無いよ」
『あるよ』
間髪入れずに答えが来る。余裕綽々といった声音にこちらが焦る。
とにかく、
「俺の身体だから、とっとと出て行ってくれよな」
『ふん。私に対抗しようっていうの』
負けるかもしれない……。
腕力や体力ならともかく、言い合いや議論で母さんに勝ったことがない。何しろ相手は数学教師で、曰く、理屈で飯食ってる人間だ。
それに、相手は今、身体がない。だから、力勝負ができない。力で追い出すことができないものを、どうやって追い出したらいいのだろう。
チャイムが鳴って、みんなが給食の用意を始めた。
俺は給食なんか食べずに早退したかった。けれど、母さんは嬉しそうに、
『今日はハンバーグだよ』と、勝手に教室に戻っていく。
仕方なくついていく。もちろん、この表現はおかしい。けれど、気分的には「ついていく」だ。
教室に戻ると、当然のように一瞬空気が凍り、みんなが俺を見た。そして、申し合わせたようにまたおしゃべりが始まり、みんなは俺を無視した。とは言え、ちらりちらりとこちらの様子をうかがっているのが分かる。
まるで、いじめだ。
しかし、母さんは平気だ。気づいていないのか、知ってて知らんぷりなのか、うれしそうにトレーを持って並んでいる。
「野菜、大盛りで」
なんて、注文付けるなよ。俺だってマセドアンサラダは好きだよ。でも、恥ずかしいじゃないか。みんなが残しているのに食べるのは。
給食というのは、ビミョーだ。
ヒエラルキーの高い人間が「まずい」と声高に宣言したものは、食べにくい空気ができてしまう。このクラスでは、マセドアンサラダがそのようだった。
給食を食べているとき、この間の夕食のことを思い出した。
『お兄ちゃんは、どうだったの』
もしかして……。
口の中のご飯をのみ込み、ささやく。
「俺は昨日も学校へ来たのか?」
『もちろん。新学期になって毎日来てるよ。て、まだ三日目だけどね』
やっぱり。
舞のあの言葉は、俺の学校での様子を聞きたかったんだ。
俺は、教室の壁に掲げられた行事黒板を見た。そこには、今週の予定が書いてある。
月曜 始業式・学校は午前中のみ
火曜 五時間授業・夏休みの宿題テスト
水曜
木曜
金曜 体位測定。
その隣には、今日の予定欄がある。
一限 数学 テストはまだ返せません・教科書用意
二限 国語 いつもどおり
三限 道徳 教科書とノート
四限 英語 テスト返し・教科書も
五限 体育 体育祭の練習
六限
六限がないのは、きっと職員会議があるからだろう。
だんだんつじつまが合ってきた。
「で、いつからそこにいるの」
『はあ?』
「だから、いつ来たの」
『ああ、お通夜の夜だよ』
「通夜の夜?」
『入ってしばらくの間上手く順応できなくて、君の意識が飛んだはず。まあ、そこは母さんがうまいことやっといたから安心してね。でも、今の状態はちょっと心配だよ』
言っている意味がよく分からない。
『母さんは君の頭に直接話し掛けてるから、他の人には母さんの声は聞こえてないんだ。でも、君は声に出してしゃべってるからね、一人で』
つまり、俺は電波系よろしく一人つぶやいているわけだ。どうりで、周囲の目が痛い。
まあ、母さんの声が周りに聞こえていたら、もっと怖いかもしれない。
どっちにしろ、傍から見て俺は変人だ。