同居人(19)五七日②
五七日②
五時間目、俺は脳内で母さんと会話した。正確に言うと、苦言を呈した。
『何で、いつもいつも、トラブルになるようなことばかり言うんだ』
『トラブル? 何か変なこと言ったっけ?』
『真里菜のことだよ。あんな言い方したら誤解されるだろう』
『そう、かな?』
『この体を使うのなら、男だってこと自覚してくれよ。第一、男になってみたかったんだろ』
「坂下君、聞こえてますか」
いきなり大きな声で呼ばれて、背筋を伸ばす。
「は、は、はい」
「次のところ、読んで下さい」
クスクス笑いの中、渋々立つ。
どこを読むのか、俺には全く分からない。が、母さんは読み始めた。どうやらそこで合っているようで、笑い声は収まった。俺と会話していたのに、彼女は先生の声も聞いていたらしい。聖徳太子か?
読み終えて席に着くなり、母さんの反撃が始まった。
『でも、真里菜ちゃんの髪がふわふわして天使みたいだ、て言ったのは、キミだよ』
『はあ?』
『幼稚園のとき』
『覚えてねーよ』
『覚えてるよ、ちゃんと。あのね、言っとくけど、母さん、真里菜ちゃんに会ったのは今日が初めてだよ』
『嘘だろ』
『本当。だって、うちには男子しか遊びに来なかったよ。だから、男の子は結構知ってるけど、女の子は近所の子しか知らないよ』
『じゃあ、さっきは何で』
『キミがそう思ってたから、代弁してあげたんだよ』
『いらねーよ。第一、かわいいなんて言ってない』
『言ったよ。幼稚園の時。一番かわいい子は誰って聞いたら、まりなちゃんって』
『それ、川口真梨奈だろ。さっきのは川内真里菜』
『えっ。別人?』
『名前は似てるしどっちも天パーだ。けど、全く別!』
川口真梨奈は、私立に行った。顔も良かったけど、頭も良かった。高嶺の花だ。男はみんな彼女に恋していた。
川内真里菜は、どちらかというと目立たない存在だった。身長も小さくて、いつもおどおどしていて、肉食獣を恐れて草の陰に潜んでいる小動物(あえて言うなら齧歯類かな)、そんな雰囲気だった。それはそれでかわいらしかったけど、俺の好みではなかった。
どっちにせよ釘を刺しておこうと、俺は強気に出た。
『大体、母さんは思ったことを口にしすぎだ。昔はそれでも良かったかも知れないけど、現代っ子はストレス抱えてるんだ。トラブルの元だよ』
『そんな、大げさな』
『いーや。分かってない』
ここぞとばかりにたたみかける。
『俺も舞も父さんに似て、中途半端な天パーだろ。だから分かるけど、これって結構コンプレックスだよ。特に女子は。最近はストレートが流行ってるから、それだけで美人の枠から外れる。真里菜だって、きっと、ストパーをかけて変わりたかったんだよ。それなのに、すごく失礼だろ』
ちょっと落ち込むのが見えた気がした。いい気味だ。
真里菜事件は、さほどインパクトがなかったらしく、特に噂にならなかった。
俺はほっと胸をなで下ろした。
ただ次の日からシューに会いに来なくなって、それがなんだか申し訳なかった。
ところが、話は終わったわけではなかった。
放課後、玄関を出た途端、「お前が坂下か」と、知らない男子に呼び止められた。
「ちょっと、顔貸せや」
嫌な予感しかないが、一緒にいた二人にはさまれて、体育館の陰にある自転車置き場に連れてこられた。なにしろ、三人とも俺よりずっと背が高くて筋肉質だ。逃げられそうにない。
中で一番ガタイがでかい、一見ゴリラ風の(顔はそうでもない)男が口火を切った。
「お前、真里菜にちょっかい出したそうだけど、どういうつもりだ」
どう切り返そうか、迷っているうちに母さんが答えた。
「その前に、君は誰? 名前を名乗るのが礼儀だろう」
毅然とした口調に、相手は少したじろいだ。が、すぐ胸を反らせた。
「名前なんてどうでも良いだろう」
「良いことはないが、知りたいわけでもないから良いか」
良いのか悪いのか、どっちだよ。と、突っ込みたくなる。が、我慢。
「もしかして、川内さんの彼氏?」
そいつは、ちょっと照れたような素振りで、格好つけて髪をかき上げた。
「分かってるなら話は早い。はっきり言っとくけど、あいつに手を出すとどうなるか」
言いながら、ぐいぐい、ごりごり、体を寄せてくる。後ずさって壁に追い詰められて、泣きたい気分なのに、母さんときたら『体育会系の男はやっぱり臭いなあ』なんて緊張感のない。
『母さんのまいた種だからね』
『君はどうしたいの』
『逃げたいに決まってるだろ』
俺が母さんと話してる間、当然のことながら筋肉質の相手はできなかった。
「お前なあ、話聞いてんのか」
火に油を注いでしまったようだ。
それなのに、胸ぐらを捕まれた母さんの答えは、
「君は、真里菜ちゃんがかわいいとは思わないのか?」
だった。
「思ってるに決まってるだろう」
「僕もそう思ったから言っただけだ。別に好きとか、そんなことは思ってないし言ってもない。第一、自分の彼女がかわいいと褒められたんだから喜ぶべきだよ」
「はあ? 何、訳の分からないことを」
筋肉質は、目をむいた。しかし、母さんは冷静だ。
「君たちの仲がしっかりしているなら、僕の存在なんて気にする必要も無いと思うけど」
どうやら地雷を踏んだようだ。
「なめてんじゃねーぞ」と腕を振り上げた。
突然、猫が鳴き出した。しかも、火の付いたように激しく。
筋肉質は、ちょっとひるんだ。首が少し楽になる。
母さんは、バスケットを持っていない方の手で彼の手首を握ると、そっと自分のシャツから離した。そのまま静かに手を下ろす。抵抗はなかった。
「真里菜ちゃんは、この猫に会いに来てるだけだ。僕とは無関係だよ」
体を離し、壁際からするりと抜ける。後ろは振り向かず、しかし背後に意識を集中したまま歩き出す。歩き、歩き、校門を出た途端、走り出した。
桜並木を駆け抜け、横断歩道を点滅信号で渡り、ようやく息をついた。
『怖かった』
母さんの言葉に、思わず吹き出す。
『なんだ、母さんもビビってたんだ。めっちゃ強がってたくせに』
『だって、あいつゴリゴリ押してきて……。そうだ。「ごり押しゴリラ」と命名しよう』
『それ、絶対口にするなよ。ていうか、教師がそんなあだ名つけていいのか?』
『もう教師じゃないからいいのだ』
『ったく。シューに助けられたから良かったものの……』
二人で笑いながら歩く。傍目には、絶対変人だ。
木曜の夜、いつものように仏壇の前に勢揃いする。ろうそくに火をつけて、線香を供えて、リンを鳴らして、お経を唱える。終わったらお寺さんにお茶を出して、まんじゅうを食べて、終わる。
しかし、その夜はちょっと違った。お寺さんがシューを見たいと言ったのだ。
リビングに置いてあった段ボールを持ってくる。持ち上げるとき、何か違和感を感じて中をのぞき込む。が、正体が分からず仏間に運ぶ。
「やあ、この子がシューちゃんですか」
お寺さんの細い目が更に細くなり、丸い頬は一層親しみを増した。
「かわいいでしょう」
舞が声を上げたそのとき、シューが起き上がって動き出した。
「歩いた!」
一斉に声が上がった。
そうか。俺の感じた違和感、シューの位置だ。お勤めの前には箱の真ん中に居たはずが、今、箱の角に身を潜めている。これまでも寝返りを打ったり這いずったりすることはあったが、こんな長い距離の移動は初めてだった。
小さな頭を重そうに持ち上げて、小刻みに震えるように足を運ぶ。二、三歩歩いて、へたる。頑張れ、思わず声が出る。
八つの温かい眼差しを受け、シューはよろよろと歩む。
お寺さんがうれしそうに手を叩いた。
「お母さんが亡くなって大変ですが、この猫が良い風を運んできてくれたみたいですね」
唐突に、舞が言った。
「ねえねえ、シューってさあ、お母さんの生まれ変わりだったりして」
俺と母さんは、同時に即答した。
「違います」
お寺さんは、声を上げて笑った。
父さんも舞も、俺も笑った。母さんも密かに笑った。
生まれ変わりだったら、どんなにうれしいか。
そしたら、俺の脳は、俺だけのものだ。