同居人(18)五七日①
五七日①
今日も相談室は女子でいっぱいだ。そのほとんどは、名前の知らない下級生だ。
「ねえ、シュー君、目が開いているんじゃない?」
「体も大きくなってきたね」
「初めの二倍くらいはありそうね」
猫かわいがりとはこのことだろう。みんな触りたがって、でも小さすぎて指先でなでるぐらいで収まっている。
と、一人の子が驚いた声を上げた。
「あれ、ここハゲてるよ」
「えっ」
みんな一斉にのぞき込む。確かに、背中の首の付け根が小さく丸くハゲている。
よく見ると、ハゲは一カ所じゃなかった。
「これ、病気じゃないの」
女の子の手が引っ込む。気持ち悪そうに手のひらを見たあと、水を飛ばすように手を振った。
「円形脱毛症?」
「じゃあ、ストレス?」
俺はみんなを安心させたくて、わざと明るい口調で言う。
「明日、病院に行く日だから、ついでに見てもらうよ」
みんながほっとしたように笑う。一番ほっとしたのは俺かもしれない。
土曜日、俺はまた自転車をこいで獣医に走った。
シューを拾ってちょうど一週間だ。
バスケットの中には、シューの他に、今朝したばかりのウンチを包んだティッシュを入れたポリ袋も入ってある。
受付で診察券と一緒にウンチを出す。
「名前はシューにしました」
受付嬢は、にっこりとウンチを受け取る。きれいな笑顔で、なんだか申し訳ない。
シューのハゲは、「感染症でしょう」とのこと。
「生まれた場所で感染していた可能性が高いですね」
そう言って、飲み薬と猫用シャンプーを処方してくれた。
飲み薬は一日一回。食事は関係ないらしい。写真入の『薬の飲ませ方』説明書もくれた。
シャンプーは、一日一回一目盛り。
「無くなる頃には治ってますよ。一週間後にもう一度連れてきて下さい」
そのときには、検便の結果も分かるらしい。
薬の飲ませ方は、
①片方の手で頭を上から持ち、上を向かせる。
②もう一方の手に薬を持ち、口を開ける。
③舌の付け根に薬を落とし、素早く口を閉じる。
と、いかにも簡単そうだ。
ところが、実際やってみると、口が小さくて奥まで入ったかどうか分からない。それでも、喉がくっと動いて呑み込んだことが確認できた。
シャンプーは、もっと大変だった。
本に載っているモデルネコは、成猫だ。きちんと座っている。でも、シューはまだ座れない。仕方がないので、手のひらに乗せ、泡立てたシャンプーを指先で撫でつけていく。効果を出すためには、どんな方法で、どれくらいやれば良いのか、見当がつかない。
すすぎもそうだ。手桶で恐る恐る水をかける。泡が落ちたように見えても、ちょっと撫でるとまだ残っている。どれだけすすげば良いのか、キリはあるのか。水をかけすぎて死んだりしないのか。恐ろしく不安だらけだ。
助かったのは、シューが何も分からない赤ちゃんだったことだ。シャンプーまみれにされても水をかけられても、されるがまま。
「賢いねー」
母さんが猫なで声を出したけど、俺も同感だった。
濡れた子猫をタオルでくるんで水気を切って、ドライヤーで乾かす。これも、どこまでやるかが分からない。
ところが、日を重ねるうちに、風が当たると体をくねらせ、逃げようともがきだすようになった。明らかに嫌がっている。風を緩くしたりクールにしたりしても、大して変わらない。
ネットで調べると、ペーパータオルが良いらしいとあった。早速使う。けれど、完全に水気が取れるわけでない。あとは自然乾燥だ。
『風邪引かないかな』
母さんの不安が伝わってくる。
『まだまだ暑いから、大丈夫だろう』
そうは言ったものの、本当は俺も不安だった。
シューが来て、緩やかに周囲が変わっていく。
学校はもちろん、家の中も空気が動き出した。
例えば、日曜の午後、舞が友だちを連れてきた。全く、久しぶりだ。
「かわいいでしょう」
「ホント。かわいい」
ひとしきり猫で遊んで笑っている。
こんなに小さな一匹の猫が柔らかな風になって、澱んだ空気を押し流してしまった。
或いは、朝の教室。
「おはよう」と母さんが声を上げて入って行ったとき、小さな「おはよう」がまた返って来くるようになった。
もちろん、落ちていた消しゴムを拾って渡そうとすると大げさに奪い取っていく女子もいるにはいたが、それについていく雰囲気が幾分和らいできた。
かく言う俺も、猫中心の生活になっているのに気づく。ミルクにウンチ、ミルクにおしっこ、夜になったらミルクプラス薬にシャンプー。時間を気にして、様子を伺って、母さんに言われる前に動いている。
有り得ない。でも、有り得てる。
そして、「いじめ記録ノート」。
俺も母さんも、その存在をすっかり忘れていた。本立てから数学のノートを引っ張り出した際一緒に出てきて、二人して固まった。
母さんは「戦わずして勝つ」と言って威張ったけれど、制したのはシューだ。
それにしても、あの日、もし俺が死んでいたら……、そして、その後このノートが発見されたなら……。
そう考えたとき、本当に「死なないで良かった」と思えた。なぜなら、俺が死のうと考えた原因は母さんなのに、周りはイジメのためと誤解するからだ。そしたらどんな騒ぎになっていたことか、考えただけで恐ろしい。
もちろん、メモのページは破いて捨ててしまった。
シューを見に来る女の子の中に、三年女子も混じるようになった。
その中に、見覚えはあるが名前を思い出せない子が一人いて、どうも気になる。
(たぶん、小学校の同級生だよな)
と、母さんが察して動き出した。
「キミ、名前は?」
『こら、やめんか』
心で怒鳴りつけても、後の祭りだ。
「川内真里菜だよ。忘れたの」
「えっ。天パーの?」
思わず声がひっくり返ってあせった。
よく見ると、小学生のときの面影がある。が、髪が、あのくるくる髪がストレートになっているのだ。そのせいで、ちっちゃい顔がますますちっちゃくなっている。(ついでに言うと、背もちっちゃい)
前の髪型の方がよかったのに。というのは、考えてはいけないことだった。
母さんが、また、暴言を吐いた。
「何で、ストパーなんかかけたんだ。天使みたいにきれいな髪の毛だったのに」
天パーの、いや、今やストパーの真里菜は真っ赤になった。
周りもみんなこっちを見ている。
これって、めっちゃやばい。でも、母さんは気がつかない。
「ふわふわして可愛かったのに、いでっ!」
俺は、自分で自分を殴った。
涙で潤んだ目に、みんなの唖然とした表情がにじんだ。びっくりして、後ずさっている奴もいる。完全に、頭が変に思われている。
予冷が鳴ったから救われたものの、明日からのことを考えると憂鬱だった