同居人(17)四七日⑥
四七日⑥
そして、去年の夏、北海道に旅行した時のことを思い出した。
俺が引きこもっているのを恐れたのだろう、出不精の父さんがどこかに行こうと言いだした。どこに行きたいと問われ、北海道と答えた。毎日せまい家の中ばかりで、だから広い場所に行きたかった。
どこまでも続くような広い畑を、見たこともない大きな、大きなトラクターが耕していた。車から降りて見つめていると、近づいてきたトラクターも止まって写真を撮らせてくれた
札幌ではバスに乗った。京都のように一条、二条と街が区画されているのを初めて知った。けれど、それが四十条を超えたとき、どこまで続くのかと恐ろしくもあり、うんざりもした。母さんと舞は、素直に喜んでいたが……。
でも、一番記憶に残っているのは、熱気球に乗ったこと。乗ってどこかへ移動したわけじゃない。上がって降りる、それだけだ。けれど、そこから見た広い大地は、こんな世界もあるのだと、俺の知らない世界はまだまだ広いのだと、はっきり教えてくれた。
あの三日間は、確かに幸せだった。
けれど、今年の五月、俺は修学旅行に行かなかった。母さんはがっかりしていた。不登校の子でも、修学旅行だけは参加する生徒が多いそうだ。
もしかしたら、仕事を辞めようと決めたのは、あれが原因かも知れない。
夏の初め、いきなり母さんが「仕事辞めるわ」と言い出した。
「歩夢も中三だし、進路を考えなきゃいけないでしょ」と。
父さんは、「これからお金がかかるから」と反対した。
俺がニートの引きこもりになったら、どれだけお金がかかるか分からないと。
引きこもりは、高校や大学へ進学するより金がかかるのだろうか。入学金やら授業料やら、塾の費用だってバカにならないはずだ。
でも、働かなければ入るものもない。出るばかりでは困るだろう。
仕事を辞めたからって、俺が学校へ行くわけじゃないのに。
そして、仕事を辞める前に、人生を止めてしまう羽目になった。
ホントに、バカな母さんだ。俺なんかのために。
俺なんかのため……。
胸がむかむかしてきた。
ずっと、つっかえてきた思い。聞くなら今かもしれない。
『母さんさ、どうして死んだの?』
『どうしてって、自動車事故だよ。知ってるでしょ』
『そうじゃなくて』
俺の心臓は、かなり速くなっていた。
俺の知っている限り、母さんはかなりの安全運転だ。まあ、単にスピードが出せないだけだけど。それなのに、事故ったとき、ガードレールを突き破るくらいスピードを出していたのだ。
『事故の原因だよ』
『あーあ、それ。鹿だよ』
『はっ? 鹿?』
『うん。カーブ曲がってアクセルに踏み直した直後だよ。鹿が飛び出してきて、ハンドル切り損なうわ、アクセル踏み込んでしまうわ、散々だったよ』
『な、何だよ。それ』
『自分でもヘマしたなあって、呆れるよ。全く』
『鹿なんか轢いちまえばよかったのに』
『あー、無理無理。知ってる? 鹿にぶつかったら軽自動車なんかぺちゃんこだって。でも、当てられた鹿は平気で逃げて行くって。ぶつかった人はみんな言うよ』
『だからって』
『鹿って、でっかいよぉ』
胸の奥でつっかえていた塊がすとんと落ちて、体の力が抜けていく。
あの日、俺たちはケンカした。
「帰って来るな」と言ってしまった。
そして、スピードの出しすぎ。
俺は、ずっと、自分のせいだと思っていた。
『ごめん……』
『何が?』
『いろいろ』
『何か分かんないけど、今、体使わせてもらってるし、帳消しにしておくわ』
『うん。ありがとう』
家について、まず、シューの様子を見た。
こちらの心配をよそに、よく眠っていた。
指先で、背中をなでる。小さな耳が震える。
『ネコは良いなあ』
『全く』
『こいつ、育つかな』
『育つでしょ』
『病院代、高かったね』
『全く。生きるためには金も必要だ』
『ないと、やっぱり不幸かな』
『そうだねぇ……』
『旅行も行けないしね』
『そうだねぇ……。九州に行きたかったなあ』
『いつでもいけるだろう』
『そうだねぇ……。この身体、自由に使ってよい約束だし』
『そう言えば、そんなこと言ったかな……』
『えー。忘れたのぉ?』
『えーっと。まあ……』
シューが来てからというもの、毎日が目まぐるしく変化して、すっかり忘れていた。
母さんはちょっと笑った後、しみじみと言った。
『そのためには、たっきの道を見つけなきゃね』
聞いたことのない言葉に、戸惑う。
『「たっき」って、何さ』
『自分で調べよう』
『じゃあ、もういい』
『ったく』
母さんは、めんどうくさそうに立ち上がった。
学校用の小さい国語辞典には載っていなくて、おばあちゃんが使っていた、重くて分厚い辞書を引っ張り出す。
『たつき』は、ひらがなだった。
意味は、
①たより、よるべ
②手段、てだて
③生活の手段、生計
『「たっき」じゃないよ』
『小さいことは気にしない』
『要するに、生きていくための手段か。仕事って言えよ』
かすかな笑い声が響く。
『そう言えば、母さんはどうして教師になったの』
『あー、生徒によく聞かれるね。新学年の自己紹介とかで、質問ありませんかって聞くと必ず出るよね』
『あ、そう。答えたくないならいいです』
真面目に聞いているのにすぐ茶化す。
『本当のこと言うと、教師になる気はさらさらなかった。子供なんて好きじゃなかったしね』
『好きじゃないのになったの? それって、子供が可哀そうじゃない?』
母さんは『嫌いなままならね』と笑った。
『大学生の時、ボランティアで小学校に行ったらめっちゃ可愛いくて。で、気づいた。好きじゃなかったのは自分が子供だったからだ、て』
『ふーん。結構、文句言ってたように記憶してるけどな』
『そうだね。忙しかったし、しんどかったし、超ブラックだったし。まあ、教師の仕事って終わりがないからね』
『どういうこと?』
『子供は一人ひとり違うから、より良い方法を探していたらきりがないってこと。人はどこまでも未完だし、夢なんて変わるものだし、やりたいことがあればいくつになっても始められるし。そのための力をつけるのが学校の役割かなー、なんて』
真面目に終わるのが恥ずかしいのか、最後は茶化したように笑う。
『君が学校という道を選べないなら仕方ない。でも、一人で食べていくためのたっきの道を探しなさい』
一年生の頃は考えられなかった、将来。今なら、考えてみても良いかもしれない。
今からでもなれる何かがあるのか、本当に遅くないのか。
父さんと舞が帰ってきた。
「お帰り」
声に出して、初めて気づいた。
俺は今日、声に出さずに母さんと会話した。
これで、電波系卒業だ。
うれしくて、ひとりでに笑いがこぼれる。
『何もないのに笑ってたら、やっぱり変な人だぞ』
母さんがささやいたけど、気にならなかった。