同居人(14)四七日③
四七日③
受付で、名前を聞かれた。
「坂下勝美、じゃなくて、歩夢です」
「メスがカツミちゃんで、オスがアユムくんですね」
「えっと、ネコじゃなくて僕の名前です」
受付嬢が声を殺して笑う。えくぼがかわいい。
「じゃあ、ネコちゃんのお名前を教えて下さい。診察券を作りますので」
「今日拾ったばかりで、名前はまだありません」
「それでは仮名にしておきますから、次に来たとき教えて下さい」
がっしりした若い男前の獣医さんは、診察台の上でネコを転がすようにして調べた。診察台は体重計にもなっていて、スイッチ一つでネコの重さが出てきた。
獣医さんが調べている間、母さんは、拾ったときの状況や家での応急処置を話した。
最後に、恐る恐る付け加えた。
「これ、拉致ですか」
獣医さんは、チラリとこちらを見て、穏やかに言った。
「いえ、保護です」
その一言で、母さんの意識がバラ色になった。
二匹の様子を見終わった後、彼は厳しい口調で言った。
「ずいぶん衰弱していますね」
「助かりますか」
俺の中で、母さんがあせっているのが分かる。
「黒はもうダメでしょう。トラはミルクが飲めれば助かる可能性はあります」
「牛乳を少し飲みました」
「牛乳はダメですよ。牛は草食ですから、ネコの乳と成分が全然違います。水分補給にはなっても栄養にはなりません」
そう言って、ネコミルクの作り方を教えてくれた。
「なんだ、人間のと同じですね」
母さんのほっとした声に、先生が不思議そうに俺を見る。
「作ったこと、あるんですか」
普通、中三男子は赤ちゃんミルクを作らない。
「あー、えーっと、妹のを」
うろたえる母さんは面白い。
獣医さんはミルクを作ると、注射器で吸い取った。針の代わりに細いチューブを取り付ける。それを黒の口に押し込み、ゆっくりとピストンを押す。白い液体が、少しずつネコの口に消えていく。
「助かりますか」
「朝まで持つかどうかですね」
口調は落ち着いているが、表情は硬い。
「それから、まだ自分でおしっこウンチができませんから、飲んだ後に湿らせたガーゼでお尻を刺激してあげてください」
「ウンチは毎日出るんですか」
「いや。今なら二日に一度くらいでしょう。もしできたら、今度来るときウンチも持ってきてください。検査しますから」
「今度って、いつですか」
「ミルクを飲むようだったら一週間後、飲まない場合は二日後に、もう一度来てください」
ということは、どっちにしてももう一度、四十分自転車をこぐわけだ。
受付で料金を払うとき、その高さに驚いた。
『ネコは保険が利かないからねえ』
母さんはため息をつきながら財布を開けた。母さんの黒い財布。一万円冊がまだ何枚か残っている。
『今は収入がないから、無駄遣いできないなあ。もっとヘソクリしておくべきだった』
ため息混じりにつぶやく。
胸の奥がチクリとしたけど、知らんぷりを貫いた。
診察券には、「坂下オス」「坂下メス」と書かれていた。
「名前って大事だね」
俺がつぶやき、母さんがうなずいた。
裏返すと診療時間が載ってある。土日も午前中は診察があるようだ。
『よかった。学校休まなくていい』
つくづく、学校の好きなおばさんだ。まあ、好きだからこそ仕事にしていたのだろうけど。
哺乳瓶にちょっとお湯を入れて、粉ミルクを計って入れて、またお湯を注いでミルクを作る。それから、流水にさらして温度を下げる。
「飲んでくれるかなあ」
ゴムの乳首で口元をつついてやると、トラは首をそらし、金魚のように口をパクパクさせながら吸い口を探した。乳首を見つけ吸い付くなり、くっこくっことミルクを飲んだ。
母さんから力みが抜けていくのが伝わってくる。
「よかった。これで助かるね」
空になった哺乳瓶を目の高さまで持ち上げ、光にかざす。
けれど、黒は飲んでくれなかった。
母さんは、飲ませ方が悪いのかと必死になって注射器の角度や抱き方を変えたが、奮闘むなしく、チューブの先からこぼれたミルクが黒い毛皮に白い筋をつけただけだった。
「で、そのネコ飼うのか」
父さんが眉をしかめる。
でも、母さんは平気だ。
「うん。めんどうは全部僕が見るから」
「昼間はどうするんだ」
「学校に連れて行くよ」「えーっ」
父さんは、すごい変な目で俺を見た。そりゃそうだろう。
俺が「連れてくよ」と自分で言っといて、間髪いれず「えーっ」と悲鳴をあげたんだ。
でも、何も言わなかったのでほっとした。
父さんは、勝手にしろと言うようにその場を離れた。その背中に声を投げる。
「獣医さんがね、拉致じゃなくて保護だって言ったよ」
ほんのちょっと肩を上げて、広い背中が笑った。
「名前決めようよ」
舞がはしゃいだ声を上げた。
俺はぶっきらぼうに吐き捨てた。
「トラ」
トラネコなんだから、それで十分だ。
しかし、舞は同意しない。
「『ルナ』とか『アルテミラ』とか、カワイイ名前にしようよ」
「それ、マンガのネコだろう」
「違うよ。ゆめちゃんちの猫だよ」
「パクリだよ。訴えられても文句言えないぞ」
俺と妹が言い合っている間、母さんはトラを手のひらに乗せ、じっと見ていた。
俺が言い合いに疲れて黙るのを待っていたのか、閉じた口を重々しく開いた。
「シュー」
静かな、確信をもった響きだ。
「シュークリームのシュー」
言いながら、左手を目の高さまで持ち上げた。
ちっこいネコが手のひらの上に丸まって、ちょうど収まっている。柔らかな薄い茶トラの模様は焼きムラみたいで、形も大きさも重さも、本当にシュークリームだった。
「じゃあ、黒はエクレア」
「いや、チョコだ」
母さんはボールペンで広告の裏に「秀」「千代子」と書いた。
舞のため息が聞こえる。
「それ、シャレのつもり? 普通にカタカナにしようよ」
「ネコの名前はカタカナが普通なのか?」
母さんが食い下がったけど、結局は折れた。
そうしてシューとチョコは、我が家に迎え入れられた。
しかしチョコは、次の朝冷たくなっていた。
母さんは紙袋にチョコを包み、海に行った。松の根元の砂を掘り、埋める。
振り返った海は、まだ波が高かった。
一匹残ったシューは元気だった。ミルクをしっかり飲み、おしっこウンチをきちんとする。そして、眠る。
「この子は、幸せにしてあげよう」
人差し指の先で頭をなでながら、母さんは、誰かに言い聞かせるようにつぶやいた。
買い物に出たついでに、スーパーで手ごろな段ボール箱をゲットした。
『今使ってるのは、高さがないからね』
帰るなり、引っ越しする。
「やっぱり、ネコには段ボール箱だね」
そう言って笑っていたら、父さんの声がした。
「そのまま捨てられるな」
振り返り、にらみつける。もちろん、母さんが。
父さんは何もなかったかのように階段を上って行ったけど、俺は少し、いや、かなりショックを受けていた。もっと、優しい人だと思っていたから。
子猫は一日のほとんどを寝て過ごす。
「寝る子だからネコになったんだ」と、母さんは知ったように言う。
寝て飲んでおしっこして、寝て飲んでおしっこして、たまにウンチして。うらやましい。
休みになると外出していた舞が、珍しく家にいる。シューを見て笑う。スマホで写真を撮って誰かに送っている。
そういう俺も、訳もなく心が弾む。家事手伝い(したくて手伝っているわけではない)や勉強の合間に、つい段ボールを覗いてしまう。ネコは死んだように動かない。でも、死んでいない証拠に、小さな胸が僅かに上下している。
そして俺たちは胸をなで下ろす。