同居人(13)四七日②
四七日②
大きなくしゃみで目が覚めた。
どのくらい眠ったのか、相変わらず雨は降っていたが風はおさまっていた。
垂れた鼻水を服の袖で拭う。小学生みたいだと、自分で笑えてくる。
気持ちが和いで、すごく穏やかだった。
おなかがぎゅるぎゅる鳴っている。死にたいと思っていても食欲は待ったなしだ。
鼻水をすすり上げて、のろのろと立ち上がる。
傘を広げ、来た道を戻る。民家から漂ってくる煮物のにおいに腹の虫が反応して痛い。
突然、それまでアクションのなかった母さんが足を止めた。
側溝のグレーチングの上、行きに見かけたネズミが二匹に増えていた。そいつらに見入っている。
俺の気配を感じたのだろうか、一匹がニーとか細い声を立てた。
ネズミじゃない、ネコだ。
しかも生きている。
こんなに小さなネコを見るのは初めてだった。生まれてほんの数日だろう。まだ、目も開いていないようだ。雨に濡れた毛が体に張り付いて、ネズミだと思ったのはそのせいだった。このまま雨に打たれていたら、死んでしまうのは間違いなかった。
「どうしよう」
思わず話しかけたけど、返事はなかった。ただ、ずっと見つめて、何か考えている。
そして、いきなり傘を閉じ、脇に挟むと、二匹を拾い上げた。
「飼うの?」
『とりあえず、連れて帰ろう』
言うなり走り出した。
ガンガン降る雨の中をガンガン走る。息が切れて、足が重くなっても、母さんは止まらない。雨が目に入っても、濡れた髪が目に入っても、ぬぐえない。脇に挟んだ傘が邪魔で、持ってきたのを後悔する。
しっかりと閉じた両手を動かさないようにして、走る。
その中には、確かに、二つの命が小さく脈打っていた。
家に飛び込むなりタオルでくるむ。しっかりと水気を拭き取りたい。でも、小さい体を乱暴に扱うのが怖くて、それができない。
もどかしそうに、今度はドライヤーを引っ張り出す。少し離して風を当てる。細い毛が軟らかく立ち上がってくる。痩せた身体がふわっとふくらんで、やっと母さんは息をついた。
ネコを乾いたタオルの上にのせ、また立ち上がる。
今度はやかんに水を入れると、火にかけた。
それから、洗面台の戸棚をがさがさし始めた。
見つけたのは、赤ちゃんの寝顔の写真がついた箱。湯たんぽだ。
『君が生まれたとき買ったものだよ』
ついでに隣の大きな箱も引っ張り出す。頂き物のタオルセットだ。
「それ、使うの?」
『いや、新しいのはごわごわするから、使い古しの方が良いでしょ』
そう言って、中身を戸棚に戻すと、自分が使っていたタオルを見つけ出した。
湯たんぽに湯を入れ、タオルでくるみタオルの空き箱に入れる。その上にタオルをしいて、そっとネコを寝かせた。
『熱すぎないかな』
心配そうに見ている。
「こうすると、いいことあるの?」
『分かんないけど、雨に濡れて冷たくなってたから』
それから、子どもの頃ヒヨコを飼った時も夜はこうして温めたのだと、そうしないと凍え死ぬと教えてもらったのだと言った。
『ほら、鳥も動物も小さい頃は親が温めているでしょ。でもこの子たち、親がいないから』
そうこうしている内に、二階から父さんと舞が下りて来た。
「何してるんだ。びしょ濡れじゃないか」
そうだ。俺は自分の体を乾かすのも忘れてネコの世話をしていた。まあ、正確には母さんが、だけど。
箱をのぞき込んだ舞が、弾んだ声を上げる。
「わあ、何? ネコ? ちっちゃい。かわいい」
途端に、父さんが顔をしかめた。
「母ネコが探してるぞ。元のところに返して来い」
「ダメだ」
きっぱりとした返事に、父さんが驚いたようにこっちを向いた。
「どこから流れてきたのかも分からないのに、こんな雨の中に戻せない」
「この雨じゃあ、親猫も探しに来ないだろう。雨がやんだら戻しに行きなさい」
「嫌だ」
「親猫は心配してるに違いない。これは、拉致だよ」
母さんはピクッと体を震わせて黙った。
たたみかけるように、父さんが言葉を継ぐ。
「それに、そんな小さなネコは育てられないだろう。死なすだけだ」
「助けてみせる」
父さんは肩をすくめて部屋に戻ってしまった。
子猫が、か細くニーと鳴いた。
俺たちは、インターネットで子猫の育て方を調べた。
湯たんぽは、どうやら正解だ。生後間もない赤ちゃんネコは体温調節ができないので、低体温で死なないために温めたりマッサージしたりすると良いらしい。
舞が横から画面をのぞきこんで言う。
「猫用ミルクをガーゼに含ませて飲ます、ってあるけど、牛乳じゃダメなのかな」
「どっちでも良いだろう。たいした違いはないよ、きっと」
「だよね」
早速牛乳を皿に入れ、ガーゼを浸す。トラの方はチュチュッと吸ったが、黒の方はぐったりとしたままだ。
行きに見かけたのが黒だったとしたら、五時間以上雨に打たれていたことになる。
「やっぱり、専門家だね」
母さんはそう独り言を言って、電話帳を手にした。ページを手繰って、住所から一番近いと思われる獣医に電話した。
二十回はコールして、やっと出たおっさんの声は冷たかった。
「今日の診察はもう終わりました」
時計を見ると、十二時十分だ。
「すぐに行きますから、十分ぐらいまけて下さい」
しかし、獣医は冷徹だった。
「まだ生後二、三日なんだろう。それくらいじゃ注射もできないし、診てもできることなんてないよ」
母さんは、乱暴に子機を置いた。子機は充電器にうまく収まらず、引っ繰り返ってピーピー鳴いた。
「獣医ぐらい、他にもあるわよ」
けれど、二軒目は呼び出し音の後「本日の診療は終了しました」のメッセージが続き、三軒目はそれさえなく呼び出し音を三十五回聞いたところで、母さんは電話をたたきつけた。
思い出したように、舞が手を叩いた。
「新しくできた獣医さんは?」
「新しく?」
「うん。先週かな、新聞に広告入ってた」
「開業したてか。まだ客がないから診てくれるかも」
母さんは、古い広告を引っ張り出して、片っ端から調べていった。
果たして、それは見つかった。
「とりあえず連れてきてください」と、予想通り愛想も良かった。
「よし」と、ガッツポーズを取ると、仏間に飛び込んだ。仏壇の引き出しを開け、黒い財布を取り出す。次は階段下、収納庫から母さんのショルダーバッグを取り出し財布を放り込む。それを斜め掛けしながらキーボックスを開け、戸惑った声を上げた。
『車のキーがない』
「誰の車の?」
『私のに決まってるでしょ』
「事故って廃車になった?」
母さんは、ウーと苛立ったうなりを上げて父さんの車のキーを取ると、箱を抱えて駐車場の車に乗り込んだ。
エンジンをかけたとき、舞が血相を変えて飛び出してきた。
「何か忘れたかな」と母さんが運転席側の窓を開けた。
「お兄ちゃん、どうしちゃったの」
そこで、母さんも俺もやっと気がついた。
「そうだ、無免許だよ」
母さんが、脳裏にささやく。
『あんたが目をつぶっててくれれば、母さんが運転するから』
悪魔の誘惑に、小声で答える。
「そして警察につかまる」
母さんはグルルと唸り声を上げたけど、ダメなものはダメだ。
「お父さんにお願いしようよ」
舞の言葉に、俺はうなずく。でも、母さんは消極的だ。
『だって、直人さん、猫が嫌いなのよ』
だからあんなに素っ気ないのか。納得。
仕方なく、自転車を出す。幸い、雨はやんでいた。
念のため合羽を被り、ネコを入れた箱はビニールの風呂敷で二重に包んだ。
「息ができるかな」
母さんは、はさみでビニールに穴をいくつも開けた。
「雨よけの意味ないじゃん」
それを荷台にくくりつけ、俺たちは自転車をこいだ。母さんが必死に足を動かす。俺の限界を超えている。
実に四十分、俺たちは雨の中、自転車をこぎ続けた。