同居人(11)三七日③
三七日③
朝、目覚めたときから体がだるかった。いや、気持ちの問題だと、自分でも分かっていた。
学校に行くのが嫌だ。教室にいるのが嫌だ。
俺は、ベッドから出ることを拒否した。母さんは、無理矢理起きようとしている。
『何嫌がってるのよ。遅刻になるよ』
「休む」
なぜ、とは聞かず、母さんはしゃべり始める。俺の意識を読むからだ。
『みんなに無視されるのが嫌なんだろうけど、休んだって家で一人だよ。誰とも話をしないってことでは同じじゃないの』
「全然違う」
『どこが』
「家にいるのは俺の意思だ。無視は違う。誰かの差し金だ」
『仮に君の意思で逃げ出したとしても、それは他人にそうさせられてる訳だから、やっぱり同じだよ』
「同じじゃない」
『同じだ』
俺は母さんをにらみつけた。もちろん、現実には不可能だ。実際は、目をかっと開いて目の前の空間を見つめていたに過ぎない。でも、気持ちはにらんでいた。
「じゃあ、同じで良いよ。どっちにせよ、俺は行かないんだから」
『同じだから行く。無視されるのじゃなく、無視しに行く』
訳の分からない論理に頭が爆発しそうだ。だいたい、無視されている原因はすべて母さんにあるのだ。
「母さんが奇行に走るからじゃないか。分かってんのか、このばばあ」
俺はぶち切れた。
が、母さんは笑った。
『良いじゃない、元気があって。その意気で立ち向かおうよ』
「はあ? 何に立ち向かえって」
『もちろん、いじめをする奴らに』
「いじめってほどじゃないだろう」
『やられた方が苦痛を抱いたらいじめなんだよ』
「どうってないよ」
『なら、学校に行ける』
「行きたくないから行かない」
『どうして、立ち向かわないの? 私は、やられっぱなしは絶対嫌だ』
「俺は平和主義だ」
『はーん、なるほど。でもね、ガンジーは非暴力・不服従なんだ。暴力的な争いは避けても、不当な権力に対しては戦うんだ』
「ガンジーって、誰だよ」
『はぁ? 知らないの? だったらなおのこと勉強しなきゃ』
それから、マシンガン口撃が始まった。
『いじめる奴らが悪いのに、なぜ、いじめられる方が逃げなきゃいけないんだ』
『いじめる奴らは、警察に訴えてやればいいんだ』
『訴えるには、証拠がいるからなぁ。今日から証拠集めだな』
『無視は立証が難しいなあ。暴力だと簡単なのに』
再度、俺はぶち切れた。
「いい加減にしろよ。そんなことしたら、もっと居づらくなるだろう。ちょっとは解れよ」
『居づらいから、対抗するんでしょ。そんなに逃げたいなら転校する? いじめがある場合は有効な手段だよ』
「嫌だ」
俺が休み始めたころも、転校を勧められた。けれど、転校しても俺は勉強しない。したくない。学校に行かない。なら、意味がない。と、断った。
今は、それ以外にも、理不尽な事実への対抗心みたいなものもあった。母さんほどでないにせよ。
『なら、学校に行くしかないね』
小一時間は言い争って、結局母さんが実力行使で遅刻して登校した。
生徒玄関で靴箱の前に立ち、凍り付いた。
上履きがない。
母さんは、ぐるっと周りを見回す。
掃除道具のロッカーが玄関隅にある。その前のごみ箱を覗く。次にロッカーを開ける。
『朝は先生が登校指導をしてるから、帰りだろうなあ』
玄関を出て、校舎沿いの植え込みを覗いて歩く。
『わざわざ、遠くまで持って行かないと思うんだけど……』
少し焦っているのが伝わって来る。
「あそこじゃない?」
俺は、外便所を指さした。
『有り得る』
果たして、俺の上履きは、男子トイレ個室の和式便器に突っ込まれていた。
『今日は履けないなあ』
とりあえず手洗い場で洗い流す。
トイレを出たところで、母さんは校舎を見上げた。防犯カメラが、こちらを向いている。
『あれに映っているかも』
母さんは、滴の垂れるシューズをぶら下げて職員室に行った。
「スリッパを貸してください」
教頭先生が席を立って対応してくれた。
「上履きが、どうかしたのかい」
「外便所の便器に突っ込まれていました」
そんなこと、堂々と言うなよ。
ほら、教頭の顔色が変わった。
「誰か、心当たりあるのかい」
「さあ。今、クラスのみんなに無視されているので、特定はできません。
だから、そんなこと、堂々と言うなよ。
「でも、防犯カメラの映像を調べれば、犯人が特定できるかと。昨日の帰りだと思います。見せてもらえますか」
おいおい、そんなこと頼む生徒なんて、聞いたことないぞ。
「無視って、いじめ、られてる、と……」
「はい。多分」
「されてません!」
大声で怒鳴りつけると、職員室を飛び出し、玄関に走った。
こんなところ、一時だっていたくない。
が、ここでも、俺は母さんに負けた。
立ち止まったところは学年の靴箱ではなく、来客用の靴箱の前だった。そこからスリッパを出し、履く。
ペタペタと音を立てながら、教室に向かう。
シューズから垂れる滴が、俺の涙のように廊下に筋をつけていた。
冷房が効いているので窓は閉まっている。けれど、後ろの扉まで廊下を歩く、その姿は磨りガラスの向こうからでも分かる。音を立てないように引き戸を動かす。しかし、音があろうがなかろうが、いくつかの視線が俺に向けられる。そいつらはすぐ元に戻り、俺の存在は消される。
その不快感に、吐き気を覚えた。
しかし、母さんは自分の席までまっすぐ歩き、静かに腰を下ろし授業の準備をする。
この不快感は、吐き気を超えて怒りを覚えた。
立ち向かえ、と言う。
俺は、あんたに立ち向かいたい。
でも、どうやって?
こういう考えも、すべて読まれるのだ。俺はこのばばあの完全支配下にあり、反乱計画を立てることさえできない。自分の体を他人の意思で動かされ、意に沿わぬ行動を取らされる。怒りは沸点に達する前に鎮火され、どろどろに溶けていく。そして、あきらめと無力感に変化し、胸の奥底に沈殿していった。
放課後、俺は担任に呼び出された。
先生たちは、防犯カメラの録画から犯人を見つけたらしい。昼休みに呼び出し話を聞いたら、犯行を認めたという。
「それで、謝りたいそうだ」
俺は、話をしたこともない、ほぼ初対面のクラスメイトから謝罪を受けた。
先生たちはほっとしたようだったけど、これで終わるはずがないと俺は感じていた。
むしろ、もっとひどくなるかも……。
木曜の夜は、いつものお勤めがある。
仏壇の前に並んで座り、リンを鳴らす。
いつものように手を合わし、心の底から祈る。
早く出て行ってくれ、と。
その祈りは、線香の煙のように消えていく。
そして母さんは、日記をつけ始めた。
『事実を記録することは、証拠につながるからね』
火をつけて、煙と灰にしてやりたい。