同居人(10)三七日②
三七日②
火曜の夜はテニスに行く。
母さんは、昼間のイライラをぶつけるかのごとくラケットを振り回した。その三分の一は空振りで、四分の一がネットで、残りはすべて場外だった。
「俺にもやらせろよ」と言っても、「嫌だ」の一点張り。
せっかくコツをつかみかけていたのに、元の木阿弥だ。
仕方なく、「手首固定ですよー」とか「ラケットが空向いてますよー」とか、小声で注意した。しかし、ボール拾いですれ違ったおばさんが変な目でこっちを見たので、それからはやめた。
「今日は随分荒れてるけど、何かあったの?」
サブコーチが優しく声をかけてくれたけど、「別に」と答えてまた空振った。
ほんとに、このおばさんはガキだなあ。
その日の帰りがけ、母さんが、水筒を忘れたと言い出した。
「どこに置いたんだよ」
「それが、記憶になくて」
「全く、忘れるなら持ってくるなよ」
「自分だって忘れてたくせに。同罪だよ」
母さんが持っていると思うと、自分が持っているという意識が希薄になるようだ。
仕方なく、コートに戻る。が、見当たらない。
「もしかして、倉庫かも」
「なんで、あんなとこ」
「ボール片づけたとき、かごに入れてしまった気がしてきた」
そう言えば、入れたような気がしてきた。
「じゃあ、あれか。サブコーチが呼びかけてたの、俺のか」
「ああ、そう言えば。彼女、何か言ってたね」
「確か、倉庫の入口に置いとくよって」
それで、俺たちは倉庫に走って行った。
水筒は、ポツンと扉の脇で待っていた。
それを手にした時だった。中からうめくような声がもれてきた。
「何か、聞こえた?」
「聞いた」
もしかしたら、犯罪が起こっているかもしれない。
そんな好奇心から、かぎがかかってないのをこれ幸いと、そっと扉を開けた。
そして、仰天した。
コーチとサブコーチがキスしていた。
思わず一歩下がって犬走りで足首をひねり、ひっくり返って尻もちをついた。
当然、二人は体を離し、こちらを見た。
「何だ、君は……」
コーチの言葉を遮るように、母さんが叫んだ。
「ごめんなさい。忘れ物しました」
それから、水筒をひっつかむと自転車置き場まで全力疾走した。
母さんは、イライラをぶつけるように自転車をこぐ。
「不倫だ。何てイヤらしい奴だ」
「コーチって、独身じゃなかったっけ?」
「コーチじゃなくて、サブコーチ。あの人、子供いるよ。子供があれを見たらどう思う」
俺は考える。もし、自分なら。
しかし、母さんがコーチと不倫する姿が思い浮かばない。何しろ、サブコーチは美人だが、母さんに引っかかる男がいるように思えないからだ。
「でも、まあ、やっぱり嫌だろうなあ」
父さんの気持ちを考えたら。そして、こんなにムキになって怒る母さんを見るのは。
「母さんこそ、そんなにコーチが好きだったの?」
「何言ってんのよ。あこがれはあっても、不倫なんかじゃないよ、私は。私が怒ってるのは、あの女の子供が可哀そうだからよ」
そっか。教師としての使命感か。
ちょっとほっとして、少し疑った。
本当に、ただの「あこがれ」だけだよね?
この事件で良かったのは、母さんがテニスを止めてくれたことだった。
次の日も、やっぱりみんなは変だった。というより、明らかに無視だ。
以前は遠巻きに俺を見ている、そんな雰囲気があった。
今は、故意に俺から目をそらす、そんな空気がありありと伺えた。
二時間目の後、たまたまトイレで益田君に会った。俺は軽く会釈して済ますつもりだったが、母さんは隣に立って話しかけた。
「気のせいかもしれないけど、クラスで無視されてるみたいなんだ。何か知ってる?」
すごいストレートだ。益田君は、明らかにうろたえている。それから、周りに誰もいないのを確認して、小声で言った。
「体育祭の打ち上げでさぁ、歩夢の話になったらしいよぉ」
「打ち上げ? そんなのあったのかい?」
益田君はジッパーを上げながらうなずいた。
「全員参加じゃないけどな」
そう言うと、逃げるように背中を向けた。
スリッパを脱ぎ、上履きに履き替える音がする。
俺は、軽い衝撃を受けていた。声かけの段階からすでに外されていたわけだ。
(まあ、良いけど。どうせ行かないし)
でも、母さんは急いでジッパーを引き上げ、彼を追いかけた。手洗い場を去ろうとするところを捕まえる。
「どんな話?」
益田君は困ったように眉をしかめた。
「だからぁ、クラス別だしぃ、よく知らないよぉ」
そのとき、人の気配がした。
益田君はビクッと身をすくめ、入ってきた人を確認した。
よりによって、高山だった。
珍しく一人だ。
「よう。元気か」
機嫌良さそうに声をかけてきた。要、注意だ。
「お前、クラスでハブられてるんだってな」
母さんに負けず劣らずストレートだ。しかも、面白くてたまらないという表情だ。
俺も母さんも返事をしない。
「何でも幽霊と話してるんだって? 気持ち悪いって、みんなが言ってるらしいぜ」
だから無視しようか。打ち上げでそんな雰囲気になったんだと。違うクラスのくせによく知っている。
高山は上履きのまま用を足すと、ぴゃぴゃっと手を洗い、握った手を俺の顔面でぱっと広げた。手水が顔にかかる。
へっと笑いながら立ち去る。その姿が見えなくなったとき、益田君がぽつんと言った。
「歩夢、高山とトラブったろぅ。みんな、彼とは関わりたくないんだよ」
それから俺の顔を見た。悲しそうな情けない表情。何とかしてやりたいけど巻き添えはごめんだし、そんな声が聞こえてきそうな目をしていた。
見覚えのある目だった。
いつかの俺も、そんな目をしていた。鏡の中で見たことがあった。
チャイムが鳴って、俺たちはトイレを離れた。
給食の時間は、昨日と同じだった。
俺には触らせない。触らせてはいけない、そういう雰囲気ができあがっていた。
もちろん、母さんは積極的に動こうとする。
牛乳のストローを配ろうとすると、拒否された。
「キモいから触らないで」
女子の一人が吐き捨てる。ストロー入れから一本かすめ取った後、小声で「化け物がうつる」と言うのが聞こえた。
『移る気はないけど』
他人には聞こえないつぶやきが脳裏に響く。
「だから、そういう問題じゃない」
俺のつぶやきは誰かに聞こえただろうか。