同居人(1)命日
同居人
『この身体もらって、人生やり直すから』
母さんはそう言い放ち、俺の平穏な日々は終わりを告げた。
何てこった。
命日
電話が鳴った。けれど、俺は無視して寝返りを打った。
一人で家にいるときは出ないことにしている。
その日の電話は結構しつこかったけど、やっぱり切れた。切れない電話は無い。そして、よほどの用が無い限り、もうかかってくることも無い。学校からの電話だって、出るのをやめればそのうち無くなった。そんなもんだ。
俺は、静かな方が好きだ。
俺は、一人の空間を楽しみたい。
しかし、その日、電話は何度もなった。
電話線を抜いてやろうかと思うほどうるさくて、眠れなくて、仕方なく起きた。
けれど、一切出なかった。
そのうち母さんか舞が帰ってきて出るだろう。そう、そのうち。
ところが、十二時を過ぎても二人は姿を現さない。
そこで、ようやく思い出した。
二人とも今日の昼には帰ってこないことを。
一昨日、「今年の夏はどこにも行かなかった」と舞が拗ねたため、昨日から二泊三日の約束で、母さんの実家にお泊りに行ったのだ。
どこにも行かなかったと言うけれど、この夏休み、あいつはほとんど家にいなかった。図書館や友達の家や学校や、朝から出かけてそこで宿題をすませ、一度帰宅し、お昼を食べたらまた出かける。そして、「夕焼け小焼け」の放送がかかるまで帰ってこない。
年齢が二桁になった途端、分別がついてきたのだろう。
「お兄さん、学校は?」
そんな質問をされたのかもしれない。まず、友達を連れてこなくなった。次に、俺の存在を無視するようになった。静電気を帯びたナイロン紐の切れっぱしのようにまとわりついてきたのが、遠い昔のようだ。
一方、母さんは、仕事の引継ぎ日なので、職場の人と一緒にお昼を食べると言っていた。
夏休み前に突然仕事を辞めると言い出し、今日が最後の出勤日だ。月曜日は始業式で、そこからは新しい先生が学校に行く。
「七月中に片付けが終わったから、あとはクラブだけ。午前中で終わりよ」
その言葉通り、八月に入ってからは、毎日三人で昼食を食べた。それでも、有給休暇を半分も使っていないらしい。よほど、学校が好きなのだろう。
仕方が無いので、俺は自分でご飯を作った。
俺は、たいていの物なら作れる。この二年間、毎日作っていたのだ。もちろん、最初から出来たわけじゃない。
初めのうちは、前日の残り物や冷凍食品をチンして食べていたが、すぐに飽きてしまった。それで、簡単なレシピを検索して作り始めたのだ。材料がなくても別のもので代用したり調味料を加減したり、そんな自分なりの工夫を重ねるうちにどんどん面白くなってきた。何しろ、時間はたっぷりある。
今日は暑いからそうめんにしよう。
お湯を沸かす傍ら、薬味のネギとミョウガを刻み、梅干しを裏ごしする。温めたフライパンを濡れ布巾の上に置く。ジュッと粗熱を取り、溶き卵を流し込む。
フライパンと格闘している最中に、また電話が鳴った。
これも無視した。
火を使っているときは離れてはいけない。だから、出る必要はない。
そう心につぶやくと、菜箸を使って卵をひっくり返す。
一つの卵で薄焼きを二枚作ると、まな板の上で包丁を振るう。錦糸卵のできあがり。
どうだ、この腕前。
ご飯を食べても元気は出ない。出るのは欠伸ばかりだ。
寝不足で、頭が重い。マンガを読む気も起こらない。ゲームはもっとしんどそうだ。
それに、マンガもゲームももう飽きた。
最近は、熱中できるものが何もない。
俺は何がしたいのだろう。
母さんはそれを考えろと言った。俺が学校に行かなくなった頃の話だ。
それを考える時間にしろ、と言った。
でも、俺は考えるのを後回しにしてきた。だから、まだ見つからない。
勉強じゃないことだけは確かだ。
口元を拭いたティッシュで皿の汚れをぬぐう。洗い桶に張った水に食器をつける。しばらく待てば汚れはすっと落ちる。これは、母さんが教えてくれた。
母さんは、古くなったシャツや靴下を小さく切ってティッシュの空き箱にため込んでいて、それで食器やフライパンをぬぐう。
食器を洗う間、ちょっとだけ真剣に考えた。
俺は、何がしたいのだろう。
玄関のチャイムが鳴った。ピンポンピンポンピンポンピンポン。
誰がこんなイライラする鳴らし方をするんだ。
無視していたら、今度はドンドンドンドン、ドアをたたき始めた。
俺は、とうとう立ち上がった。
このままじゃ、ドアが壊れるかガラスがぶち破られるかしてしまう。やれやれだ。
舞がカギを忘れたのかもしれない。
でも、舞じゃなかった。母さんの兄さんだった。
「どうして電話に出ないんだ」
怒っていた。珍しいことだった。
俺が何か言おうと口を開く前に、伯父さんは俺の腕を引っつかんでいた。
「ちょっと、何」
「病院だ。靴をはけ」
俺は学校に行ってないけど、どこも悪くない。
「勝美が事故にあった」
「えっ?」
勝美は、母さんの名前だ。
「もう間に合わないかもしれないが、急ぐんだ」
ドラマみたいだと思った。
たいていのドラマは、間に合っている。
死にかけているくせに、いっぱいしゃべる。そんなに元気あるなら助かるだろ。
俺は生きているけど、元気がない。しんどくて、しゃべるのも嫌だ。
でも、俺は間に合わなかった。
だから、母さんのしゃべりを聞かずにすんだ。
舞は、ベッドの上の母さんにすがりついて泣いていた。父さんはその肩を抱いて、やっぱり泣いていた。
二人は間に合ったのだろうか。
母さんは、何かしゃべったのだろうか。
八月最後の金曜だった。