甘い囁き悪魔の誘惑
男、大日本帝国宰相である東条英機はその晩、悪夢に苛まれていた。
時は1944年二月海軍の一大根拠地であったトラック軍港壊滅の報が朝野を震わせ、支那戦線の泥沼からは一向に足抜け出来ない今である。
彼が心労から、悪夢に苛まれるのも無理からぬことであるが、その悪夢の内容は頓智機極まりない物であった。
サイケデリックで極彩色の空間から、我こそ帝国の救世主で有ると宣言する、不定形の何かが自分に呼びかけてくるのだ。
その存在は自分を異世界人であると語る。へーこー世界がどうとか言っていたが、東条が頭に?マークを出すと、異世界で理解して構わぬと言う。
彼もしくは彼女は言うのだ。帝国は早晩に滅びるであろうと。
何を抜かす!薄々は自分でも思っていた事で有るが、人?に指摘されるとカチンとくるので、東条は文句を言うが相手はまあまあと宥めて来た。
「ホントですよ。あー宰相さん?大統領?首相?済みませんね、この時代に詳しくなくて」
態々呼びかけた相手の役職も知らんのかこのタコは?は!夢の中だと言うのに英機カンカンにになる。薬缶頭から火が出てきそうだ。
「だーかーら謝ってるでしょ?そんなに怒ると血管切れますよ?私はねぇ、貴方方を助けに来たんですよ」
生き物かどうかも分からぬ、物の怪の類に哀れまれる帝国ではないわ!相手の無礼千万な物言いに、さらに英機のボルテージは上がって来る。
「これを見てもそんな事言えますか?」
東条が更に相手に何か言ってやろうとした時、タコ?物の怪?異世界人はある映像を見せてきた。其処にあった、映し出されていた物は、、、、
兵士だ、太平洋でビルマの奥地で支那で敵弾に倒れ、白骨の道を歩き、飢えと渇きに苦しみ、疫病に蝕まれ、生きながら地獄に落ちている者達の姿があった。
自分の戦争指導の結果が産んだ地獄を前に、東条は目を反らす事ができなかった。
そして太平洋の小さな小島で、ニューギニアの密林で、人肉に手を出す所まで追いつめられた兵士を見た時、彼は折れた。
「なにが望みだ?本当にお前たちは帝国を救えるというのか?」
東条の、絞り出すような言葉を聞いた異世界人は満足したように頷き、、、首が有ればだが、、東条に答える。
「貴方たちを勝たせる事は出来ません。ですが苦しみの一つを取り除く事は出来ます。私達はその苦しみを見て、たまらずに呼びかけたのです」
異世界人は心底悲しい、苦しいと言った風に更に言葉を続ける。
「では起きて下さい閣下。私たちを信じて下さるならば必ずご協力を致しましょう」
東条英機には頷く事しかできなかった。二月十八日の暁の頃、彼が三職の兼任を宣言した前日の悪夢であった。
東条英機が、異世界人もしくは悪魔と契約して以降、地の底に落ちていた彼の人気は、市民レベルでは回復した。
彼の政敵たちも首を傾げる他は無いが、首相専属の特務機関とやら主導して何処からか、本当に何処から持って来るのか、本土の食料事情は回復いや戦前を遥かに超えるレベルになっているのだ。
食料配給政策を撤回すると東条が言いだした時は、此奴心労で遂に壊れたか?クーデター計画前倒しするか?と誰もが考えたが、この結果である。
如何調べてもおかしいのだ。本土に戻ってくる輸送船は敵潜水艦による被害が重なっている折であるし、今年が大豊作だっただなんて話露ほどにもない。
市中に出回る食料品の銘柄も変だ。生鮮食料は見慣れた物と色も形も味さえも比べ物にならない程良い。
聖戦遂行決戦食等と言う触れ込みで配られた、瞬間調理食とか言うのも頭がおかしくなりそうだ。
何の変哲もない矢鱈軽い弁当箱にしか思えないが、横に遂いている紐を引っ張るとあら不思議、出来立ての弁当がコンニチワ。湯気を吹き出すので、試した内務省職員が椅子から転げ落ち、爆弾テロかとひと騒動あったのはご愛敬。
国民の大多数は、東条首相肝いりの研究機関による日独合作技術が作り出した、科学弁当だのと言うプロパガンダに、感心したり流石ドイツの科学力だのと持てはやしているがこんな物ドイツだって作れるものか!
更にである。東条は何やら御上に怪しげな事を吹き込んでいる。
彼の三職兼任に「これでは東条幕府だ!」と噴き上がっていた皇族方も何時の間にやら大人しくなってしまった。
「怪しい。怪し過ぎるぞ東条英機」
そうは思っていても近衛文麿始め政敵たちは行動に移す事は難しくなっていく。
「まあ良い。何時かはボロを出す」
そうである。幾ら食い物があった所で今は戦時なのだ。このまま連合国の攻勢が続けば嫌が応にも東条は追い詰められるだろう。其の時こそ彼を追い落としこの馬鹿げた戦争を自分たちで終わらせる。
政敵たちがそう思っている頃。一つの計画が始動しようとしていた。
確かに食い物が幾らあっても戦争には勝てぬ。弾が無いのが玉に傷、戦争には兵器と言う物が必要だ。
だがその食料が無限にあって何処からでも出せるとしたらどうだろう?人間とは発想の生き物だ、未来人の予想とは斜め上の方向で、大日本帝国の一部の人間は勝利へと進む決意を固めていた。
太平洋 ウオレアイ環礁
「腹が痛ぇ」
太平洋の小さな島、ウオレアイ環礁にあるメレヨン島守備隊に配置された、小林一等兵は痛む腹を抱えて便所に籠っていた。
「幾らでもあるとは言え、食い過ぎた、、、、うーん」
配置当初から少し、激化する米軍の攻撃に島への補給は途絶し餓死の恐怖がヒタヒタト音を立てて迫っていた同島守備隊であるが、今ではそんな事もどこ吹く風、思い出した様に来る米軍機の空襲は困ったものであるが守備隊の戦意は旺盛だ。
「小林~早く出ろ~」
同期の青木一等卒が何か言ってるが知る者か!お前はそこいらのヤシの下にでもしてろ!死ぬ!俺は腹痛で死ぬ!おおぅまだでる。
小林一等卒ばかりではない。彼の所属する機関銃分隊の殆どが腹痛か二日酔いで悶絶しているのだ。理由は特配のせいである。
補給が途絶した当初は、米の配給制限だのと言っていた守備隊司令部が突然に豪勢な食事、、何故に三月におせち料理の総振る舞いかは疑問だが、、を守備隊全員に食わして来た時には「ああ、遂に敵軍の来援か、短い人生だった」と覚悟を決めた物であるが、次の日も、また次の日も豪勢な食事が続くと疑問が湧いて来る。
「補給船の一隻も来てないハズなのに何故?」
小林一等卒は疑問に思い、小隊長殿に質問したが向こうも訳が分からんとの事。そうこうする内に、配給品には菓子が付く酒が付く、日本酒がビールが舶来品のウヰスキーにブランデーが、俺たちは宴会に来てるのか戦争に来てるのかどっちだ?
であるので毎日訓練が無いと皆飲んだくれている。小隊長も中隊長も守備指令も固い事は言わない、自分たちは敵に囲まれつつある、いつ死ぬか分からんのだ。飲んだくれる位は許し手くれという気分が蔓延している。
「でもなぁ、流石に食いすぎ、、、痛ぇ!俺の馬鹿!なんでアイスキャンディーを十本も食ったんだ!」
小林一等卒の小隊は甘党揃いで酒はテンで駄目な奴らばかりだが、近頃やたらと配給されるアイスには飛びついてしまったのだ。なにしろ次々と新製品が来る上、赤道直下の南国であるから喉も乾く。
上も兵に苦労をさせていると、くーらーぼっくすと言う保冷箱に詰めるだけ詰め込んで送ってくるから、海岸で塹壕堀をしている自分たちは暇が有ればしゃぶっていた。タバコが無いのが拍車をかける。
「それでこれだよ!ぐぅぅ~」
此処は過酷な太平洋戦線、何処で如何なる苦しみが襲って来るか分からない。頑張れ小林一等卒!生きて本土の土を踏むその時まで。
「小林一等卒~」
「五月蠅い!」