「お風呂」
第六話
「お風呂」
最初の頃この症状が出てきた時には、脳に作用するクスリの所為で乖離性同一性障害になったのかと思いました。
でもそうでは無かった。
昔から、妻が小さな子供の頃から、妻には別人格が出現していた様です。
--でもクスリの所為で彼女たちは出てきやすくなったのだとも思っています。--
『彼女』は昔から人知れず居て、亜希子がピンチの時にスイッチして助けてくれていたのです。
僕が学生の頃、『24人のビリー・ミリガン』などの『解離性同一性障害』、昔の言い方では『多重人格』の本を何冊か読んだことがあった。
もちろん僕は医師でもなんでもない。ただの興味本位で読んだだけだ。
乖離性同一性障害は主に幼少期に受けた、肉体的・精神的な苦痛によるもので、その苦痛が耐えられないものにまで到達する前に、自分自身を守る為に別人格を創り出し、その人格が代わりに苦痛を受ける事によって、自分自身の精神の崩壊を防ぐのだ。
それが解離性同一性障害である。
決して狂った人では無い。
この頃の亜希子は極度の不安感に悩まされていて、毎食後に抗不安薬を飲むのに加えて、頓服の睡眠薬を飲んで寝ていることが多かった。
亜希子が寝ると『彼女』はたまに現れるようになった。
『彼女』は妻が寝ることによって、妻の身体から『亜希子』と言う人格が剥がれるので、そこに『亜希子』の代わりに入ってくる。
逆に『彼女』が寝て、身体から『彼女』と言う人格が剥がれないと、『亜希子』は帰って来られない。
これによって色々トラブルがあるのだが、それはまた別の機会にします。
『ビリー・ミリガン』では、「出て来い」と言えば出てくる人格が居ましたが、亜希子の別人格たちは出てきません。
もっとも無理矢理呼び出したりするような事を試したことは無いので、ひょっとしたら呼び掛けに応じてくれるかもしれません。
でも多分出て来ないと思います。
しかし、こっちの世界の様子を伺っている人格も居るのは確かです。
「ここはどこ?」
亜希子はお風呂に入るとよく気絶する。
湯舟に入って眠くなる事がよくあると思う。
それは実はお湯に浸かる事によって血管が拡張して血圧が低下する為、脳に十分な酸素が送られなくなり、脳が酸欠状態になってしまう状態だ。
その状態が続くと、場合によっては意識障害によって失神と言う事態になり、大変危険なのだ。
通常の状態であれば顔が沈んだ時点で目を覚ますのですが、亜希子はそのままぶくぶくと息を吐きながら湯舟に沈んで行ってしまう事がしばしばありました。
沈んで行かなくてもカクンッと落ちたあと、別人格が出てくる可能性が高い場所だ。
「誰?お母さんは?……おうち帰る。お母さん迎えに来てくれないの?」
「僕は舞斗。僕と君は結婚したんだよ。お母さんが居る所には帰れないんだ」
「結婚?何で?私まだ子供だよ?」
「そう……なんだけどね。もう夜も遅いから帰れないんだ。とりあえず頭を洗おう。湯舟から出ようか」
僕は亜希子の肩を担いで湯舟を出る。
亜希子の体はのぼせている上に自分が思っているよりも体が大きいので、彼女は体をうまく動かせなくて苦戦するのだ。
僕が亜希子の左肩を担いで、彼女は右手で手すりを持つ。
僕は肩を担いだまま屈んで左足の太ももを持ち、浴槽をまたがせる。
両足が浴槽をまたいだらイスに座らせる。
「よし、じゃあまず頭を洗おう」
亜希子はいつも頭を洗うので、お風呂を出ても頭を洗っていなかったらたいへんだ。
どのみち長い髪が湯船に浸かっているので、乾かさないといけないし。
余談だが、髪の長い人をシャンプーするのはホントにたいへん。
指の腹で洗うのだが、どんどん絡まっていくし、髪をひっぱて抜かないように、泡をまんべんなく行き渡らせるように、毛穴の奥の皮脂汚れが落ちるように、色々考えてやるのだが、正直苦手だ。
時間がかなり掛かるし、冬場など二人ともみるみる体が冷えていくし。
何とかやり終えたらシャワーで体を温めつつ丁寧に洗い流す。
その後はトリートメント。
トリートメントが頭皮に付かないように髪の下半分だけ。ゴシゴシせずにそっとそっと。
トリートメントは髪の滑りが良くなるからかなりやりやすい。
それでも「彼女」の意識があれば協力的なのだが、意識が完全に無くぐったりして、ガックンガックンなっている人を支えながらのシャンプーはさらにキッツいです。
体を支えながらシャワーを持って頭洗うなんて出来るかい! って思いながら悪戦苦闘です。
どこぞの生物学者が人間には腕が四本あるべきだと言っていたのに賛成!
最近ではシャンプーは壁の高い位置に掛け、僕の体で彼女の体を支えつつ、両手で頭を洗うという技を覚えましたよ。
かなり脱線してしまいました。
彼女は子供だから、頭を洗ってあげて体を洗ってあげて。
その頃には体が冷え切っているからもう一度湯船に入らせて。
それから脱衣場に行って体を拭いて、ここから服を着させるのがまたたいへん。
彼女を立たせておいて、パンツにはナプキンを付けて、
「はい、片足あげて」
と片足ずつパンツに足を通して、パジャマのパンツも同じようにはかせるまでが難しい。
シャンプーからパジャマを着させるまでには軽く一時間以上経ちます。
そのあとドライヤーで髪を乾かすこと三十分。
そうやって何度も何度も繰り返していたら、だんだん彼女も僕を認識してくれて、ここにはお父さんもお母さんも居ないけど、舞斗が居て、
「この家で一緒に暮らしているんだ」
「お父さん、お母さんは遠くに居るんだ」
と言うことを納得してくれるようになりました。