第四話 「うつと生活」
第四話
「うつと生活」
三ヶ月が過ぎ、亜希子は徐々に寝ている事が多くなった。
食事は何とか作ってくれるが、片付けや洗濯物を畳んだりするのは僕の役目になった。
うつが重度である場合、大概はクスリで寝てしまっていることが多いので、一緒に暮らしていく上ではそんなにたいへんでは無い。
『たいへんでは無い』というとかなりの語弊がある。それはある程度元気になってから『うつが引き起こす色々な状況』に比べたら『寝込んでいてくれた方がましだった』という意味である。
しかし今にして思えば、この『寝込む』という状況があったからこそ、うつに対しての心構えや勉強が出来て、本番を耐えられたのかもしれない。
お風呂は必ず二人で入る。
これは亜希子の両親も「いつも一緒に入っているから、私たちも一緒に入りたい」という願いからだった。
「結婚してからずっと二人でお風呂に入るなんてラブラブじゃん?」って思うだろう。
最初の内は僕も嬉しかったのだが、正直毎日一緒にお風呂はキツイ。
一人でぼーっとお風呂に入りたいときも多々ある。
しかし二人で必ず入らなければならない本当の理由が二つあった。
妻は重度のうつなのだ。
一つは、入浴中に『気絶する』または『睡眠系のクスリが急に効き出して寝てしてしまう』かもしれない。
ぶくぶくぶくっと息を吐きながら、みるみる上半身が浴槽の底に沈んでいくのだ。誰かがついていないとそのまま溺死だ。
実際、前の旦那さんとの結婚生活の中で、まだ夏と言うには少し早い時期に入浴中気絶してしまい、朝方お風呂の余りの冷たさで目が覚めてびっくりした経験がある。その時は凍死しない程度に暖かい時期だったし、浴槽の小さいお風呂だったので上半身が沈むことは無かった。
それ以来一人でお風呂に入るのは怖いのだが、前の旦那さんは足音すら怖くなった存在なので、もちろん一緒に入ることはなかった。
ちなみに前の旦那さんの名誉のために言っておくが、決して旦那さんが暴力を振るったり、彼女に害のあることをしたためにうつになって、足音すら怖くなったわけでは無い。彼は何もしていない。
かわいそうだが『生理的に嫌い』になってしまい、彼の何もかも全てが受け付けられなくなってしまったのだ。
うつの引き金になっていることは間違いないが、全ての元凶では無い。
話しが逸れてしまったがもう一つは、当時はまだ『重度』だったので、不意に死にたくなることがあるためだ。
浴室で言うなら『カミソリ』や『浴槽の縁に頭を打ち付ける』『タオルなどで首をくくる』死のうと思えば何かしらの手段で軽く重傷以上になれる。
亜希子は日中のほとんどを寝て過ごすようになった。起きるのは昼前後から少し起きて、また夕方まで寝る。
昼飯と夕食は何とか出来るような状態だ。
「これが出来ることもすごいことだよ」
「ご飯を毎日作ってくれてありがとう」
「洗濯してくれてありがとう」
「今日は朝早く起きられてすごいね」
重いうつの人に普通の生活は出来ない。
否定してはいけない。全てを肯定することが大事。
言うは易で、実行し続けるのはかなり厳しい。
一日二日我慢すれば良いわけでは無い。
三ヶ月?
いえいえ。
一年?
全然。
三年?
まだまだ。
五年・十年は覚悟してください。
それでも『寛解』です。
だから重度のうつの人との結婚生活は、三年もたない人が多いように感じる。
結婚三年目・五年目は離婚の確率が高いなんてよく言われます。
うつ病患者との結婚生活にも当てはまり、三年経っても五年経っても治らない、いつ治るかの目処も一切立たない、永遠にも感じる霧の中での生活だと、積もるものも多過ぎる。
テレビで見た夫婦も、旦那さんは最初非常に希望に燃えていて、結婚もして子供もできて「僕が頑張って家族を養うんだ」と言っていた。
時が流れ、家族の為に頑張る旦那さんは職場で昇進し、売り場のリーダーに成った。
給料は上がったが仕事が忙しくなり、仕事が終わってから片付けの出来ていない荒れ放題の家に、食事の準備をしに帰り、妻と喧嘩になり、離婚して出て行った。
まだ三歳の子供と重度のうつの奥さんを置いて出て行ったんです。
もし奥さんに頼る親兄弟が居なかったら、死刑宣告に等しい事です。けれどそれはよくある話しなんです。長続きしない人が多いです。
他人事では無いと思った。
最初の内はこんな事をやっていた。
「何か一つでも出来たらノートに書いて、1回10円を亜希子に貯金しよう」
どういう事かと言うと、
『朝早く起きられたら10円』
『お昼ご飯が用意できたら10円』
『夕ご飯が用意できたら10円』
『洗濯物が出来たら10円』
……etc.
そのお金は僕の小遣いから亜希子に出す。
給料のほとんどは生活費だから、夫婦共にひと月の小遣いは15000円。
僕の小遣いがあっという間に無くなってしまうので、その制度はすぐに破綻しました。
兎に角、自分でやること。
そして出来たことに対して褒めてあげること。
「自分は何も出来ないダメなやつだ」
「前の自分はこれも出来た、あれも出来た。それなのに今の自分は……」
兎に角マイナス思考になる地雷が多過ぎる。
朝はパンを自分でトーストして食べて仕事に出掛ける。
亜希子は起きられるかどうかわからないので、亜希子の分は用意しない。
会社はアパートから車で5分くらいなので、昼に帰ってきてご飯を一緒に食べる。
お昼が用意できていない時にはカップ麺などを二人分用意して、食べさせて10分ほど仮眠して仕事に戻る。
洗濯はだいたいやってくれていた。
畳むのは僕の仕事だ。
乾燥機付きの洗濯機を買った。
お金が無かったから縦型ドラムの洗濯機だ。
縦型ドラムは失敗した。
縦型ドラムで脱水すると、ドラムの縁に洗濯物がギッチギチに張り付く。
そのギッチギチに張り付いた状態で乾燥が掛かるから、表面しか乾かない。五時間も乾燥しているにも関わらずだ。
数回で乾燥機能は使わなくなった。