第一話 「僕と彼女」
第一話
「僕と彼女」
僕が住んでいる街には吹奏楽団がある。
みんな高校時代などに吹奏楽に関わった経験のある人たちだが、それぞれ就職しているので趣味でやっている人たちだ。
だからうまいわけではないが、それでも週2回練習してどこかで発表したりはしていた。
その吹奏楽団で、僕は彼女に出会った。
僕がドラムセット、彼女がフルート。
僕が団長、彼女が新人。
最初はただそれだけの関係だった。
腰まで届く黒髪のロングストレートで、スレンダーでお人形さんのような彼女は、誰が見ても目を奪われるとても綺麗な娘で、一目見て好きになった。
だけど、僕なんかをまともには相手にしてくれないだろうなって、分かってた。
付き合ったりするのはそれから半年後くらいしてからなのだが、この話しはその辺から始めましょうか。
先ず僕の自己紹介から。
僕は舞斗35歳。
自営業をしている自分の家で働いていて独身だから、自由にお金が使えて、アニメとゲーム三昧の生活をしている。
僕の家は地元で事業をしている、従業員二十名程のお店で、昔から変わらずそこそこ儲かっている。
お金持ちと言う訳では無いが、生活に困るようなことはなく、事業の関係で外食はほとんどしたことはなかったが、いま思えば外食は無くても、母親が質の良い食材ばかり食べさせてくれていたから、良い物を食べていたし、舌の味覚も良いものが出来上がっていたと思う。
そのくらいの家庭環境で、大した苦労も無く育った三男なので、立派に甘えたクソガキになりました。
何でも誰かにやって貰えると本気で思っていて、自分では何もやらないのだ。
大学を出て自宅に就職した。
毎日仕事が終わると、親元で夕飯を食べて風呂に入り、アパートに帰ってパソコンでMMOをしながら電話でMMOの中の連れと会話しつつ、同時にTVで撮り溜めたアニメを観るのが日課だった。
35歳にもなるといーかげん親が結婚結婚言い始めて、上手くいかないお見合いを何度もして、お見合いするのがしんどくなってきていた頃だった。
吹奏楽の話しの流れで、彼女と映画を観に行くことになった。
ご飯を食べて映画を観て、帰りにケーキをお土産に持たせた。
その時のケーキ屋さんは彼女のお気に入りになり、今だに何かあるとそこのケーキを買いに行っている程だ。
その時は本当に彼女をゲットしようとか、そんなつもりでデートしていた訳ではなかったので、いつものお見合いと違って気楽に付き合えたのが良かったと思う。
それからも何度か映画を観に行く仲になった。
彼女はとても綺麗な女性で、僕みたいな背が小さくて引っ込み思案で、他人からは「優しそうだね」しか褒める所が無いような人間に釣り合うとは、最初から思っていなかったから、たまに一緒に映画を観に行ってくれるだけで十分だった。
そんな僕たちの関係が動いたのは、彼女の一言だった。
「急にね、私と舞斗さんの間に小さい男の子が走っているのが見えたの。三人で楽しそうに歩いているの。これって私たちの未来かな?」
「え!? 男の子? 可愛いリュックとか背負ってたらいいね。僕と亜希子ちゃんの子供だったら、きっと可愛い子供になるだろうね」
僕と彼女(亜希子ちゃん)はそれから急に仲が良くなり、僕のアパートでグダグダと時を過ごすまでになった。
デートの時は分からなかったが、彼女は重いうつ病だった。
うつ病のクスリと、それに伴う吐き気止めのクスリと、それに伴う胃が荒れるのを防ぐ胃薬と……と言う感じで一度に大量のクスリを飲むのだ。
それが医者に行ってそのクスリを二週間分とか一ヶ月分とか貰うと、買い物用のビニール袋にパンパンになる程、見た目に引くくらいの量だ。
現在はその当時のように『大量にクスリを飲むことは悪である』と言う考えは、言われ始める直前だったので、それが普通だったし、それに対して疑問も持たなかった。
だから亜希子ちゃんはちょっとしたスキにぼおっとしている事が多く、動作もゆっくりで何となくふわっとしていた。
亜希子ちゃんの親は、両親共に小さい頃からとても厳しく、そして自分勝手な親だったので、彼女は両親が嫌いで、でも捨てられなくて、実家で暮らしている間は色々と辛い思いをしてきたようだ。
特に重度のうつ病を発症してからの一年間は大変な環境で過ごしたようだ。
当時はうつ病という言葉も出始めた頃で、うつに対する認知度もかなり低い時代だったので、亜希子ちゃんの両親のように、『動けなくなって仕事も辞めて、家で寝て過ごす人』を『怠けている』としか認知できない人が大半だった。
亜希子ちゃんは結婚していた。
もちろんその事は、楽団の団長だから最初から知っている事実だ。
それもあって全く手を出す気は無く、「何とか嫁さんをゲットしなければ」という強迫観念に駆られたお見合いばっかりしていた僕には、そう言う事を全く考える必要のない、ひょんな事から持ち上がった亜希子ちゃんとのデートは、本当に楽しかったのだ。
仲良くなるに従って、お互いの事情が判るようになり、彼女が実はうつ病で、旦那さんと二人暮らしだったアパートを逃げ出して数ヶ月経つと言う事が判った。
離婚をしたいのだが、旦那さんが納得しないので全く話しが進まないのだそうだ。
結婚生活は三ヶ月程で彼女が出ていく事になった。
彼女が言うには、旦那さんはとても良い人なのだが、『自分の感覚とは少し違う』と言う部分は結婚前からいくつか感じていたという。
しかし『自分とは違う』のは当たり前のことだし、『結婚して一緒に住めば直してもらえる些細なことだ』とも思っていた。
いざ結婚と言う話しになり、結婚式場に打ち合わせに通うようになったのに、旦那さんはほとんど亜希子ちゃんに丸投げで手伝ってもらえなかったそうだ。
亜希子ちゃんの仕事は、(今では考えられないブラックな話しだが)帰りが午前様になるような事が多々あるような仕事だった。それでもその合間を縫って準備を進めていたそうだ。
亜希子ちゃんは前の旦那の事を何度かこんな風に言っていた。
「思えばあの時、フラフラになりながら結婚式場に通って、妹の子供からりんご病を貰って高熱出して倒れたり、なぜか何度も担当の結婚プランナーが代わったりしたのは、何かしらのお告げだったはずなのよ。それを私は、『親に怒られる』とか『お互いの両親に会って結納を交わした後でもう後戻りできない』とか、何かしら理由を付けて、逃げずに頑張ったの。でもあの時逃げ出さなかった事を、今は本当に後悔してる。あの時の私に逃げ出すと言う選択は微塵も無かったのよ。そのあと誰にも助けてもらえず、私一人が悪者になって離婚の為に奔走した辛さに比べたら、結婚を直前で破棄するなんて全然楽だったわ」
「何とか結婚式を挙げてオーストラリアに新婚旅行に行ったわ。行きの空港で離婚したくなったのを我慢して飛行機に乗ったの」
亜希子ちゃんは笑いながら言う。
僕はその答えにある事を思い出して言った。
「昔流行った『成田離婚』って全く意味が理解できなかったけど、そんな人がココに居たって思ったよ。どうしてそうなったの?」
「結婚式挙げてからもずっとね、ずっと結婚したことが本当に良かったのか、悩んでいたの」
彼女はポツポツと話し始めた。
「あの人は何もしてくれなかったわ。結婚式の準備もほとんど私がやったの。席順決めるのってホント大変なのよ。すごく気を遣うし、こっちだって判らないことだらけだし。なのに何も手伝ってくれないの」
亜希子ちゃんはフフっと笑って、
「でもね、結婚して生活を続けていけば、直してくれるって信じて結構生活を続けたの。直らなかったけど。それでも私が賭け事嫌いだから、毎日の様に通っていたパチンコは止めてくれたわ」
「結局上手くいかなかったな」