いつかの話 彼がわたしを変えてくれた件
あれは中学二年、まだ寒さが残る春のことだった。
一度も交際経験のないわたしにお父様はこう言ったのだ。
「文乃、結婚は高校卒業と同時だ。相手も見繕っておる。あの櫻井社長の御曹司だ」
「──え? 確定なのですか?」
「なんだ、不満なのか? 政略結婚とは言え、御曹司は評判も良くナイスガイと聞いておる。安心しなさい」
「でも……わたしはお相手様と歳が三つも違いますし、まだ為人も知りません」
お父様に従順なわたしにしては珍しく、否定的なニュアンスで返答した。
「文乃はまだ若い。歳上の敬志君くらいがちょうどいいのだよ。人生経験が長いわたしが言うんだから間違いない」
お父様はいつも人生経験を盾にわたしを言いくるめる。
しかしわたしの言い分が幾分か届いたのか、敬志さんとデートする日を設けてくれた。
初めてのデートは放課後だった。
庶民デートということで、商店街をぶらつくというプラン。
高二の彼はセンター分けで背が高くて、まさに今どきの男子高校生だ。
対してわたしは三つ編みで、黒縁眼鏡をかけていて色気のかけらもなかった。
「やっぱ文乃ちゃんってよく見ると可愛いよね。あと中二なのにおっぱいもデカくてありがたいわ〜」
「そうですか……ありがとうございます」
全く嬉しくなかった。
下卑た視線はわたしの目ではなく、胸をしきりに見ている。
前評判のナイスガイとは正反対な人物像だ。
自然と軽蔑するような眼差しを向ける。
「あ〜、なにその目。馴れ馴れしくしすぎた? それともこれくらいの下ネタもダメ? ま、いいや。どうせ結婚するんだしさ〜」
そう言って彼は乱暴に手を繋ごうとしてくる。
「あの、わたし手すら繋いだことないので……!」
「あっそうなん? じゃあ処女ってことだ。へぇ、処女は久しぶりだなぁ」
全身を舐め回すように見られ、思わず距離を離す。
「そんな横に行っちゃってどうしたん? あーそこのクレープでも食べたいってことか。金ならいっぱいあるし何個でも奢ってやるよ」
「いえ、大丈夫ですので」
「ん〜? そう? じゃあこっち来な」
手招きされても、近づくのが怖くて足が動かない。
彼は訝しみながらも、わたしの手を強く握った。
「なんかこの商店街ってどこも不味いし、場所変えようぜ。そこの裏にある公園とかどうよ」
ではなぜ商店街に誘ったのだろうか。
「え、でも──」
わたしはデートをするにあたって「二人きりにならない」という条件を提示していた。
しかし商店街の裏に位置する公園は林に覆われており、人気はあまりない。
「ま、いいからさ。ベンチにでも座って休もうぜ」
手を繋がれてしまったからには逃げることもできない。
わたしは半ば強引に公園に連れてかれてしまった。
「あの、人いないですし他の場所に──」
「うん、確かにいないけどさ、人いない方がキスしやすいしいいじゃんか」
「え、しませんよ、そんなこと……」
彼は分かりやすく嫌な顔をした。
舌打ちするや、足元に転がる小石を思いっきり遠くに蹴り飛ばす。
「え、逆になんで? オレたち結婚するんだしそれくらい普通だって。ほら、一回すれば虜になるからさ」
「いや、ちょっと、強引ですって──」
無理やりに両肩を掴まれ、否が応でも彼と向き合う形になる。
自慢げに笑う彼はさぞ経験者なのだろう。
顔がぐっと近づいてくる瞬間、嫌悪感が凄くてわたしは振り払って逃げてしまった。
「おい、ジッとしてろって!」
逃げてはみたものの、一回り歳が違う男子校生に勝てるはずもない。
近づいてくる大きな影が視界に入った。
「やだ──やだ────」
そんなわたしの悲鳴に応えたのは少し背の低い男の子だった。
「本当、人間ってクズが多くて困る……」
その男の子はわたしと敬志さんの間に入った。
息が荒いわたしは膝に手をついて見守ることしかできない。
「おいそこのチビ、誰だよお前。そいつの知り合いか?」
その男の子は振り返ってわたしを一瞥したが、すぐ前を向いてしまう。
「赤の他人」
「じゃあ何の用だよ。どけって。邪魔だから」
「……時間稼ぎするから逃げた方がいいよ」
わたしに言われてるのは分かった。
逃げて警察に連絡するのが最善だと分かってはいた。
だけど体が動かない。
「正義のヒーロー気取り笑っちゃうなあ。今どきそういうのダサいって」
けらけらと笑う敬志さんは虚をついて大きく振りかぶった。
「──ッ」
少年の顔面を拳が襲う。
しかし、敬志さんの顔面にも拳がめり込んでいた。
「チビ、てめぇ……」
その後、身長やリーチの差はあっても少年は粘り強く戦った。
だから、敬志さんは卑怯な手を使ったのだ。
変則的な殴り方をしたかと思うと、その手にはシャーペンが──
「逃げて……!」
しかし言葉を発したときにはもう血が流れ出ていた。
わたしは悲鳴をあげ、膝から崩れ落ちる。
敬志さんは数秒して、自分がどれだけ恐ろしいことをしたか理解して焦る。
「オレが悪いんじゃねぇ、オレが悪いんじゃ──」
「は、早く救急車を呼ばないと──」
だけど、少年は痛がりもせず冷静だった。
「えぐれてないし浅いから大丈夫。それに、今日は思いっきり傷つきたい日なんだ」
そうは言っても、カッターシャツは胸からが赤く染まっている。
でも少年は笑って敬志さんにこう言った。
「後遺症もできたでしょうね。警察沙汰にしたくなかったら、金輪際、この子とは関わらないであげてください」
血を見てパニックになっていた敬志さんは悲痛な面持ちで語る。
「そ、それだけでチャラになるんなら──」
彼にとっては願ったり叶ったりなはず。
この愚行が帳消しになれば、約束された将来に悪影響もない。
そうして敬志さんは去っていった。
取り残されるわたしと少年。
「あの、救急車──」
「大丈夫だよ。水洗いしてくるから」
とぼとほどと水道に向かう彼。
わたしは追いかけながら感謝を口にした。
「ありがとうございます。本当に、本当に──」
「感謝できるのはいいことだよ。彼はもう絡んでこないはずだし安心していいと思う」
彼はカッターシャツを脱いで洗い始める。
傷は浅いと言っていたけど、痛々しく裂けた痕を見て昏倒しそうになってしまった。
「喧嘩なんて初めてしちゃったな。まぁむしゃくしゃしてたからなんだけど」
「むしゃくしゃ……ですか?」
「うん、先輩にフラれちゃってさ──」
彼は語ってくれた。
思わせぶりな先輩に遊ばれ、その帰りに泣こうとしてここへやってきたんだって。
「俺は恋愛に憧れてたんだ。自分は平凡だけど、それでも楽しそうに笑ってくれた先輩に恋していた。いや、それは綺麗事だな。本当は、目鼻立ちがはっきりした顔だったりスタイルだったり、表面的なものに恋してたんだ。そんな薄っぺらい理由だから裏切られる。いや裏切る方も悪いんだけど、そんなの見抜く経験値も持ち合わせてないから」
わたしは黙って聞いた。
彼が聞いて欲しそうな瞳をしていたから。
そして、彼の恋愛観を知りたくなったから。
「もう三年は恋愛なんてしたくないね。でも三年経ったら高校二年生。少しは考え方も変わってるといいな。今と同じままだったら自己嫌悪だ」
わたしに彼を癒せるだけの力はない。
今必要なのは彼の自尊心を保つような言葉?
いや違う。そんな気遣いは彼だって気付くし、本質的にはそこじゃない。
本当に必要なのは、ありったけの明るさだ。
どんなに気が落ち込んでいても、一緒にいるだけで笑ってしまうような愛嬌。
内気でネガティブなわたしを彼は欲していない。
もっと明るくて笑い飛ばしてくれるような人こそ相応しい。
三年の月日でわたしは変われるだろうか。そんな彼の理想像に。
わたしは水道で豪快に顔を洗った。
ふがいない自分に嫌気がさして泣いたのをごまかすためだ。
そんなわたしを察したのか、彼は自嘲気味に語った。
「俺は自己嫌悪を彼にぶつけただけだ。君の為に自己犠牲したなんて思ってないから感謝も謝罪もしなくていいよ」
そう言われてしまったら返す言葉がない。
うまく丸め込まれてしまった感が否めなかった。
立ち去ろうとする彼にひとつだけ聞きたいことがあった。
名前でも、連絡先でもない。
「わたし同じ中学二年生なんですけど、どこの高校志望ですか?」
「って受験話で精神的に追い込まないでよ……。普通は自己紹介する流れなんだけどな。それで、志望校だっけ。それは──」
後日、婚約は破談となった。わたしではなく敬志さんの意向だ。
お父様は高校卒業と同時に結婚させる考えを捨てなかった。
けど政略結婚の相手もそうそういるわけでもなく、パーティーや高校生活で己に見合う男を探せと言われた。
けど探すまでもなく、わたしは彼に決めていた。
そうしてわたしは今の内気な性格を変える為に努力した。三年後の彼と見合う女になると誓う。
まずは容姿や身だしなみに気を遣って、次は積極的にコミュニケーションを取るようにした。
そういった外面性がわたしの内面を変えていくのに長い月日はかからなかった。
高校に入ってからは彼の言っていた経験値を得ることにした。
彼が宮野遍という名前でどこのクラスなのかも知っていたけど、まだあと一年は辛抱と我慢した。
色々な人と付き合うと言っても、恋人ごっこみたいなものだったけど、噂はいいように脚色されていく。
わたしは様々なタイプの男性を通して尚、彼がいいと思えるのか自分自身を試した。
その結果、誰もが見かけのわたししか見ていないし、キスや性行為をすぐ求めてきた。
彼が愚かだと断罪した在り方そのものだ。
やはりわたしには遍くんしかいなかった。
ようやくあれから三年たった高校二年生。
わたしは変われた。彼は変わっただろうか。
意を決して屋上の扉を開ける。
「いた! わたしの次期彼氏くん」
遍くんの素っ頓狂な声でさえ愛おしく感じた。




