救命拒否カード
ここは、この市にある最大の病院の救命救急処置等センターだ。
数年前までは、別の名前だったが、今では、救命救急処置等センターに名前が変わった。
その理由だが。
「先輩、先程、運び込まれた交通事故の被害者ですが、救命拒否カードを持っています」
「そうか。回復可能性は」
「余り高くありません」
「それなら、僕が確認したら、処置を行うことでいいかな」
「ええ」
救命救急処置等センターで働いている医師の僕は、後輩の医師の判断も受けて処置、安楽死を行った。
安楽死という言葉がきつい、ということで処置という言葉が使われるようになっている。
これで、この被害者は安楽に逝ける筈だ。
様々な要因、特に生産性の問題から、植物状態等になった場合に死にたい、という希望を示していたら、安楽死を認めるべきだ、という声が数年前から高まり、救命拒否カード制度が設けられた。
事故や病気等により、植物状態等になった場合、救命を拒否することを予め表明できることになった。
その場合、それを示すカードを、基本的に携帯しておくことになっている。
これを携帯している場合、予後不良により植物状態になる公算が高い状態になった、と二人の医師が判断すれば、安楽死、処置を行うことができるのだ。
最近は、更にこの制度を拡充すべきだ、という声が挙がっている。
家族の負担等を考え、本人の意思が示せない場合、親権者や後見人の判断があれば、未成年者や被後見人でも同様のことができるようにすべきだ、というのだ。
救命拒否カードを、意思を示せる成年者のほとんどが持つようになった現在、そうなるのも時間の問題だろう、と僕は考えている。
実際、僕も持っている。
「先輩、よく耐えられますね。私には中々できません」
後輩のこの医師は、女性のせいか、優しすぎる。
本人が救命拒否カードを持っていても、安楽死、処置を施すのをためらうのだ。
「そうは言っても、人口が減っている現在、生産性を日本があげるためには、救命拒否カード制度が必要だよ。実際、僕も君も持っているだろう」
「ええ。でも、周りが持っている以上、皆、持たない訳には、行きません。でも、本当はこんな制度はおかしい、と私は想うんです」
彼女の言葉を、僕はさえぎった。
「首相も言っているだろう。日本のために、この制度は必要だと。首相や与党議員は、日本の国民が選挙で選んだものだ。救命拒否カードを否定するというのは、首相や与党議員を批判することで、本当の日本の国民なら赦されないことだよ」
僕は彼女を諭した。
今の日本は、事実上、一党独裁体制だ。
首相、政府与党の批判は赦されない、という国民の声が高まり、ほぼ野党は消滅している。
実際、野党なんて不要だ、あいつらは政府批判しかしないのだから。
対案を出しても、どうせ野党だから実現不可能なことしか言わない。
僕はそう考えているし、周りの多くもそう言っている。
「分かっていますよ」
彼女は目をそらしながら言った。
「ともかく、僕の心の中に、その言葉はしまっておく、いいね」
僕は彼女を諭した。
彼女とそんな会話を交わした数日後。
僕は職場で脳梗塞になって倒れた。
幸いなことに救命救急処置等センターだから、僕は助かる、と考えていたのだが。
脳梗塞になったせいか、眼が見えず、耳しか聞こえない。
「先生、この患者の容体は」
「どう見ても無理ね。先輩、判断をお願いします」
看護師と彼女の声が聞こえる。
僕の同僚の医師の声が聞こえる。
「これは無理だな。処置を行うしかない」
「分かりました。私がします」
彼女が処置をするようだ。
止めてくれ、僕は生きたいんだ。
救命拒否カード制度に、なぜ反対しなかったのか。
今になって僕は心から後悔をしていた。
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