第7話「新入生 その2」
七月から、日本棋院の囲碁教室に入会した。
棋院の教室には中学時代の三年間も通っていたが、当時はジュニア囲碁スクールという、中学生以下の子供しかいないコースだった。今回入会したのは年齢制限のない一般向けのコースで、生徒は五十代から六十代――あるいはそれ以上――の年配者がほとんどだった。囲碁を嗜む年齢層として多いのは圧倒的に六十代以上のリタイヤ組なので、それは至極自然なことだろう。
高校時代、囲碁は打っていなかった。
ジュニア教室を辞めたときにおよそ初段程度の棋力に達し、そこでひと区切りつけてしまった。当時はネット碁も利用しておらず――すでに普及はしていたが、家にパソコンがなかった――、囲碁部もなかったのでいつしか私の日常から姿を消した。
大学に入って再開したのは特別囲碁が打ちたかったからではなく、漠然とサークル活動というものに憧れがあったからだ。もしくは、サークル活動と無縁の生活を送ることが大学生として重大な誤謬であるかのように錯覚していた。三年間のブランクは大きく、基礎が危ういとさえ感じた。
再開から一年で三段程度まで棋力を伸ばしたが、卒業した先輩達や井俣や他大学の実力者と勝負を重ねるうち、今一度基礎に立ち返り、プロの指導を受けるべきだろうと思案した。
指導といっても週一回二時間半、そのうち生徒同士の対局を除けば講義自体は一時間ほどで、講師の指導碁は二ヶ月に一度くらいのものなので、急に何かが劇的に変わるわけではない。それでも、プロ棋士による棋譜解説などは大いに意義深いものがあった。生徒同士の対局を題材としていることが多く、アマチュアが犯しがちなミスや本手を学べるほか、プロならではの発想を垣間見ることができるので、八千円の月謝を支払うだけの価値は充分にある。
初日に対局した高山さんという女性は教室内で比較的強い部類の方で、時間切れで私の勝ちになったものの、おそらく形勢自体は少し不利であった。
すでに私は、なんとなく囲碁を再開して続けているという次元は逸脱していた。
七月の半ば、なぜか期末試験前の慌ただしい時期に、一人の新入生が入部した。法学部法律学科所属の浅井知佳は、中学の頃に少し囲碁をやっており、初段手前ということだった。女性としてはやや背が高めだが――ヒールを履いたら私とほぼ同じくらいだろう――、華奢なスタイルをしており、少し心細げな印象が漂う。整った容姿を持ちながらも化粧気が少なく、今風のキャピキャピした女子学生というイメージからは遠く感じた。
井俣や金村さんなどとは異なり言葉数少なく、その表情や仕草などから今ひとつ感情を掴み難く思えた。部室に見学に来たとき、例のごとく他に部員がいなかった為手合わせした。初段手前という自己申告が何を根拠としているかは不明であったが、感触としてはせいぜい五級に届くかどうかというレベルだった。なんとなく、初手から並べ直して検討を行う雰囲気でもなかったので、一局終えるとそのまま石を片付ける。
「強いんですね」
表情は一定のまま、しかし特別に不機嫌な様子でもなかった。
「いや、そうでもないよ。四月に入った男子部員は、僕よりだいぶ強いし」
「そうなんですか。皆さんすごいなぁ」
「ところで、なぜ今の時期に入部を?」
なんとなく、話を変えないと決まりが悪い気がした。
「私、青法会っていう法学部のサークルにも入っているんですが、そちらの活動や授業が忙しくて、なかなか足を運べなくて」
「あぁ、なるほどね」
囲碁部と青法会を兼部している四年生――囲碁部のほうは年に一、二回来るかどうかだが――がいるので、特に驚くこともなかった。
「だけどもうすぐ夏休みに入ってしまうので、その前に伺ったほうが良いかなと。でも、忙しい時期にすみません」
「いやいや、構わないよ。来てくれてありがとう」
ふと腕時計を見ると、必修の社会福祉原論の講義まであと十分を切っていることに気付く。
「と言いつつ、もうすぐ三限始まるから行かないとな。夏休み中は申し訳ないが特に活動はないけど、十月には団体戦もあるし、良かったらまた顔出して」
不慣れではあったが、部長らしい応対で幕を閉じる。
「はい、また伺います」
浅井に一揖し、ホフマンホールの薄暗い廊下を駆け出した。