第3話「新入生」
四月の半ば、囲碁部に新入生が一人入部した。
外国語学部ロシア語学科の井俣正は、私とほとんど変わらないぐらいの背丈ながら、肩幅が広めで体格がよく、髪型もワックスを使用して立たせており、一見すると体育会系の部に所属していそうな風貌だった。彼は、当時三段程度の棋力だった私よりも数段上の実力者だった。部室を訪ねてきた初日に早速手合わせすると、案の定私が負けた。序盤から本意でない展開に嫌気がさし中盤で投了したが、彼の言うところによると、投了はいささか早過ぎたらしい。
この先が不安だ、と思った。後輩が自分よりも格上であることへの劣等感がなかったと言えば嘘になるが、そうした実力の差から生じるものではなく、これから先輩・後輩という間柄で日々を送らねばならないという事実に、漠然とした不安を覚えた。
元々、人付き合いは億劫に感じるほうだ。月曜日と木曜日の夕方に行われる茶道部の稽古の際に、すでにそうした状況には直面していたが、そのときは忘れていた。瑣末で下らないことを理由に、私はしばしば憂鬱になる。井俣が多弁で、男性としては少し声が高めであったことも私の気に障った。
光蟲と会って以来、週二回のフランス語の授業は大学生活の楽しみの一つとなった。
グラマーのほうは無難な座学スタイルだが、コミュニケーションの授業は、拙いフランス語で自己紹介をさせられたり、受講生同士であれこれ会話するよう促されたりするので、やや決まり悪かった。光蟲とペアになって会話をする際、私達は双方決まって半笑いになったものの、真剣に取り組んだ。所属学科の授業のときは大概寝ているかサボっているかなので――光蟲はどうか知らないが――、五限という時間帯でも比較的体力が余っていた。
「囲碁の段持ってるの? すごいね、セミプロ級でしょ?」
この前と同じラーメン屋で、同じ味噌ラーメンを食べている。
「そんな大したものじゃないよ。新しく入った後輩のほうが数段強いしね」
「でも段持ってる人なんてそういないでしょ。一芸あるって羨ましいわ」
光蟲が、追加で二杯目の生ビールと餃子と半チャーハンを頼む。この前もそうだったが、彼はよく食べ、よく飲む男だ。
「何してる時が一番楽しい?」
会話の流れとして適当かは分からないが、単純に興味をそそられた。
「楽しいというか、暇があれば映画観に行ってるね。年間百五十回ぐらいは映画館行ってる」
「百五十回!?」
思わず、井俣のように声が高くなる。
「フィルムセンターのキャンパスメンバーズカード持ってるからさ、だいたい無料で観られるんだよね」
「へぇー、そりゃすごいわ」
フィルムセンターというのは京橋にある東京国立近代美術館のことで、いわゆる名画座のようにひと昔あるいはふた昔前の名作を中心に上映しているが、時折、「EUフィルムデイズ」などのように諸外国の映画――こちらは最近の作品も多い――の特集期間を設けていたりもする。提携している大学の学生は、学生証があれば無料もしくは割引料金で鑑賞できるという。
「昨日はロシア革命を題材にした映画を観に行ってた」
「面白かった?」
「いや、開始三十分位で寝てたから分かんないわ」
「寝てたのかいっ」
二日に一回近い頻度で映画を観に行っても、途中で寝入ってしまうこともよくあるらしい。
「まあ基本的に退屈な映画しかやってないよ。安いからね」
「そういうもんかね」
「客席にも死にぞこないの老人たちしかいないし」
「これこれ」
ずいぶんなことを言うなと、思わず笑みがこぼれる。
「すいませーん、生もうひとつ」
ジョッキを持ち上げ、光蟲が三杯目のアルコールに着手した。