襲撃
夜は僕の好きな時間だ。
凛とした静かな冷たい空気。
一寸先も見えない深い闇。
その中で僕は、抱き締めたリコリスの絹のような髪を撫でる。淡い香りが鼻に届き、あどけない寝息が耳へと届く。
何も分からないことが、リコリスの存在を引き立ててゆく。
だから僕は夜が好きだ。
少しずつ少しずつ、意識が心地よい深い闇に落ちていく。
(…シン、…シン!…きて、起きて!)
僕を闇から引き上げたのはイヴだった。
「ん…?イヴ、どうしっ…」
(しーっ、静かに。)
イヴに勢いよく口を塞がれる。
イヴの柔らかな手による痛みは、目を覚ますには充分過ぎた。
(囲まれてる…家から30m位の距離をぐるっと。)
イヴと額を合わせ、目を閉じる。
こうすることで完全な感覚共有が出来るのだ。
鋭い殺意が突き刺さる…数は分からないが、10や20ではない。
奴らの思考の奥深くへ進んでいく、ドス黒い感情。これは、憎しみ?
殺してやる、殺してやる…!
喉を食い破って、臓物引きずり出して、ズタズタに引き裂いて、殺してやる!
なんだよ、これ、なんでこんな。
奴らの思考に落ちていく、どこまでも黒い心の中へ。
この憎しみは僕らだけに向けられたものじゃない。
人に?自分以外の全ての生命あるものに?
いいや、これはこの世界全てに。どうして?
あぁ、そうか、君たちは…
(シン!シン!?しっかりして、戻ってきて!)
イヴの声が聞こえる。イヴ?イヴって誰だ?
あれ?僕は、今なにをしていたっけ。
……ぼくはなんだっけ。
(シン、大丈夫?)
誰かを心配する、鈴のような少女の声。
誰を心配しているのだろうか、シンと言ったか。
(シンは貴方のこと、私は貴方のことを心配しているの。
私が誰だが分かる?私はイヴよ、分かる?
……ごめんなさい、深く入り過ぎると危険なのに。)
…………僕は今なにをしていた。
引っ張られたのか、奴らの思考に。
情けないな。
謝り続けるイヴの髪を撫でる。
真っ直ぐで、細やかな髪だ。リコリスの髪とは違って僕の指を従順に通してくれる。
「イヴのせいじゃない。」
僕が立ち上がるとイヴが
「待ってシン、一人じゃ危ないわ。」
泣きそうな声で僕を止める。震える指で裾を掴む。
奴らを放っておくわけにはいかない。それにユリはきっと起きてはくれない。
「支援頼むよ。」
僕は外へ飛び出した。
外にいたのは…狼か?
何十もの爛々と紅く輝く鋭い目が、こちらを見つける。
ぐるるるる…がうっ
短く吠えると、僕の周りに火柱が立つ。
能力持ちか、厄介だな。
ひとまわり大きな狼がゆっくりと姿を表す。片目が潰れ、口が少し裂けている。
こいつがボスだ。一騎打ちを誘っているのか、
この火柱がリングだとでも?
「君を倒せばいいんだね?」
裂けた口が嫌らしく歪む。当たりらしいな。
「いいね、来いよ、犬っコロ。」
両手を広げ、わざとらしく挑発する。
予想外の行動だったらしく、残った目が僅かに大きくなる。
だが確実に頭に来ている。
(…シン、あまり挑発するのは。)
イヴの声が響いて、僕の注意がそれた一瞬をつき、飛びかかってくる。
流石ボスを務めるだけのことはある。
戦い方を知っている。
隙をついたところで無駄なのだが。
揺らめく火はそのままの姿で固まり、飛びかかる狼は空中で止まる。よく見ると爪に火を纏っている。能力持ちはやはりこいつだ、発火能力かな。
野生じゃ敵無しなんだろうけど、相手が悪かったね?
これは僕だけの時間だから。
刀を振るう。
君は何も出来ない。
時が刻み始める、僕の時間は終わった。
そして君の時間もね。
僕の足元に落ちる、胸から上だけの狼。
訳が分からないといった感情が見て取れる。
分からなくていいよ、さよなら。
思いっきりに頭を踏み抜く、硬いものが割れて中から柔らかくてドロッとしたものが零れる。僕はこの感触がとても好きだった。
生命を終えゆくものを踏みつけるのは、とても気持ちがいい。
火柱が消える、子分たちが慌てているのが手に取るように分かる。
「君たちは能力持ちじゃないんだろ。見逃してあげるからさっさと帰りなよ。」
もう能力を使うのはキツいし、この数を相手にするのはゴメンだ。
消耗を相手に悟られるわけにはいかない、できるだけ余裕を見せなくては。
(シン、能力を使うなんて。まだ沢山いるのに。)
ボスを叩けばバラバラになるものなのだよ。群れの動物っていうものは。
見ててご覧よイヴ。きっと今に蜘蛛の子散らすように……あれ?
狼達は変わらずこちらを睨みつけている。
「君たちのボスは僕が倒したよ!ほら!」
頭の割れた死骸を狼の方へ投げる。
ぐちゃり
鈍い音がなる、肉の塊の落ちた音。
…おかしい、興味を示していない?
ねぇ、イヴ。嫌な予感がするんだけど。
(…シンが今倒したのは確かにボスよ。でもね、どうやらもう新しいボスは決まっていたみたいなの。息子みたい、多分能力持ちね。引退試合だったのかしら?)
能力は突然現れるが、その後の世代へ遺伝する。
それも親より強力になることが多い。世代交代の早いものほど強力な能力を持っている。
強力な能力は消費が激しい、知能の低い生物は使い過ぎてすぐに死んでしまう為に、あまり脅威にならなかったのだ。
「マズイなぁ…この状況。」
これ以上能力を使う訳にはいかない。
狼と人との身体能力での勝負だ。
普通なら狼に軍配が上がるが、イヴの能力で相手の出方があらかじめ分かる、こちらが有利だ。
僕の勝ちだよね、イヴ。
さぁ、どうくるのか教えて。
(シン、2秒後に右に半歩。)
何その指示…?
一匹の狼が躍り出る。と、火球が飛んでくる。
「うわっ!?」
こいつ、直接攻撃を仕掛けないのか?
遠距離攻撃は僕には出来ない、分かっていてやっているな?嫌な奴。
(2m前進して30cm以上飛んで、そうしたら4秒間9時の方向に走り続けて。)
言われた通りに動くのも楽じゃない。
火球が頬を掠め、髪が少し焦げる。最悪だ。
(大きいのがくる、2秒以内に相手から50cmの距離に移動して。)
無茶を言ってくれる。
能力を使うしかない、使えば確実に倒れるだろうがボスさえ倒せばいい。
自分の時間だけを早く進めるのだ。
後ろに熱を感じる、爆風がゆっくりと迫る。
狼を居合で仕留め…損なった。
浅すぎる、片目に傷をつけただけだ。
時間をずらすと距離感が掴みにくくなる、自分の認識と進む速さに誤差があるからだ。
改善点が山ほどあるなぁ、僕の能力って。
「あははっ…親とお揃いだね。」
(シン!ダメ、逃げて!)
もう、無理だ。
体から力が抜けて倒れ込む、鼻先で転がされて仰向けにされ、狼が僕の胸に乗る。勝利の笑みを浮かべているように見える。
…調子に乗りやがって、下等動物が。
鋭い牙が、眼前に迫る。
死が間近に迫るのを感じ、目を閉じる。
顔の上に何かが落ちてきた。
目を開けると、首のない狼の影がみえる。
落ちてきたのは頭だ。
この暗闇は全てを隠してしまった。
何があったのだろう、無数にあった子分たちの荒い息遣いも聞き取ることは叶わない。
鉄錆の匂いの中で僕は気を失った。
再び目を覚ましたのは、空が白んでくるころだった。
改めて周囲を確認すると、見渡す限りの赤。
血だ。
血だまりの中に黒い毛の塊が見受けられる。
これは全て狼だ。
死骸を拾い上げて見ると、切断面は恐ろしいほど美しい。
僕の刀だってこんなに綺麗な切断面を作ることは出来ない。
これをやったのは、リコリスか。
空間ごと切断したのだろう。
こんな広範囲に能力を使って平気なのか?
僕みたいに倒れているのではないか?
心配だ、早く、早く家に帰ろう。
身体中が痛い、足を引き摺って、何とか家に辿り着く。
「サクラ!大丈夫か?明るくなってから探しに行こうと思ってたんだ。」
「ハジメ……リコリスは?」
「第一声がそれかよ、平気そうだな。リコリスは寝てるだけで、なんともないぜ。」
すぐに寝室に行こうとしたが、その格好で家に上がるなと言われた。
当然だ、血塗れなのだから。
先に川で洗うことにした。
「シン!大丈夫だったのね、よかったわ。」
「イヴ、僕今水浴び中だよ。」
僕は女の子に裸を見られても平気な年ではないのだ。恥ずかしい。
「私は恥ずかしくないわ?」
「僕が恥ずかしいの!」
少し遅めの朝食をとる。
みんなはもう食べてしまったようで、僕一人だ。
一人の朝食はどこか寂しい。
「イヴ、リコリスに能力を使わせたのは君?」
「……私以外にいると思う?」
「いいや。」
「シンを助けたかったの。それはリコリスも同じよ。……怒ってる?」
「怒ってないよ、僕が死んだらリコリスを守れなくなる。感謝してる。」
「なら、良かった。リコリスが起きたら顔を見せてあげてね、心配してるわ。」
リコリスには出来るだけ能力を使って欲しくはない。だが使わなければいけない場面もある。
その時のために訓練しておいた方がいいのかもしれない。
考えを改めないとな。
寝室へ行くとリコリスはまだ眠っていた。どんなに優れた芸術家だろうと、これ以上の美しさを形にすることは出来ないだろう。
暫く眺めていると、リコリスは目を覚ました。
僕を見つけて、嬉しそうに笑っている。
天国はここだった。
リコリスを抱き締めて、僕らは眠りにつく。
昨日中断されてしまった緩やかな幸せを取り戻すために。