第四話
地下室の中は異様な熱気に包まれていた。
ハスラ村のはずれにある小さな社。その地下に秘かに作られた地下室の最奥に五十人も入ればいっぱいになりそうな広間があった。
壁に据え付けられた松明に照らされた室内では香が焚かれ、黒いローブをまとった数名の男女が膝をついて一心に祈りを捧げている。
彼らが跪く先、井戸に偽装した天窓から射し込む月明かりに照らされるのは、床に描かれた魔法陣と祭壇。そして祭壇の前で祝詞を唱える神官がひとり。
しかし神官の法衣は黒く染められ、紡がれる祝詞は禍々しさに満ちていて、彼らの祈りが神に向けられたものでないことを証明していた。
祝詞を唱え終えた神官は天窓を見上げる。丸く切り取られた夜空の中央に、今まさに満月が差しかかろうとしていた。
「月は中天にかかった。贄をここに!」
神官の言葉に入り口の近くにいた男達が扉を開くと、神官同様、黒いローブをまとった男達が地下室に入ってきた。
彼らが連れているのは一人の少女。生まれたままの姿の小柄な少女を、一際体格の良い男が肩に担いで運んでくる。ピクリとも動かない少女の姿に神官は眉をひそめた。
「……生きているのでしょうね?」
「ご安心ください、薬を盛っただけですので。小柄なれど力は相当なものでして、こうでもせねば逃げられる恐れが」
意識はあるようで、乱暴に祭壇に投げ置かれた際に少女は抗議するかのように唸った。猿轡をかまされているため、唸ることしかできないのだ。
そんな少女に神官が覆いかぶさるように顔を寄せた。
「喜びなさい、罪深き者の子よ。今宵、そなたはその身を捧げることによって贖罪とすることができるのです」
神官の手が月光を反射して妖しく光る。いつの間にかその手に握られた短剣を視界に納め、少女は恐怖に青い目を限界まで見開く。
恐怖する少女を楽しそうに見つめてから、神官は魔法陣に向けて声を張り上げる。
「魔王様、そしてその眷属よ! 時、満ちたりて我はここに贄を捧げん。我が呼びかけに応え、弱き者を虐げし者達に死を与えたまえ!」
「「「「「死を与えたまえ!」」」」」
黒ローブの一団が復唱する中、高々と短剣を掲げた神官は片手で少女の猿轡を外した。最後の言葉を聞くためではない、生贄の悲鳴こそが魔族を惹きつけると信じているからだった。
「た……助け……」
まだ膨らみもない胸に突き立てられた短剣が、少女の言葉を遮った。
視界を埋め尽くしていた光が消えると、そこは見知らぬ地下室のような場所。目の前にはひれ伏す黒ローブの集団に、胸に短剣を突き立てられ、ゆるやかに死の淵を転げ落ちて行く祭壇の上の少女。一目で魔王崇拝者による魔族召喚の儀式だと理解できる。
「……また面倒くさいところに呼ばれたものね」
マルレーネの呟きはカタリナとテオドラの内心を代弁していた。
訓練生といえども、マルレーネたちも召喚のシステムは理解している。肉体を持ってアルシークに転移するには、召喚者の要求を受け入れ、契約した場合に限るということを。
……まだ訊いてもいないというのに!!
言ってみれば契約書の内容も知らずに契約書にサインしてしまったようなもので、この時点でマルレーネたちに選択肢は無くなった。どんな無理難題であれ、この場にいる人間の要求には首を縦に振らなくてはならず、拒否すれば契約不履行で、どのようなペナルティを受けるかわからない。
魔法陣は今、ドーム状の薄い光の壁に覆われている。この光の壁は契約が結ばれない限り解除されることはなく、ゆえに逃走も不可能な状態だ。
詰んだ。
マルレーネたちが頭を抱えていると、最前列でひれ伏していた神官が顔を上げた。
「ようこそ、我らが呼びかけに応じてくださいまし……た?」
満面の笑みを浮かべた神官はしかし、魔法陣の中を見て首を傾げた。当然だ、マルレーネたちは魔族の特徴を隠し、人間の恰好をしているのだから。
間違って人間を召喚してしまった?
神官が不安を感じたのも仕方がないだろう。その不安が伝播したのか、遅れて顔を上げた者達も互いに不安げな視線を交わしている。
どう対応したものか。マルレーネが悩んでいると、後ろでテオドラがスンスンと鼻を鳴らした。
「……殿方の匂いがしますぅ」
(この状況でもそれか!)
そういえば後で殴ると決めていた。今殴っておくべきだろうか。
思わず槌矛に手が伸びるが、その時、同じくカタリナが鼻を鳴らした。
「微かに……新しい血の匂いもするわね」
二人の視線は上、満月が覗く天窓に向けられていた。つまりは外で、なにかが起っている。
「時間を稼いでみて」
「わかった」
小声で打ち合わせていると、戸惑いを隠せない神官の声があった。
「あの、我らが召喚に応じてくださった魔族様……でいらっしゃいますな?」
十分に意味は聞き取れる。どうやら言語は大きく変化していないようで、訓練所で学んだ人間の言葉で問題なく通じるようだ。マルレーネは神官に向き直ると、魔法陣の縁まで歩み寄り、胸を張ってできるだけ尊大に応じた。
「うむ、いかにもそうだが。なにを自身なさげにしておる」
「失礼ながら、人間にしか見えぬものでして」
「ほほう……。我らの真の姿を見たいと言うのか。覚悟はできておるか?」
魔族の中には見ただけで相手を恐慌状態に陥らせてしまうほど悍ましく、恐ろしい姿の者もいる。それらの種族を意識しての発言だったが、どうやら神官は知識として知っていたようだった。顔色を変えて改めて平伏した。
「も、申し訳ありません! 貧弱な我らに配慮されたお姿とは気づかず」
「なに、遠慮することはない。それが願いならばいつでも真の姿を見せてやろうぞ」
「め、滅相もない。どうかご容赦を!」
「……なに笑ってるの」
最後の言葉は魔族語でカタリナに向けたものだ。普段使わないような言葉で演技しているマルレーネがおかしかったようで、声を押し殺し、肩を震わせている。
「ぷぷっ……いやあ、なかなか貴重なものが見れたと思って」
「怒るよ?」
「あ、やめて。マリィが本当に怒ると危険だから」
「あの、魔族様……?」
魔族語でごにょごにょやっているマルレーネたちに神官がおずおずと声をかける。
「そろそろ我らが願い、聞いていただけますでしょうか」
「聞いてやっても構わぬが……」
ちらりとマルレーネはカタリナとテオドラに視線をやる。二人は鼻を鳴らした後、頷いた。
「それどころではなくなるようだな」
言い終わると同時に、乱暴に扉が開いて一人の男が儀式の間に転がり込んできた。
「た、大変だ、教会の手の者がここに来る! 村はほとんど制圧された!」
騒然となる儀式の間。魔王崇拝ともなれば極刑もあり得る重罪だ、彼らの動揺は至極当然と言えた。
だが、いち早く立ち直ったのは神官だった。
「狼狽えるな! すぐに入り口の防衛態勢を固めなさい、なんのために手練れを雇っていると思っているのです」
一喝された男がすぐさま扉から飛び出していく。それを確認すると、神官は次の指示を飛ばした。
「通路を封鎖しなさい。時間を稼ぐのです」
「し、しかしそれでは外の者たちが」
「構いません、早くしなさい」
神官の指示を受け、動揺していた者達が守りを固めるために動き出す。
扉には閂がかけられ、扉の向こうから振動とともになにかが崩れる音がした。通路を崩したのだろう。
矢継ぎ早に指示を飛ばし、それに従って機械的に動く黒ローブたち。彼らの意識が自分達から完全に外れたのを確認すると、マルレーネは魔法陣の縁にしゃがみ込んだ。神官と会話しつつも、ずっと気にかけていた者がそこにいる。
「まだ生きてる?」
マルレーネの問いかけに、少女の瞼が薄く開いた。意外にもまだ息があるようで、声の方に首を傾けた。口から血を吐き、それでも必死に声を搾り出した。
「助……けて……」
「それが貴女の願い?」
もはや少女に言葉を紡ぐ力は残されていなかった。しかし微かに、首が縦に動いた。
「わかった。その願い、叶えよう」
瞬間、光の壁が消え去った。
「カタリナ、あの娘をお願い」
「はいはーい」
「テオドラは黒ローブの一団を殺っちゃって」
「食べていい?」
サキュバスの言う「食べる」は勿論、性的に、だ。
「ダメに決まってるでしょ、時間ないんだから」
「ちぇー」
マルレーネの指示を受けてカタリナが生贄の少女に駆け寄り、テオドラは蝙蝠状の翼を拡げると、忙しく動き回っている黒ローブの一団へと飛翔した。
これだけ賑やかに話していれば、さすがに神官も異変に気づく。頭上を飛び越えるテオドラに驚き、振り返って自由に動き回っているマルレーネたちを見て、一瞬言葉を失った。
「魔族様! これは……これはどういうことですか!?」
「んー? いやなに、助けてって願い事が聞こえたからね。じゃあ助けてあげるよって契約をね」
肩をすくめて神官の怒りをスルーするマルレーネ。祭壇ではカタリナが少女の首筋に牙を突き立てて吸血の真っ最中。
生憎と三人は治療魔法が使えない。ならば少女を不死化させてでも、ここから逃がせば助けたことになるはずだ、という乱暴な理屈だ。もちろん、自由になるために少女を利用しただけというのが本当のところではあるが。
「別に、召喚主だけが契約を結べるわけではないのよ? よく覚えておくといいよ」
「し、召喚したのは私だ! こんな……こんな馬鹿な話があってたまるものか。生贄の願いなど無効だっ!!」
激高した神官は懐から新しい短剣を抜くと、そのまま祭壇に向けて走り出した。
明らかに鋼とは違う輝きと、わずかに感じる魔力からして銀製の短剣のようだ。なるほど、確かにこれならばハーフとはいえ吸血鬼のカタリナに傷を負わせることができるだろう。
当たればの話ではあるが。
そして間違いなく、神官にカタリナを傷つけることはできない。そう判断したマルレーネはテオドラを手伝うことにしたが、神官から視線を外した瞬間、口元を押さえていきなり飛び退いてきたカタリナに横合いから体当たりをくらうことになってよろけた。
「なにしてるのよ」
「あの娘……魔族の血が混じってる」
「なんですって?」
神官はカタリナには目も向けず祭壇に突進していく。どうやら最初から生贄の少女が狙いであったらしい。少女を殺せば、契約不履行でマルレーネたちになにかしらペナルティーを与えられると考えてのことだろうか。
そんな神官の目の前で、少女の胸に刺さっていた短剣が押し出されるようにして抜け落ちた。息絶えたはずの肉体がゆっくりと起き上がり、開かれた瞳は青から真紅に色を変えていた。そして、みるみるうちに胸の傷が塞がっていく。
「この死に損ないがー!」
「……え?」
神官の叫び声に意識を覚醒させた少女が最初に見たものは、怒りと恐怖の混ざった形相で、自分に向けて短剣を突き出す神官の姿だった。少女の脳裏に、自分の心臓目がけて短剣を振り下ろした神官の姿がフラッシュバックする。
「きゃああああああああっ!!」
「ぐおあっ!?」
悲鳴をあげて、少女は両腕を大きく横に振った。なにか考えがあっての行動ではなく、単純に自分の身を守るための条件反射のようなものだった。偶然、神官が突き出した短剣を横から払うような形になったが、瞬間、神官の手が砕けた。さらに嫌な音とともに肘から先があらぬ方向に折れ曲がり、肩が外れた。
倒れ込む神官の横を、少女は手を振った勢いそのままに悲鳴と共に転がり抜け、壁に衝突して頭を抱えた。不死化し、増大した自分の力に振り回されているのは明白だった。
ドオン!!
その時、扉に何かが叩きつけられる音がした。黒ローブたちが閂をかけていなければ、今の一撃で開けられていただろう。
「撤収するわよ。カタリナはあの少女をお願い。テオドラ、終わってる?」
「終わってますよぉ」
ニコニコ微笑むテオドラの隣には、一列に並んだ黒ローブの一団が、短剣で自らの喉を裂いて死んでいた。
「魅了して自害してもらいましたぁ」
「みたいね。……また沢山背負ってまあ……」
マルレーネはテオドラの背後を見て呟いた。人には見えない何かが、そこにいるのだろう。
「先に行くわよ」
カタリナがローブを蝙蝠状の翼に変化させ、少女を抱きかかえて天窓へと飛翔した。力の制御ができない少女は、カタリナから立つよう命令されると慌てて立とうとし、そのまま飛び上がって天井に頭をぶつけてしまったのだ。カタリナが運んでしまった方が早かった。
「じゃあ、テオドラは私をよろしく」
「ええ~っ、運ぶならお嬢様の方がいいですよぉ」
ゴッ!
「ごちゃごちゃ言ってると殴るわよ」
「もう殴ってるじゃないですかぁ~」
マルレーネを抱きかかえ、テオドラは天窓へと飛んだ。途中、激痛にのたうち回っている神官の頭部にマルレーネが槌矛を叩きつけてトドメを刺す。儀式の間に突入してくるであろう者達に情報源を残しておくつもりはないのだ。
そして、轟音とともに扉が吹き飛んだ。燃えながら砕け散る破片をくぐり抜けるようにして、武装した男達が儀式の間に突入してきたのは、四人が天窓から外へと脱出した直後だった。