序章
「少々早く着きましたか」
懐から取り出した懐中時計で時間を確認した老紳士は、誰に聞かせるともなく呟いた。
執事を思わせるスーツに身を包み、左目にモノクル。明らかに大きすぎる山高帽に違和感があるが、彼の紳士然とした振舞いが、多少の違和感など吹き飛ばしてしまっていた。
老紳士は優雅な手つきでティーポットからカップに紅茶を注ぐ。無駄がなく洗練された動作には長年の経験が感じられた。そして彼は椅子に深く腰掛けて淹れたての紅茶の香りを楽しんだ。
『老紳士の休息』
絵心がある者が見れば、そんなタイトルをつけて一筆執りたくなるような穏やかな光景であった。
陽光遮る噴煙に降り注ぐ火山灰と噴石。大地を埋め尽くす灼熱の溶岩さえなければ……。
ここは火山島【サン・ブルト】
彼はまったく場所をわきまえていなかった。
世界の傷、と呼ばれるこの火山島は七柱の神が世界【アルシーク】を創造した神話の時代から噴煙を上げていると伝えられる。
神話の時代、豊かなアルシークに魔王が大軍を率いて攻め込み、神々と激しい戦いを繰り広げた。豊かで広大な大地は三つに裂かれ、砕かれた海底からは溶岩が噴出した。これが後のサン・ブルトであり、魔王の初侵攻より千年の月日が流れてなお、噴火を続けている。
「世界は未だ、血を流しているのだ」
人々はそう語り、神々と魔王の戦いの凄まじさに恐怖するのだった。
……などという話はどこ吹く風。あらゆる生命を拒絶する灼熱の島にあって、どこから持ち込んだのかテーブルセット一式とティーセットで優雅(?)な午後のひと時を楽しんでいた老紳士は、待ち人の気配を感じて視線を上げた。
陽光を遮る噴煙のカーテンに穴が空いた。漏れ落ちた陽光が老紳士の向かいの席を照らしだし、純白のドレスを身にまとった女性がふわりと舞い降りた。
髪は陽光を溶かしたような金のブロンドで、白磁のように白い肌。大きな錫杖を片手に席についた女性は、エメラルドのような碧の瞳に悪戯っぽい光を浮かべた。
「お待たせしてしまったかしら」
「いえいえ、わたくしが早くに来ただけのこと。女性を待たせるわけにはいきませんからな。……お飲みになりますか?」
「いただくわ」
何も知らない者が見れば、数年ぶりに里帰りした孫娘と、それを出向かえた祖父のようなやり取りにしか見えないだろう。
ここは火山島だというのに。
不自然に二人の周囲を噴石や火山灰、溶岩が避けてはいくのだが……。
「硫黄の臭いで紅茶の香りが台無しね」
どうやら臭いだけは避けてはくれなかったようで、女性は顔をしかめた。
「致し方ありますまい。我らは人目につくわけにはいかないのですからな。それを承知だからこそ、ここを指定されたのでしょう?」
「少し後悔しているわ」
老紳士の言葉に軽く肩をすくめてから、女性は紅茶に口をつけた。
しばし、場違いなほど穏やかなティータイムが過ぎてゆく。
ここは火山島だというのに……。
「ごちそうさま。それでは、そろそろ用件に入りましょうか」
空になったティーカップをソーサーに戻し、女性は姿勢を改めた。
笑顔はそのまま、しかし明らかに身に纏う空気が変わった。歴戦の兵であっても自ら膝を折りたくなるような圧倒的なオーラ。恐らくこれが彼女の仕事モードなのだろう。
だが老紳士は表情ひとつ動かさず、同じようにカップを戻すと姿勢を正した。こちらも孫を見るような柔和な表情に変化はない。
二人とも、並みの者ではなかった。……まあ、並みの者ならば絶賛噴火中の火山島でティータイムを楽しむようなマネはしないのだが。
「約束の時はとうに過ぎています。貴方の主はなにをしているのですか? 怠慢が過ぎるのではないですか?」
女性の言葉に老紳士は右手を翻す。まるで手品のように手紙が現れ、彼は恭しくそれを女性に差し出した。
「我が主がわたくしめに書かれた手紙です。どうぞお読みになってください」
手紙を受け取り、一瞥した女性は驚愕に碧の目を見開いた。困惑を隠せず、何度も視線を手紙と老紳士の間で往復させた。
「ふざけているんですのっ!?」
怒気を孕んだ叫びに空気が震えた。降り注ぐ火山灰が彼女を中心に吹き飛ぶほどに。
だが老紳士は顔色ひとつ変えない。
「最初の言葉だけ読めばそのお気持ちもわかりますが、どうぞ最後までお読みください」
そう言われて、女性は再び手紙に視線を戻した。明らかに隠しようのない怒りのオーラは、しかし読み進めるうちにみるみる鎮まり、最後には困惑と申し訳なさが混在する複雑な表情に変わっていた。
「ご理解いただけましたか?」
「ええ……こちらの落ち度も認めるわ」
「それでは、今後のことですが……」
降りしきる火山灰の下、長い打ち合わせが始まった。