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寤生

作者: 赤月

 タイトルですが、しっくりこなかったので『最初の覇者』から『寤生』に変えました

 少年は、母に(にく)まれていた。

 ただし、孝という概念があり、親が子を悪むとも、子が親を悪むことは不孝である、という考えがある。しかし、少年は母を悪んではいない。しかし、その想いは、決して、親を悪むのはいけないことだという道徳心からではない。


 ――私は、不孝の子だ。


 という想いが、少年の胸を満たしていた。

 少年の名は、

 寤生(ごせい)

 という。変わった名である。寤、とはさからう、という意味であり、寤生とは逆児のことを言う。彼は足から生まれてきたので、母は驚き、寤生と名付けたのである。逆児として生まれたことが、寤生の最大の不幸であったといってよいだろう。ただしそれは、母に悪まれるという不遇な生を得たことだけではない。


 ――母を苦しめて生まれてきた私だ。母に悪まれて、当然であろう。


 こういう諦観が、寤生の中にあった。寤生が自身を不孝者と想うのも、そのためである。寤生の中には母を愛し、また、母に愛されたいという願いが胸を焦がすほど強くある。しかし、寤生の哀しさは、逆児でこの世に生を受けたことを、己の不徳、過失として重くとらえていることであろう。

 寤生は、鄭の太子であり、父は武公である。

 鄭国の歴史は浅く、武公は二代目であった。二代目が建国者たる太祖の偉勲に埋没するのは、中国に限らずとも例は多く、武公もその例に合う君主であると思われるが、この人も鄭の名君である。

 鄭の歴史の話をすると、鄭は武公の父、桓公から始まった。桓公は周の厲王の庶子であり、この人が初めて鄭という地に封建された。厲という字は悪辣な王に贈られる諡号であり、実際、厲王は暴君であったが、桓公が鄭に封建された頃の周は、まだ凋落してはいなかった。ただし、桓公在位の間に、周は乱れ始め、周に離反する諸侯が出だした。このとき、桓公は鋭敏に危機を察し、洛水の東の地に移住した。同時に、その地に配下の人民を移した。桓公の偉大なところは、このとき、この地には(かく)(かい)という国があったのだ、二国の君主は桓公の名声を聞いて十邑を献じ、後にその地の民は桓公に心服したということである。

 しかし、桓公には周室と同姓であるという義侠心から、周の乱れを見逃せず、自国の存亡への危懼(きく)がなくなると、兵を率いて周の危急へはせ参じ、戦死してしまうのである。武公は、桓公の死後、鄭の国人に擁立された君主である。即位の背景を想えば、この君主の在位が二十七年という長きにわたったという一事をとっても、武公は名君と評すに足る君主であろう。

 さて、寤生の話に戻すと、武公が(しん)という小国から迎えた妻を武姜(ぶきょう)といい、彼女が寤生の母である。武姜には他に子がおり、

 叔段(しゅくだん)

 と名付けられた。叔とは三男の意であるから、寤生と叔段のあいだの兄弟は母が違うのであろう。

 武姜は、叔段を溺愛していた。

 元来、武姜の性情は子に対して惜しみなく愛を注ぐたぐいのものであり、寤生に対してのみ、歪んでしまったのか。あるいは、寤生を強く悪でいる反動なのかは分からないが、武姜の偏愛が寤生の寂寥をより深く、暗くしたことは確かである。

 寤生にとって幸いであったことは、父からは愛されていたことであろうか。武公の死に際して、武姜は、


「叔段を太子にしていただきたい」


 と言ったが、武公は容れなかった。武公の死後、寤生は鄭の君主として即位した。しかし、依然として、寤生が武姜から愛されることはなかった。

 当時、親が死ぬと、子は喪に服す。世俗のことから遠ざかり、質素にして親の死を悼むのである。その長さは二十五か月という長さであり、新君主が立てば、最初の三年は宰相が執政となるのが通例であった。

 しかし武姜は、武公の喪も明けぬうちに寤生に、


「制の地を叔段に与えなさい」


 と命じた。自身を不孝者である、という想いの強い寤生としては許諾したかったが、制の地は鄭の邑の中でも屈指の険要の地であったので、さすがの寤生も、君主としての己として答えた。


「それは、出来ません。他の邑でしたら、どの邑でも、仰せのとおりにいたしましょう」


 そこで、武姜は(けい)の地を求めた。叔段が京にいることを寤生が認めたので、以後、叔段は京城大叔(けいじょうたいしゅく)、あるいは単に大叔と呼ばれるようになった。

 鄭の臣に、

 祭仲(さいちゅう)

 という者がおり、寤生の決断に対して諫言した。


「都城の大きさが百雉(ひゃくち)を超えれば国の害となります。古の制度に従いますと、大の都城であっても国の三分の一を越さず、中の都城ならば五分の一、小さいものならば九分の一というのが習いです」


 ()とは城壁の面積の単位であり、長さ三丈、高さ一丈の大きさのものを言う。周尺の一丈は二、五メートルなので、一雉は十八、七五平方メートルである。百雉の都城とは、そのまま、高さ二十五メートルの城壁を思い浮かべてもらえばいいだろう。


「ところが、京の大きいこと、この度を過ぎています。我が君は今に危地に置かれることでしょう」


 祭仲は面と向かって、君将不堪(くんまさにこらえず)、と言ったのだから、内訌の兆しを見取ったのであろう。先に服喪の話をしたように、今の寤生は世俗のことは執政に一任している身なのである。『春秋左伝』に、『祭の封人(国境守備役)仲足(祭仲)、荘公(寤生)に寵有り。荘公、卿足らしむ』とあり、祭仲が武公の代にはいない臣であったことは確かなので、祭仲が執政であったとは考えにくいが、あるいは祭仲は執政の卿に近しい臣であったのではないだろうか。

 祭仲の諫言には、内訌への危殆のみならず、執政の頭を超えて国土の分封を決めた寤生への非難があったのではないか。また、武公の喪に服すべき寤生や武姜が、生臭い政争の兆候を見せ始めたことへの諷諫の意もうかがえるように思える。

 寤生は、力なく言った。


「母がそう欲しておられる。害になるとも、やむを得ない」


 寤生の声には、自嘲がまじっていた。寤生は、死ぬまで母に愛されないであろう己を知っている。しかし一方で、孝心から武姜の提言を断れないという惨めさを自覚しているがゆえであろう。

 祭仲は寤生の寵を受けて擢登された臣であり、寤生の心中は痛いほど察せられた。寤生の孤独と悲歎を深く知る者も、また祭仲なのである。しかし、武姜と叔段への対処をせぬことは内乱につながり、鄭の崩壊へとつながる。そうなったとき、血を流し苦しむのは臣民であるとわかっている祭仲は、敢えて直諫した。


「武姜さまは貴方の母ですが、今の鄭の君主は貴方です。どうして武姜さまに遠慮なされる必要がありましょうか。すぐに対処なさり、これ以上、驕慢が過ぎぬようにすべきです。草木でさえ、はびこれば除けぬのに、相手が寵を受けている弟君ならなおさらのことです」


 私情を政治にはさむなと、祭仲ははっきりと言った。祭仲の忠心が、この一言に現れている。国が乱れ疲弊すれば、それこそがもっとも寤生のためにならないのである。諛言を用いず、敢えて厳しく諫める胆勇が、祭仲にはあった。

 先述したように、祭仲を初めて擢登したのは寤生である。祭仲の性質を好んで側に置いた寤生には、無論、私心なく寤生を想う祭仲の直情は痛いほど理解できた。

 それでも、寤生の答えは煮え切らぬものであった。


「不義が多ければ、いずれ自滅する。暫く待てばよい」


 祭仲はそれ以上、何も言えなかった。

 祭仲の危殆は、年を経るごとに現実味を帯びてきた。叔段はやがて、鄭の北辺、西辺の邑を攻め、服属させたのである。鄭の都は新鄭という。京にいる叔段の威勢は、新鄭でも無視できないほどに増していた。あるとき、公子の呂が寤生に言った。


「国が二つになることなど、あってはなりません。我が君におきましては、京城大叔をどのようになさるおつもりですか。大叔に国をお与えになるのであれば、私は大叔に臣事いたしますが、そのつもりがないのであれば、即座にこれを除くべきです」


 公子呂の発言は、さらに直接的であり、叔段を滅ぼすか、寤生が亡びるかしかないと言い切っている。しかし、寤生の反応は祭仲に向けたものと同じであり、なんの譴責もしなかった。

 大叔は、


 ――意気地のない兄よ。


 と、内心で侮蔑したことであろう。ますます亢傲に振る舞うようになった。一方で、


 ――あのような懦夫が君主で、私はあくまで公弟とは、腹立たしい。


 という憤りと鬱積が生じた。それまでは、気ままに勢力を拡大するだけで満足であった叔段だったが、やがて、兄に変わって自分が鄭の君主となればよい、という野心が芽生えたのである。公子呂は叔段の叛心を察して、叔段を除くよう、さらに諫言した。しかし寤生は、


「不義の者には人心は集まらない。領土が厚くなったとしても、いずれ自壊する」


 と言ってとりあわなかった。

 寤生は、武姜を悪まないのと同じように、叔段を悪む感情もなかった。ただし、これは寤生の不徳というわけではないが、寤生は弟を善導するために何をすればよいのかが分からなかったのである。寤生が叔段を咎めぬのは、


 ――いつか、過ちに気付くだろう。


 という想いからであり、その情が叔段に叛心を抱かせたと言ってよい。

 叔段は、密かに新鄭を襲う算段を整えていた。兵糧をととのえ、兵を集めて軍備を揃えた。くわえて、新鄭にいる武姜と内応の手筈をととのえたのである。寤生も叔段も、ともに武姜の子であるのに、武姜の心底にはどのような感情があったのかは分からない。思うに、武姜の心はすでに、半ば壊れていたのではないだろうか。


 ――私は、叔段のみを愛すると決めた。


 子を愛することとは、当然のことだが、子の中から一人を選ぶことではない。しかし武姜は、分かれ道の一方を選ぶように、叔段を選んでしまったのである。そうして、選んだ道の先で、抜け出せぬ泥中におぼれていたのではないだろうか。今さら、叔段とともに寤生を愛することなど、思うことすらできなかったのだろう。

 叔段の決行の期日は定まったが、寤生はこの情報を探知した。

 さすがの寤生も、叔段と戦うことを決めた。公子呂に命じ、二百乗の兵車を動員して京を攻めたのである。

 内乱とは思えないほどの激戦であった。

 京の兵と公子呂の兵の実力は、それほど拮抗していたのである。しかし、公子呂の驚いたことに、一たび、公子呂の軍が勢いを得ると、叔段の兵は雲の子を散らすように離散したのである。叔段が頼みとした京という地盤は、一たび押し勝てればあっさりと瓦解する脆弱なものであった。


 ――我が君は、不義の者に人心は集まらず、いずれ自壊すると仰られたが、正しかった。


 公子呂は、煮え切らぬ寤生の態度を見て、寤生のことを侮る気持ちがあったが、その実、寤生の見立ては正しかったことを知り、その炯眼に感歎した。

 叔段は(えん)とい地に移って抵抗の構えをみせたので、寤生は自ら兵を率いて鄢を攻めた。寤生の出征は、叔段との訣別の覚悟がうかがえるが、一方で、鄢での攻防に敗れた叔段が、死なずに(きょう)という地に出奔したことを想えば、あくまで叔段を殺さずに済ませるための出征だったようにも考えられる。

 とにかく、乱は終息を見た。

 しかし、寤生にとっては、これで終わりではない。もっとも重大な問題が残っていた。無論、武姜の処遇についてである。いかに孝行者の寤生であっても、叔段の乱の及ぼした傷跡のことを考えれば、国人の手前もあり、庇うことはできなかった。

 城穎(じょうえい)という地に武姜を幽閉し、


黄泉(こうせん)に及ばずんば、相(まみ)えること無きなり」


 との決意を示した。

 しかし、すぐに激しくこれを悔いた。


 ――弟を善導できなかったゆえに、此度のことが起きた。にも関わらず、私は何の譴責も受けず、母にその罪科を押し付け、窮屈な思いをさせている。


 寤生は、肝心なときには、決して私情を政治に持ち込まぬ心の強さを持っている。君主の鏡と言えるだろう。しかしその心の強さが、激しく寤生の孝心を締め付けていた。

 穎孝叔(えいこうしゅく)という人がいた。彼は、穎谷(えいこく)という、鄭国内の地の封人(ほうじん)である。穎孝叔は寤生の苦悩を聞き、新鄭へ足を運んだ。

 経緯は不明だが、この封人は寤生から直直にもてなされ、食事を賜ったのである。出された料理は肉の入った(あつもの)であった。当時、肉はめったなことでは口にできるものではない。ところが、穎孝叔は羹から肉だけを取りわけ、(ふくろ)に詰めたのである。寤生がそのわけを訊くと、


「私には母がおり、その食事は今まで私が用意するものばかりです。それゆえ、どうか母に、我が君から賜った食事を食べさせてやりたく、この肉を持ち帰ろうと思った次第です」


 と答えた。君主から食事を賜るなど、封人の身にはあっては至上の栄誉と言えるであろうに、穎孝叔はこれを母に食させることを先ず想った。その孝心を見た寤生は、


「貴方には母がいるが、私にはいない」


 と漏らした。孝行する母のいる穎孝叔をうらやんだのである。穎孝叔は、敢えて訝しげな顔をして、そのわけを訊いた。聞き終えた穎孝叔は、


「君なんぞ(うれ)えんや」


 と言った。


「黄泉とは、泉の湧く地を言います。水が湧くまで隧道を掘り、その中でお会いなされば、誰がこれに異を唱えましょうか」


 寤生は、この言葉を聞いて、言う通りに隧道を掘らせた。寤生の言った、黄泉に行くまで会わない、とは、無論、死ぬまで会わぬという意味であり、穎孝叔の提言は詭弁と言える。穎孝叔にはその自覚があるが、彼もまた孝子であり、母子が愛し合えぬ哀しさを想い、


 ――こうすれば、天譴があろうとも、それを受けるのは私だ。


 という覚悟で、寤生と武姜が現世で(まみ)えることがかなうよう図ったのである。

 隧道が完成して、寤生は武姜と地の底で再会した。幽玄な隧道の気が、武姜の心を慰めたのであろうか、武姜の中に寤生を悪む気持ちはなかった。隧道の深さは、そのまま、寤生の母への思いの深さでもある。闇の濃さは深さの現れであり、その闇が、かえって武姜の心を明るく照らした。隧道の中で二人が互いに何を想い、語り合ったかは、とても思い及ばない。

 やがて隧道を出た二人に、かつての歪さはなく、互いに想い合い、愛し合う親子であった。

 書き損ねていたが、叔段の乱は、寤生が即位して二十二年目のことである。寤生の生年は不明だが、寤生が幼君であった、といった記載が史書にないことを想えば、三十年、あるいは、四十年以上という長きにわたって、二人は隔絶していたこととなる。親に愛されずとも孝心を失わず、数十年の空隙を一日で埋めた寤生の孝心は、偉大である、という簡明な一言で表現するほかない。


 覇者とは、周王朝を補佐して、周に従わぬ国を討つ者を言う。

 この定義に従えば、鄭の武公と、その子である寤生の二人こそ、初代の覇者と呼ぶに差支えない。この父子は、周から卿士(けいし)の位を任命されていた。卿士とは、執政の意である。武公のころは、周と鄭の関係は良好であった。というよりも、今の周があるのは、武公の助勢が大きいと言ってよい。周に宜臼(ぎきゅう)という太子がいたが、廃嫡された。やがて周が乱れたとき、宜臼を擁立して、今の周都である成周へ入れた諸侯の中に、武公もいたのである。

 しかし、寤生の代になって、周と鄭の関係は、かつてのようにはいかなくなった。宜臼の子である桓王が即位してから、と言ったほうが正しいかもしれない。宜臼のころから、周は鄭のみならず、(かく)という国にも狎昵(こうじつ)し始めていたのだが、宜臼が死ぬと、桓王は虢に卿士位を与えようとしたので、周と鄭は険悪となった。

 寤生が自ら桓王に朝勤しても、桓王は礼遇しなかった。周臣である黒肩(こくけん)は、周と鄭の溝が深くなることを恐れ、桓王を諫めた。


「かつて我が周が成周に移る際、これを助けた国で功が大きいのは、晋でなければ鄭です。鄭を礼遇しても、なお鄭が朝勤してくれるかは定かではないというのに、ぞんざいな応対をすれば、鄭は来なくなるでしょう」


 桓王からすれば、


 ――鄭が来朝しなくなれば、鄭との関係はそれまでよ。


 というところであろうが、黒肩は桓王よりも道理が見えていた。鄭の庇護を失えば、周はさらに凋落するということがわかっていたのである。桓王が鄭を好まぬ心当たりは、黒肩にもある。かつて鄭が軍を率いて、周の領邑の穀類を刈り取るという事件があった。桓王が根に持っているのは、そこであろう。しかし、その端緒となったのは、宜臼、桓王が虢に狎昵の色を見せ、卿士位を与えようとしたことである。

 寤生の行動が不遜であることは否めないが、鄭に落ち度らしい落ち度もないのに、手のひらを返したように、再興に功のあった国を蔑ろにし始めた周のほうが不実であろう。


 ついに、虢が初めて周から卿士位を賜った。寤生在位の二十九年(前715年)の夏のことである。周の卿士は、この時点で二人となった。なお、寤生はこれ以前は卿士であるが、この翌年には、左卿士、と記されている。

 左、というのはどういう意味であろうか。

 左衽(さじん)という言葉があり、服を左前に着ることの意なのだが、左衽は蛮族の風習である。また、左には官位を下げるという意味もあるので、寤生は貶降されたとも考えることが出来るかもしれない。しかし一方で、左には東方という意味もある。鄭が成周より東にあり、虢は成周よりも西に位置していること、また、先代から続く鄭の功績の大きさを考えれば、単純に東方を司る卿士、というくらいの意味ではないか。

 とりあえず、周の卿士は一人ではなくなった。もっとも大きい意味はこの点であろう。しかし、寤生が依然として周の卿士であることに違いはなく、その想いから、寤生は尊王の姿勢を見せ続けた。卿士の役目の主なことは、周に対して不遜をはたらく諸侯を討つことである。鄭より南方に(きょ)という国があり、周への貢納を怠っていたので、鄭は東方の斉、魯の国とともに許を攻めた。その結果、許の君主であった荘公は出奔した。

 三国の軍は、許へ入った。しかし、この軍はあくまで周の軍であり、不遜を正す軍である。君主が不在になろうとも、その国を自領、または周の領土にすることはしなかった。

 許の荘公の弟に、許叔(きょしゅく)という人がおり、許叔は許に残っていた。寤生は許叔を許の東の地に移し、


「許には天譴がくだされたのである。鬼神は畏れ多くも、私の如き寡徳の人の手を借りて、これを正すように命じられた。しかし、私は身内とさえ、共に安んずることができない者です。敢えて許を治めて、自らの勲功としようとは思いません」


 と、惜しげもなく言って、度量の広さをみせた。この軍が周の軍といっても、その戦費を負うのは鄭ら諸侯である。しかし、寤生は、許を討つことで自国の利をはかろう、という欲をかけらも見せなかった。

 寤生が語った、身内を安んずることさえできないというのは、無論、叔段のことである。


「私には弟がありますが、和することが出来ず、諸国で細細と生活させるという憂き目にあわせております。この有り様で許を治めたところで、久しくこれを保有できる道理はありません。私は貴方を奉じて、この地の民を懐柔するように勤めましょう。今、貴方は許の東方のみを治められますが、いずれ天の鬼神も許に禍を与えたことを悔い、再び許公(荘公)をして許を安康せしめ、社稷を復興せしめることでしょう」


 寤生は許叔に、許の処遇を任せた。とはいえ、一任したというわけではない。戦禍で疲弊した許を一人で治める許叔の心労を慮り、その補佐として、鄭の公族であり大夫である公孫獲(こうそんかく)を許に派遣した。しかし寤生は公孫獲に向かって、


「許に赴くにあたり、一切の私財も持ち込んではならない。私が死ねば、鄭はすみやかに許から去る」


 と、許を所有する心のないことを強く言い聞かせた。寤生の許への処遇に対する『春秋左氏伝』の評価は高い。礼を以て国家にあたり、社稷の祭祀を安んじ、民を善導して後継を利する者であり、許を討つにあたって刑罰を用いず、徳を示した。状勢に沿って応変に動き、後の世代に累が及ばなかったのは、礼を知っていたと言えるだろう、というものである。


 寤生の在位三十七年(前707年)、鄭の勤王を、ついに周は邪曲なかたちで裏切った。鄭に過失があったわけでもないのに、鄭から左卿士の位を剥奪したのである。さすがの寤生も、この対応には嚇怒した。とはいえ、元来より堪忍を備えている寤生は表立った行動をせず、周への朝勤を止めるにとどまった。

 桓王は諸侯に輔翼されることで成り立っている周に危殆をおぼえ、諸侯の勢力を削ぐことによって王権の再興を計った王である。しかし寤生には、その行動が、かえって周の命脈を断つ行為にしか思えなかった。かつて寤生は、鄭を疎んじた周に対し、その領邑に侵入して穀類を刈り取るという不遜を行った。しかしその行動は、一瞬の憤激と浅慮のみで行われたものである。憤激と浅慮による派兵で成せてしまうほど、諸侯が周を侵すことは容易なのである。ゆえに、寤生がその気になれば、此度の桓王の処遇に反抗して周を攻めることも困難ではないのだが、寤生はそれをしなかった。寤生の衷心には、依然として尊王がある。

 ところが、そのような寤生の深意などつゆ知らず、桓王が鄭に侵攻した。

 理由は無論、鄭が朝勤を止めたことを咎めるためである。卿士である虢のほかに、衛、陳、蔡という三国を率いての出征であった。周と戈矛を交えることはしたくない寤生であったが、やむを得ず、繻葛(じゅかつ)という地で邀激(ようげき)した。周の布陣は、桓王率いる周軍が中軍であり、虢、蔡、衛が右軍、陳が左軍である。

 公子の子元(しげん)が寤生に献策した。


「陳では今年、内乱がありました。そのため、兵には繊維がありません。我が軍の右軍を以て先ず陳に挑めば、必ず戦わずして遁走するでしょう」


 子元の言う通り、陳では内乱があった。その内乱というのは、実に醜悪なものであった。陳の今の君主は()という名なのだが、彼は先先代の陳君、文公の子であり、一代前の陳君である桓公の弟である。その侘が、兄が危篤となると、甥を殺して太子となり、兄の死後、陳君となったのである。その際に内訌が生じ、陳は大いに乱れた。その乱れぶりたるや、当時、君主が死ねば他国に訃告を出すのだが、桓公の死の訃告が二度も出されるという有り様であった。


「陳軍が逃げれば、これを見た周王の軍や兵卒も必ず乱れるでしょう。蔡、衛からなる左軍については、周軍を守ることもできず、将兵とも、先を競って逃げ出すでしょう。そうなれば、後は傾注して中軍を攻めることができます」


 子元の籌策(ちゅうさく)の要訣を一言で表せば、弱いところから攻め崩せ、という一点に尽きる。兵の多寡で言えば、一国である鄭は寡兵である。しかし、大軍である周は、決して一国ではない。言ってしまえば烏合の衆であり、羈絆きはんにおいて鄭に劣る。

 寤生は子元の策を採った。この策には、戦術的な巧妙と別に、外交的な深慮がある。子元が寤生の底意を汲み取ったともいえよう。心情としても、向後の外交の為にも、周と正面から対立したくない寤生は、周を孤立させ、周に手を下さずに退かせることができるかもしれない、と考えたのである。

 寤生は太子である(こつ)を右軍、祭仲を左軍とした。なお、この戦いに当って、鄭の中軍は魚麗(ぎょり)、という陣を布いた。『春秋左氏伝』によれば、兵車を前、歩兵を後ろに配置し、兵車の間を縫うように歩兵で満たす陣だという。麗にはつらなる、という意味もあり、魚群が進むような陣形、ということだろう。堅牢で防禦的な陣形である。


「合図の旗が動き、太鼓の音がすれば突撃しろ」


 両翼の将軍には、そう命令した。

 はたして、子元の見立ては見事にあたり、祭仲率いる左軍が陳を攻めれば、陳の兵卒は逃げ、浮足立った蔡、衛ら周の右軍も競って逃げ始めた。寄り合い所帯の脆弱さが顕現した結果である。鄭はほとんど兵を損することなく、周の両翼を削り、また中軍にも動揺を与えた。

 旗鼓が、両翼に合図を送った。

 鄭は全軍を以て、孤立した周軍を攻めたのである。

 周軍は大敗し、桓王は逃げた。敗走中、鄭の祝聃(しゅくたん)という将軍は御者に命じて兵車を走らせ、桓王の乗る兵車を猛追した。その果てに、矢を射かけ、これが桓王の肩に(あた)ったのである。しかし桓王は倒れず、どうにか逃げ延びて、その先で軍を立て直した。

 既に諸侯の軍は逃亡したため、依然、周は孤軍である。祝聃は追撃の命令を請うた。しかし、寤生は祝聃の言葉を容れず、このように諭した。


「君子とは高貴な人に多くを望まないものである。まして、相手は天子たる周王である。周王から攻められたため、身を守るためにやむなく邀激したが、どうにか我が身は救われた。これ以上の武功を求め、天子を辱めて、その社稷の権威を失墜させることがあってはならない」


 やはり寤生は大度の人である。この夜、寤生は祭仲を使者に立て、桓王を慰問し、側近の安否を問わせた。使者として立てられた祭仲には微塵の陋劣(ろうれつ)さもなく、清廉そのものであった。春秋時代は何をおいても礼、というものを重んじ、戦争にも礼を持ち込んだ。祭仲が周の帷幕をくぐったことは、いかなる状況下にあっても、目上に敬意を示す誠意を忘れない、という春秋の清風の一幕と言える。

 寤生の処置に、瑕瑾はなかった。至上といってよいとさえ思う。

 しかし、周王と戈矛を交えたという事実は消えない。繻葛での戦いを端緒に、鄭は往時の威勢を失いつつあった。

 前701年、寤生は(こう)じ、荘公と(おくりな)された。死に際した寤生の想いについて、史書は黙して語らない。しかし、凋落していく自国を眺め、寤生は、


 ――理由はどうあれ、私は周王に対して不遜をはたらき、あろうことか、傷を負わせた。こうなったのも、天譴というほかあるまい。


 と思ったのではないだろうか。寤生は慎むという行為を重んじ、同時に、自罰的な思考を持った人でもある。逆児という出生が、一方で寤生という君主の器を大きくし、一方で死ぬまで寤生を苦しめたと言えるのではないか。

 思うに、寤生の不幸は生まれ落ちた時の、間の悪さであり、桓王という、周への集権政策を志向した王に仕えることになった不遇であり、寤生自身の不徳ではない。ただしこの思想は、後世の人の評価であり、古代の人は、誠実な人ほど、不幸を天の罪とせず、己の過失と考える傾向にある。

 最後になるが、寤生の諡号である荘、という字にはおごそか、という意味があり、鄭の人は寤生を、礼儀正しく、慎み深い君主と見ていたということになる。

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― 新着の感想 ―
[一言] 生まれのコンプレックスが彼を大器な人間へと押し上げたんですね。
[良い点] 内容がすっと頭に入ってきました [一言] 普段歴史物を読まない所為で比較などはできませんが、とても読みやすかったです。
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