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OSHIGAMI ~押神~  作者: 夜光電卓
7/8

(6):ダメ押 ~後篇~

『ダメ押 ~後篇~』


 気付いたのは救急車の中だった。

 父さんと母さんがボクを覗きこんでいた。

「よかった、気づいたのね」母さんは泣きだした。

「よく、逃げだせたな。偉い。良く頑張った!」と父さんはボクを褒めた。

「兄さんは?」

 ボクが聞くと父さんが「雪彦もきっとすぐ来るよ」と言った。

 良かった。兄さんは助かったんだ。

 ボクだけじゃなくて、兄さんも助かったんだ。

 そう思っていた。

 救急車の外が騒がしかった。

 まるでお祭りのような騒ぎだった。

 気付くと、救急車は動いていない。

 ボクはとても厭な予感がした。

 ボクは慌てて起き上がると、救急車を飛び出した。

 幸い擦り傷や、打撲傷は多かったけど、動くことには支障が無かった。

 そして救急車の外へ出ると、明るかった。

 まるで太陽が昇って来たようだ。

 でもその太陽は、やけに近かった。

 その太陽は、ボク家の姿をしていた――。

 ボクがベランダから飛び降りて、まださほど時間は経っていないらしかった。

 燃える火の塊になった我が家を目の前に、ボクは立ち尽くした。

 母さんが泣きながらボクを抱きすくめた。

 父さんも何処か別の方を向いていた。

「ねぇ、兄さんは?」ボクが聞くと父さんが、

「今日は家庭教師の日だろ――。大丈夫すぐ来てくれるよ」と言った。

 ああ、そうかみんな知らないんだ。

“兄さんが帰ってきていた事なんて知らなかったんだ”

 いや、もしかしたら。兄さんが帰って来たのはボクの夢だったかもしれない。

 だって誰も知らないんだもの。

 だってボクは寝ていたんだもの。

 兄さんとの、なっちゃんが風邪をひいたという話も、

 窓の中で倒れていたあの兄さんも――全部夢だ。

 そう思った。

 兄さんの遺体が発見されたのは、翌日火が鎮火した後の事だった。



 警察の人は兄さんが、一酸化炭素中毒で死んだと言っていた。

 火が燃える時に出るガスのようなものらしかった。

 それで兄さんは部屋の中で倒れていたのだ。

「ボクの所為だ」と思った。

(とう)くんは雪彦が帰ってきていたのを、知らなかったんだものしょうがないわ」

 いや、それは違う。

「冬二は寝てたんだものな、きっと雪彦も起こさない様に気を使って帰って来たんだよ。だから、冬二も気づかなかったんだ」

 ボクは知っていた。兄さんが帰ってきていた事を。

「一酸化炭素中毒死ですので、火の手が上がった時はもう既に無くなっていたかもしれません」

 それも違う――あの時兄さんは動いていた。

「冬二くんが飛び降りた時、廊下はすでに火の海でした。ベランダは乗り出そうとしないと隣の部屋は覗けない。お兄さんに気付けなかったのも判りますね」

 それも違う――ボクは身を乗り出して兄さんを確認していた。

「いや、家事で怖い目にあってるのに、あの空地まで飛ぶなんて。怖かっただろうに勇気がある子だ」

 違う、違う、違う違う、違う違う違う――。

 ボクは怖くて、自分が死ぬのが怖くて、


 雪彦兄さんを見殺しにして逃げたんだ。


 しかし、大人たちがそうだと言った。本当は違うのに。大人たちがそう決めつけた。

 ボクは寝ていて兄さんの帰宅に気づかなかった。

 家にいるのが自分だけと判り、慌ててベランダから外へ飛び出した。

 だからボクは兄さんが苦しんでいるのを見なかった。

“何も見なかった”

 そういうことになった。

 だから、ボクは大人たちの言うとおり、何も見なかったと嘘を吐いた。

 罪悪感だけが胸を締め付けた。



 その後、ボクの家族は壊れていった。

 兄さんと家を失った事で、両親は不仲になって、半年も経たぬ間に離婚した。

 姓が変わって、何故か学校でいじめられるようになった。

 ボクは逃げだすように、母さんとその実家のある北海道へと移り住んだ。

 それ以来火が怖くなった。

 放火が憎くなった。

 兄さんを、家を焼いた火が嫌いになった。

 ボクの家の火事の原因はタバコのポイ捨てだったそうだ。

 ボクが飛び降りた裏の空き地、あそこから火のついたタバコが投げ込まれたらしい。

 そしてボクの家は壊れた。

 そのタバコのポイ捨ての所為で。

 兄さんも死んだ。

 火の所為で。

 優しかった兄さん。約束の言葉を教えてくれた兄さん。

 でもその兄さんを殺したのは――見殺しにしたのはボクだった。



 ボクが暖炉の美しい食堂で待った時間は、およそ三十分程だった。

 最後の参加者、春喜が戻ってくると春喜はボクに向かって小声で「あれはダメだ言葉じゃ勝てない」と言った。

 どうやら春喜も、罪と苦しみの秘密を告白してしまったらしい。

 春喜の顔にいつもの明るさは無かった。どうやらこっぴどく絞られたみたいだ。

 しかしこうなったら、やる事はただ一つである。

「プランB」と春喜はボクに囁いた。

 プランBつまりこの会合を滅茶苦茶にぶっ壊すである。

 少々気がめいるが、人の命には代えられなかった。

 しばらくして蛙こと爾来屋斎寧が現れた。

 方手には赤ワインを抱えている。

 どこからどこまでも、赤い人だと思った。

「皆様、大変お待たせしましたわ。皆様の罪、そして苦しみの秘密は確かにワタクシが受け取りました。

 この後、皆様が来世に向かおうともワタクシが必ず、この秘密を今生へと引き留めさせていただきます。

 では改めて最後の会合を始めましょう……」

 蛙はそう言うと参加者を、食堂の大きなテーブルに挟むように座らせた。

 そして一人ずつ目の前のテーブルにワイングラスを置いて行く。

 曇りなく磨かれた綺麗なグラスだった。

 それから蛙は一つずつにワインを注いで行く。

 ボク等はただ黙ってみているだけだった。

 そして最後に全てのグラスにひと匙ずつ、白い粉を入れていく。

 参加者の全員に緊張が走った。

「大丈夫ですわ、それは毒ではございません。ただの睡眠薬ですわ」

 蛙はそう言って微笑んだ様だった。

 しかし面の下は覗くことはできない。

 蛙は全てのワイングラスに睡眠薬を注ぎ終えると、自分のグラスにもワインを注いだ。

 ただし、薬はいれていない。

「では皆様、これが最後の会合でございますわ。そのワインを飲み終えた時、皆さまは安らかな眠りに浸ります。痛みも苦しみもございません。ただ眠るだけでございます。

 しかし違うのは、次に皆様が起きた時はもう今の皆さま方では無いと言う事でございます。眠っている間に魂は今生と別れを告げ、来世へと向かいます。

 過去の罪も、今の苦しみも、きっとそれについて行こうとするでしょう。

 そうすると、来世でもその罪も苦しみもは皆様を苦しめます。

 でもご安心なさって、皆様はワタクシに罪も苦しみも秘密として打ち明けて下さいました。ワタクシはその秘密の守り人となって、罪も苦しみもこの今生に留めておきましょう。

 皆さまの魂はただの無垢な魂となって、来世へ向かいます。

 そうなれば、きっと来世では皆様も救われますわ。

 来世が救われれば、今生も過去世も来世にて救われることでしょう……」

 矢張り、これは違う――ボクはそう思っていた。これはカウンセリングなどでは無い。

 ただのインチキだ。

 来世来世と言って、何も救っていない。

 来世来世と言って、みんなを死へと誘っているだけじゃないか。

 こんなの誰も救われない。救いじゃない。

 これは死神の所業だ。

“ただ死へ誘うだけの存在”じゃないか。

 羽佐間は、こんなモノに鞍替えしたいと言っていたのか。

「さぁ、来世への旅立ちの準備ができた方からそのワインをお飲み干し下さいな」

 乾杯と蛙は掛け声をかけると、蛙は自分の分のワインを飲みほした。

 しかし、他の参加者は動こうとしない。

 当たり前だ。飲んだら最後、眠りについてもう死んでいるのだ。

 躊躇うのが普通だ。揺らぐのが当然だ。迷う他、無いのだ。

 誰も動かず、沈黙が部屋を満たす。

 だが爾来屋斎寧は動じなかった。慣れているのか、自分だけ椅子に座って動向を見守っている。

 皆呑みこまれている。雰囲気に、爾来屋に、来世に、そして死に。

 あの春喜でさえ、グラスを持ったまま微動だにしない。

 その中で、ボクだけは違った。

 呑みこまれていない訳では無い。ただ、ボクは今呑みこまれた訳じゃない。

 兄を見殺しにした時にとっくに死に呑みこまれているんだ。

 ボクはグラスをテーブルに置くと、その場でパチパチと拍手をし始めた。

「ブラボー。素晴らしいパフォーマンスでした」

 その声に春喜が我に返ったのかグラスをテーブルへ置いた。

「爾来屋さん、貴方はすごい人だ。だからこそ聞きたい。具体的にはどうやってボク等は来世へと旅立つのですか?」

「具体的にとはどういうことですの?」

「貴方はこのワインを飲む事によって、安らかな眠りのまま来世へ行くと言いました。それを具体的に言って欲しいんです。

 ワインを飲んでボク等が眠った後、その後どうやってボク等の事を来世へ連れて行ってくれるのですか?」

「……」

「具体的に、お訊きしたいんです。どうやって、ボク等を殺すつもりですか?」

「そうですね。皆様が眠って頂いたあと、此処を密閉いたしますの。この食堂を――」

「そして、そのストーブ。きっと煙突も蓋がしてあるのでしょうけど、そこに練炭を焚く」

「よくお判りですのね。流石ですわ」

「一酸化炭素中毒死――。それで罪も苦しみもなく来世で救われると本気で思っているのですか?」

「勿論、それで救われるとは思っていませんわ?」

 残りの参加者たちに動揺の色が浮かぶ。死んでも救われない。先程まで来世に行くことで救われると言っていた口で、蛙はそう言ったのだ。

「でも勘違いなさらないでください。ワタクシは一酸化炭素中毒で救われるとは思っていないと言ってますの」

 ボクは周りを見渡す。たぶん、もうすぐだ。

「見て下さい、今此処にいる皆が“死”に魅入られています。貴方の一挙手一投足で、皆が今生の罪も苦しみも、貴方に打ち明けて無くなった気になっている」

 蛙の顔の中身はうかがい知ることができない。しかしけして怒ってはいないようだった。

「罪も苦しみも無くなってはいませんわ。ただワタクシがそれを今生に留めているだけ」

「えぇ、貴方はそう言って死へと誘っている。死んでも罪も苦しみも消えないのに……」

「来世では無くなってますわ。あなたの秘密も……」

「その秘密を脅迫の道具にするんですか?」

「そんな事はしませんわ。一度、秘密にした罪や苦しみは、パンドラの箱。再び開くことがあれば、それは災厄を招くことになりますもの」

「じゃぁ、貴方は何がしたいのですか?」

「皆様を来世に送って、罪や苦しみから救う。それだけですわ」

「違います、貴方は死がみたいだけだ。人が死ぬ姿を見たいだけだ――」

 蛙の顔色が少し変わった気がした。

「人の不幸を、罪を、苦しみを、死を――。それを見て聞いて、それがただ好きなだけだ」

「とんでもない言い分ですわね」

 再び周りを見渡す、おそらく藤堂が一番最初だろう後少しだ。

「あなたカウンセリングを実際に受けて凄いと思いました。言う事はズバズバ当ててるし、話を聞いてもらっている間救われていくよう開放感を覚えました。でも違和感もあったんですよ」

「なぁに? それが何かのトリックとでも言いたいの? 見せかけとでも? 残念ながらワタクシは本物よ」

「貴方が本物だろうが、偽物だろうがそんなのは関係無いんです。ただ、貴方は人の罪や苦しみを親身に聞くようにして、喜んでいるように見えました。その蛙の面の下で人の罪や苦しみを楽しんでいる。まるで神が天上から人の成す事をみて笑うかのように嘲笑っている気がしたんです」

「まるで、そんな笑い方をしている人を知っているみたいね」

「いいえ、ボクが知っているのはそんな風に笑う神様ですよ……」

 場の雰囲気が張りつめ切ったのは、その時だった。

「もうよしてよ、何訳の分からない事言ってるの?」

 そう言ったのは矢張り藤堂だった。

「なんの話しをしてるのかも、何をしたいのかもどうでもいいの! ただ私は今の現状が辛いのよ。苦しいの……今が苦しいなら、来世にいって救われたいのよ!」

「来世になっても、救われはしないですよ」

 ボクは藤堂に冷たくそう言い放った。

「救われるわよ来世なら、お父さんも痴漢で捕まらないかもしれない。来世になればお父さんも仕事を辞めなくて済むかもしれない。来世になれば家族は壊れないかもしれない。来世に、来世になれば――」

「でも救われたいのは今でしょう?」

 藤堂がグラスを落とした。グラスが割れ中身がこぼれ出る。

「過去世とか、来世とか関係無い。いつもいつでも、救われたいのは今なんだ!」

 ボクは叫んだ。そうだ、誰もがいつも、いつでも“今”救われたいんだ。

 でもそんなにウマくは行かない。だから責任転嫁をしてしまうんだ。

 過去の行いが悪かったんだ。今の現状が悪いんだ。

 本当なら、本当の自分ならこうはならなかったのに――と。

 だからリセットすれば大丈夫だと思ってしまう。“今”の自分をリセットすれば、罪も苦しみも無くなってしまうのだと、勘違いしてまう。

 いつでも“今”の自分が、本当の自分なのに。

「そんなの……」

 藤堂は強く拳を握った。悔しいのだろう。苦しいのだろう。

 酷く心は揺らぎ、迷っている。

 その時、鮮やかな青が翻った。

 黒い蝶の紋をさした鮮やかな青色の振袖に薄紅の桜模様の帯。小柄で髪は肩で切りそろえた美青年。

“背中を押す神”である羽佐間は、スゥ―ッと藤堂の背中に忍び寄った。

 そして振袖の中からその手を差し出すと、トンッ――と。

「そんなの判ってるわよ――!」

 藤堂はさっきまで、ボクがいた座席へと駆け寄るとボクがテーブルに置いたワインに手をかけた。

「そんな事を言ってもしょうがないじゃない!」

 藤堂はそう叫んで、一気に持ったワインを煽った。

 それに続くように、六十八番が、六十九番が、六十七番が順に手に持っていたワイングラスを煽った。

 暫くして、それぞれがその場に眠りに落ちていく。

 食堂に残ったのは三人だけだった。

 ボクと、春喜と、爾来屋斎寧の三人。いや、あともう一柱――。

「これでお二人は如何なさいますの?」

 爾来屋がそう聞いてきたのでボクは、

「どうもしません。目的は達成しましたから」と答えた。

 初めて爾来屋が驚いたのが判った。

「ボク達の目的は、最初からあの娘を死なせないで連れ戻す事だったんです」

 ボクがそう言っている間に、春喜が藤堂を抱きかかえていた。

「この娘をどうやって連れて帰るか、それが一番の問題だったんです。説得しても聞かなさそうでしたし、下手に無理やり連れて帰ってもきっと暴れてあの山道を下っては行けませんから……」

「だからって薬で眠るまで待ってたの?」

「はい、でも問題だったのは貴方の存在でした。本当に貴方は凄い人です。ボクも春喜も完全に雰囲気に呑みこまれちゃってましたから。

集団自殺の仕方は予想出来ていたので睡眠薬を使って、みんなを眠らせようとは思ってたんです。

主題は彼女を連れて帰る事ですけど、できればみんな死んでは欲しくなかったんです。

希望はボクと春喜が最後まで睡眠薬を飲まずにいて、今のような状況になることでした。

でも交渉で貴方には勝てると思えませんし、嘘もつけない。それに下手をすれば雰囲気にのまれて自分から吾先に薬を飲んでしまう恐れもありました。

 何より藤堂さんは、ボク達が自殺を邪魔しに来たと思ってましたから、ボク達が睡眠薬を飲みほすまで、口をつけなかったと思います」

「だから滅茶苦茶にしたの? 会合自体を」

「ハイ、渡されたのが毒薬ではなくて睡眠薬かなんて判らない。来世になら救われると言われても、おいそれと信用しませんし。必ず躊躇うと思ったんです。

でもその躊躇う時間が長ければ、ボク達が先に飲んでしまうかもしれない。

もう早々に勢いで飲んでもらうしか無かったんです。兎に角ボク等より先にみんなに睡眠薬を飲んでもらいたかったので……」

その結果がさっきの問答だった。死の先の不確定な安寧と言う理想。生きる故に纏わりつく確定的な罪や苦しみ。それを行ったり来たりしていれば、ただ聞いているだけの者は迷うだろうと思った。

しかしその内に耐えきれなくなる。

答えの判らない問いを目の前にして、人間の集中力は長くは続かない。

そうすれば、羽佐間の出番だ。

誰か一人、一線を越えれば後は追従する可能性が高いと踏んでいた。

生が怖くて睡眠薬に手を出すか、死が怖くなって逃げだすか。

どちらにせよ参加者を死なすことは無い。

「あっ、それと……」

 ボクはそう言うと、椅子を一脚持ち上げてそれを思い切り窓に向って放り投げた。

「此処を出たらすぐに警察を呼びます。ただ他の三人は連れていけないのでココ置いて行くしかないので、その間に練炭殺人されちゃ困りますから」

 ボクはそう言うと食堂の扉を開けた。藤堂を抱きかかえた春喜がそこを通り抜けていく。

「逃げるなら今のうちですよ」

 ボクはそう爾来屋に声をかけてペンションを後にして、麓にいる筈の野々宮に警察へ通報するように連絡した。



 やっとの事で駅に着くと、どっと疲れが押し寄せてきてボクはベンチに腰を落とした。

 隣では藤堂が未だ静かな寝息を立てている。

 山を下りる間もこの調子だった事から、かなりの効き目の強い睡眠薬のようで、ちょっとやそっとじゃ起きないみたいだ。

 ペンションに残してきた三人も、きっと同じだろう。

 野々宮が匿名希望で通報をしたというからおそらく大丈夫だとはおもうが、問題は爾来屋である。

 たぶん逃げ出してはいると思うが……。

 とにかく皆が無事なら問題はないだろう。

 駅の周りを見渡すと、人が誰もいなかった。時間の所為もあるし無人駅なのも理由の一つだろう。

 春喜は疲れを感じないのか、事の次第を野々宮に説明しているらしかった。

 ペンションから藤堂をおぶって来たと言うのに。少しはその元気を別けてほしいと思った。

 駅は妙に静かだった。

 何も聞こえない静寂。

 とても居心地がよかった。

 このまま、何もかも忘れてしまいそうな、そんな気さえしてくる。

 本当に静かだ――。

 そこで、ボクは気がついた。

 静かすぎる。

 いつもならボクの横の定位置で、変な関西弁が聞こえる筈だった。

 しかしそれが聞こえない。

 ボクは立ちあがって鮮やかな青色の振袖の姿を探した。

 だが、彼の姿はどこにも無い。

 するとボクが何かを探しているのを察したのか、春喜が声をかけた。

「どうしたんだよ、急にミーアキャットみたいに突っ立って」

「いや、電車来ないかなぁと思いまして」

 野々宮がまだ一時間ほど来ないと教えてくれる。

「まだだいぶ時間かかるな……冬二、お前疲れてんだろ? 少し寝てろよ、電車来たら起こすからさ」

「あ、はいお願いします」

 ボクはそう言って再びベンチに座り直した。

 どこへ行ったのだろう。あの“背中を押すだけの神”は――。

 しかし思考を走らせられたのはそこまでで、背もたれに背をつけると、急にまどろんで来てしまった。

 仕方ない、きっと起きる頃にはいつもの定位置にいる筈だ。

 ボクは、静かな田舎町で談笑している若いカップルの言葉に甘えて、瞼を閉じることにした。


 夢を見た気がする。

 とても懐かしい夢だ。

 隣には雪彦兄さんがいて、ボクに勉強を教えてくれている。

 まるで今のボクと健太のようだった。

 そこへまだ離婚する前の両親が、仲よくそれを見に来ていた。

 まるで蛍介達家族のようだった。

 ボクをいじめていた楼間学園の奴等がそこへ遊びにきた。

 その親しげな感じは、今の春喜や健太や保のようだった。

 それらがユラユラと揺らぐ。揺れてダブって見える。

 ボッとライターがなる音がして、その夢が燃えていく。

 小さな火は、段々大きな炎となって夢に燃え広がっていく。

 怖い、怖いと誰かが叫んでいる――死にたくないと泣いている。

 誰だ、やめてくれ。

 ボクの夢を焼くのはやめてくれ。

 しかし声は誰にも聞こえない。

 燃えた夢の灰だけが、行き場所が判らず迷っている。

『来世なら救ってあげるよ』

 赤い蛙がそう鳴いた。

『許してもらえるなんて思っていない』

 と露草にとまった蛍が囁く。

『あなたの秘密って、罪ってなぁに?』

 黒い蝶がそう謳う。

 罪悪感で胸が軋む。

 狂おしいほど感情が露わになる。

『ボクは、ボクは今救ってほしいんだ!』

 ボクが叫ぶと、遠くに電車の音が聞こえた。


 いつの間に眠っていたのか、どれぐらい眠っていたのか判らなかった。

 ただハッキリしているのは遠くに聞こえる電車の音。

 やっと来たかと思ったが、春喜も野々宮も起こしに来る気配が無かった。

 すると駅のアナウンスが入って、急行が通過すると伝えていた。

 それで二人がボクを起こしに来ない事に納得した。

 細眼で伺うと、二人は所謂白線の内側で話しをしているらしかった。

 その微笑ましい光景にボクは再び目を閉じた。

 その時だった。

「えっ、冬二の罪……?」

 自分の名前が出て思わず聞き耳を立てた。

 どうやら、野々宮が『ネクスト』の会合でのカウンセリングでの出来ごとを聞いているらしかった。

 野々宮はカウンセリングで聞かれた“罪”と“苦しみ”について知りたがっている様子だった。

野々宮はボクが何かしら罪や苦しみを持っているようなイメージが無いらしく、興味があるのだと言う。

「まぁ、たしかにあれだけいい奴が、罪なんてあるとは思えないけど。あれじゃないか痴漢の冤罪。それに藤堂の事もあるし……。ホントはアイツの罪じゃ無いのに、自分で背負うところあるし」

 ボクの罪……つまり兄を見殺した事については春喜にも言って無い。

 事が終って山を下るとき、二人ともその部分対しては触れないでいた。

 自分の罪――。

 それは喩え親友といえど、おいそれと侵してはいけないのだとお互い理解していた。

 野々宮は、なら春喜の罪とはなんだと聞き返した。

 どうやらそっちを聞くのが野々宮の目的のようで、ボクの話しを先に出したのは、引き出しやすくするための段階だったらしい。

 春喜はそれを聞かれると、言葉を濁し始めた。

「う~ん、夏乃(かの)ちゃんを好きになった事とか――後は熱すぎるとか――」

 次の瞬間会話が止まり、ボクは少しだけ薄目を開ける。

 しかし目の前の光景を理解して、すぐに止めた。

 野々宮が春喜にキスをしていた。

 そして野々宮は春喜の事を信用したいから、いい事も悪い事も知っておきたいのだと言う。

 私達二人だからこそ、秘密は失くして。お互いの秘密は共有したいのだと。

 先程のキスは、どうやらダメ押しの一手だったらしい。

 春喜はため息をつくと、周りを伺っているようだった。

 電車の音が近づいてくる。

 春喜は一応ボクが眠っているのを確認すると、話し始めた。

 聞いてはいけないと思いつつ、静寂のせいで否応なく声は耳に入って来た。

「俺さ、大学に近いからって今婆ちゃんの家に住んでるだろ?」

 野々宮が相槌を打つのが聞こえる。

「実は、前から俺婆ちゃん子で、しょっちゅう婆ちゃんの家に遊びに行ってたんだ……。その日も婆ちゃんの家に行った帰りだった」

 そう言えば春喜は前にも言っていた「俺が夏休みとかにばあちゃん家に遊びに来てた時には、会ってたかもしれないな」と。確かに火事にあったボクの家から彼の祖母の家は比較的近い。

 もしかしたら、本当にボクが北海道に引っ越す前に見かけたことぐらいはあるかもしれない。

「中学二年生の夏休みだったかな……俺、夕方頃に婆ちゃんち出て駅に向かってたんだ。そうしたらその通り道に空き地があってさ……。見つけちまったんだよ」

 何を見つけたのか野々宮は聞いた。

「タバコだよ。その空き地って、夜になるとその辺りの不良とかの溜まり場だったそうだから、忘れてったんだろうな。百円ライターと一緒にコンビニの袋に入って置いてあったんだ」

 その空き地ならよく知っている気がした。それはボクの家の裏……。

 あの火事の時、ボクがベランダから飛んだ場所……。

「実は前々から興味あってさ。カッコいいなぁって。それで人が誰もいないの確認して、初めて吸ってみたんだ。それが俺のタバコデビュー」

 苦笑するような笑い声の後、春喜は「そうしたらさ……」と続けた。

「見事に咳こんで大惨事。今でこそ普通に吸えるけど、初めてだったから、もう涙は出るは鼻水はでるわで……もう苦しくてさ。そうしたら後ろの家から人の声が聞こえたんだ。ヤバいと思って、すぐ逃げた。駅まで……やっぱり中学生だったから、悪いことしてるんだって気がして……それで家に帰る駅まで走って。誰にも追いかけられてない事確認してホッとして家に帰ったんだ。

 でも家に帰って、ふと気がついたんだよね。俺、吸ってたタバコどうしたかなって」

 吸ってたタバコ?

「拾ったタバコはさ、入ってた袋ごと勢いで持って来ちゃったんだけど。吸ってたタバコは、咳きこんだり咽たりしてる間にどっか飛んじまったみたいで。

 まぁ、大丈夫だろうと思ってたらさ。次の日のニュースで、その俺のタバコ吸ってた空き地の裏の家で火事があったって知ってさ」

 人が一人死んじまったんだって――。春喜の言葉に野々宮は驚きを隠せないようだった。

 勿論、ボクも――。

「もしかして俺の所為とか思ったよ。だって俺、タバコの火つけたままだったし。咳こむ直前まで、その燃えた家の塀に寄り掛かってタバコ吸ってたんだから。もしかして俺のあのタバコでって……」

 春喜の話しは、どこかで聞き覚えがあった。いやボクは知っていた。

 中学二年生の夏休み。夕方以降。空き地の裏にある家。火事が起こって、人が一人死んだ。

 それは、ボクの――。

「怖くってさ、俺の所為で人が死んだんじゃないか、家が燃えたんじゃないかって。警察に捕まるんじゃないかって――。でも警察は来なかったよ」

きっと、タバコが原因だったんじゃないんだろうって思う事にしたよ。と春喜は言った。

しかし、それは違う。未だあの火事を起こした犯人は、見つかっていない――。

まさか、と言う思いが募った。

まさか、そんな筈は無い。

だが犯人は見つからなかった。裏の空き地によく集まっていた不良などが捜査には上がっていた。しかし結局犯人は今も判っていない。

ボクの知っている事件は――。

「カウンセリングの時。あぁ、この人に嘘はつけないなと思って全部吐いた。俺の中にある罪? 苦しみ? たぶん罪悪感かな……。ずっと俺なんじゃないかって、ビクビクしてたから。それを覚られない様に、必死に明るく装ってさ。でもあんなインチキカウンセラーでも告白したら楽になった気がした。意外に本物だったのかもな……」

 違う、ボクは抉られた。何も楽にならなかった。

 ただ自分の罪を確認しただけだ。苦しみを直視しただけだ。

 兄を見殺しにした現実を、思い知らされただけだ。

 罪悪感が重くのしかかる。

「……でもさ、なによりビビったのはあのカウンセラーだよ」

 春喜の言葉に、野々宮はそんなに怖い人だったのかと聞いた。

「いや、変わった人だったし、人を騙すっていうか、人の秘密を引き出そうとするテクニックは凄いと思ったよ。でも、怖い感じじゃなかった。俺がビビったのは“名前”だよ」

 名前? と野々宮が聞き返す。

「うん、似てたんだ。あの爾来屋って言う人と。その火事になった家に住んでた人の名前が……最初関係者かと思っちまった」

 爾来屋という名前。それに似ていると思うのはきっとかなり珍しい名前だろう。

 ボクの心は嵐のように激しく荒れていた。

常軌を逸してしまいそうだった。異常に感情が激しく狂ってしまいそうだった。

狂おしい、狂おしい、狂おしい、狂おしい――。

 燃え盛る炎の壁、焦げていく厭な臭い、あの熱さ、あの恐怖、あの声、あの顔――。

 炎に照らされて、 “兄”の顔が浮かぶ。

 野々宮はなんて名前だったの? と尋ねた。

 やめろ、やめてくれ。聞きたくない。聞きたくない。

 駄目だ、春喜。言ってはダメだ。その名前をボクは知っている。

 それは、その名前はきっと――。

「ミクリヤ――、たしかそんな名前だった」

 それはダメ押しの一言だった。

 ピタッと心の嵐が止まるのを感じて、ボクは目を開いた。

 目の前には春喜が、ボクに背を向けていた。

 そのすぐ先は線路がある。

 急行電車が近付いて、ホームに轟音が迫っている。

 しかしボクにその音は聞こえない。

 ただ、地震にあったような揺らぎをボクは感じている。

 ボクはベンチから立ち上がると、真っ直ぐに春喜に向って歩いて行った。

 一歩、また一歩と。

 春喜達は急行の迫る音で気づいていないようだ。

 みるみるその背中が近くなっていく。

 近づいて行くたびに、ボクの揺らぎは激しさを増していった。

 まるで酷い目眩のようだ。

 ゆらゆらと、世界が、ボクが、揺らいでいる。

 そうしてボクは、春喜の後ろに立った。

 目の前にはただ、親友の背中があるだけだ。

 ボクの身体は揺らぎ、心は迷う。

 理性と衝動。過去と現在。理想と現実。罪と罰――。

 しかしボクには判っていた。

 復讐という甘美な誘惑こそが、重いのだと。

 電車の先頭が、凄いスピードでホームへと入って来る。

 不意に鮮やかな青が靡いた気がした。

『阿保――』

 トンッ――と背中を押された気がした。


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