(6):ダメ押 ~前篇~
『ダメ押 ~前篇~』
マンガ喫茶でその名前を聞いて、聞き覚えがあると思った。
『ネクスト』たしか保が言っていた自殺サークルの名前である。
ボクがそう言うと野々宮はよく知っていますねと答えた。
「正確にはネットのカウンセリングセミナーらしい。ただ胡散臭い宗教みたいでな、爾来屋斎寧って言うカウンセラーがカウンセリングで相談者の罪と苦しみを聞いてあげて、来世では幸せになるように諭してくれるってもんらしい」
春喜はどうみても胡散臭い宗教だろう? と続けた。
「それがどうして自殺サークルなんですか?」
ボクがそう聞くと野々宮はパソコンのモニターを見せた。
トップ画面のタイトルにはネットカウンセリング『ネクスト』と書いてある。どうやら『ネクスト』のホームページらしい。
図書館のPCルームでも開けるらしいから、それ程害意があるサイトでは無いようだ。
「基本的にはネットの掲示板やチャットでカウンセリングするってのがこの方針らしいんだけどさ。アングラの掲示板では『自殺サークル』だって有名なんだ」
正直眉唾ものだと思った。アングラの掲示板の情報では、どこまでが正確なのかは判断できない。いや普通のネットの情報でもその真偽の判断は難しいのだ。
信用性の高いサイトならまだしも、ただでさえ胡散臭いカウンセリングの情報を、またアングラが叩いているのだ。
しかし保は会員登録を済ませたと言っていた。
「実は、ここのお問い合わせって所のアドレスにある文面……というか、パスワードを送ると、別の専用のページに行けるんだ」
春喜がそう言うと、野々宮が再びページを変えた。フリーメールの受信ボックスが画面には現れる。
「これは一昨日俺が急遽創ったフリーメールなんだけどさ。送ってみたわけよ」
「パスワードが判ったんですか?」
「ああ、夏乃ちゃんが調べてくれた。図書館でお前と健太と別れて、お前に呼び出されて事件にあって警察で事情聴取されてる間も……って長いな。その間この漫喫で調べてくれてたんだ」
一昨日の事件。つまり保が高坂の殺人現場を目撃してしまった事に端を発するあのドタバタ事件の日から……ずっと野々宮はこのマンガ喫茶の個室に籠っているらしかった。
料金を想像してみると恐ろしくて仕方がない。
「冬二、今お前金の事考えたろ!」
春喜に見透かされ困っていると、野々宮はお金の事は問題ないと言った。どうやら野々宮はこの辺りではそこそこ有名なお嬢様らしく、友達の為にと言う事で、結構な軍資金を借りて来たのだと言う。
ボクも中学生までこの地域に住んでいたが、野々宮という名前には心当たりが無かった。
隣町だから知らなかったのだろうか。
それにしても軍資金とはどういう意味だ?
「ネットで調べてもほとんどガセネタだったんだけどな。一つ可能性が高かったのを試してみた。そうしたらドンピシャ。それが昨日の夜の事でさ」
そう言って春喜は野々宮からマウスを受け取ると、一通のメールにカーソルを合わせる。
開くとそこにはどこかのHPアドレスが書いてあった。
「これが送られてきた」
春喜はそう言ってアドレスにまたカーソルを合わせページにジャンプした。
そのページは、素人が作ったような不出来なものだった。
ただネクストのタイトルは公式の『ネクスト』のロゴと同じだった。
「このページは会員登録制でな、登録規約には現世に苦しみ、罪を背負う者を、安楽の来世に誘うって書いてあんのよ」
「あからさまに胡散臭いですね。普通は信じません。でもこれが履歴に残ってたんですね?」
「ああ、図書館のPCルームで見たのとまったく同じページだった」
春喜はそう言い、野々宮も厳しい顔をしていた。
事の発端は一昨日の昼間に遡る。
図書館で保が高坂と再会し、絶叫した後の事だ。
春喜は保を追いかけたボクを待って図書館のその場に高坂と残っていた。
野々宮は春喜にすぐに行くからと言われて、旅行の下調べの為に先にPCルームへと向かったそうだ。
そしてそこで、あの居酒屋の一件以来、大学にも来なくなっていた藤堂秋子がいたのだという。
野々宮が声をかけるとバツが悪そうに、PCの電源を強制終了して、藤堂は逃げるように去った。
その後、一度戻って来たボクから『保の家に行くからある程度話しが判ったら携帯で連絡する』と言われて再び別れた春喜が、PCルームにやって来て、野々宮は藤堂の事を話したのだと言う。
その不審な行動に疑問を覚えた春喜達は、それまで藤堂が使用していたPCの履歴を確認した。
野々宮を発見して慌てて立ち去った所為か、履歴がバッチリ残っており、その殆どが自殺に関するものだったらしく、二人は大層驚いたそうだ。
安楽死のやりかた。
練炭自殺による死に方。
果てはこの自殺サークルがいいベストテンなるものまで……。
大抵は検索エンジンでも引っかかるような、チャチなものだった。
図書館の規制のかかったパソコンである。
当たり前と言えば当たり前。
しかしその中で二つだけ不自然なものがあった。
その一つが『ネクスト』だった。
ほとんどが自殺に関するものだった中、これだけがカウンセリングだった。
そしてもう一つが、今春喜に見せられたもう一つの『ネクスト』のページだ。
こちらの方は検索エンジンにも引っかからなかった。
公式の『ネクスト』のホームページは検索エンジンにかかるというのにだ。
図書館のPCでは限界を感じた二人は、そのままマンガ喫茶に移動した。
そしてアングラな掲示板で情報を集めて『ネクスト』に自殺サークルがあるという噂を発見した。
またそのサイトに行くためには、パスワードが必要だと言う事。
それから二人は、ボクの助けの電話が来るまでパスワード探しに精を出していたのだと言う。
後は先の通りである。
「それで、藤堂さんが自殺を考えていると――?」
「たぶんな。それも……既に会員登録を済ませている。これは俺の直観だがな」
春喜の直感もそうは外れていないと思う。
パスワードさえ見つけ出せば、登録するのは容易い。
保でさえ登録できたのだ。
「登録に必要なのは、氏名と生年月日。年齢……それから罪や苦しみのあるなし」
「罪や苦しみのあるなし?」
「さぁ? あなたは心に抱え、秘密にしている罪や苦しみがありますか? 無いですか? って書いてあるだけだから……」
「まるで、実際に登録したみたいに言いますね」
「登録したよ」
「はぁ~?」
ボクが思わず声を出したものだから、野々宮が口に人差し指を当てた。
ボクは声の大きさに注意しながら春喜を問い詰めた。
「本気ですか? 自殺サークルですよ」
「まだハッキリしないんだよ。裏のサイトの方も明確に自殺、もしくは死ぬって書かれてないんだ。もしかしたら本当にカウンセリングなのかもしれない」
「それはそうですけど」
「それでな、最後の会合と言う奴に来週行くことになった」
ボクは呆れてもうモノが言えそうにない。だが、このバカな親友を野放しにする訳にはいかなかった。
「それで? その最後の会合ってなんなんですか?」
「言葉通りの意味じゃないか? 人生最後の会合……」
ボクは頭痛を感じていた。一昨日この親友がボクを助けてくれたのは勇気でなく、ただ無鉄砲なだけなのだと、今さらながら理解する。
「つまり明らかに自殺の集まりだと……」
「たぶんな……この裏サイトの会員は現時点で七十六名。俺が登録した時点では七十二名だったが、その半分が欠番扱いになってる」
「間違いなく黒ですね。欠番になってるメンバーは、自殺したと……生き残ってるのは新規のメンバーか、怖くなって会合に参加しなかったとか」
「ああ、だから本当に自殺の集まりかどうか確かめてくる。もし藤堂がいれば、藤堂を連れ戻すし。もしいなくても、その会合ってやつを滅茶苦茶にして帰って警察に電話。以上今回の計画であります」
これでやっと春喜の「助けてほしい」という用件が判った。
今の時点では警察は動きずらいだろう。まともに警察に話しても鼻で笑われる気がする。
一昨日の春喜のように、無理やり力押しという方法もなくはないが、まずは証拠があれば警察も動かざる得ないだろう。
それに今回は自殺サークルの撲滅という正義の味方のようなお題目は、あくまでこのミッションの副産物であり、その真の目的は藤堂に自殺を諦めさせることにあるのだ。
「それで? ボクにもココに登録して一緒に来てくれと、そう言うわけですね」
ボクが真剣な顔でそう聞くと、春喜は違うよと事もなげに答えた。
「潜入は俺だけ、冬二にはバックアップを頼みたいんだ。逃走の時の足とか、警察への連絡とか……人出が足りなくてね」
「そんな、親友が危険な目に遭ってるのを、高見の見物しろとでも? ボクも一緒に行きますよ!」
「それは有り難いし、やってほしくないって気持ちもあるにはある。親友を危険な目に遭わせたくないってのは俺も同じだからな。けど、今回はそういうの関係なく無理なんだよ」
春喜はそう言うとインフォメーションというページを開いた。
そこには次回の最後の会合についてと書かれていた。
「会合は会員の番号順に招待されるらしい、その人数は六人。定員らしい。それに欠席者が出た時の繰り上げはありませんって書いてあるだろう?」
確かに書いてあった。ただボクはその下の文章が気になった。
『今回の会合のご招待は会員NO六十七~七十二の方になります。該当の会員様にはご招待状をメールにてお送りします。また七十三番以降の会員様は次回の会合のご連絡をお待ち下さい』
「春喜さん、会員番号は何番だったんです?」
「七十二番! 滑り込みセーフ」
アッケラカンとそう言う親友にボクはため息をついた。あくまで春喜の思惑通りに進んでいるらしい。
「だから、バックアップ頼むわ」
春喜はそう言って一昨日のように拳を突き出した。
「春喜さん……」
「ん?」
「自分の親友を、甘く見ちゃいけませんよ」
ボクはそう言うと、昨日買い換えたばかりのスマートフォンを取り出した。前の携帯は壊してしまったが、中のデータは残っていた。
そして、昨日。買い変えてすぐに新しいデータを入手していた。
勝算はある。
電話をかけると、思いのほかすぐに通じた。
「保君ですか? 実は君の『ネクスト』の会員番号を教えてほしくて……」
春喜が「げ!」と言うのが聞こえた。しかしそんな事知るか。
「そうですか、七十一番ですか……」
春喜は額を押さえている。
そう何もかも思惑通りにさせてたまるか。
「そうですか……その会員、代わってもらえませんか?」
「無茶するよ……お前……」
「春喜さんほどじゃないですよ」
通話口を塞ぐと、ボクは満面の笑みでそう言ってやった。
勝算はあった。保の話しによれば保が『ネクスト』の登録をしたのは、脅迫電話を受けてマンガ喫茶に逃げ込んでいた時の話である。
野々宮がパスワードを発見したのはその翌日の事だから、それから登録したのなら春喜より前になる事は確実だった。
案の定、保の所に招待状なるメールが届いていて、根負けした春喜はボクが一緒に行く事を快諾した。
バックアップは野々宮で、潜入するのは春喜と、菊池保の名を借りたボクである。
招待状に描かれた場所は、ど田舎で一番最寄りの駅は各停しか通らない。
回送や急行はよく通り過ぎるけれど。
駅につくと、ボクと春喜は野々宮と別れて一路会合の行われる山奥のペンションまで歩く事となった。片道一時間の長丁場だ。
春喜と比べて体力の無いボクは、ゆっくり進むことにした。
その方が参加者に見られても、面識があるようには思えないだろうという浅知恵も働いていたが。
だから、ボクの同道者はボク以外には姿は見えないし、声も聞こえない人外の存在だけだった。
黒い蝶の紋をさした鮮やかな青色の振袖に、薄紅色の桜模様の帯。小柄で髪は肩で気揃えられた美青年。
“人の背中を押す神”羽佐間だ。
羽佐間は山の急斜でヘトヘトになっているボクを見て、面白がっている。
「ほんま自分体力ないなぁ……春喜の奴はさっさと上って行ったで」
「知ってますよ……これもボクの作戦の一つです」
「そない見栄張って。作戦だけやのうてヘバッテルって正直になればええのに。言うてみ、聞いてるのは神さんだけや。恥ずかしゅうないで」
「他の神様ならいざ知らず、羽佐間さんにだけは言いたくありません……」
ボクはそう言って一度立ち止まり、肩で呼吸をすると再び足を前に進めた。
「ただでさえ体力無いのに、そんな多荷物もってくるからや――」
羽佐間の言うとおり、ボクのバックは荷物が比較的多かった。
IHのクッキングヒーターや、小型のポットなど電池式の小型のものだったが、もし会合場所に火器類しか無かった場合の万全の準備だった。
まぁ、これから自殺サークルに向かおうと言うのにこの準備はおかしいと、自分でも思わなくはなかったが、自分は自殺しないつもりだから仕方がない。
「ほんまけったいな奴やで。まぁ無茶加減で言うたら春喜の方が上やけどな。異常やでそんな火ぃ怖がんの」
羽佐間の物言いにボクは沈黙した。
そう、ボクは火が怖い。それはどんなに小さな火でもダメだった。
「でもまぁ、理由は聞かへんわ、また怒鳴られても敵わんし、おもしろうない」
「すみません――」
「それに、今回はウチの仕事が多そうやしな……」
「なんでです?」
「なんで、って自殺サークルやろ? 自殺する時に揺らぎ迷わん人間はおらへんやろ。なにせ死のうとしとるんやで」
「させませんよ、そんな事……」
ボクはキッパリとそう言った。
「ほぅ、言うようになったやないか。それでどないすんねん……」
「あのホームページ見ましたか?」
「あぁ、自分等がなっが~い話しとる間、大人しく見てたで。そのうち飽きたけどな」
そう言えばマンガ喫茶で話していた時、羽佐間はいつの間にかいなくなっていた。
どうやら、他の個室に入ってDVDや漫画を読んでいる他の客の所を回っていたらしい。
「あのホームページには安らかな来世への旅路と書いてありました」
「せやな」
「来世へ行く為に自殺するとして、人間が安らかに自殺するには、どうしたらいいと思いますか?」
「死神様にでも頼む」
「基本的に病気や何かで意識が混濁したりしない限り、死ぬ時はどうやったって苦しむんです。痛いし辛い。保君が怖がっていたのを見てたでしょう?」
「確かに……でもそれやったら、安らかな死なんてあらへんやろ」
「そうです。ましてや自殺でなんてありはしない。病気や何かで意識が混濁してるって先の例や、助からない病気で安楽死……なんてのもありますが、それだって意識が無くなるまでは病気やケガで苦しむんです。安らかじゃ無いですよ」
「だいぶ勉強しとるなぁ……ならどうやって安らかに自殺するんや」
「たぶん一酸化炭素中毒です。練炭なんかを焚いて一酸化炭素の吸い過ぎで死ぬんですよ」
「それも苦しそうやないか。どこが安らかなんや……」
「睡眠薬と併用するんですよ、睡眠薬で深い睡眠状態に入って、意識が混濁している間に練炭による一酸化炭素中毒で死ぬ。今流行っている自殺の方法で、一番安らかな死に近いと言われています……」
「やけに詳しいな。この一週間のにわか知識とは思えんのやけど」
ボクは再び黙った。しかし、この羽佐間も大事な友人には違いない。少しは話してもいいかもしれない。ボクは重い口を開いた。
「ボクの兄さんが一酸化炭素中毒で死んだんです」
「ほぉ、自分に兄さんがおったなんて初耳やで。ならそれで練炭自殺か?」
「いえ、殺されたんです――、殺人です――」
「もしかして、それが火を怖がる原因か?」
ボクはそれから口を開かなかった。
罪か苦しみが有るか無いか――。
不意にホームページの文句が浮かんだ。
羽佐間も何か察してくれたようで、それ以上聞こうとはしない。
それから三十分。
春喜から遅れること十五分。会合の場所であるペンションへとボクは辿りついた。
中に入ると、ボク以外の参加者五人が既に集まっていて、その中には春喜の姿も勿論あった。
そして――。
「なんで、アンタまで来てんの!」
いきなりボクを怒鳴りつけて来た人物がいた。
「太田黒といいアンタといい、何で来たのよ!?」
藤堂秋子。その人だった。
ボクは荷物を床に置くと、疲れた表情で「死にに来たんだ」と答えた。
「嘘つきなさいよ! こんな偶然、ある訳ないじゃない!」
「偶然だろ?」と春喜も後ろから答えた。
「ボクも君も死にたいんだ――それを君に文句言われる筋合いは無い」
「何よ、私の邪魔しに来たんでしょう。そうじゃなきゃ、アンタらが自殺したいなんて思わないものね!」
思ったとおり藤堂は噛みついてきた。
しかしこれは予想の範囲でもある。
もし藤堂が会合にいた場合、顔を合わせるのだからボク等に気づいて文句を言ってくることは推測の域を超えて当然のように思えた。
しかし潜入にいたって、下手な騒ぎになっても困る。
そこでこの時の為に、ボク等はそれぞれ自分達のキャラクターを設定していた。
何故自殺サークルに参加したのかという、それらしい理由。その為に。
春喜の理由はいたって簡単だった。野々宮にふられたというものだ。
実際交際は順調に進んでいる。
だが、春喜にとっては想像するだけで野々宮にふられると言う事は自殺したい程の絶望を味あう事だろう。
問題はボクだった。
ボクの理由はけっこう酷なものだった。
それは特に藤堂にとってである。まさか自分の本当の罪や苦しみを曝け出す訳にもいかず、また藤堂の心を揺さぶる意味も込めて、春喜や野々宮と三人で考えたのだ。それが……、
「藤堂さんの所為だよ……」
ボクがそう言うと、藤堂は驚いたようだった。
ボクは彼女が反論を返す前に畳みかけた。
「藤堂さんのお父さんが、ボクのあった痴漢騒ぎの犯人だって野々宮さんから聞きました。けど、それから罪悪感が募って仕方がないんです。
ボクは冤罪を見逃したんじゃないかって、そして一つの家族が不幸になっていくのを見て見ぬふりしてるんじゃないかって……。
そう考えだしたら、夜も眠れなくなったんです。辛くて苦しくて、藤堂さんたちに謝っても、償いきれない罪をおかしたんじゃないかって」
藤堂は黙っていた。実際罪悪感が無い訳じゃ無かった。
だからこそ言葉は真実味を帯びる。
けれど真意は違う。
罪悪感があるから、藤堂を救いたいと思った。
これ以上、彼女達を不幸に落とさない。
そう誓った。
だからこそ、あえて藤堂が傷つくような事を言う。
あえて心が揺らぐように言う。
「でも、藤堂さんもここに居て嬉しいよ。だって藤堂さんと一緒に死ねるんだろう?」
ボクがそう言うと、流石に怖くなったらしい。
「邪魔だけはしないでよ!」
藤堂はそう言ってボクから離れて行った。
ちょうどその時だった。ペンションのリビングのドアが開かれた。
中から現れたのは不思議な女性……いや、おそらく女性だった。
タイトな真っ赤なパンツスーツに身を包み、その身体の凹凸から女性だと認識できるが、顔は何故か赤い蛙の面をしていて、真黒な長い髪が腰まで伸びている。
「さっきから、死ぬ死ぬと無粋ですわ。よろしいですか? 皆さまは今から今生の罪と苦しみを封じ、穢れ無き魂で幸福な来世へと向かうのです。
それはただの死とは大きく違いますの。『ネクスト』つまり次の世に行く為の大きな境界へ、一歩踏み出しますの。よろしくて?」
蛙はそう参加者を見渡す。
「自己紹介が遅くなって申し訳ありませんわ。ワタクシ、この『ネクスト』の会合の主催者兼カウンセラー、爾来屋斎寧と申しますの……」
個別のカウンセリングが始まって、二時間近くが経っていた。
次はボクの番だ。
爾来屋はあの後参加者をリビングへと誘うと、それぞれ自由にくつろぐように言い、会員番号の若い順に隣の個室へと呼んだ。
それが個別のカウンセリングだと言う。
だいたい一人三十分ぐらい。
カウンセリングを終えて出てきた参加者は、そのまま隣の食堂へと無言で入って行った。
カウンセリングも個室、その後もすぐに部屋を移動する。
きっと指示されているのだろうが、これではまったくカウンセリングの事前情報収集ができなかった。
一人目、二人目、三人目と来て、四人目が藤堂だった。
ボクと春喜がいてカウンセリングを待っている間、彼女はとても不機嫌だったが、カウンセリングから出てくると、顔を泣き腫らしていた。
これはもしかしたら、爾来屋斎寧と言う人物はただものではないかも知れない。
下手な嘘は悪手になる恐れがある。
「菊池様、菊池保様――どうぞお越しください」
一瞬別の名前を呼ばれて気付かなかったが、次が自分だったと思いだし慌ててボクは個室へと向かう。
途中、春喜が声を出さずに「ガンバレヨ」と口を動かしていたのが判った。
ボクはそれに頷くと、個室に入って扉を閉めた。
部屋の中は所謂洋室で、ソファーが向かい合わせに並んでおり、その真ん中に硝子のテーブルが置いてあるだけだった。
そしてその上座に、赤い蛙が座っていた。
「どうぞ、お座りになって――」
ボクは蛙に言われるまま、反対側のソファーに腰掛けた。
「ちょっとお待ちになってね、今お紅茶を淹れますから……」
みると硝子のテーブルの上にアルコールランプが置いてあり、ボクは目を背けた。
どうやらそれで湯を沸かすらしい。
「紅茶はいりません――」
「あら、お暑くはありませんの?」
「暑いです。けど、紅茶はいりません」
「残念――、ならアイスティーにいたしましょうか。ちょっとお待ちになってね」
蛙はそう言って立ち上がると、個室を出て行った。
ボクはため息をつくと、小声でいつもの定位置にいる羽佐間に声をかけた。
「羽佐間さん、あの人どう思います?」
「どうって?」
「蛙の面に、あんな派手なスーツ着て……」
「確かに派手な姉ちゃんや」
「さっき、藤堂さん泣いてましたよね」
「泣いてはったなぁ……」
「あの人は本物だって事ですかね?」
「本物って、なんのホンモノや?」
「カウンセリングです」
「そんなんウチに判る訳ないやろ」
「そう……ですよね……」
「でも、ある意味本物やと思うで……」
「ある意味? それって――」
どういう意味か聞く前に、蛙は戻って来た。
トレーには二つのグラスがのせてある。
蛙はそれをテーブルに置くと、ストローで一口自分の分を飲んだ。
「さて、それではカウンセリングを始めましょう? お名前と年齢からお伺いいたしましょうか?」
ボクは取りあえずこの爾来屋斎寧を試すために、わざと判り易い嘘をついた。
「菊池保。十四歳です」
ただでさえ、嘘が苦手なボクだ。
しかし、これはある意味嘘では無い。保が会員登録した時に送ったものそのままである。
どう応えてくるか身構えたが、対応は簡素に「嘘ですね」と言うものだった。
「はい、嘘です」
「でも、送られた会員登録にも今と同じ記述がありましたわ」
「はい、会員登録する時にまだ信用できずに知り合いのプロフィールを書きました」
これは完全に嘘だ。
「それは、まったくの嘘ですわね」
あっという間に看破された。この人に下手な嘘は通用しない。
蛙はあらためて「お名前と年齢は?」と聞いた。
「浅間冬二、二十歳です」
「それは少し嘘が混ざってますわね」
「いえ、これは本当です」
やった、さっそくボロを出したかと思った。
ボクと春喜は、此処に来る前にいくつかの作戦を立てていた。
ボク等はホームページの文面や、ネットでのカウンセリングから、爾来屋斎寧はインチキ霊媒師風のカウンセリングをすると踏んだ。
それならば、霊能力か超能力のような力を示して、相手を信じさせてカウンセリングを促すのだと思ったのだ。
それで考えられたのは、見えぬ所で情報収集を行って言い当てる千里眼である。
この場合、相手の鼻を明かすには気真面目に実名と年齢を登録した春喜は向いていない。
そこで、保の名前を借りた、ボクが罠を仕掛ける事にした。
爾来屋はきっと保が来ると思っているから、当日までに保の事は調べられるだろうが、来るのはボクだから、事前に調べることはできない。
しかし此処で問題が生じた。
藤堂の存在である。
藤堂が何かしらボクの情報を与える可能性がある。
だから、リビングでは出来るだけ藤堂にボクの名前を言わせない様に配慮した。
その上で、藤堂が知りえない情報を使って二重三重の罠を張る予定だった。
また、春喜から情報を取ろうとする可能性も充分にある。
だからペンションに着く前から春喜には、ボクの事を浅間冬一と少しだけ違う名前呼ぶようにしてもらった。
そして、先ほどアイスティーを取りに行ったとき、ボクは藤堂か春喜に爾来屋が情報を聞き出しに行ったと思ったのだ。
そして最初に判り易い嘘をついておき、次に真実を話す。
そして蛙は引っ掛かった。
きっと春喜から情報を聞き出したのだろう。
だからボクの本当の名前を嘘だと……。
「そうね、今はその名前ですわね。でも生まれた時の苗字は違う――」
そうでしょう?
蛙が面の下で笑っているのが判った。
これにはまったく予想外だった。
ボクが春喜と示し合わせて変えたのは、名前の方である。
けして姓の方では無い。
それも生まれた時というのは……。
「ワタクシが言っているのは、貴方が中学二年の時に離婚する前のお名前ですわ」
何故、知っている。いや、春喜には昔、親が離婚している事を話した気もする。
その情報があれば姓が違う事ぐらいは、予想着く筈だ。
「それは……」
「えぇ、言いたくないのは判りますわ。貴方の罪と深く関わった名前ですものね。でもそれでは来世にいってもその罪に苦しむ事になってしまう」
蛙はそう言うとボクの横へと座る。
「よろしいですか、ミクリヤさん?」
「えっ、今――」
今、なんと呼んだ?
「ワタクシのカウンセリングは、お名前を言ってもらわないと始まりませんの。例え真実を知っていたとしてもね……」
この人は知っている?
「えぇ、どうやらお考え違いをなされているようだから説明いたしますとね、ワタクシは相談者から、今生で胸に閉まった苦しみや罪を告白していただいて、それをワタクシが聞いて秘密としますの。
秘密は抱えていればそれだけで苦しみます。罪になりますの。そうすると来世でもその秘密を抱えてしまう。苦しくなってしまう。罪悪感に苛まれてしまう」
それは、それはボクだ――。
「ワタクシはその秘密の守り人となって、皆様が安らいで来世へ向かい、来世で救われるようにしておりますのよ。だから――」
だからただの自殺サークルでは無いのと蛙は呟く。
「さぁ、ミクリヤさん。貴方も自分の秘密をお託しになって。貴方が抱える炎の罪を――」
ボクは、その時覚った。
この人は本物なんだ。
この人の前では、嘘は通用しない。
「ボクの、ボクの名前は御厨冬二です。浅間は母の旧姓です」
「御厨さん、貴方の抱える罪はなんですの?」
それは、それは――。
「早く告白してしまいなさい」
「ボクは、ボクは……中学二年の時に兄を、雪彦兄さんを殺しました――」
それはボクの抱える最大の罪。
親友の春喜にも、ましてや羽佐間にも話したことのない。
瞳に写る闇の正体だった。
それはボクが中学二年の夏休みだった。
既に大学生だった雪彦兄さんは、アルバイトの家庭教師で出かけており、父さんも母さんも仕事で、ボクは家で一人で過ごしていた。
夕方になって物音がして二階の自分の部屋から階下を覗くと、何故か雪彦兄さんが帰ってきていた。
「どうしたんですか? 今日は家庭教師のアルバイトの筈じゃ……」
雪彦兄さんが教えていたのは、高校受験を控えた隣町の中学生だった。それでいつもバイトへ行くと夕食まで御馳走になって帰って来るから、今日も帰りが遅い筈だった。
「あぁ、実は“なっちゃん”が風邪をひいたって、急遽休みになったんだよ」
「なっちゃん? ああ教え子の事ですか?」
「そう。なんとなくお前に似ているんだがね――まぁ、大丈夫だろうさ」
兄が言うなら大丈夫だろうなと思った。
兄はボクの誇りであり、理想だった。
兄は優秀だった。勉強もスポーツもなんでも出来た。
正直嫉妬していなかったと言ったらウソになる。
でも背が高く、ボクの勉強もよく見てくれる兄を、ボクはけして嫌いではなかった。
『約束の言葉』を教えてくれたのも、兄さんだったから。
「父さん達、今日遅くなるんだよな?」
「はい、九時は回るかもと言ってました」
「そっか、なら今朝も早かったしそれまで寝てるかな」
兄は二階の自分の部屋に入ると、どうやら眠ったらしかった。
ボクも両親が帰ってくるまでする事もなかったから、隣の自分の部屋で昼寝を始めてしまったのだ。
そしてそれからしばらくして、事件は起こった。
最初に気づいたのは、異様な暑さだった。夏とはいえ、まるでホットカーペットくるまっているかのような暑さ。
そして、パチパチとなる音だった。
まどろみの中で、いったいなんだろうと思って起きた。時計を見ると七時だった。
まだ九時まで二時間ある。
暑いけどもう少し寝るかと思った、その時だった。
窓の外が変に明るい。
七時だったらもう少し暗くてもと、ボクは何気なく窓を開けた。
ブワッと風が吹いたかと思うと、隣で火柱が立った。
見ると一階から隣の兄さんの部屋までが、既に火に包まれている。
「火事だ――」
そう思ったボクは廊下へと駆けた。
しかし部屋を出ると既に廊下は火の海で、階下に降りる事もままならなかった。
――どうする?
ボクは慌てて窓へと戻ると開いた窓から、ベランダへと出た。
ちょうどベランダから見えるボクの家の後ろは、空き地になっていて飛べば、多少の怪我は仕方がないが塀を越えて着地することができる距離だった。
逃げるとしたら、此処しかない。
ボクはベランダの格子に足をかけて、いざ、飛ぼうとする。
その時に思い出してしまったのだ。
「雪彦兄さんは――?」
そう今日は、雪彦兄さんが早く帰ってきているのだ。
そして今火柱が上がっている、兄さんの部屋で寝てしまった。
その筈だった。
しかし、ボクはそんな事無いと思いながらもかけた足を戻して、火柱の上がる隣のベランダを覗いて見た。
きっと兄さんは逃げている筈だ。
これだけ火が強いんだもの。
寝ていたとしても気付かない訳がない。
そうだきっと兄さんは、もう逃げている――。
そう強く思おうとした。
そう強く願った。
だが、窓を覗きこんでそれ見事に打ち砕かれた。
兄さんがいた。雪彦兄さんがそこにいた。
床の上突っ伏していた。
兄さん――!
火が燃える。炎が燃える。
兄さんの部屋を焦がしながら、真っ赤に――。
ボクは身を乗り出して隣のベランダに乗り移ろうとした。
その瞬間、炎の壁が行く手を遮った。
熱かった、肌が焼け、髪が縮れた。
いっきに恐怖が身体を焦がす。
でも、兄さんが、兄さんが――。
その時、窓の奥で兄さんの身体が動いた――気がした。
そう思ったのと、ボクの部屋に炎が押し寄せて来たのは同じだった。
時間が無い。
でも、このままでは兄さんが死んでしまう。
兄さんは生きてるのに。まだ――生きているのに――。
だが、そのときふと思ってしまった。
兄さんを助けに行って、ボクは生きていられるのかと。
ボクの部屋より、兄さんの部屋の方が凄い勢いで燃えているのだ。
これで、ボクが助けに行ったとしてボクも兄さんも――、
いや死んでしまう。ボクも兄さんも死んでしまう。
怖かった。死ぬのが怖かった。
厭だった。死ぬのが厭だった。
そして、ボクは燃え盛る兄さんの部屋を背にして、
飛んだ――。




