(4):押バナ
『押バナ』
まさかこんな事になるとは思わなかった。
いつもの図書館の喫茶室である。夏に差し掛かって、ボクは健太と一緒に冷たいものを飲みながら、最近恋人の出来た親友とその彼女を待っていた。
親友というのは太田黒春喜という男で、最近やっと半年の恋愛を成就して、想い人の野々宮夏乃と目出度く交際を開始した。
おかげでボクは春喜とつるむ時間が極端に減り、健太と二人でよく遊ぶようになっていた。
健太はいじめの事を両親に話したらしく、それに怒った両親が学校へ乗り込んで行ったらしい。
逆にいじめがなんぞやと怒られると思っていた健太の不安は杞憂に終わり、代わりに怖い目に遭ったのは中学校の校長と、健太の担任教師だった。
乗り込んで行った健太の両親は、いじめについて学校はどう把握しているのかと聞いたそうだ。すると担任がいじめなんてあり得ないと言った事から、両親が激怒し、実態が掴めるまで健太を学校に行かせないと言ったらしい。おまけにそれをこれから教育委員会に話してくると校長室を出ていこうとするものだから、校長や担任教師は両親をなだめるのに心血を注いだらしい。
その後、取りあえずいじめの実態が判るまで教育委員会には報告せず、健太は長期休養扱いになった。
両親と学校公認の不登校となった健太は、おかげで時間が多く出来て、ボクや春喜と遊んだり、ボクが彼の勉強を見るようになったのだ。
人に勉強を教えるのは初めてだったが、健太が思いのほか出来た生徒だったのか教えるのは意外と楽で、また楽しかった。
まるで昔に戻ったようで……立場は変わっているが……。
学校で成績が上がらなかったと前に健太は言っていたが、きっとそれは環境が悪かったからでは無いかと思える。
ただ、健太の勉強を見ている時のボクのもう一人の友人の対応には苦労した。
黒い蝶の紋の入った青い振袖に、帯は桜模様の入った薄紅色。髪は肩で揃えられた小柄な美青年。
他の人にはその姿を見る事も、声を聞くことも出来ない神様。
“人の背中を押す神”羽佐間の事である。
彼は、ボク等が勉強を始めると必ず退屈に陥る。なにか話せと横でぶつくさ文句を言い始める。
「神さんの機嫌損ねると、厭な事が起こんでぇ……」
と、騒ぐのだが、それがボクにしか聞こえないのだから迷惑極まりない。
さて、その時も冷房のきいた喫茶ルームでジュースを飲みながら、健太に勉強を教えていた。後で春喜や野々宮も来ると言っていたので、それまでの暇つぶしのつもりだったのだが、お陰で暇になったのは横におわす神様のようで、羽佐間は騒ぎ始めていた。
「あかん、あの兄ちゃんとお嬢ちゃんが来るまでこれ続くんか?」
羽佐間は酷くご立腹である。しかも進行形でボクは健太の勉強を見ているのだから、どうしても羽佐間を無視せざる他なく、余計に彼の機嫌を損ねているようだった。
「ったくなぁ。世は夏やで、外は空が真っ青。暑いのは判るけど、インドアやのうてアウトドアに自分は動けんのかい!」
大声で喚かれても対応のしようがない。喫茶室とはいえ、場所は図書館である。包んでいるのは静かさと平穏だ。
羽佐間に一々反応出来る筈もない。
「他にやる事ないんか! ナンパに出かけるとか、今話題の通り魔捕まえに行くとか、世界征服に乗り出すとか……もっとドラマの主人公みたいなことでけへんのかい? まったくウチもけったいな男に憑いちまったもんや!」
反応出来る筈もない……が……。
「あーあーヤダヤダ。おもろない。これなら他の奴に憑いたろうかなぁ!」
「なら、他に行けばいいじゃないですか!」
いい加減頭にきて怒鳴ってしまった。周りの視線が一点に集まるのが解る。
しまった――。と思った次の瞬間。ガチャンッと音が鳴ってその視線は別の方へと移った。
見ると、健太と一人の少年が倒れていた。どうやらボクの声に驚いて少年が転んだらしい。それを助けようと健太が庇い、テーブルの上のジュースもろとも床に落ちたみたいだった。
その証拠に床には二人の他に、割れたグラスと、ジュースの水溜り。それから少年が抱えていたらしい本が転がっている。
「ごめん、大丈夫ですか!?」
そう言ってボクが二人に駆け寄るのと、喫茶の店員が雑巾を持ってやって来たのは同時だった。ボクは水溜りに足を浸けるのも構わず謝罪しながら二人を抱き起こす。
健太は大丈夫ですと笑って許してくれたが、少年は少し涙を浮かべていた。
年齢は小学校の低学年ぐらいか……泣かれても仕方がない。だけどこの少年、どこかで……。
「本――」
少年は涙目でそう言った。どうやら投げ出された本を探しているらしい。
「ガラスに気をつけて下さい」と片づけ始めた店員を避け、床に落ちていた本を拾い上げた。
どうやら植物図鑑のようで、幸い落ちた場所が良かったのか本は濡れていなかった。
「ごめんなさい、驚かせてしまって……」
そう言って少年に本を返すと、少年は本をすぐに開いてページをめくり始めた。
「ない~。シオリがない――」
少年は遂にそれで泣き出してしまった。
シオリ……栞! そこでボクが前にこの少年に出会っていた事を思い出した。
たしかその時も少年は転んでしまって、羽佐間の振袖のような、鮮やかな青色の花の押し花の栞が落ちた。
ボクはそれを拾ってあげたのだ。
健太は泣き続ける少年をなだめようとするが「栞、栞――」と少年は泣きやむ気配が無い。
とにかく栞を探す他無いと思い、周りを見渡すがどうも見当たらない。
足に違和感を覚えたのは、栞が遠くまで飛んでしまったのかと一歩踏み出した時だった。
正確には足ではなく、靴の裏だ。ズリッと滑るような感じがして、まさかと思った。
靴の裏を見ると、そこには予想通り無残な結果となった栞が張り付いている。
零れたジュースに浸ったのか水気を多く含んでおり、今の足を滑らせた結果ビリビリに破れた押し花は、その花の原型を留めていない。
やってしまった――。と思ったのと、少年の泣き声が大きくなるのは一緒だった。
だからこそ、まさかこんな事になるとは思わなかった。なのである。
「なんだよ、いったい――」
タイミングが良いのか悪いのか。春喜と野々宮がやって来たのはそのすぐ後だった。
事情を説明し、とにかくその場は喫茶室の店員に任せ、ボク等は外に出る事にした。
野々宮が栞の欠片を集めて外で乾かそう助言してくれたからである。
野々宮と健太に少年をなだめてもらっている間、ボクと春喜は炎天下で栞の欠片を乾かす事に注視した。
夏の陽ざしのお陰もあり、ものの三十分程で欠片は乾くには乾いたが、とてもテープや何かで元に戻せるモノではなかった。
その様子を羽佐間は笑って見ている。
「あーあー、こりゃダメや。可哀そうにあのガキまだ泣いとるで。どない責任とるんや自分。あー可愛そう、あー可愛そう」
と、面白そうにボクに向かって語りかける。
元を正せば全ての元凶は、この神様の所為だと言うのに。
なんとも厭な神様である。
ボクはこっそりと羽佐間に向って「神様ならどうにかならないのですか?」と呟いてみたが、
「何言っとんねん。前にも言うたやろ、ウチはただ“人の背中を押す”だけや。それだけ。それにな『他に行けぇ!』なんて言われて、ウチが力貸すとでも思うてんのか?」
と、ボクの先のセリフを根に持っているようだ。まったく役に立たない。
「これは、どうにもならないな」
春喜もお手上げで溜息をついている。
ボクは仕方なく少年に謝って、元には戻らないと伝えた。しかし少年はただ泣くばかりだ。
「ごめんなさい。ボクが弁償するから……」
「無理だよ、これはパパが創ってくれたんだ。これもってればホタルが来るって」
手作り……その事実がボクに重くのしかかる。
「そっか……悪い事したな。坊主、名前はなんて言うんだ?」
斑目蛍介と少年は名乗った。
「蛍介、俺達をパパに会わせてくれないかな? パパに謝ってもう一度つくってもらうようにお願いしたいから」
「春喜さん、ボクが彼の栞を壊してしまったんです。ボク一人で行きますよ。春喜さん達は関係無いですし」
「なに言ってんだよ。親友が困ってんのに、助けないのも変な話じゃねぇか! 俺達も一緒に行く。なぁ健太」
「はい、元はと言えば僕が転んでしまったのが原因ですし」
春喜と健太の言葉に涙腺が緩みそうだった。
「素晴らしい友情やなぁ。やっぱり持つべき者は友達っちゅう訳やな」
羽佐間はそう偉そうに言ったが、元はと言えば羽佐間の所為である。この神様はそこのところをちゃんと判っているのだろうか?
その時「臭うな……」と声がした。
羽佐間かと思ったが、その声の主は春喜だった。それでボクも気づいた。なにか異臭がする。
「おい、これ……」
声をかけられて、振り向くとそこに男が立っていた。
見るからにホームレスだと判る男だった。汚い衣服、ボサボサの髪……。どうやら臭いはその男から発せられるようだった。
五十か、六十か……年齢はそれ位に見える。その男が、何かを差し出していた。
「話しが聞こえちまってな。良かったらこれやるよ」
男が持っていたのは、その男が似つかわしくない綺麗な栞だった。
彩っているのは、鮮やかな青色の花。それを押し花にしているらしかった。
少年のモノに似ている――いや同じだ。そう思った。
「これやるから、泣きやみな。いい子だから」
男はそう言いながら蛍介にその栞を握らせた。蛍介が泣くのを堪える。
「よし、男の子はそう簡単に泣くもんじゃない。分かったな」
蛍介がそれにコクっと頷くと、男は蛍介の頭を撫でてから背を向けた。
「おじさん、ありがとう!」
蛍介の言葉に男は後ろ手に手を振って去って行ってしまった。
「なんだ、あれ?」
春喜がそういうのも判る気がした。
そう思っていると図書館の方から人が駆けて来た。いつも野々宮と話しをしている眼鏡をかけた女性の図書館職員だ。
「大丈夫だった?」とその職員は野々宮に話しかける。野々宮はその職員に何も問題は無いと伝えると、あらためてこの職員、高坂幸恵を紹介してくれた。
高坂は軽い挨拶を済ませると説明をし始める。
「あのホームレスね、最近図書館によく来るのよ。たぶん外は暑いから涼を取りに来てるんだと思うんだけど。ほらあの臭いに恰好でしょう? 他の利用者からも苦情が来てて。でも騒ぐ訳でもないし、おとなしく本も読んでるから追い出す訳にもいかず。それとなく様子を見てたのよ……」
まったく、困っちゃうわね。と高坂は結んだ。
「気のいいおっちゃんやったな。まぁ人は見かけちゃうからな」
と言うのは羽佐間の談だ。
「あら、その栞。ツユクサ?」
高坂は蛍介の栞に気づいて、ちょっと見せてと蛍介から栞を見せてもらっていた。
「やっぱり。露草だわ。へぇ、押し花にしてるの初めて見た」
それに野々宮が知ってるのかと尋ねた。
「うん。蛍を取った時にね、虫籠に一緒に入れるのよ」
実家にいた頃を思い出すと高坂は郷里に思いを馳せているようだった。
「それにしてもあのおっさん、なんや匂った気がしたんやけどな……」
羽佐間がぼやいたので、ボクは小声それに聞き返した。
「先程の人ですか? 確かに少し臭いましたけど」
「ちゃうちゃう、ウチが人間の体臭なんか判る訳ないやろ!」
羽佐間はどうやら所謂においを感じないらしかった。ならば彼が匂うというのは誰かの揺らぎであり、迷いだ。
だが、羽佐間はどうも微妙な顔をしている。神様をも迷わす程、その揺らぎは小さなものだったのかもしれない。
なら、あの男は何を迷っていたのだろう。
ボクはちょっとそれが気になった。
「世知辛い世の中やでほんま」
羽佐間はテレビを見ながら、いつかのボクのセリフを吐いて笑っている。
見ているのはニュースで、あの図書館の近くで人が殺されたというものだった。
『……遺体で発見されたのは立川雅夫さん。二十二歳の美容師で、仕事からの帰宅中に殺害されたと思われます。遺体は腹部を刃物様なもので刺されており、警察は最近近隣で起きている通り魔の犯行とみて……』
「こないだは放火、今度は通り魔……仰山死によるわ。こりゃ死神さんは大儲けや。ウチも商売換えした方がおもろいんやないか?」
そんな不謹慎な軽口を聞こえない春喜は、同じニュースを見ながら「物騒だなぁ」と感想を述べている。
「この通り魔といい、こないだの放火といいさ。身近でこう事件が起こると怖くなってくるよ。冬二も気をつけろよ」
ボクは羽佐間の言動には無視の方向で「何に気をつければいいんですか?」と春喜に聞き返す。
図書館でのいざこざの後、珍しく春喜がボクの住むアパートへと泊まりに来ていた。
健太と野々宮を送ってから「久し振りに飲もうぜ」と春喜が言ってきたからだが、おそらく昼間の事でボクが落ち込んでいるのではないかと、親友は心配してくれているらしい。
そんな親友は食事のあてに鍋を所望していた。夏なのに……。しかし「暑い時に熱いものを食べれば涼しくなる」というのが彼の持論らしい。
お陰でボクはキッチンで汗をかきながら、クッキングヒーターの上で鍋をコトコトと煮ている。
「ご心配はありがたいですが、ウチには火器類はありませんから大丈夫ですよ」
春喜は箸を引っこめると違うと言う。
「放火じゃなくて、通り魔の方だよ。ほら、通り魔って図体のでかい男だって噂だろ? 冬二は見てくれが女っぽいから襲われやすいかなって」
「どういう意味ですかそれ!」
ボクが憤慨していると、春喜は笑いながらタバコを取り出して火をつけようとした。しかしその手は途中で止まり「おっと悪い。タバコ吸ってくるわ」と言って外に出て行った。
「逃げましたね……春喜さん」
おそらく扉の外でタバコを吸い始めている春喜の背中に向って、ボクはそう呟いた。
「まぁ、放火だからって、この家に火器類がある無いは関係あらへんけどなぁ……」
と羽佐間はボクの言葉じりを取って嘲笑した。
ボクは少しムッとしながら一度IHの電源を切ると、鍋とクッキングヒーターをテレビの前へと運んだ。
「通り魔やってそうや。いきなり襲われたら関係あらへん。その時は……しゃぁないよな」
「しゃぁない……ですか……」
「なんか不服そうやないか。なんや言いたい事でもあるんか?」
「いや、別に……」
自分でも語尾が滲んでいるのが判った。
しょうがない……それは、そうだと思う。
放火にしろ、通り魔にしろ……被害に遭う方にはそれはどうしようもない。
急にそれが起こったら、避けようがないのだ。
事故も天災もそれは同じ。悲劇は予告もなくやってくるものなのだ。
それでも、と思いたいのは過ぎた思いなのかもしれない。
「もし……」
「あん?」
「もし、みんなにも羽佐間さんが見えれば……少しは変わるんですかね……」
羽佐間がどういう意味だと聞くのでボクは続けた。
「羽佐間さんは誰かが何かを迷ってる時に背中を押してあげる。いい事でも、悪い事でも」
「せや。それがウチの仕事……いや存在そのものやからな」
「なら、みんなに羽佐間さんが見えたら、羽佐間さんが背中を押そうとしている人は何かを迷ってるって、みんなが判る訳じゃないですか。きっと相談に乗ってあげられる」
そうすれば、羽佐間でなくても相談に乗った人間が迷っている人を助けてあげられるのではないだろうか?
春喜の時のように、勇気が出なくて迷っていれば背中を押し。
健太の時のように、悪い事に手を染めようとしていれば止めてあげる事が出来るのではないか。
しかし羽佐間はそれを否定した。
「無理や。人間はそんな優しゅうない。いちいち他人の迷いにかまって上げる程、人間は自分が生きる事に暇やないんよ。焦ってると言っていい。それに迷ってる人間が世界にどれほどおると思ってるんや?」
確かにそうかもしれないが……。羽佐間はボクが勘ちがいをしていると指摘した。
「ええか? ウチが自分の事を神さん言うたんは、そういう得体の知れないものっちゅう意味や。その後につけ足したやろ『もしくは妖物や』って。ウチは己の事を『背中を押す神』って言うてるけどな。それ己の主観でそう言ってるだけや。
ウチから見れば背中押してあげとるんやからな。
けどその実はちゃうで。正確には、誰かが迷ってる。あと一歩踏み出せない。その一歩を踏み出した。人間風に言えば『決意した』とでも言うんかな。ニュアンスはえろう違うけど。ウチはそう言った事象が具現化したもんや」
そういう概念の塊と言っていいかもしれないと、羽佐間は付け足す。
「今、自分の目の前にはウチが見えとるけど、実際はこの今の時点でもウチは別の多くの場所に存在しちょる。揺らいで迷っている人間の後ろで背中を押してる。現在進行形でな。
通り魔と同じや、ウチは突然現れる。揺らぎ迷ってる誰かが、ふいと背中を押されたように次の行動起こす、通りものなんよ。
普通はウチが見えるからってどないにもならん。
自分や、健太の時みたいなんは稀なんよ――所詮、人間が起こす事やからな」
「人間が起こす?」
「そう人間が起こす。しかし人間はそれを別の誰かの所為にしたがるんや。
神さんが背中を押してくれたから、悪魔が耳元で囁いたから、誰かが誰かが……。
責任転嫁したがる。
たまたま、人間の所為にしたくないって思って、考えて人外の何かにそれを求めた概念。
それがウチや。
悪魔よりも神さんの方が通りええから、そう言うがな。
結局は事を起こした人間に、責任はすべてあるんや。
ホンマは揺らぎ迷っても、自分の中ではより強くそう思ってるんやからな。
でもそうは思いたくない。自分の所為にしたくは無い。
だから誰かの所為にしたがるんや。その責任は人には重すぎるから――ウチはそうやって生まれた」
神の導きで、運命がそうだった……人は確かに誰かの所為にしたがる。
いい事でも悪い事でも。
色恋沙汰なら前世から結ばれていたなどは、廃れるほどの常用句だし。
犯罪者が被害者を指して「アイツが悪いんだ」と言うのも同じだろう。
自分がやった行為は、自分の責任だと言うのに……。
「勝手な話しやで、ホンマ。でもそれでウチは存在しとる。そこに不満も不服もあらへん。自分が存在してる事に不満も不服もあらへんからな。
でも勘ちがいしたらあかん。
ウチは神さんであり悪魔でもある。そしてそのどちらでも無い。
ウチは誰ん中にもある当たり前の存在で、同時に通りもんのような突発的な存在や」
得体がしれない。言葉で言うには言い難い。
だから、神なのか……。
ボクは不意に目の前に写る、その透き通った存在が怖くなった。
羽佐間は、これ(・・)は、この存在は……ボクには手に余るかもしれない。
「しゃぁないで……もう憑いてしもうたんやから……」
羽佐間はボクの不安を見透かしかのように、そう笑った。
「ところで、鍋噴きこぼれそうやけどええのか?」
羽佐間にそう言われて、慌ててIHのスイッチを切る。少々吹きこぼれてはいたが、このクッキングヒーターならすぐに拭けるから片付けも楽である。
「そういや、自分苦学生の割にはええもん持っとるのう。と、いうか今思えば不自然な程、この部屋火器類があらへんな。タバコ吸わんからライターが無いんは判るけど、キッチンのガスコンロもウチの目の前で使うた事ないしな……」
「えぇ、まぁ……」
「火ぃある所は自分避けるな。春喜がタバコ吸う時も自分から見えない所で吸わせるし……」
「それは……」
「自分もしかして“火”が怖いんか?」
羽佐間がそう言ったのと、春喜が玄関から飛び入って来たのは同時だった。
「冬二! 今あの子のお父さんから電話があった!」
あの子と言うのは蛍介の事らしかった。結局あのあと、春喜は謝りたいから此処に電話をくれと蛍介に自分の携帯の番号を教えたそうだ。
まったく、変なところで律儀な親友である。
「お礼を言いたいから明日図書館に来れませんかだって。謝んなきゃいけないのはこっちなのに」
ボクが蛍介の栞を破ってしまったのに、春喜の中ではもう自分の事になってしまっているようだった。
「明日で大丈夫だよな?」
ボクはそう頷くと、再びクッキングヒーターの電源を入れ直した。
「どうも昨日は息子がお世話になりました」
そう蛍介の父親、斑目聡は頭を下げた。ボクと春喜も慌てて頭を下げる。
「いえ、元はと言えばボクの所為で息子さんの宝物を壊してしまって……」
「大丈夫ですよ。あれはすぐに創れるんで……むしろ代わりの栞を戴いてしまって申し訳ない」
「いや、あれは俺達があげたもんじゃないんですよ……」
驚く斑目に、ボク達は昨日の出来事を順を追って説明した。
ボクが大声を上げて蛍介を驚かせてしまったこと、その所為で健太共々転んでしまったこと。
その時ジュースが零れて、蛍介が落とした栞が濡れしまい、挙句にボクがそれを踏んでビリビリに破いて無惨な事になってしまったこと。
それから外で乾かそうとしたが矢張り巧くいかずに困っていたら、ホームレスが来て代わりにと蛍介に例の栞を渡してくれたこと。
話しを聞き終えると斑目は軽く溜息をついて「そうだったんですか」と呟いた。
「コイツの話しを聞く限り、お二人のどちらかが渡してくれたのかと……」
斑目はそう言って隣で、今日は虫図鑑を眺めている蛍介の頭をなでる。
「すみません、ご迷惑ばかりかけて役にも立たず……」
「いえいえ、気しないでください。昨日はここの会議室で自治会の会合に出ていたし、共働きの妻も仕事に出ていたので……コイツをココに待たせて、目を離してしまった親の責任ですし」
「自治会ですか?」
「えぇ、いつも会議とか会合の時は此処を借りてるんですよ。今年は私が自治会長なものだから、休む訳にいかず……」
「自治会長……って、お若いのに!」
春喜がそう驚くの無理は無い。見る限り斑目は二十代に中盤ほどに見える若さだった。
「いえいえ、自治会はマンションでは輪番制で。任されたというより押しつけられたと言う感じだから偉くもなんもないんですよ」
むしろ周りに怒られてばかりだと斑目は苦笑した。
「いや、それでも凄いですよ。なぁ、蛍介。お前の父ちゃん凄いな!」
春喜がそう言うと蛍介は嬉しそうに頷く。
「ところで、その栞をくれたホームレスっていうのは……」
斑目はその人にも俺を言いたいのだと言う。
「ボク達もよくは知らないんです。ただ最近ここによく来るらしくて。ほら外は暑いから……」
ボクももう一度会ってお礼を言いたいと思っていた。
「それにしても、あのホームレス……よく似たような栞持ってたな。手作りなんですよね? それ――」
春喜はそう言われ、斑目は相槌をしながら栞を手に取った。
鮮やかな青色の小さな花。たしか名前はツユクサと言ったか。それを押し花にした、ボクからみてもとても綺麗だと思った。
ただボクにはこの青色は、いつの間にか蛍介の後ろに回り込み、一緒に虫図鑑を覗きこんでいる神様を思い浮かべてしまう。
先ほど羽佐間が蛍介の背後に回り込んだ時は、多少冷や冷やした。しかし虫図鑑の方に興味があったようで、今は安心して放置している。
まぁ時々ページを捲る蛍介に「待て、まだそこ読めてへんねん。あーっ、もう」と聞こえぬ声で嘆いてはいるが……蛍介や図鑑に物理的干渉ができない神様は、何か悪戯をおこして驚かせるようなことはないから大丈夫だろう。
「それにしても、似てませんか?」
ボクがそう聞くと、春喜は何に? と疑問を投げかけた。
「蛍介くんの栞だよ。前の……ボクが昨日破いてしまった」
そう一度、ボクは蛍介の宝物の栞を目撃している。
昨日は見た時はすでに無惨な事になっていたが、春先に一度蛍介とぶつかった時に栞を拾ってそれを見たのだ。
それも確か、同じツユクサの押し花だったと思う。
ボクがそれを説明すると、斑目はやはり同じ露草だという。
「同じ露草で、やっぱり手作り……本当に凄い偶然だな。よくもってたよな、あの人」
春喜の意見にボクも賛同した。同じ花の押し花で手作りされた栞。
押し花の定番はツユクサなのかと聞くと、斑目はそんなことは無いと言った。
「私の田舎が蛍の見える所で、露草がよく生えていたんですよ。今はだいぶ蛍も露草も減ってしまいましたが」
押し花で露草はめったに使わないんじゃないですかね。と斑目は答えた。
そうならば春喜の談の通り、凄い偶然である。
ただ、偶然にしては……似すぎている。そうも思った。
「あっ、あのおじさんだ」
蛍介がそう言って図書館から駆けだしたのはその時だった。
見ると図書館の窓の外に、昨日のホームレスがいた。公園のようになっている図書館の外のベンチに座っている。
「あの人です。栞をくれたのは……」
ボクがそう言うと、斑目は立ち上がって蛍介の後を追う。昨日の礼を言いにいくらしかった。ボク等もそれに続いて立ち上がる。
昨日の件では、ボクもあの男に礼を言わねばならないだろう。
外に出ると、既に蛍介は男に向って礼を言って頭を下げていた。
「おじさん、シオリありがとう!」
「おお、昨日の坊主じゃないか……もう泣いてないな?」
男がそう聞くと蛍介はウンと元気よく頷く。
その後ろに斑目が立った。男は顔色を変える。
「昨日は息子の蛍介がお世話になりました」と斑目はボクらの時と同じように頭を下げる。
男は「気にすんな」と親が出てきてバツが悪いのか、慌てて逃げようと立ち上がった。
しかし斑目はそれを逃さない様に言葉を紡いだ。
「あの栞手作りなんですね……」
男の動きが止まった。しかし何も答えない。
「露草の栞……。昨日破ってしまった方は私が息子に作ってあげたんです」
破ってしまったのはボクだ。
「昔、私は父から教えてもらったんです。押し花の栞の作り方……。その父親は私が蛍介の年の頃にボクと母さんを捨てて、失踪してしました。仕事先が倒産した所為で……」
「それは、ご苦労なこった……」と男は感情もなく返す。斑目は続ける。
「ええ。苦労しましたよ――田口博之さん。いや父さん……」
名前を呼ばれ、男――田口博之は振り向いた。
「やっぱり、聡だったか……」
田口は白旗を上げたかのように、気力なくベンチに座り直した。
「この栞を見てピンと来たよ、作り方が私と同じだからね。でも最初は蛍介を助けてくれた青年が蛍介にくれたと思っていたから、どちらかが父さんと繋がりがあるんじゃないかと思ってたけどね……」
斑目はそう言ってボク等の方を見た。
「どっちかが、父さんの子供じゃないかと思ったんだ。失踪した後に新しい家族を創ったんじゃないかってね。でも違った……。
その様子だと、私の事を判ってたみたいだけど。いつから……?」
「春ぐらいかな……たまたま此処を通りかかって、お前を見かけた。似てるなぁと思った。母さんに。それに一緒にいるこの坊主もそっくりだったから。昔のお前に……」
「それで?」と斑目は問いかける。
「それから、此処にくればお前に会えると思って図書館に通うようになった。でも、確信がなかったから、声をかけられなかった。いや、声をかける資格も無いな。私はお前達を捨てて出て行ったんだから……」
「それで?」と斑目は再び問いかける。斑目が聞きたいのはもっと別の事ではないかと、そうボクは思った。
「確信に近くなったのは、昨日、坊主が栞を破いて泣いていた時だった。残骸の花が露草だったから、きっとこの子の父親はお前だと思った。
すぐに逃げようと思った。もう此処に来るのはよそうとそう思った。
でも、その子の泣き方が、泣き声が……昔のお前とダブって……」
思わず栞を渡してしまったのだと言う。
「それで?」斑目は三度聞いた。
「いったいこれ以上、何を聞きたい? お前達の前からいなくなった後の事か? それなら見ての通りだ。同情しろとも、それで許してくれとも言わんよ……」
田口はそう言って項垂れた。斑目と視線を合わせよとすらしない。
二人の間に沈黙が下りた。
蝉の声が響いているのに、妙に静かだった。
蛍介は心配そうに父親を見つめている。
「こいつの名前、蛍介っていうんだ」
沈黙を破ったのは、斑目だった。
「私は母さんの旧姓になったから、斑目蛍介――。蛍介のケイは、蛍って言う字なんだ」
田口は驚いたように顔を上げる。
「そうか――お前、蛍好きだったもんな」
「ああ、だけど今の父さんは嫌いだ」
斑目はそう言うと、財布を取り出して万札を二枚手に取ると、田口の横にそれを叩きつけた。
「――!」
田口はその叩きつけられた万札を見つめた。とても哀しい顔をしている。
「もう近寄るなと言う事か……」
斑目は答えず、蛍介に「帰るぞ」と言って手を引いた。
その背中は田口から遠ざかっていく。
田口はそれを見る事もなく、二枚の紙を悔しそうに握りしめている。
駄目だ――、これじゃ駄目だ。これじゃ、誰も幸せにならない。
田口は、きっと斑目に凄く逢いたかったんだと思う。
春喜がそうであったように、愛する人に何度も、出来るだけ会いたいと思うのは自然なことだ。
だから田口も春からの長い間、図書館に通い続けたのだ。利用者や職員から白い眼でみられても。
斑目や、蛍介がいない時だってあったろうに……。
昨日、羽佐間が言っていた。
田口から「匂い」を感じたと。それは曖昧なものだったけど。
今ならボクにも解る。
田口は揺らいでいた。迷っていた。
斑目を置いてきた罪悪感と、父親としての愛情の狭間で。
これではダメだ。これで終わりにしては――。
その時、露草の花びらが翻った。
いや、違う。それは羽佐間だった。
黒い蝶の紋の鮮やかな青い振袖。帯は薄紅の桜模様。髪は肩で揃え、小柄な“背中を押す神様”
羽佐間はスゥ―とボクの前を通ると、ベンチを通り抜けて田口の後ろに回った。
そうだ、やはり田口は揺らいでいる。迷っている。
ならば重いのはどっちだ? 強く願っているのはどっちだ?
今、声をかければ修復できるかもしれない。しかし拒絶されることだって充分に有り得る。
なら、息子を諦めるのか――。
田口には彼を置いてきたという負い目がある。罪悪感がある。
今さら自分が現れたからといってとも思うだろう。むしろ面倒をまた背負いこませるのではないかとも思うだろう。
希望か、諦めか……。
ボクには諦めが強い気がした。だって、罪悪感は重いから……。
でも、それでもこのままではダメだ。
このまま終わってしまうのは、ダメな気がする。
ボクは羽佐間に一縷の願いを託した。
羽佐間が背を、背中を押せば――何かが動く。
通りもののように、田口はなにかしらの行動を示すだろう。
それが、希望であるとボクは願った。
鮮やかな、露草色の振袖が上がる。
羽佐間の手がそこから伸びて、田口の背中をトンッ――と。
「来週、また此処に来てくれ――迎えにくるから」
その斑目の言葉で、羽佐間の手は背中を押すことなく止まった。
田口は目を丸くして斑目を見た。その薄汚れた顔には涙の跡がある。
「迎えに――って、この金は――手切れ金じゃ」
「なんだよ手切れ金って。それは服と銭湯の代金だよ。初めて嫁さんに自分の父親紹介するのに、その父親がそれじゃぁ格好つかないだろう?」
なぁ父さん――と、斑目は笑って振り返った。
「おじいちゃん。またね!」と蛍介も笑って手を振る。
田口はその場で泣き崩れた。周りはそれに騒ぎ始めたが、ボク等はそれを止めようとしなかった。
というより、春喜にいたってはつられて泣いている。
「よがっだ、よがっだよ~」
「なんで、春喜さんが泣いてるんですか?」
かくいうボクも、必死に熱いものがこみ上げてくるのを堪えていた。ここで男の二人泣きはカッコがつかない。
「まったく、ウチの仕事とるんわ。自分みたいな阿保ばかりやと思ってたわ」
いつの間にか定位置のボクの横に戻って来た羽佐間が、そうぼやいていた。
「意外と、人間もすてたもんじゃないようですよ」
ボクが昨晩の当てつけにそう呟くと、羽佐間は、
「これじゃウチもあがったりや。本気で死神への鞍替え考えようかな……」
と笑っていた。




