(2):押トオス
『押トオス』
罪悪感を覚える。
「あれからどうなのよ。まだ見たりすんのか例の幽霊?」
身体は? とり憑かれたりはしてないのかと春喜は一応心配をしてくれているらしい。
だからボクは心配無いと笑って答えた。嘘を交えて。
嘘を吐くのは苦手だ。
何か悪いことをしている気がして……。
確かに身体に変調は無い。そこは事実だ。
日常生活事態はいたって平穏、今までどおりである。
大学の講義もあれば、今日みたいな休日もなんの変わりもない。
しかし件の幽霊を見なくなったかどうかというと、それは嘘だ。
その証拠に、今ボクの横にその幽霊は見えている。
正確には幽霊ではないのだが。
黒い蝶の紋の入った青い振袖。薄紅の帯を締め、肩に揃えた髪。そしてその麗貌。
“人の背を押す”神様。羽佐間と過ごすようになってもう一週間近くが経とうとしていた。
ボク以外にその姿は見えないし、声も聞こえないのだから、学生生活にはまったくと言って良いほど問題はなかった。
しかし四六時中、ボクの側にいるこの状況は、春喜の言うとおりとり憑かれていると言って間違いないだろう。
だが羽佐間にはそれが不愉快のようで、
「なに言うとんねんこの兄ちゃん。ウチはとり憑いとるんやのうて、付き纏ってるだけや。なぁ冬二?」
とブツクサ文句を述べている。
春喜には聞こえもしないのに。それに人で無いモノが付き纏っているのだから、とり憑いているのとどこが違うのだろうか。
「阿保、自分までなに言うとんねん。ウチは別に自分に被害なんか与えへん。ただ付き纏う――気のいいストーカーさんや」
なお悪いと思う。羽佐間のこの変な関西弁と妙に現代用語に馴れた口調といい、隣で一緒に歩いている春喜にすら聞こえない小声の愚痴まで聞こえるあたり、どうもこの新しい友人は、ボクの調子を狂わせる。
そういう意味では何も心配はないと言う事は無いのかもしれない。
ボクは心の中で心配してくれた友人に感謝した。
まぁ、話す訳にはいかないのだけれど。
「お前も災難だよなぁ、結局あの痴漢起訴されるんだって?」
春喜の何気なく言う言葉にボクは少し胸が痛んだ。
「せっかく、お前が犯人は違う。って警察まで足運んだってのに、話も聞いてくれなかったんだろ?」
そう、あの痴漢に出会った翌日。羽佐間に犯人は別にいる事を聞き、ボクは警察に出向いて犯人は違ったと思うと述べて来たのだ。
警察署に入る時、ものすごく怖かったし不安だった。だが羽佐間はボクの背中を押す事は無かった。
羽佐間曰く、ボクは匂いがしなかったのだと言う。
どういう意味かよくわからなかったが、それでもボクは警察署の中に入れたのだから、迷わずに自分で決められたと言う事だろう。
しかしボクの小さな勇気は、大した効力も発揮せず。例の中年男性は起訴される事になりそうだ。
春喜は「混んだ電車の中だから仕方がない」と言い。
羽佐間は「ホンマは犯人見てへんのやからしゃあない」と言った。
結局、助けられなかったと言う事が苦しかった。
だが「たぶん犯人は違う――」というだけのボクの供述は、まったく助力にはならないことは予想出来たし、実際に犯人は見ていないのだから仕方がないという羽佐間の言い分通りである。
それでも腕が違った、実は見ていたとでも嘘をついて押し通せば、何か変わったのかもしれないが、あの強面の刑事の顔の前ではそれも無理だったろう。
何よりボクは嘘を吐くのが苦手なのだから――、やはり「しゃあない」のかもしれない。
矮小なボクの背中は、押されてもこれ以上の結果は望めないのかもしれない。
それでもやりきれない罪悪感は募るが……。
「どうしようもないさ。お前を信じない訳じゃないけど、本当にそのオッサンがやったのかもしれないし……真相なんて俺達には判らねぇよ」
それは違う。真相は判っている。なにせ神様が言うのだから――。
だからこそ、悪い事をした気がするのかもしれない。
「冬二が気に病むことねぇって。テレビドラマや漫画じゃねぇんだ。現実は思いのほか冤罪とか、暴かれぬ犯罪なんてザラなんだからよ」
隣で「ええこと言うやないかこの兄ちゃん」と笑っている羽佐間を見ると、漫画やテレビドラマの世界に迷い込んだのではないかと思えてくるが。
とても現実感は無い。特に、向こうの風景が透けたこの神様を見る限りは。
その神様に褒められた友人は、ため息をつきながら懐からタバコの箱を取り出し、一本咥えていた。
「春喜さん、悪いんだけど――」
ボクがそう言うと、春喜は「ああそうだったな。悪い悪い」と咥えたタバコを箱に戻した。
「そういやお前の前でタバコは駄目だったんだよな。悪い慣れなくて」
そう言って謝る春喜にまた胸が痛む。正確にはタバコがダメな訳じゃないのだが。
「俺もタバコ止めりゃいいんだけどな。最近はタバコ吸っててもモテる訳じゃないし」
「なら止めたらどうです? 禁煙ブームですし」
「やっと二十歳になって合法的に吸えるようになったんだぜ。そう簡単に止められるかよ」
「二十歳になる前から吸ってた気がしますけど」
「気にしなくていいんだよ。そう言う事は……おっと、喫煙スペース発見! 先行っててくれよ。吸ったら追いかけるから」
春喜が見つけたのはコンビニの店前の灰皿だった。
「いいですよ。中で立ち読みでもしてますから……」
ボクはそう言うと一人コンビニの中へと入った。
その時である。
「匂うなぁ――」
隣の羽佐間がそう呟いた。
この台詞を聞くのは二度目である。
一度目はつい先日、電車内での事だ。
電車に乗り込むとすぐに羽佐間はそう呟いた。
「匂うってなにがです?」
ボクも嗅いで見たが、特に変わった臭いはしなかった。羽佐間は何も言わずにスゥ―ッと電車の中を進んで行く。まるで先日の痴漢騒ぎの時のようだ。
おそらく『匂う』というのは先に羽佐間が言っていた、揺らぎ迷っている人間の事を言っているのだろう。
どうやら神様である羽佐間は、その手の人間を匂いを敏感に感じとるらしい。
神様ならさもありなんと言った感じだが、見るのは初めてである。
しかし車両の中を見渡す限り、ボクにはその判別ができなかった。
今回はあの時ほど電車は混み合ってはいない。
流石に座席は埋まっているが、立っているだけなら充分に空間が空いている。
とても痴漢が起こるような状況では無かった。
別の車両か? そうも思ったが意外にも羽佐間が立ったのは座席に座った一人の少女だった。小学生ぐらいだろうか。
あの子が? まさか痴漢に?
そう思っていると羽佐間は座席と壁を通り抜けて少女の後ろへ回り込み、トンッ――とその背中を押した。
既に走り始めている電車で、こんな芸当をするのは流石神様といったところだが、押された人物がダブってゆらぐのは何度見ても慣れなかった。
少女は揺らぎが止まると、何を思ったのか急に立ち上がりボクの方へと向かってきた。
なんだ、なんだ――と焦るボクを余所に、その少女はボクを通り過ぎていく。
そしてその後ろに向って……、
「お婆ちゃん、お椅子どうぞ」と言った。
振り向くと、そこには確かに杖をついた老女が立っていた。手すりに掴まって辛そうな老女に少女は手を差し伸べると、先程まで自分が座っていた座席まで誘って行く。
「あっ、なるほど……」とこれにはボクにも理解が出来た。
何があの少女を揺らぎ迷わせていたのか。
老女は座席に座ると少女に何度も礼を述べ、少女はパァーッと笑顔を咲かせている。
「知りたいか? あのお嬢ちゃんはなぁ――」
「判りますよ。座席を譲ろうかどうか悩んでいたんでしょう? ボクにも身に覚えがあります」
ボクがそう言うと羽佐間は何故か不服そうだった。
お年寄りには席を譲ろう。標語のようなこの善行見本は、意外と実際に行おうと思うと難しかったりする。
特に小学生ぐらいの場合。席を譲ろうとした事で、相手に年寄りと思わせて、逆に不快の思いをさせて怒られるのではないかと考えてしまうから。
ボクもそのような覚えがある。
良い事だと思っていても、必ずしもそうでない事もあるのだと覚えていくのだ。
羽佐間はボクに話しの腰を折られたのが不服だったのか、憮然としながらそれでも顔を綻ばせている少女を見ながら、「人間みんなの揺らぎや迷いが、皆あのお嬢ちゃんのようやったら。人間も楽やろうになぁ……」と呟いていた。
そしてまた、再び羽佐間は「匂い」を感じ取ったらしい。
それは誰かが揺らいでいると言う事。誰かが迷っていると言う事。
コンビニを見渡すと、今度は一目でその匂いの主が誰なのか判った。
勿論、ボクにはその匂いは感じられない。それでも懐かしいあの制服と、見覚えのある暗い瞳は間違いが無い。
ボクの直感が正しい事を証明するかのように、羽佐間もボクの視線の先へとスゥ―ッと移動していく。
それは一週間前に出会った少年で、いつかのボクだ。
羽佐間が彼の後ろへと回り込み、片腕を上げようとする。それよりも前に、
「ねぇ、君。楼間学園の生徒だよね」
ボクはそんな風に声をかけた。羽佐間の動きが止まる。
そしてあの深い瞳がボクを射抜く。
大丈夫。彼が何に揺らぎ、迷っているのかは予想がつく。一週間前に羽佐間に聞いているのだから。
「お兄さんは?」
彼の質問に「君の先輩だよ」とボクは答えた。
「君、一週間前に携帯の充電器を万引きしていたでしょう?」
ボクがそう聞くと、制服を着た矢部健太少年は身を小さくして視線を落とした。
「ちょっとちょっと冬二。いきなり中学生捕まえてなに言ってんだよ。悪いね急に」
そう謝ったのは春喜である。
コンビニで健太に声をかけた後、ボク等はタバコを吸い終わった春喜と共に目的地だった市立図書館へとやって来た。今はその喫茶ルームで三人顔を突き合わせている。
最初、ボクが急に健太を連れ立ってきた事に春喜は面くらったようだったが、大事な話があるんだというと付き合ってくれる事になった。
健太はと言うと思いのほかおとなしく。素直に従っていた。おそらく一週間前のボクの顔を覚えていたのだろう。
「あのな冬二。お前の言うとおりこの子が万引きをしていたとしてもだな……」
「同級生に……君をいじめてる人たちに命令されてやった。違うかい?」
春喜の言葉を無視して再度尋ねると、健太はビクッと身体を震わせた。やはり間違いない。羽佐間の言う通りだ。
一週間前、羽佐間はこう言っていた。
『あのガキなぁ、いじめられてんねん。同級生の何人かがあのコンビニの近くで張っててなぁ、万引き指示しててん』
それでボクは健太を見て何故、昔の自分を思い出したのかを覚った。
似ているのだ。中学が同じと言うだけでなく。その状況が――。
『きっと初めてやったんやろな。だからめっちゃ匂ってたんよ。いじめへの恐怖から犯罪に手を染めようとしているのと、良心の呵責がせめぎ合ってて、大きく揺らぎ迷ってたんやろな』
万引きは犯罪だ。悪い事だ――。
その時の健太の心情は想像するに難くない。いじめも怖いが、犯罪者になるのも怖い。
悪い事をするというのは、それだけで罪深いのだ。犯罪の大小に関係は無い。
それは大きな迷いだ。
万引きしないで同級生にボコボコにされるか、それとも万引きして一時の安心を手に入れるか……。
心は揺らぐ、大きく迷う。
それはコンビニに入り、目的のモノを目の前にしても同じだったのだろう。
一歩手前まで来ていたのだ。その犯罪を犯すか、踏みとどまるか。
それを後押ししたのが、きっと羽佐間だったのだ。
結果、恐怖が勝った。一時の安心を健太は取った。
気持ちは判らないでも無い。
一度でも反抗すればいじめが激化するかもしれない。恐怖が激しく強くなる。
しかし、犯罪は……バレなければ裁かれない。罪は法では無く、自分の心の中だけに残るだけだ。
罪悪感として――。
そこに救いがある訳では無い。解決などとは程遠い。泥沼に溺れるだけだ。
それでいじめが止まる訳でも、状況が変化する訳でも無い。
だがその場はやり過ごす事が出来る。
今、この時。それが平安であればそれでいいのだ。
過去も未来も関係無い。悪い事をしてでも、今が惜しい。
「やっぱりあの時、見られてたんですね……」
無言を通していた健太は此処でやっと口を開いた。
しかし正確にはボクは見ていない。後から羽佐間に聞いて知ってるだけだ。
春喜は「それでどうすんだこの坊主」とボクに聞いてきた。
「どうするって?」
「警察にでも突き出すか? それとも万引きした店にでも引っ張ってく気か? こないだの痴漢騒ぎが巧くいかなかったからって、そんなに犯罪に頑なにならなくてもさ」
春喜の口から出る“警察”や“店に突き出す”という言葉に、健太は一々身を震わせる。
その顔は段々と不安そうに下を向いて行く。
「そんな風には思ってないし、警察にも店に連れて行かないよ。ボクは彼と話がしてみたいだけなんだ」
ボクがそう言うと、健太は驚いたように顔を上げた。
「君は、昔のボクだ――」
「どういう意味ですか?」
「言ったでしょう? ボクは君の先輩だ。中学校の……それに、いじめを受けた人間としてもね」
明らかに健太の顔色が変わったのが判った。
「えっ、冬二って楼間学園の生徒だったのか? 確かウチの大学入るまで北海道にいたんじゃなかったっけ?」
「うん。中学生の途中までこっちに居たんですよ。その後両親が離婚して、ボクは母さんと北海道に引っ越したんです」
「なんだよっ。て事は、俺が夏休みとかにばあちゃん家に遊びに来てた時にでも会ってたかもしれないな」
春喜は大学進学と同時に、大学に近い祖母の家に身を寄せている。確かにそれを考えれば幼少の頃に偶然会っている可能性ぐらいはあるだろう。
「よかったですね。逃げ出せて……でも僕は……」
健太の言葉に春喜は笑うのを止めた。そう今は春喜と思い出話を咲かせる時では無い。
「健太君、確かにボクが逃げだせたのは両親の離婚も原因の一つだけど。いじめられていたのも理由の一つなんだ」
楼間学園は私立の中学校だ。ボクも中学受験して入学した。最初の頃は特に問題無かったが、ある事が切欠でボクはいじめられるようになった。
健太と同じように。
万引きや、犯罪行為を指示されて事こそないが。小遣いはむしり取られ、放課後はサンドバックにされていた。
厭で厭で仕方がなかったが、それでも学校に通っていたのは、必死に勉強して受験して入った学校だったと言う事と、高い授業料を両親が払ってくれているという負い目からだった。
ボクはいじめられている事を誰にも言えず、ただ耐えた。耐え続けた。
そしてある時、小遣いが尽きた。いじめていた同級生に金を要求されても、もう無いのだと謝った。すると同級生はこう言った「親からパクッて来いよ」と。
脅され、焦ったボクは家に帰って両親に隠れ、母の財布から二万円近くを握って家を出ようとした。
健太と同じだ。一時の安心の為にボクは悪い事をしようとしたのだ。
いや、金を取る時に迷わなかっただけ健太より罪深いかもしれない。だが、急いで玄関を出ようとしたその時だった。
それは母さんが出かける時に、最後の身だしなみをチェックする姿見だった。
玄関の横にかかるその鏡が不意に目に入った。そこに写ったのは酷く青ざめた顔をして、涙を浮かべた制服姿の少年だった。
その瞳は深く深く――暗かった。
これが今の自分か……。ボクの姿か。そう思うと絶望した。
せっかく、生きているのに。こうやって生き残ったのに。
この姿はなんて事だろう……。
罪悪感が――胸を突き刺した。
そして、全てが嫌になった。
いじめも、学校も、同級生も、両親も、兄も……。
もうどうでもよくなってしまった。
悪い事をしてまで、こんな顔になってまで学生生活を送る事が面倒になった。
ボクは握っていた二万円を何も知らない母親に投げ、そして自分の部屋に引きこもった。
目の前の今から、未来から、そして過去からも逃げだした。
「両親が離婚したのはボクが不登校になったその後なのですよ。ボクの決断が正しいとは思えませんけど。悪い事をしなくても、逃げる方法はあるんです」
健太はボクの話しをただおとなしく聞いていた。
「この間、コンビニでボクを見返した君の顔は、あの時鏡に写ったボクだった。制服が同じだからかもしれないけど。でも今の君はあの時のボクなんだ。そして君から見ればボクは先輩になると思う」
「でも、僕は貴方と違う。もう悪い事をしてしまったんです」
「健太君。さっきコンビニに居た時も万引きしようとしてたよね。それも今度は命令された訳でもないのに」
健太は目を丸くして、どうして判ったのか聞いた。
「さっきも君は同じ顔をしていたし。もしこないだみたいにいじめてる人間が近くにいたのなら、ボク達にこうやって着いてくるとは思えないからね」
健太は再び俯いた。そこから雫が落ちていくのが見えた。
「悪い事はね、すればするだけ罪悪感が薄れていくんだ。一度は大丈夫だったから次も大丈夫だろうって……。だから今度はいじめも何も関係なく、君は悪い事をしようとした」
「憂さばらしか、それともいじめっこへの上納金集めのためか……そんなとこか」
流石春喜。察しが早い。
「なら、どうすればいいんです――。ボクは貴方と違う。結局貴方は悪い事をする前に逃げだせたじゃないですか。でも僕は、僕は……もう悪い事をしてしまった後なんだ。貴方とは違う。もう引き返せない」
「うん引き返せない。でもそれがまた悪い事をしていい理由にはならない。それは君が一番よくわかってるでしょう?」
健太は答えない。唇を噛み締めているのかもしれない。
「だから、ボクは君を救いたい」
「おいおい、救うってどうすんだ?」
「ボクが健太君の友達になるんだ」
健太は顔を上げ、春喜は呆れてハァと零した。そんなに変な事言ったろうか。
「なぁ、それってなんかの解決になんのか? この健太君にとって?」
「さぁ、知らない。でも話し相手とか愚痴を聞くことはできるよ」
「出来るよってお前な」
「意味が……意味が判りません……」
健太は絞るような声でそう言う。
「君は昔のボクなんだ。だからこれ以上見てられない。このまま悪い事をし続ける昔のボクを、ボクは見過ごすことが出来ない。でも、今の健太君の状況を打破できるような考えは浮かばないんです。一朝一夕でどうなるものじゃないしね。
けど、ボクは君を救いたい。せっかく手に入れた過去の自分を救う事が出来るチャンスでもありますし。健太君を、昔のボクみたいに逃げ出さず、いじめに立ち向かえるようにしたいんだ。その為にはまず友達になるのがいいと思うんです」
完全に呆れかえった春喜が「お前なに言ってるのかわかってるのか?」と聞いてきた。
「判ってるよ。タイムマシンでも無いとできないような事をするチャンスがあるって事です」
「違う、いいか? お前の言ってる事はどうみたってお前のエゴだ。ワガママだ。こういう件に時間がかかるのは判るけど、それは当事者たちの問題で、ほとんど無関係な俺達が関わるのは、どうみても余計なお節介だぞ」
そんな事は判ってる。
「判ってるよ、勿論。これはボクのエゴでワガママだ。でもボクはこのワガママを押し通したいんです」
「言ってること滅茶苦茶だぞ冬二!」
「でもボクは過去の自分が、健太君がこれ以上悪い事をするのを見逃せない。悪い事は悪いんだから!」
「お前なあ……」
春喜が怒鳴り声を上げそうになったその時だった健太が突如笑いだしたのは。急な事でボクも春喜も目を丸くする。彼が笑うのを初めて見た気がする。
「ふふははは。すみません。なんか僕の話しをしてるのに、お二人とも僕の事忘れてませんか?」
「あっ、あのなぁ健太。俺達は今お前の事を思って……」
「判ってます。でも……」
「ねぇ、健太君どうかな? ボクが力になれる事なんて多くないと思う。けど ボクみたいに一人で抱え込むよりはマシだと思うんですが」
ボクがそう聞くと健太は「でもそんな資格はない」と言った。
「僕、学校でも友達がいないんだ。トロイし、勉強だってそんなにいい方じゃない。楼間に受かったのだって奇跡に近かったんだ。テストでも下の方だしだからみんな……:」
「冬二の時はどうだったかしらねぇけど。今、楼間っつたら進学校だからな。頭の良さでいじめが起こるってのも無理ねぇかもな」
春喜の言う通りだ。ボクが通っていた頃からあの学校ではそう言う事が多かった。
ボクの場合はいじめの原因は多少違っていたが……。
でも、そんな事でいじめていい理由にはならない。
いじめもまた、悪い事なのだから。
「なら、なおさらだよ。愚痴を言えたり、一緒に遊べる人がいるとさ。約束の言葉が言えるようになるんだよ」
「約束の言葉?」と健太は聞いてきた。あの時と同じだ。本当に、昔のボクみたいだ。
「『サヨナラ』だよ。それから『また明日』って。そう思えたらさ、明日また友達に会えるみたいで楽しみになりませんか?」
ボクは思い出の中のセリフを思い出しながら続けた。
「だから、友達になろう――約束の言葉が言い合えるように」
「僕は……」
また俯こうとする健太に向って、ボクは手を差し出した。
彼はボクの目を見つめる。その瞳は大きく揺らいでいた。そして迷いが伝わってくる。
不意に、何も言わずに様子をうかがっていた羽佐間が動いた。スゥ―ッと健太の後ろへと回った。そして、
トンッ――と羽佐間はその背中を押した。
健太はおそるおそる手を出すと、ボクの差し出した手をギュっと握った。
「よろしく……お願いします……」
その瞳にはまだ暗さが残っている。でも昔のボクとは違う。少しだけだけど、その深さは浅くなっているような気がした。
「……ったく、なんのネルトンパーティーだよ。あーあー、判った判った。健太、今日から俺も友達だ。いいか? 俺はな、絶対に友達を大事にするん奴なんだ」
「そんな話し始めて聞きましたよ」
ボクがそう言うと春喜は「ウルセェ」と返した。
「だからな健太。俺は友達のお前をいじめてるヤツ等を許さない。でもお前に迷惑をかけるのも嫌だ。だから、今度から何かあったら俺にまず連絡しろ。万引きを指示されたり、金持って来いとか言われたら俺に言え」
「ちょ、ちょっと春喜さん。暴力沙汰はだめです」
「判ってるよ。迷惑はかけたくないって言ったろう? だから俺も冬二とおんなじだ。基本は愚痴聞いたり一緒に遊ぶ。でも、もし健太から連絡があったら、俺が学校でもコンビニでも迎えに行く。こんな風に……」
春喜はそう言うと椅子から立ち上がり、その場にしゃがみこんだ。そしてタバコを一本取りだすとそれを咥え、眉間に皺を寄せる。
見るからにチンピラか何かのようだった。
「こうやってお前が来るのを待ってれば、私立中学の頭がいいだけのガキなんて勝手に逃げてくさ」
春喜はそう言って健太に笑いかけた。
健太はと言うと、「ありがとう、ありがとう」と感謝を述べながら泣き出してしまっていた。
ボクはそこで気がついた。
そうか瞳の中の深い暗さは、涙と共に落ちていくのだ。
感情を露わにして、涙と一緒に吐きだす事で暗闇は流れていく。
だからこそ、感情を露わに出来る友達が必要なのだ。
「ホンマ、自分と一緒だとおもろいわ――」
健太の後ろで羽佐間もそう言って笑っていた。
それからしばらく健太と談笑していた時だった。
「お、夏乃ちゃん!」
と、春喜が突然席を立って駆けだした。その先には二人の女性の姿が見える。一人はこの図書館の従業員なのか、エプロンに眼鏡をかけていて、もう一人はショートカットの似合う若い娘だった。
「知り合いですか?」
健太の質問にボクは「眼鏡じゃない方はね」と答えた。
確か名前は野々宮夏乃。同じ大学の学生で、現在春喜が思いを馳せる女性である。たしか年齢は一つの上だが学年は同じはずだ。
しかし健太にはそこまで説明する必要は無いから、同じ大学の知り合いと答えておいた。事実彼女とボクはあまり面識はない。ついでに言うと正直彼女は苦手だったりする。
春喜はしばらく三人で話していると、従業員風の女性に頭を下げて野々宮を連れだって戻って来た。
「冬二、夏乃ちゃんもレポートやりに来たんだってさ」
そう嬉しそうに言う春喜の後ろで、野々宮はボクに向かって挨拶をした。ボクも取りあえず首を軽く下げる。それから野々宮は健太に気づいたようで、ボクか春喜の弟なのかと聞いてきた。
「それが違うんだ。俺の友達。な、健太」
健太はおずおずと肯定していたが、はたから見ればまるでいじめっこは春喜のようも見える状況で、ボクは苦笑してしまった。
それから野々宮を交えてしばらくお茶をして、健太は帰り、ボク等は当初の目的であったレポートの為、図書館の中に入って行った。
健太が帰る直前春喜が、「必ず何かあったら気にせず呼べよな。遅くなっても絶対に行くからよ」と語りかけているのを見て。ボクはいい友達を持った事を誇らしく思っていた。
その所為か前を歩く春喜と野々宮の後ろで顔が緩んでいたらしく、羽佐間に「キモッ!」と言われてしまった。
「自分がそんな顔するなんて思わんかったわ。まぁ、自分の頭はどこかおかしいんやろからしゃぁないけどなぁ……」
それにムッとしたが周りの目もあるし、何より図書館の中だったから出来るだけ小さな声で文句を言い返した。
「頭がおかしいって酷いじゃないですか……」
「酷いのはどっちや! 人が自分の仕事しよー思って、あのガキの背中押す前に、声かけやがって」
そう言うのはコンビニで健太を見かけたときの事だった。確かにあの時、再び万引きをしようか揺らぎ迷っている健太の背中を、羽佐間は押そうとしていた。
だがその前にボクが声をかけてしまい、羽佐間は押すのを止めたのだ。
「ホンマ無理なことするわ。神さんのやろうとする事をやめさせるって。無謀な阿保か、なんも考えてへん阿保かどっちかや。どちらにせよ頭がおかしいんに決まっとるわ」
「そんなアホアホ言わなくたって……」
確かに冷静になって考えてみると凄い事をしたのだと思う。
神の成す事を止めたのだ。下手をすれば健太の運命をも変えたのかもしれない。
おこがましい話ではあるが。
ただ、あのまま健太が万引きをしていたとしたらどうだろう。
この間は巧く行った。客にも店員にもバレてはいない。そういうボク自身だって羽佐間に聞かなければ気付かずにいただろう。
だが今日は巧く行かなかったかもしれない。店員か客に見つかって、警察に突き出されていたっておかしくないのだ。
勿論、健太が思いとどまる事もあっただろう。だが、前回巧く行っているのだ。やった可能性は充分にある。
そして、きっとボクは健太と関わりを持つ事は無かっただろう。
羽佐間が、この背中を押す神様がボクには見えていたからこそ運命は変わったのだ。
それって、
「凄い事ですよねぇ……」
ボクがそう言うと羽佐間は「当たり前や」と怒る。
「自分がウチが見えんのは特殊な話や。普通は誰もウチの声どころか姿も見えん。例え背中押されてもな。押されたことさえ気づかん。自分が偶々ウチを見えてしまったからこんな事になったんや。こんなん稀やで」
でもそうだとしたとなら……。
「もしかして変なこと考えてへんやろな?」
羽佐間はボクの前に回り込むと鋭い眼でボクを睨みつけた。
「ええか、自分はウチが見える。それだけや。それを利用して今回みたいに人を助けたり、正義の味方ごっこみたいな事やろうと思ったって無駄や」
「そ、そこまで思ってませんよ……けど人助けぐらいは出来るかなぁとは……」
そうはチラと考えた。
「ウチかて匂ってこんと誰が何に迷ってるんかは判らん。何に迷ってるのかも押してみな解らん。今回は偶々巧くいっただけ。あのガキが前に万引き成功したんと大して変わらん」
確かに、今回みたいにあらかじめ羽佐間が押そうとしている人物が、何に揺らぎ迷っているか予想が出来たら対処のしようもあるかもしれない。
でもほとんどは全くの他人で、予想のしようも無い。どうしようもないのだろう。
「まぁ、それでもな。今回は自分の勝ちや。自分がワガママ押し通したから、あのガキも救われたんやろ」
救われたのだろうか? 結果的には何も解決はしていない。健太のいじめが止まった訳でも、彼の現状が改善された訳でもない。これから闘わなくてはならないのは健太本人なのだ。それこそ今日会ったばかりの人間に救える問題では無い。
「もちっと自信持ちな。別に背中押すんはウチの専売特許言う訳やない。今回は自分があのガキの背中を押したんや。だからあの兄ちゃんも自分にのったんやろ?」
羽佐間はそう言って前を歩く春喜を差した。言われた当人は野々宮相手に鼻の下を伸ばしている。
「それにあのガキが見せた笑顔――あのガキホンマに嬉しかったんと思うで」
まぁ人間の事はようわからんけどな……と続けた羽佐間は少し照れくさそうにそう言った。ボクは神様のその人間臭さに苦笑しつつ、少し罪悪感が和らいでいるのに気づいた。
そして目の前を行く二人の友人を見つめた。
一人は行為を寄せる女性に鼻の下を伸ばしている。
しかし、心やさしい友達だ。
もう一人は人間では無い。
しかしボクを心配してくれている。
二人とも付き合いこそ浅いが、誇らしく思う大切な友達だ。
「大丈夫。ボクにも感情を露わに出来る友達が出来たよ」
ボクは小さく呟いた。『約束の言葉』昔教えてくれた大切な人を思い浮かべながら、
「ありがとう――」
ドンッ――と腹の下に軽い衝撃を感じたのは言い終わる前だった。
小さな悲鳴を聞いて下を見ると、一人の少年が倒れていた。
健太よりも幼い。小学低学年ぐらいの子供だ。
本を抱えていたのか、本は床に開いている。
「ごめん。大丈夫ですか?」
ボクが抱き起こすと少年はウンと頷く。それを確認すると本を拾って手渡そうとした。
すると開いていた本から一枚の紙がスルリと抜け落ちた。
羽佐間の振袖のような、鮮やかな青色の小さな花。それを押し花にした栞だった。
「おい冬二、なにボーっとしてんだよ」
春喜の声に苦笑で応えると、あらためて栞を本に挟んで少年に手渡した。
「ありがとう、お兄さん」
少年はそう言ってニコやかにボクの脇を駆け抜けていった。
視線を追わせると、カウンター近くで父親らしき若い男が立っていてボクに向って頭を下げた。つられてボクも頭を下げる。
「なに呆けてんねん、この阿保!」
羽佐間にそう叱責され、ボクは向きを変えると、先を行く友達たちを追いかけた。




