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OSHIGAMI ~押神~  作者: 夜光電卓
1/8

(1):序章+アト押

序章


  その男は誰が見ても美青年と言っていい風貌をしていた。

 小柄で、線が細い。ボクの大学にいたならば、さぞやモテる事だろう。

 勿論、マトモな格好をしていればの話だが。

 いや、もしかしたらこの姿でも充分に囃し立てられるかもしれない。

 鮮やかな青色に黒い蝶をあしらった振袖。

 薄紅の帯もまた、彼には妙に似合っていた。

 場所が場所ならば、まるで一枚の絵画のように風景に溶け込んでしまうだろう。

 それだけの美しさを、彼は兼ね備えていた。

 まるで人では無いかのような――。

 いや、その形容も可笑しな話しだとボクは思った。

 事実、彼はヒトでは無いのだから――。


「なにがおかしいんや?」


 ボクが笑うと、彼はそんな風に聞いてきた。

 妙にイントネーションのおかしい関西弁。

 しかし話しは通じるようでどこかホッとした。

 彼はヒトではない。人類ではない。人間でない――。

 なら何かというと、ボクには判らない。

 ただ解かっているのは、彼がボク以外の人には見えないという事実だけだった。

 ボクは彼に何者なのかを聞いた。


「ウチか? ウチは……そやなぁ、神さん(・・・)みたいなもんや」


 カミサン?


 誰かの妻とか、店の女主人かとも思ったが、すぐに話しの意味合いから“神様”の事だと考えなおす。

 確かに彼が“神様”なら他の人に見えないのも頷ける。


「さもなきゃ、妖物(バケモン)……まぁ、人間ではない事は間違いないなぁ」


 そんな事はすでに承知済みだ。

 ボクが知りたいのはそう言う事では無い。


「違うんか? そやなぁ、今までウチの事見えたヤツは “羽佐間”言うてはったわ」


 ハザマ? 狭間のことだろうか?


「ちゃうちゃう。羽のはぁに、人偏に左のさ。それから間で羽佐間や」


 羽佐間は大切な人につけてもろたんや。と人間臭い事を口にした。

 自己紹介は有り難いが、これもまたボクの聞きたいこととは異なる。

 ボクが知りたいのは彼、羽佐間が神様……もしくは妖物だったとして、いったい

どんな神であり妖物なのか。ということだった。


「どんな? どんな言われてもなぁ……ウチはただ、人の背中を押すだけしか()がないねん」


 背中を押す? 確かにボクは彼が他人の背中を押す所を目撃している。

 言っている事は事実なのだろうが、それでは腑に落ちない。

 ただ押すだけ? 神様なのに?


「う~ん、物理的にっていうのとはちゃうんや。ウチが押すんは揺らいでる人間の背中や……。迷っている人間の背中を押す。そう言うた方がわかり易いか?」


 物理的でなく、迷っている人間の背中を押す?


「せや。例えば欲しい服があって、どうしようか迷った時。そんな時にウチが背中を押したるんや。

 するとな、その人間の心ん中でより重い方へと天秤が傾くんよ。

こう、くぅ―っと。

財布の中身が厳しいなぁ思ってたら、買わんし。それでも欲しい思ってたら買ってまう。

ウチはそれを行動に起こす切欠で、背中をトンッと押してやるんや」


背中を押す。

それはどうやら、比ゆ的な、意識的な、気分的なものらしい。たしかに意味合いは解らなくもない。

つまり背中を押して欲しい事柄がある時に彼は現れて、トンッと背中を押してやるらしい。

そしてより願望や欲求、理性や思考などその時の心情により強い方へと行動を起こさせる。

そんな切欠を与える“神様”らしい。


「自分物分かりええなぁ。前の憑き人とは偉い違いや」


 羽佐間の肯定にボクは新たな確信を得ることができた。

 そうか、だからあの時……。

 たしかに回想の中の事象を考えると、符合する点が多い。

 あの振り袖の中にある手を彼が人の背に当て、トンッと押して押された人間が突発的な行動を起こしたのを、ボクは間違いなく目にしている。

 羽佐間が言う事は、少なくとも間違いは無いみたいだった。


「近くに誰かいれば、見せてやってもええんやけどな。此処には今、自分しかおらへんし……」


 羽佐間はそう言って部屋を見渡した。

 だがこの小さな部屋にはボクしかいない。ボク一人しかいない。

 羽佐間とて人では無いのだから、一人で間違いないだろう。

 そんな事はどうでもいいとボクは言った。


「ん、そうか? まぁ信じてくれるんならそれでええんやけど」


 それで――。とボクは続けた。

 なんで、ああなったのか……。


「なんで? なんでって見たまんまやないか。自分も見てたやろ? ウチが押すとこ」


 そうだ。確かにボクは見ていた。

 羽佐間が背を押す所を。

 だが、押した理由が判らない。

 何故、揺らいでいた? 何を、迷っていたと言うのだろう?

 その理由は判らないのか聞くと、羽佐間は判ると事もなげに答えた。


「ウチが押した人間に関しては、押した時に判るんよ。コイツがなんで迷ってるのか。何を揺らいでるんか。

 でもウチは押すまでは判らへん。ウチが揺らいでる人間の後ろに忍びよるんは、そいつから揺らいでる匂いがするからや。

 匂いを辿って、背中までくる。そんでトンッとおしてやって、初めてソイツが何を迷ってたのか判るんや。

 まぁ、たいていこんな事で迷うてるんかって、しょーもないもんばっかりやけど。

 ほんま人間ておもろいわ」


 なら、押してしまった今なら判る筈だ。

 “彼”がどうして、何に、迷って、揺らいでいたのか――。


「知りたいか?」


 狭間の言葉にボクは首を縦に振った。

 なんで、ああなったのか――。


「そやな。じゃぁまず、あの電車の中の事から話そうか――」

 薄暗い部屋の中で、羽佐間はニヤリと笑みを零した。




第一押 アト押



  ボクはその時、騒然とする車両の中でいったい何が起こっているのか、理解できなかった。

 だからボクはただ吊革に掴まり、ガタンガタンと揺れる震動に身をまかして呆然と、その光景を眺めていた。


「終わったな、アイツ……」


 側でそんな声がして、ボクはやっと現実に戻った。いや戻ったつもりだった。

 終わったな、アイツ……。

 いったい何が終わったと言うのだろう。

 意味が判らず、ボクは疑問符を足してその言葉を反復した。すると先の言葉の主らしき、隣のサラリーマンが顎で入口の付近を指した。


「アイツだよ、あのオッサン」


 そこには確かに一人の中年の男性が立っていた。

 背広を着ているから、隣と同じサラリーマンであろう。

 男は顔を蒼くしながら「なんだよ、見せもんじゃねぇぞ!」と怒鳴り散らしている。

 声を上げながら車両の中を無理に動こうとするが、帰宅ラッシュ時の混みようで身動きが取りずらいようだ。

 だが、それで何が終わったと言うのだろうか?

 ボクが頭の上に疑問符を浮かべているのに気づいたのか、隣のサラリーマンは

「なんだ兄ちゃん聞こえなかったのか?」と眉をひそめた。


「あのオッサンの後ろにいる女の子。あの娘が『痴漢』って大声あげたじゃないか」


 そう、それはボクも見たし、聞いている。

 中年の男の後ろ。ちょうど自動ドアを背にして、少女が男を睨みつけていた。

 制服を着ているから、ボクとは違って大学生では無いだろうが、その大人びた風貌から女子高生ぐらいに思える。

 つい先ほどまで彼女は反対側、そう自動扉の方を前にして立って、車窓の向こうを見ていた。

 しかし急に振り返ると、怒ったような目つきで『この人痴漢です!』と大声を上げたのだった。

 車両は騒然として、現状に至る。

 痴漢と言われた男は、その言葉に血の気を引かせて最初は否定していたが、周りの人たちの目もあってか右往左往して怒鳴り声を上げているのである。

 先ほどから無理やりこの混雑した人の森を移動しようとしているのは、どうやら逃げようとしてのことみたいだが、この線路を走る車両という密室ではとても叶いそうには思えない。


「いい歳してなにしてんだろうな。あの感じじゃ、そこそこいいトコまで行ってるぞ、あのオッサン。部長かその上か……。でもそれもこれで終わりだな。仕事も人生もパァーだ」


 ああ、そうか。終わりとはそういう意味か。

 まぁ悪い事をしたのだからそれは仕方がないだろう。

 ボクはなんの感慨もなくそう思った。だって、悪い事は悪いのだから。

 そんな事よりも、である。

 ボクとしては悪い事を、傷ついた少女が勇気を振り絞って悪者を退治した事よりも、重要な剣呑事項があった。

 それこそボクが呆けていた理由であり、痴漢騒ぎよりも重要に思えていた。


「それよりも、あれなんですかね?」


 ボクが隣のサラリーマンに聞くと、サラリーマンは「何が?」と首をかしげた。

 ボクは指で自動扉の方を示す。ちょうどその中年のサラリーマンが騒いでいる辺りだ。


「だから、あのオッサンだろう? 痴漢」


 違う、そうじゃなくて。


「あの青い――振袖――」


 中年の男――それにダブるように、薄く揺らいだ振り袖の後姿。

 その振袖の人物は男と重なりながら、男を睨む女子高生の目の前に立っていた。


「振袖? どこにだよ?」


 ボクは「あそこです」と何度も言いながら青い振袖を指さし続けた。

 しかしサラリーマンには判らないようで「成人式の季節でも無いのに、そんな奴どこにいんだよ!」と不満げであった。

 この人には見えていないのだろうか、そして見ていなかったのだろうか?

 女子高生が声を上げる少し前。ボクは何気なくその女子高生の方を見ていた。

 特に理由があった訳では無い。

 混みあっていて、見渡せば人ばかり。

 なんとなく外の風景が見たかっただけかもしれない。

 だが、自動ドアにくり抜かれた窓の向こうを走る外景は、後の痴漢の中年とその女子高生で塞がれていてボクの記憶には無いから、もしかしたら違う理由だったかもしれない。

 本当に何気なく、不意に見たのだ。

 その時、チラと眼の端に鮮やかな青がよぎった。

 何かと思えばそれは青い振袖の少女だった。

 と言ってもボクが見たのは後ろ姿で、肩までかかった後ろ髪と薄紅色の帯で絞められたその振袖姿を見て、少女と思っただけだが。

 ボクもサラリーマンと同じように、その時は珍しいと思ったのだ。

 成人式の季節では無いし、卒業式のシーズンはとうに終わっている。

 小柄とはいえ、身長から七五三というわけでも無さそうだし……。

 そんな風に目線を別に送ろうとして、文字通りボクは二度見した。

 何故なら、その少女は身体が透けていたからだ。

 まるでガラスに姿を写したかのようにその色を透かし、あまつさえ混み合った車両の中を縫うよう進むのではなく、真っ直ぐと自動ドアの方へと向かっていた。

 なんだ、あれ――!

 大声を出しそうになるのを必死に堪え、その少女を視線で追った。

 まさか、幽霊?

 ボクがそんな風に思ったのも仕方ないだろう。

幽霊が出る季節には少し早い気もするが。

 すると少女は自動扉の少し前で立ち止まった。

 女子高生の真後ろである。女子高生は扉を眼前に立ちつく、車窓の外を見ているらしかった。

 少女はその後ろにピタリとつき、同じく女子高生の後ろで自動扉を向いた中年の男と重なった。

 まるで女子高生の後ろに忍び寄ったかのようにその姿に、ボクは一瞬戦慄した。

 もしあの少女が幽霊か何かだとしたら、狙いは見るからにあの女子高生である。

「危ない!」とでも声をかけようかと思ったのだ。

 しかしそれは躊躇いによって止められた。

 誰も気づいていないのか?

 車両の中はいたっていつもの、混み合った車両そのもので、中に幽霊が混じっているとは思えないほど平穏を保っていた。

 みんな見えないのか? ボクだけが見えている? まさか……!

 だがそこで無駄な理性がボクに声かける。

 もし本当に誰もが見えていないのなら。アレは、あの振り袖の少女は、ボクの幻覚だとしたら。気の迷いだったら。

 ここで大声を出すのは得策では無い。

 きっと変な風に見られるだろう。

 車両を騒然とさせるだろう。

 でも、見るからにあの少女は目の前の女子高生に何やらしようとしているのは明らかだ。

 見過ごすか、

 声を上げるか、

 ボクは逡巡し、迷い、揺らいだ。

 刹那、少女の片腕が上がった。振袖が靡き、その掌が女子高生の背へと向かう。

「アブナイ!」の、アが出そうになった。


 トンッ――。とその少女は女子高生の背を押す。


 しかしそれだけだった。

 それだけで女子高生は、少女と同じようにその姿を二重にしながら揺らいだ。

 見た目には揺れる電車の床に、少々バランスを崩したぐらい見えただろう。

 だがボクはすぐに後悔した。

 何故声を上げなかった、何故助けよとしなかった。

 判っている。怖かったのだ。

 声を上げる事で、その少女の幽霊に目をつけられるのが。

 声を上げる事で、周りから不審に思われるのが。

 もし他に、あの少女が見えている人間がいたらどうだっただろう。

 ボクより先に誰かが声を出していたのなら。

 いや、それよりも。ボクに後少し。あと一歩踏み込める、声を出す勇気があったのなら。

 この矮小な背中を押してくれるナニかがあったのなら――。

 ガタンッと車両が大きく揺れて、ボクはやっと我に返った。それはまさに刹那の逡巡だったようだ。

ハッと気づいて女子高生へと視線を戻すと、女子高生はまだ車窓の方を向いていた。

 よかった、何事もなかっ――とそこまで思って、まだ振袖の少女が後ろに立っているのに気づいた。

 あの少女は相変わらず、中年男性とダブってそこにいる。

 いったい、何だ。なんなのだ。


「チカン――」小さな声がボクにも届いたのはその時だった。

 その独特な三文字の言葉に気づき、車両の人々が言葉の主を探した。

 女子高生は車窓から振り返ると、真後ろに立った振袖の少女を睨みつけていた。

 いや、違った。その視線は少女よりも上の方に行っている。

 まるで少女とダブったその中年男性を睨みつけるように。


「この人、痴漢です!」


 女子高生が放った大声は一気に車両の中に広がり、車内はボクの声では無く、女子高生の声で騒然となった。

 ボクはそれで事を理解したつもりだった。

 先ほど少女が背を押した事だ。きっと女子高生には少女が見えていない。

 だから真後ろの中年男性に背中を押されたのだと思ったのだろう。

 これでは中年男性が濡れ衣を着てしまう事になる。

 今度こそ、今度こそ勇気を出す時だ。


『違います、その人は痴漢じゃありません』そう言うだけである。


 きっと理由を説明すれば、変に思われるだろう。

 しかしそれでも罪もない人が、悪くもない人が冤罪になるよりは、きっとマシだ。

 だから、今こそ声を上げる時だ。声を、勇気を――。


「この人、私のおしり触ったんです!」


 エッ――とボクの腹に溜めた空気は音もなく口から抜けた。

 お尻? つまり臀部(でんぶ)? 背中じゃなくて?

 少女が押したのは明らかに背中だった。むしろ肩に近い。

それをお尻と間違えることは――たぶん無いだろう。

 女子高生はまるで背中の事は気付いていないようで、中年男性を恐怖の眼で睨みつけている。

 つまり、痴漢はお尻を触った事に対して言ったらしい。

 少女は背中を押した。なら臀部を触ったのは誰だ?

 よく考えれば、幽霊に痴漢ができるのだろうか?

 人をも通り抜ける身体である。

 痴漢しようにも手が擦り抜けるだろう。

 なら何故、女子高生は押された時揺らいだ? いやよろいだのか……電車の揺れで。

 なら痴漢は――? あぁ、あの中年男性なのか……。

なら、あの少女が押したように見えたのは偶然?

 ボクは今も中年男性にダブって見える少女を見つめながら、疑問を繰り返し呆けてしまった。

 隣のサラリーマンが『終わったな』と口にするまで、

 いったい、何が起こったんだ? と――。

騒然とする車両の中でいったい何が起こっているのか、理解できなかったのだ。


×  ×  ×


「振袖のお化け!? 冬二(トウジ)お前大丈夫か?」


 ボクが携帯電話でその話をすると、友人はそう笑った。

 ボクは浅間冬二(アサマ トウジ)と自分の名前の書かれたキャンパスノートを握りながら憮然とした。


「春喜さん、そんな風に茶化すならノートのコピー取りませんよ」


 ボクがそう言うと電話の向こうで太田黒春喜(おおたぐろ はるき)は謝罪の言葉を繰り返す。


「悪かったって、怖い思いしたんだもんな。それでその振袖幽霊どうしたんだよ」

「駅に着くと同時に見失いました。その痴漢が駅につくなり逃げ出そうとして大捕り物になって」

「ふぅん、けど羨ましいな心霊体験なんて」

「良くないですよ!」

「俺は霊感なんてないからわかんないけど。その振袖って女子高生の守護霊かなんかだったんじゃね?」

「守護霊?」

「そうそう、痴漢から守ったんだよ。きっと――。守ってくれる霊なら俺も嬉しいけどな。俺の場合はなんか祟るか呪われるか、そんなのばっかりな気がするわ」

「身に覚えでもあるんですか?」

「ふって来た女達だよ」

「ふられて来たの間違いでしょう? 女遊びもほどほどにしないと痛い目に遭いますよ」

「ご忠告あんがとよ。そういうお前も彼女の一人か二人つくればいいのに」

「春喜さんみたいな甲斐性はボクにはありませんから」

「困るんだよなぁ、最近変な噂立って」

「変な噂?」

「俺とお前がデキてるんじゃねぇかって」

「なんですか、それぇ!」

「ほら、お前言葉づかい丁寧だし、小柄で童顔で、妙に生真面目で……お嬢様みたい?」

「それってどういう意味です?」

「誉めてるんだって、でも周りから見ればちょっとオネエっぽく見られてるから」

「やっぱり、それって誉めてませんよね」

「まぁ、俺はお前のそういうとこも買ってるし、そんな関係にならねぇって判ってるからいいけどさ。ベッドの下の秘書ものの事も知ってるしぃ」

「いつ見たんですか!」

「隠し方が小学生なんだよ! 二十歳にもなって隠すなよ、まったく。だから俺は冬二にそんな気が無い事はしってても、周りにはそうはいかねぇってこと」


 ハァ……とため息をついた。確かに、春喜は大学でも一番仲の良い友人である。 彼に誘われて合コンもいったし、二人で昨年はスノボにも出かけた。

 しかしそれでまさか、周りからそう思われているとは――。

 ボクがゲンナリと肩を落としているのを電話の向こうで察知したのか、春喜は「まぁ元気出せよ」と励ました。


「そのうち合コン開いてやるから。俺が狙ってる娘もいるし」

「あの妙に“の”が多い娘ですか?」

「そうそう。だからコピー明日までに頼むな」


 快活にそういうと春喜は一方的に携帯を切った。

 結局、振り袖の幽霊の話しは途中で立ち消えになってしまった。

 相談する相手を間違えたか――。

 そう思いつつボクは帰宅途中のコンビニへと足を向ける。

 春喜に明日渡すノートのコピーを取る為だ。

 まったく友人とは都合よく利用される人間の事を言うのだろうか、と思いつつ自動ドアをくぐると「いらっしゃいませ~」という店員の声と、独特の臭いが迎えた。

 店の中は客が四五人程いて、二人ほどが立ち読みをしていた。

 ボクは握ったノートを片手に、レジ横のコピー機へと向かった。

 コインを入れ、ノートをスキャナーにセットしながら、思うのは先程の幽霊の事だった。

 結局、あれはなんだったのだろう。

 あの後しばらく振袖の少女を見ていたが、やはり人が動いてもその人物に透けて、まさしく幽霊そのものだった。

 青い振袖には黒い蝶の紋が入っていて、薄紅の帯は桜模様がさしていて、透けていながら絵画のような色鮮やかだった。

 ただ気になるのは見失う直前の事だ。

 それまで立ち位置的に、肩で揃えた後頭部しかみえなかったが、駅につき客達が一斉に降りようとしたその時。一瞬、一瞬だったが少女はボクを見た気がした。

 美しい顔をしていた気がする。

 本当に一枚の絵のような笑顔。

 ただあの顔は、美少女というより――。

 チラリと眼の端に鮮やかな青が走ったのはその時だった。

 ボクはコピーを止めて、店内へと視線を送る。

 すると、其処にいた。

 相変わらず薄く透けていたが、黒い蝶の紋が入った鮮やかな青の振袖。帯は薄紅で桜模様がさしている。

 髪は肩で揃えられ、唇は肌と同じく薄く白かった。

 そこに電車で見た、あの幽霊が立っていた。

 ただそれは美少女ではなかった。

 顔はまさに“美”と形容しても何も問題はないし、女性のような美しさも艶やかさも備えていた。身体の線も細く小柄だ。

 でも、それでも自分の勘が外れていた事がハッキリと理解できた。年齢も性別も。

 あれは、青年だ。

 髭が生えているわけでも、無骨な骨格をしている訳でもない。だがその湛える笑みは女性のモノでは無い。

 あえていうならニューハーフのような……、それも飛びきりな美人。

 不意に先程の春喜の言葉を思い出した。


『でも周りから見ればちょっとオネエっぽく見られてるから』


 その言葉を打ち払うようにかぶりを振ると、次の瞬間青年と目があった。

 青年は自動ドアの前で立ち止まって、色っぽい笑みをボクに向けている。ボクもまた変な気を起こしそうで――、再び頭を振る。

 そこでようやく不可思議な現象が目の前で起こっている事に気がついた。

 まず自動ドア開いていない。

 彼は自動ドアから入って来た筈だった。それに今立っている場所は、確実に自動ドアのセンサーの範囲内である。しかし客には漏れなく開くその口が、彼にはまったく微動だにしていない。にも関わらず店内に彼はいた。

 次に気づいたのは、誰かが店内に入ってくるとなる筈のチャイムが鳴らない事だった。

 電子機器がまったく反応を示していない。

 だが反応を示していないのは機械だけは無いようで、ちょうど自動ドアの目の前のレジに立っている店員も、立ち読みをしたり商品を物色している客達も、まったくと言っていいほど彼に気づいていなかった。

 まるで、誰も新しい客など来店していないようで。

 その事実がボクを揺さぶった。

 本当に、本当に幽霊なのか――。

 唖然としているボクを余所に、彼はボクに笑みを向け終わると店内を一回り見回した。

 そしてその視線は立ち読みする客や、スイーツを物色するカップルを通り過ぎ……奥の電子機具の置場で物色をしている少年で止まった。

 少年は携帯電話の充電器に目を落としている。

 あれ、あの制服――。その見覚えのある制服に虚を突かれていると、振袖の青年はスゥ―ッとその少年へと向かって行った。

 そして少年の後ろに忍び寄ると、また“トンッ――”と片腕の振袖をはためかして、少年の背中を押した。

 ビクンと少年が揺らめき、その姿は二重に揺らいだ。

 同じだ――あの時と。

 声を出すのを堪えて、ボクは周りを伺った。矢張り誰も気づいていない。

 ボクはまた少年が大声を出すのかと身構えた。しかし少年は揺らぎが収まると無言で充電器を手に取っただけだった。

 考えてみれば状況は先程の電車の中と大きく違っている。

 まず、店内はそれほど混んでいないし。少年の後ろには振袖の青年の幽霊が立っているだけで、誰がいるわけでもない。

 痴漢が起こる訳ではないのだ。

 なら、あの幽霊はいった何をしたのだろう。

 春喜の言ったとおり、彼は守護霊なのだろうか。なら守護霊は皆同じ姿をしているものなのか?

 というか、守護霊だったとして、彼はあの少年を何から守ろうとしているのだろうか。

 彼はいったい――。

 不意に、彼は唇の端を釣り上げて――笑った――。

 その時だった。少年が小走りで懐かしい学生鞄を抱えて歩き始めた。

 自動ドアへとまっしぐら。

「ありがとうございました~」という店員の声を背に店を出ていく。

 振袖の青年はただそれを見送っている。


「ちょっと待って!」


 ボクは思わずその少年を追いかけて外へと出た。キャンパスノートも財布さえもコピー機に残して。

 駐車場の所でもう一度声を掛けた。


「ちょっと待って、今君――」


 何をされたんだ?


 そう聞く前に振り向いた少年の目に、ボクは気圧されてしまった。

 涙を浮かべた、深く深くに何かを押し殺したような――暗い瞳。

 その顔に、いつかの自分がダブった。


「君は――」


 ボクか――?


 しかし少年がボクを見たのは、いや睨んだのはほんの一瞬で、すぐに向き直ると逃げるように駆けて行った。


「あの子はいったい……」


 ボクが立ちつくしていると、後ろから声がかかった。


「自分、ウチの事見えてるやろ」


 振り向くと電燈に照らされ透けた青が靡いていた。


「さっきの電車の時も――そやろ?」


 そこにいたのは振り袖の幽霊で、やはり男性の声だった。


 × × ×


「知りたいか?」


 振袖を着た幽霊、もとい“人の背中を押す神”である羽佐間という美青年はそう問いかけてきた。

 ボクの住んでいる小さなアパートである。

 なんの因果か、彼を見ることのできるボクに興味を持ったらしい彼は、ボクの部屋までやって来た。

 北海道の実家から、大学進学のためにこっちに戻ってきて一年。

 今まで女性どころか母親も来たことの無いこの部屋に来訪したのは、春喜を含めて二人目という事になる。

 勿論、神様を一人二人と数えるのならばだが。

 この場合、一人と一柱とでもいうべきなのかと少し考えたが、すぐに辞めることにした。

 きっと考えても無駄だろう。

 ある程度の説明を受けて、それなりに羽佐間がどのような存在なのかは理解したが。

 それでも未だ不明な点は多くあり、今考えても無駄だろうから。

 それよりも今は、なんでああなったのか――である。


「そやな。じゃぁまず、あの電車の中の事から話そうか――」


 羽佐間はそう言うと、一つしかないボクのベッドに腰を下ろした。


「まず、あの電車のお嬢ちゃんなぁ。あれは――」

「あのぉ、その話って長くなります?」


 ボクが上げた間の抜けたセリフに、羽佐間は肩透かしをくらったようで、


「あんなぁ、自分が聞きたいいうから。親切にこう話してやろうってなぁ」

「判ってます。解ってますって。ただ落ち着いて話を聞きたいんでコーヒーでも淹れようかなと……」


 ボクはそう言うとキッチンのポットの電源を入れた。それからコンビニで購入した弁当を電子レンジに入れるとタイマーをセットする。


「羽佐間さんも何かいります?」

「阿保、カミサンが飯喰うと思うてんのか?」

「ですよねぇ……でもほら、お供えとかするのかなって」

「阿保言うとらんで、聞きたいんか聞きたくないんかどっちや?」


 ボクは「聞きます聞きます」と慌てて食事の支度をして、テーブルに置いた。


「神さんの話しを聞くのに、飯喰いながらて。世も末やな……」

「苦学生には時間が惜しいんですよ。それより、例の女子高生。あれは何を揺らいで迷ってたんです?」


 ボクは細々と夕食に箸をつけ始めながら、「せやせや」と話し始める羽佐間の言葉に耳を傾けた。

正直、ボクとしても興味があったからだ。

特に、コンビニで見かけたあの楼蘭学園中学の制服を着たあの少年の事が。

しかしまず羽佐間が最初に語りだしたのは彼ではなく、電車での女子高生の痴漢騒ぎについてだった。


「あのお嬢ちゃん、ホンマに痴漢に遭うててん」

「そんなの知ってますよ。ボクだってその場にいたんですから」

「せやな。でもあの大声上げた時やないんや。あの二つ前の駅から触られてたんよ」

「二つ前から? なんですぐに声を上げなかったんですか?」

「普通は、痴漢に遭うてもなかなか声なんてあげられんもんやで。大概は怖くて泣き寝入りして、されるだけされてお終いや」

「なんでです?」

「なんでですのん? と来たか。ホンマ阿保やな自分。考えてみぃ。もし痴漢がナイフとか凶器持ってたらどないする? そうでなくても声上げて逆に逆恨みされたらどないすんねん。ストーカーとかになったら怖くてボチボチ外も歩けんようになるで」


 神様の割にはだいぶ今風の言葉を使う神様である。まぁやはりイントネーションのおかしな関西弁には困惑するが、聞きとれない事は無い。


「それに勇気振り絞って声上げたとしてみぃ。それで今回みたいに大事になって助けてくれる人なんて、そう多ないで。みんな自分に火の粉が降りかからない様に、面倒は避けるたがるやろ? 変な風に見られるのが嫌で……」


 その言葉にはボクも胸が痛んだ。事実、痴漢を見ていなかったにしろ、この羽佐間が忍び寄った時、自分が変人に見られたくなくて僕自身、声を上げる事が出来ずにいた。


「実際、あの場でも何人かはお嬢ちゃんが痴漢に遭うてたのを知ってた人間もおったで。小さい声で『助けて、助けて』て言うてたからなぁ。ホンマ蚊の鳴くような声やったわ」

「そんな酷い!」

「そやかて、自分なら言えたか? あの場で。『何してるんや! 警察突き出すでぇ!』とか?」


 そう言われると自信は無い。だが。


「それでも、みんなで――誰かの後押しがあれば……」


 最後の方は自分でも判る位に小声になっていた。結局自信はない上に、誰かの手助けを借りなくては出来ないのかもしれない。


「そこでや、ウチがトンッ――と背中を押してやったんや。まぁ痴漢に遭ってたのを知ったのは押した後やけどな」


 あの女子高生は、そのお陰で勇気を出して大声を上げたのだ。

 羽佐間の後押しによって。


「その後、客達が騒いだんのもきっとウチの影響やろな。初めに騒ぎ始めたのはお嬢ちゃんの後ろ行く前に突き抜けてった連中ばかりやったし」

「そんな力もあるんですか?」

「力言うより、不可抗力やな。突き抜ける時、どうしても手が背中に触れるから。お嬢ちゃんが声を出したのを切欠に、なにかしたろ思うたんやろ」


 こんなの稀やで――と羽佐間は笑った。


「でもよかったですよ。兎に角結果的にあの娘は助かったんですから」

「阿保か、誰も助かってへんわ」

「助かって無いって、でもあの女子高生は……」

「もう既に触られてんや。ただこれ以上すなって怒鳴っただけや。触られた事実は変わらへん。それどころか、別の被害者まで生んでもうたんやから」

「別の被害者?」

「あのおっちゃんの事や」

「オッチャンって――あの痴漢の犯人?」

「犯人やあらへん。あのおっちゃんはただ後ろでボーっと立ってただけ。本当はその隣の若い兄ちゃんが触ってたんや」

「じゃ、じゃあ濡れ衣じゃないですかぁ! なんでその時言わなかったんですか!」

「阿保阿保いうて疲れて来たけど阿保! あのな自分以外ウチは見えへんかったやろ。声が届くかい!」


 確かにそう言われればそうだ。


「まぁ、それでもウチは言わへんかったけどな……」

「なんでですか、これじゃ罪の無い人が!」

「罪はある。あのおっちゃんもお嬢ちゃんが声を痴漢に遭うてたのは知ってたんよ。でも助けへんかった。知らんぷり、自業自得や――」

「でもそれじゃ、冤罪じゃないですか」


 ボクがそう言うと、羽佐間はそこでコホンと咳払いをした。


「あのなぁ、さっきも言うたやろ?

 ウチはただ揺れてる迷ってる人間の背中を押すだけ。

 それでお嬢ちゃんが勇気ふり絞って声上げたんも、偶々あのおっちゃんを犯人と勘違いしたんもあのお嬢ちゃんの所為や」

「でも神様でしょう――」

「自分は神さん言うんを勘違いしとるわ。

 神さんや妖物っちゅうのはな、ただそういう存在ってだけや。

 人の為にあるんやない。また人を怖がらせてりする為だけにいるんやない。

 ただそういう風に居るだけ、人間の主観で考えたら阿保みるで。

 ウチはただ背中を押すだけ――それ以上でもそれ以下でも無い。

 そういう存在や」


 それじゃぁ、神も仏も無いじゃないですか。ボクがそう言うと羽佐間は事も投げに「当たり前や」と呟いた。


「神さんも仏さんも、人が決めたもんや。ウチらを呼ぶ時にその方が判り易いからなぁ。人を救うもうんとは限らん」


 偶々人を救えば神や仏になり、偶々人を不幸にすればそれは妖物の類となる。

 羽佐間は続ける。


「それでも昔はまだ理解があったんやで。救うんも不幸にすんも神様って括られてたからなぁ。時代が違うんや、時代が」


 どうも、現代的な神様だ。良く言えばクール。悪く言えばドライである。

 ボクは少し悩んだ後「明日警察に行ってきます」と言った。


「なんでや?」

「それでもあの痴漢は痴漢じゃないんですよね」

「面倒な言い方するなぁ。まぁ、けどそういうことや」

「ならヤッパリ冤罪は駄目だと思います。悪い事だ」

「ふぅん、言うんはエエけど。自分犯人が誰なんか知らんのやろ? なんて説明するつもりや?」

「痴漢を見たけど捕まった人とは違う……とか?」

「ふぅん、まぁ警察がすんなり聞きいれるとは思えへんけど、好きにしてみい。ウチには止めれへんし。おもろいわ」

「面白いですか……?」

「嗚呼、阿保此処に極まれりってかんじでなぁ」


 羽佐間はそう言うと再び笑った。


「こんな阿保見るのも偶にはエエやろう。おもろいし、人間と話すんも久しいよって。しばらく自分に憑いて回ったるわ」

「え、えぇ――!」


 思わずした大絶叫は、後に隣家から苦情を受ける原因となったが、神様に憑いて回られると言われて、大声を出さない人物がいたら聞いてみたいモノだ。


「大丈夫や、見ての通り生活費はかからへんし。楽しい楽しいキャンパスライフの邪魔はせえへんよ」


 はぁ……、体中の力が抜けていくようだった。

 これって大丈夫なのだろうか?


「そうそう、それであのガキの事やけどなぁ」


 ガキ?


「なに言うとんねん。さっきコンビニで会うたガキの事や。ウチが押したんやないか」


 そうだ。あの少年――。

 彼と目を合わせた時、まるで昔の自分を見ているようだった。

 母校である楼間学園中等部の制服がそうさせたのかもしれない。

 だが、それ以上に。あの涙を浮かべた深く、暗い瞳。

 彼は――、あの少年はいったい――?


「知りたいか? 何を揺らいでいたのか。何に迷っていたのか」


 羽佐間の言葉に、ボクは頷いた。


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