6.鬼に金棒2
ボロい宿屋『銀ぎつね』の荒くれ者たちが繰り広げる喧騒は、マタジロウの掛け声でいっきにヒートアップしていった。
あちこちでグラスだかジョッキだかわからないが、硬い何かが打ち合わされる音と、乾杯の音頭と唱和が響き、ドスドスと足を踏み鳴らして軽快に歌うものも出始めた。
「おい、私はそのようなことを決めた覚えは……」
アルティシアが当然のように抗議の声を上げたが、誰も聞いていなかったし、それを遮るようにマタジロウがさらにぐっと近づいたのが、奴の体臭が濃くなったことで分かった。
「宿の周りに、ポルチアーノのところの若い衆が集まっているぜ」
「――!!」
「どうやら心当たりがあるようだな。とにかく座れ。これだけの荒くれ者の中に突っ込んでくるほど、奴らも馬鹿じゃない。気付かない振りをして宴会に混ざっとれば、当面は安全だろうぜ」
マタジロウがずんずん歩き、アルティシアもそれに従った。
俺たちが通ると、左右からグラスを合わせる音と、歓声が浴びせかけられた。
アルティシアとマタジロウが席に着くと同時、テーブルにガタンと音を立てて何かが置かれた。「ボロ宿で申し訳ございませんねぇ」というお通しも提供され、マタジロウが「いや、あれは言葉の……」と言いよどんだのを無視して、中年の女性の声はアルティシアに向けられた。
「アルティシア! 今日はこのでくの坊と派手にやったらしいね!! 荒くれ者どももあたいも、あんたの復活を楽しみにしてたよ!! おめでとう!! こいつは、サービスだからね。怪我に気を付けるんだよ!」
言うだけ言うと、テーブルにゴトリと重そうな音を立てて何かが置かれた。次いで、先ほどから香っていた煮込み料理の匂いが鼻を突いた。これはきっと、先ほどアルティシアが絶品と評した『スジ煮』に違いない。牛丼のような、肉を甘辛く煮込んだとき特有の、油と醤油に似た香りが漂ってきて、俺は思わず生唾を飲み込んだ……などということはなく、ただ空腹感だけは確実に感じていた。
パタパタと音を立てて、中年女性の足音が去って行った。きっと、声の主が女将だろう。
女将の足音が聞こえなくなると、マタジロウが椅子をきしませながらアルティシアに話しかけた。
「で、なんでポルチアーノがあんたを狙う?」
「……それは、お前には関係のないことだ」
「まあ、そりゃそうだわな」
マタジロウがテーブルに置かれたものの一つを手に取り、喉を鳴らして飲む音が聞こえた。ビールでも入っているのだろうか。闘技場に入る前に、アルティシアが高級レストランでワインを楽しんでいたようだったので、ビールだって在るかもしれない。
マタジロウが大きく息を吐いて、手に持っていたものをテーブルに戻した。カランと乾いた音が聞こえたので、やはり液体が入っていたジョッキか、グラスのようなものの中身を飲み干したようだった。
こうして周りが見えない状態で、音声や気配で物事を察することに慣れてきたような気がするが、少し寂しい。やはり俺が喋ったときのアルティシアの取り乱しようからしても、ファンタジックな異世界に於いて、剣が喋るということはイレギュラーな事態だと推察される。何しろ魔剣扱いだからな。
そんな俺の思索をよそに、マタジロウは盛大なゲップをしてから、言葉を発した。
団長が飲みに連れて行ってくれたときに嗅いだ匂いとそっくりだった。やはりこの世界にも、ビールというものが在るようだ。
「事情を話せないなら、これ以上聞かねえぜ。だがな、戦鬼の男には、敗けた相手と再戦して勝つまでは、己は死んではならず、相手も死なせてはならないというしきたりがある。当面俺は、あんたを倒すのが人生の至上目的になった。ポルチアーノなんぞに横取りされちゃあ困るんだよ……わかるだろ?」
わかりません。
さっぱりわかりませんよ。マタジロウさん。
「私と再戦を望むなら、闘技場でまた勝ち上がってくればいいだけの話だ。とは言え、外の状況を教えてくれたことは感謝する」
そう言うと、アルティシアもテーブルの上からジョッキだかなんだかを取り、喉を鳴らして飲んだ。マタジロウよりは少し時間がかかったが、テーブルに置かれたそれは、さっきと同じように乾いた音を立てた。アルティシア様は、体育会系の飲み方を心得ていらっしゃるようだ。
「女将! おかわりだ!」
「あいよー!」
マタジロウが大声で叫ぶと、やや遠くから女将が応えた。
一人と一匹と一本は、無言で待った。
ほどなくして、テーブルにジョッキが置かれた。
「……外の様子はどうだ?」
「ポルチアーノのとこの若い衆はいなくなったね。これだけ盛り上がってれば、無理もないさ。だけど……夜中が危ないね」
「寝込みを襲うか。アルティシア、部屋の警護は俺がしよう。再戦を果たすまでは、俺があんたを守る」
話が変な方向に向いてきた。
まず、ポルチアーノがなぜアルティシアを襲うのか。
これは、王位を巡る第四王子派が、サソリの心臓に依頼して、狩りの場で事件を起こしたことが事実であれば、アルティシアがハルバランドの名前でボスに用があるなんて言ったことが原因と思われる。
ボスは、サソリの心臓がもう存在しないと言った。あくまで自分は堅気の人間であると。
それはすなわち「お前が探している組織は存在しない。過去のことに首を突っ込むな」という警告であったとも受け取れる。今回の復帰祝いとか勝利の特別報酬とか言って、何かを贈ろうとしたのも、口止め料というか、金で解決しようという魂胆だったのかもしれない。
しかし、アルティシアはそれを突っぱねた。
サソリの心臓にしてみれば、ことが明るみに出れば、第三王子暗殺の容疑をかけられてしまう。第四王子派は当然白を切るだろう。どこの世界でも、黒幕というのはそういうものだ。ボスが、アルティシアの懐柔に失敗し、口を封じたいと考えるのは当然と思えた。
動機はよくわからないし、女将とマタジロウの関係も謎だが、屈強なボディーガードがついてくれると言うなら、鬼に金棒ではないか。
マタジロウと女将が、声を潜めて話すのを聞いていたアルティシアが、再びジョッキをあおり、ダンと音を立ててテーブルに置いた。そして、腰元の俺をぽんと叩いて言った。
「包囲が解けたなら、私は出るとしよう」
「何言ってんだいアルティシア! マタジロウと剣を交えて、その上エールを二杯も飲んじまって、いくらあんたでも危ないよ!」
「女将に迷惑はかけられない。私なら大丈夫だ……ん?」
色々と事情通らしい女将の心配をよそに、アルティシアは立ち上がりかけて、足元をふらつかせてしまった。
「ほら! 言わんこっちゃない!」
「う……む。どうやら飲み過ぎたようら……」
「やれやれ……。よっと! マタジロウ、あたいが部屋まで連れて行くから、あんたは部屋番をするんだよ!」
「わかってるさ。ハルバランドさんよ」
気丈に振る舞ってはいても、アルティシアの疲労はかなりのものだったようだ。考えてみれば、試合前に少々酒を飲んでいたのも、緊張をほぐそうとしていたのかもしれない。試合後にも、大迫力のボスと対面し、一歩も引かずに喧嘩を売ってきたのだ。精神的疲労だって、計り知れない。
エールという飲み物がどのくらいのアルコール度数なのかわからないが、緊張しっぱなしのアルティシアを二杯で酔いつぶすには十分だったようだ。
酒は飲んでも呑まれるなと、アルティシアが目覚めたら言ってやろう。
……やめようね。またポイってされて、踏まれるのは屈辱だからな。
気を失って、倒れ掛かったアルティシアの身体を支えたのは、女将だった。そのまま彼女の身体を抱き上げた彼女は、えっちらおっちらと進む。周囲の荒くれ者達がアルティシアに触ろうと寄って来るのを制しつつ、マタジロウもそれについて来ている。二人は階段を上がってしばらく歩いた部屋にアルティシアを運び込んだ。
アルティシアをベッドに寝かせ、コートを脱がした。腰紐から俺を外して身体の横に置き、そっと部屋を出て行った。部屋の外にはマタジロウがいるらしく、彼らは二言三言会話をして別れていったようだが、内容までは聞き取れなった。
マタジロウは、女将をハルバランドさんと呼んだ。ハルバランドは、アルティシアの姓だ。これはいったいどういうことなのか。
考えようと思ったが、なんと驚くべきことに、俺を睡魔が襲った。
俺はそれに驚いたのも束の間、あっという間に眠りについたのだった。
「ジュン!」
俺は足(柄)を急にすごい力で握られたことに驚いて目が覚めた。そのまますごい勢いで暗闇が払われ、俺は抜刀された。割れた窓と室内に飛び散ったガラスの破片。はためくピンク色のカーテン。部屋の照明は煌々と灯っていた。それらが高速で過ぎ去り、俺は中段に構えられた。
切っ先の向こうには、禿げ頭にサングラス、髭が渋い感じのサソリの心臓の構成員、パピーが立っていた――。