妻
桜の舞い散る公園で
娘のはしゃぐ声を聞いたのは、いつのことだっただろうか。
この日、私は自治会主催のお花見で、楠姫城市の城址公園を訪れていた。
満開の桜の下、あちらこちらで宴会の輪が盛り上がっている。
そんな中を、昼食を摂る予定になっている食事処を目指して、吉村さんと藤本さん、河野さんといったメンバーと一緒に歩いていた。
息子と吉村さんのお嬢さんが同級生だった関係で、この人達とは昔から一緒に行動することが多いのだけれど。
なんと言うか……話題についていけないことが多くって、少々気疲れする人たちだった。
今日は朝から一日一緒だと思うと、帰宅後に熱でも出てきそうで。
内心でため息が出てしまう。
「生田さん?」
「あ、はい」
「ご主人は、今日は?」
「主人は……」
家でゴロゴロ、なのだけど。
こういったご近所づきあいは、私の仕事と割り切っている人だから。自治会の会合にも、近隣の一斉掃除にも顔を出したことは無い。
それを知ってか知らずか、話しかけてきた河野さんにあいまいな返事をする。あいまいな微笑を添えて。
「旦那になんて、こんなきれいな花、見せること無いわよ」
「そうよねぇ。お食事だって……」
吉村さんの言葉に、河野さんが同意して二人で笑いあう。
きれいな花を、喜んでいたのは。
確かに。主人よりも、娘だった。
かつて家族で出かけたお花見は、いったいどこの桜だったのか。
そう思い返しながら、舞い散る花びらを手のひらで受ける。
「あ、ねぇ、あれって」
「うわぁ。本物?」
小さく嬌声を上げた吉村さんの声に、我に返った。
藤本さんが指差すほうに、背の高い男性が妊婦をエスコートして歩いている姿があった。
金に近い色の髪をした男性は、もしかして……。
「生田さん、知ってる?」
「ええっと……」
「生田さんは、知らない、よね」
吉村さんの言葉に頷いて、知らないふりをした。
知らない人だと思いたかった。
『この辺りに活動拠点をおいているロックバンドのメンバーで』と、三人が、口々に説明してくれるのを、いつもの様に軽く相槌を打ちながら聞く。
韓流スターにも、若手アイドルにも興味のない私には、初めて聞く話、である”はず”の事。
「皆さん、詳しいですねぇ」
「うちは、娘がファンでね。影響されちゃった」
「我が子と同い年、だったりするけど。中々、これがどうして。いい声してるのよ」
河野さんの娘さんと同い歳、つまりうちの息子の二歳年上。
「知美ちゃんは……興味ない、わよね?」
吉村さんから出てきた娘の名前に、一つ鼓動が跳ねる。
「え、ええ」
冷や汗をかきながら頷く。
その会話が聞こえたように、金髪の男性がこちらを向いた。
「キャー」
悲鳴をあげて、藤本さんがバンバンと私の肩を叩く。
軽く会釈をするように男性の頭が動いて、傍らの女性の方へと身をかがめる。
その一瞬。
ほんの一瞬。
彼に、睨まれた気がした。
辛うじて横顔の見えていた女性になにやら耳打ちをした後。彼女の肩を抱くようにして、男性が小径を左手の方へと進んでいく。
そんな二人を、四人でなんとなく黙って見送った。
「あのバンドって、メンバー全員が愛妻家って、娘が言っていたけど」
口を開いたのは、藤本さん。
ふーっと溜息をつきながら、河野さんが同調する。
「今どきの人って、私達の若いころと違って人前でも平気でスキンシップするけど。別格、よねぇ」
「ほんと、ドラマの世界よね」
眼福眼福と、藤本さんが、何故かお腹をさすっている。
その横で私は、胸がいっぱいで、何も言えなかった。
『愛妻家』と言われる男性に肩を抱かれ、ドラマのワンシーンのようにエスコートされていた女性。
それは。
数年前、彼との結婚を反対した主人に勘当された私の娘。
知美、だった。
主人に親子の縁を切られたあと、知美は私達の前から、完全に姿を消した。
いつの間にか、賃貸マンションを引き払い、電話も解約して。
その娘が、声が届きそうな所に居たのに。
エスコートしている男性は、私に気づいていたのに。
チラリとこちらを見ることもなく、彼らは立ち去っていった。遠目にも妊娠しているのがわかるほどに大きくなったお腹に、私の知らない娘の時間が流れたことを見せつけながら。
元気そうな娘の姿を見れた安堵と、私の存在に気付かなかった恨みを抱えた、昼食会は味気なく。
その夜は、これまで経験のしたことのないほどの熱が出た。三日間も寝こむことになるほどの高熱を。
その年の夏から秋にかけて、私は心騒ぐ日々を過ごした。
知美のあのお腹の感じだったら、そろそろ産まれているのではないかと。
選りによって、姪の出産が秋口にあり、祝いの品を贈る準備をしながら知美を思う。
あの子は、おなかの子は。
誰か、祝ってくれているのだろうか。
お願い、連絡してきて。
お父さんの怒りも、きっと。子供の顔を見れば和らぐから、知美を許してくれると思うわ。
そんな私の願いも虚しく、娘からの音沙汰はなかった。
昔から、何度も言って聞かせたのに。『素直になりなさい』と。
主人に似て頑なな娘に呆れているうちに、日は流れていった。
私宛に一通の封書が届いたのは、十一月の下旬だった。
少々厚みのある白封筒に、首を捻りながら裏返す。封筒の裏面に書かれていたのは、わずかに二文字。
『知美』、と。
見慣れた娘の手蹟とは違うことにためらいながら、私は玄関ドアをあけた。
買い物を冷蔵庫にしまってから、テーブルに置いた封筒を手に取る。
主人が仕事から帰ってくるまで、あと二時間ほど。
夕食の支度の前に、私は封を切った。
『前略』で始まる手紙には、封筒と同じ手蹟で知美に息子が生まれたことと、写真を同封したことが書かれていた。
封筒から顔を覗かせる写真を手に取る。
産まれたての赤ん坊を胸に抱いて、幸せそうに微笑む知美。
”暁”と、名づけたらしい男の子の顔を、指で撫でてみる。
そう。暁くん。
貴方が、あの時、知美のおなかに居たのね。
数葉の写真を順番にめくっていく。
眠っている暁。
おっぱいを飲んでいる暁と、幸せそうに見守る知美。
そして、お食い初めらしき光景……。
お食い初めが済んだってことは、もう生後百日が経ってしまったのね。
どうして、もっと早く教えてくれなかったの?
娘を責めながら、読み返した手紙の末尾には、差出人として知美の夫の名前が書かれていた。
そうか。
知美は
知美からは
私に連絡する気なんて、無かったのね。
私は写真と手紙を封筒に納める。
改めて、リターンアドレスの無い封筒を目にして、知美の夫のほうも私からの連絡を望んでいないことに気づいた。
がっくりと。全身から力が抜けた。
私は、重たい足を引きずりながら二階に上がると、知美の部屋のドアを開ける。
そして学習机の引き出しに、封筒を放り込んだ。
手紙の存在を意識的に忘れていた私の元に、二通目の手紙が届いたのは、それから一年後。知美の誕生日の翌日だった。
去年と同じ手蹟で書かれた『知美』の二文字に、ため息をつきながら封を切る。
便箋を取り出そうとして、ひらひらと二葉の写真がテーブルに落ちる。
表向きに落ちた一葉は。
満開の桜の下、全身で伸び上がるように花に手を伸ばす暁と、彼を抱き上げた知美。
『お母さん、お花、きれいね』
写真の中から、はしゃぐ知美の声が聞こえる。
あの子を抱き上げたときの重みと、ぬくもりが腕に蘇る。
三十数年前の、昨日。確かに私と命を分けた子の、体温の記憶。
桜の写真を封筒の上に置いた私は、裏返った写真をそっと手にとって……。
思わず、息を呑んだ。
結婚式、だわ。
ウエディングドレスを着た知美が、夫となった彼と腕を組むようにして写っていた。
カメラが異なるせいだろうか。この写真にだけ日付が入っていた。二年前のゴールデンウィーク、ということは、あの桜の下での再会の前の年。
幸せそうに微笑んでいる写真なのに。
『お母さん、どうぞお元気で』
この家を出て行った日。居間で別れを告げた、あの子の冷たい声が蘇る。
これは、罰なのか。
勘当を言い渡す主人を止められなかった、私への。
一生、私はあの子の冷たい声から逃げることは、できない。
一生、あのぬくもりに触れることは許されない。
心凍えるような冷たさが、私の”罪”の温度。
END.