夫
長患いをしていた妻が息を引き取ったのは、十一月の下旬にしては暖かな日の午後だった。
『とうとうこの時が来てしまった』という空虚と、冷え性だった彼女のあの世への道行の第一歩が、暖かい日差しに守られたことへの安堵。
それらが心の奥底で溶けて混じりあった複雑な感情が、臨終の言葉を耳にした時に私の心を満たした”全て”であり。
それ故に、ため息が一つこぼれた。
病室を出て、エレベーター前の電話スペースに向かった。
老眼鏡をかけて、端末から息子のナンバーを探す。
私の記憶は……そこで、曖昧になる。
夢から醒めるように現実に立ち戻ったのは、妻の兄の一言だった。
『娘は、葬儀に来ないのか』という問いかけに、今、自分が骨上げを待つ間の、精進落としの席にいることに気づいた。
娘?
そう言えば……アイツは一体どこに居る?
精進落としの席に、空席はなく。
私に娘が居たという事実すら、妻があの世への手土産に持って行ってしまったようだった。
隣に座る息子に、娘の所在を尋ねる。息子は箸を置くと、マジマジと私の顔を見た。
「あの子に、”誰が”連絡した、と?」
「それは……お母さんがしてるだろ?」
なあ、母さん、と、いつもの様に妻に声をかけようとして。
もう、彼女が居ないことを思い出す。
ならば、多分……
「葬儀社か、お前が……」
「どうして、僕が?」
「なに?」
「あの子の住所なんか、僕は知りませんよ」
「なんだ、その言い草は。自分の妹だろうが」
「ご自分の、娘でもあるでしょう」
「十年以上も、連絡もよこさないような親不孝者、だぞ。こちらが、どうして気にかける必要がある」
「……自分であの子を勘当しておいて、いくらなんでも勝手すぎる」
蔑むような視線をひとつよこして。
息子は再び、箸を手にする。
義兄の咳払いに、ゆっくりと顔を正面に向ける。
「勘当?」
義姉の咎めるような口調。
「いえ、言葉のあや、で」
「けれども、行方不明、なのでしょう?」
「……」
どう、言えばいいのだろうか。
現役で仕事をしていた頃、ミスを取り繕った時のような冷や汗が、背中を流れる。
クスリ、と小さな笑い声がした。
「これ」
息子の嫁がたしなめる声に、孫娘が立てた笑い声と知れる。
幼女ならともかく。二十歳を過ぎたいい大人が精進落としの席で笑うなど、世間知らずもいいところだ。
『女に学問は必要ない』と言っていた父の言葉がよみがえる。
大学まで出した娘は、ミュージシャン気取りのヒモ男と結婚すると言い出して。せめて彼が定職に就けるようにと私が提案した援助を断った後、一切の連絡を絶って行方をくらました。
孫娘は、大昔の怪獣の研究がどうとか言って、卒業したはずの大学に籍を置いたまま、あちらこちらの地面を掘り返していると聞く。
そんな孫娘を放置している息子の嫁も、旧帝大の卒業だった。
確かに、どいつもこいつも。学はあっても、人間としてなっていない。私の周りに、碌なやつはいないのか。
ああ、妻が懐かしい。控えめで、楚々とした佇まいの彼女に、もう一度……会いたい。
弔い酒を、口に運ぶ。
水を飲んでいるような、味気ない酒だった。
年を跨いで迎えた四十九日の法要にも納骨の日にも、息子一家は忙しいと帰ってこなかった。
一人、静かに妻を悼む。
こうして人は、忘れられて行くのだろうか。
世間から忘れられたように暮らしていても、時は流れる。
立春も過ぎ、水も温んできた春。
買い物から帰ってきた私は、我が家の前に一人の青年を見つけた。
インターフォンに指を伸ばしては、躊躇いを見せて手を下ろす。
そんなしぐさを繰り返していた彼に声をかけた。
「うちに、なにか?」
はっとしたように振り返った青年は、意外と若い顔をしていた。スーツに見えた服装は、どこかの高校の制服らしい。襟元に”高”の字をあしらったバッチをつけていた。
「あの、一度お仏壇におまいりを……」
そう言って青年が妻の名前を出した。
その目元に、若かりし日の妻の面影を見た。
私が把握していない、妻の縁者か。年からして多分……兄夫妻の孫、か?
妻を忘れずにいてくれた人が居る。
思い出話のひとつもできようか、と、私は彼を家へ招き入れた。
仏間で、線香を上げる。
その仕草ひとつに、彼の育ちのよさが伺えた。
これは、兄夫婦の孫なんかではない。葬儀にも通夜にも顔を出すことの無かった、あの甥や姪の子供であるはずが無い。
今時の男子高校生に、これほど落ち着いた所作をしつけた彼のご両親に興味がわく。
こんな息子なら、ご両親もさぞかし将来が楽しみだろう。
長年、人事に携わっていたから分かる。彼は、きっと大物になる。
居間へと案内した彼の前に、ペットボトルから注いだ緑茶を置いた。愛嬌のある微笑みを見せた彼が、一口飲むのを待ってから、私も口をつける。
「昔から、家の事は妻にまかせっきりでね」
妻が病を得てから、少しずつ家事をこなしてはきたが、本当に必要に迫られたこと、だけだった。
青年はチラリと視線をペットボトルのほうに投げてから、労わるような表情で頷いた。
いや、私が言いたいのは。
「申し訳ないが、君が誰なのか……」
黙って私の顔を見返す彼に、責められている気がして、年甲斐も無く焦る。
「いや、妻の縁者だとは、分かるんだよ? 妻とよく似ている」
「孫、です」
「え?」
まご?
あの孫娘のほかに、妻に孫?
とっさに思い浮かんだのは、息子の顔だった。
外に、子供を作っていたのか、と。
「僕は、原口 暁と言います」
グラスをテーブルに戻した青年が、姿勢を正して名乗った。
『原口……と申します』
その昔、この部屋でそう名乗った男がいたはず。あれは、誰だった。
妻に似た顔立ちから、記憶を呼び戻そうと青年の顔を見つめる。そんな私を静かに見返しながら、青年が言葉をつなぐ。
「僕の母親は……知美、といいます。お分かりになりませんか? お祖父さん」
それは
家を出て行った娘の名前だった。
「ともみ、の」
息が苦しくなるのを覚えた。
そうだった。
かつてこの部屋で、『原口』と名乗ったのは、娘が結婚相手として連れてきたヒモ男。
「どうして……」
「お彼岸ですから」
「知っていた、のか? 妻が無くなったことを。アイツは」
「母、ですか? はい。僕や妹たちを連れて、陰ながらお通夜に参列しました。僕たちは学校があったので、お葬式は来ませんでしたけど。母は、多分お葬式にも」
記帳もしていたはずです。
そう言って改めてお茶に口をつける暁を、私は狐につままれたような思いで眺めた。
「今、アイツはどうしている?」
「母は、小学校の先生を続けています。今年は学年主任になったとかで、忙しそうです」
そうか。
もう、五十歳を超えたはず。最後に姿を見たのは、三十歳をいくつか超えた頃、だったか。
頭の中で娘の年齢を数えて、長い時間が経ったことを実感した。
「さっき、確か『妹がいる』と言ったかな?」
「ええ。二人います。僕の三つ下と、五つ下に」
「三人兄妹か」
「はい」
ヒモ男を養いながら、男の欲望のまま三人も子供を産まされて。娘は、いろいろと苦労をしているのではないだろうか。世間知らずな子だったから、離婚することもできないまま、男の言いなりになって。
「兄弟が多いと、大変だろう?」
「いえ、賑やかで、楽しいですよ」
穏やかな暁の笑顔には、一点の曇りも無かった。
若竹のようにまっすぐ育ってきた、そんな彼の生育歴がその笑顔に見え隠れする。
さっきの仏間での立ち居振る舞いといい。
私の心配は杞憂だろうか?
ゆったりとお茶を飲みながら、突然現れた孫の話に耳を傾ける。
この春、県立高校の三年生になるとか。
彼の父親は、ミュージシャンとしてそれなりに売れており、生活に不自由を感じたことは無いとか。
小学校の頃から習っている剣道で、去年はインターハイに出たとか。
「将来は、母みたいに先生になろうかと」
「先生、か」
浮き草稼業の父親と違って堅実な仕事を選ぶのは、いわゆる”反面教師”か。
「大変だぞ、って父は言ってますし、家でも仕事をしている母の姿は、僕も小さい頃から見てますけど」
テーブルに置いたグラスを見つめながら、暁がふっと息を吐く。
「それでもって思うのは、寸暇を惜しんで働く両親をみていたら、楽な仕事なんて無いと思うから」
「二人ともが、そんなに仕事を?」
「はい。母がテストの採点をしている横で、父も楽器の練習をしていたり、作詞をしていたりしています。とにかくダラダラと怠けている両親は、見たことがありません」
「そうか」
反面教師、なんかじゃない。素直に、この子は両親を見ている。
親の背中を見て育つ子が、今の世の中にも居る。
そう考えて、二人の我が子を思う。
息子は、私の背中に何を見てきた?
私は、娘にどんな背中を見せてきた?
暇を告げて立ち上がった暁を、玄関まで見送る。
「今度は、お母さんや妹たちと来なさい」
「それは、ちょっと……」
困ったような顔を見せる暁に、幼い頃の知美の面影を見る。
「なんでだ?」
「今日、来ることを知っているのは、父だけなんで」
「なに?」
「お祖父さん、母と親子の縁を切ったでしょ? 母自身は、お通夜やお葬式に来るつもりはなかったみたいです」
「……」
「伯父さんから連絡を貰った父が、『最後くらい、顔を見せに行って来い。きっと魂が待ってるだろうから』って、母の背中を押したんです」
私は唸るしかなかった。
娘の夫と連絡を取り合っている事実を隠していた息子と、夫から背中を押されて、隠れるように葬儀に参列した娘。
”ヒモ”と見下していた男よりも、私たち夫婦が”格下”であると、子供二人に態度で示された気がした。
「なので、僕が来るのもこれが最後だと思います」
「あ、」
とっさに引きとめようとした私の手をすり抜けるように、一礼をして孫が玄関から出て行った。
長い間、雨戸を閉め切っている二階の一室に、足を踏み入れる。
娘の自室だったこの部屋で、妻は時折ぼんやりとしていた。晩年、痴呆が現れた彼女は、あの頃から夢の世界に遊んでいたのだろうか。
彼女の真似をして、学習机の椅子に腰を下ろす。
目の前の本立てに数冊のミニアルバムがあるのに気づいて、左端の一冊を手に取る。
幼い頃の娘の写真だろう、そんな予想が一ページ目から覆される。
生まれたばかりらしい赤ん坊を抱いた娘の、誇らしげな笑顔の写真がそこにはあった。
なぜ、こんな写真が、ここに。
疑問を抱えたまま、ページをめくる。
赤ん坊が徐々に大きくなっていき、愛を全身で享受しているような暁になる。その横で幸せそうに笑う知美とその夫。
そして、一人、また一人と、女の子が増えて行く。
時を忘れて、あるだけのアルバムを、順にめくり続けた。
そうしてたどり着いた最後の一冊。真ん中あたりのページに、暁が中学校に入学した日の物らしき一枚と供に、数通の手紙が挟まれていた。
何度も読み返したらしい、くたびれた手触りの一枚を開く。
前略、で始まるその手紙には、暁が産まれたことの報告と、写真を同封したことが簡潔に美しい文字でしたためられていた。
末尾の日付は十七年前の十一月末。奇しくも妻の命日だった。
暁の生まれた年か、と思いながら差出人である暁の父親の名前をしばらく見つめて、改めて最初の写真に戻る。
妻はこの部屋で何を想い、この写真を眺めたのだろうか。
『魂が、待っているから』
暁の父親が言ったという言葉が、胸を抉る。
あの日、娘と縁を切らなければ。
妻は、想いを残すことなく成仏できたのだろうか。
暁やその妹たちの温もりを、冥途の土産に旅立てたのだろうか。
冷え性だった妻を
一番温めてくれたはずの
”命の温もり”を
私が奪ってしまった。