深夜1時の逃げ場
不合格。
その二文字が、机の上に置かれた封筒から覗いていた。
二月の寒い朝。学校から帰ってきたら、母さんがリビングのテーブルに封筒を置いていた。私立黄明学院高等学校。第一志望だった。
封を開ける手が震えていた。
結果は、すぐに分かった。薄い封筒。入学手続きの書類が入っていない。つまり、そういうことだ。
「悠真」
振り向くと、父さんがリビングの入り口に立っていた。仕事から早く帰ってきたらしい。こんな日に限って。
「……落ちた」
「そうか」
父さんは腕を組んで、俺を見下ろした。
「まあ、お前の実力なら当然だな」
「…………」
「中学の三年間、お前は何をやってたんだ?」
答えられなかった。
「部活は二年で辞めた。勉強も中の下。友達と遊んでばかり。……いや、最近は遊んでもいないか。何やってるか知らないけどな」
父さんの声は怒鳴っているわけじゃない。むしろ静かだ。だから余計にきつい。
「兄貴は中学でバスケのレギュラーで、高校は推薦で受かった。お前は何だ? スポーツも勉強もできない。お前は何ができるんだ?」
何も言えなかった。
言い返す言葉がなかった。
だって、本当のことだから。
俺は何もできない。何も持っていない。
「公立は受かれよ。それくらいはできるだろ」
父さんはそれだけ言って、リビングを出ていった。
俺は不合格通知を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
その日の夜、俺は自分の部屋にこもった。
夕食は母さんが部屋まで持ってきてくれた。父さんとは顔を合わせたくなかった。母さんも何も言わなかった。同情の目が、かえってきつかった。
机に向かう。
公立の受験まで、あと一週間ちょい。
勉強しなきゃいけない。分かってる。でも、教科書を開いても、一行も頭に入らない。
父さんの声が、ずっと耳に残っている。
『スポーツも勉強もできない。お前は何ができるんだ?』
……何もできない。
本当に、何もできない。
部活を辞めたのは、自分の限界が見えたからだ。どれだけ練習しても、センスのある奴には勝てない。努力でカバーできる差じゃなかった。
勉強も同じだ。やればやるほど、自分の頭の悪さを思い知る。暗記は苦手。応用問題は解けない。コツコツやっても、テストの点は上がらない。
友達──いや、友達と呼べる奴がいたのかも怪しい。中学に入ってすぐは、何人かとつるんでいた。でも、いつの間にか距離ができた。俺といても面白くない、そんな空気を感じて、自分から離れた。
結局、俺には何もない。
才能もない。努力しても報われない。人望もない。
じゃあ、俺は何のために生きてるんだ?
そんなことを考えながら、時計を見た。
午後十一時。
眠れない。でも、勉強もできない。
何かで気を紛らわせたかった。スマホを開いても、SNSを見る気になれない。誰かの楽しそうな投稿を見たら、余計に落ち込むだけだ。
ふと、机の端に置いてあった古いラジオが目に入った。
兄貴が昔使っていたやつだ。兄貴が大学に行ってから、なんとなく俺の部屋に置きっぱなしになっていた。
……ラジオ、か。
別に聴きたいわけじゃない。でも、無音の部屋にいると、自分の思考に押しつぶされそうだった。
何でもいいから、音が欲しかった。
俺はラジオの電源を入れた。
ザー、という砂嵐のような音。
ボタンを押すと、いくつかの番組が断片的に聞こえてくる。
ニュース。演歌。トーク番組。
どれもピンとこない。
適当に回していたら、妙にテンションの高い声が聞こえてきた。
『──はい皆さんこんばんは!「爆笑キングダム」!今週もやってまいりましたァ!』
爆笑キングダム。
聞いたことない番組だ。深夜一時。こんな時間にラジオなんて、誰が聴いてるんだ。
『今日もリスナーの皆さんから届いた傑作ネタを紹介していきますよ~!まずはこちら!』
リスナーのネタ?
『ペンネーム「夜更かしキング」さん! お題は「こんなサンタクロースは嫌だ」!』
サンタクロース? もう二月なのに?
『「プレゼントを渡す時、『あ、これ売れ残りのやつ』と言ってくる」──ぶはっ!ひでえ!ひでえサンタだな!在庫処分かよ!』
パーソナリティが爆笑している。
俺は──少しだけ、口元が緩んだ。
『続いて!ペンネーム「眠れぬ森の住人」さん!「煙突から入ろうとしたら挟まって『ちょっと押して』と子供に頼んでくる」──あはは!情けねえ!押すのかよ、子供が!起きてんじゃん!夢壊れてんじゃん!』
……面白い。
自分でも驚いた。
こんな状況なのに。不合格通知を受け取った日の深夜に。父さんに何もできないと言われたその日に。
俺は、笑っていた。
『次!ペンネーム「ドリチン侍」さん!「トナカイじゃなくてママチャリで来る」──ママチャリ!想像したらシュールすぎる!サンタがママチャリこいでる画が浮かぶわ!しかも二ケツでトナカイが後ろ乗ってたりして!』
ダメだ、笑いが止まらない。
何だこれ。何なんだ、この番組。
深夜一時。真っ暗な部屋。たった一人でラジオを聴いている。なのに、俺は声を殺して笑っていた。
変な状況だった。
数時間前まで、死にたいとまでは言わないけど、消えてしまいたいと思っていた。それなのに、今は腹を抱えている。
笑うって、すごいな。
こんな最悪な気分でも、面白いものを聞いたら笑えるんだ。
不思議な気持ちだった。
番組は続いていた。
大喜利コーナー、フリートーク、リスナーメール。一時間があっという間だった。
気づいたら、時計は午前二時。
勉強は一秒もしていない。でも、不思議と罪悪感はなかった。
『さあ、今週もそろそろお別れの時間です!また来週!「爆笑キングダム」でした!』
番組が終わった。
俺はベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
さっきまでの絶望感が、少しだけ薄れていた。完全に消えたわけじゃない。でも、少しだけ息がしやすくなった。
笑いって、こういう力があるのか。
理屈じゃない。面白いから笑う。笑うと、少しだけ楽になる。単純な話だ。
でも、その単純さが、今の俺には救いだった。
俺は目を閉じた。
明日も聴こう。来週も聴こう。
その番組が、唯一の逃げ場になった。
それから、俺は毎晩「爆笑キングダム」を聴くようになった。
深夜一時。机に向かいながらイヤホンをつける。勉強のBGMという名目で。
実際は、番組が始まると勉強の手が止まる。でも、いいんだ。この一時間だけは、俺は何も考えなくていい。
毎週、大喜利コーナーを聴いた。
そして、ある日。
ふと、疑問が浮かんだ。
「……なんで、このネタは面白くて、このネタは面白くないんだろう」
採用されるネタと、されないネタ。山城さんが大ウケするネタと、そこそこの反応で終わるネタ。違いは何だ?
俺は机の引き出しから、使っていないノートを取り出した。
B5のキャンパスノート。受験勉強用に買ったけど、結局使わなかったやつだ。
そのノートを開いて、ペンを取った。
採用されたネタを書き出す。
「売れ残りのプレゼント」「煙突で挟まる」「ママチャリ」
……共通点は何だ?
俺は考えた。
全部、映像が浮かぶ。脳内で想像できる。「画」が見えるネタだ。
サンタが売れ残りのプレゼントを差し出して、残念そうな顔をする子供の画。煙突に挟まって助けを求めてる画。必死にママチャリをこいでるサンタの画。
ラジオは映像がない。だから、聴いた人が頭の中で映像を作る。その「脳内映像」が面白いかどうかが、笑いに直結するんじゃないか?
俺はノートに書いた。
『採用される法則①:脳内で映像化しやすい』
我ながら、気持ち悪い分析だと思った。
でも、手が止まらなかった。
次の週も、その次の週も。俺はノートにネタを書き出して、分析を続けた。
『法則②:パーソナリティが読みやすい文字数』
『法則③:専門的な言葉を使うとリアリティが出る』
『法則④:お題の要素を活かしつつ、予想外の角度から攻める』
ノートはどんどん埋まっていった。
勉強そっちのけで。受験まであと一週間だというのに。
でも、俺は止まらなかった。
だって、楽しかったから。
考えることが、分析することが、楽しかった。
テストの点数は全然上がらない。でも、ラジオのネタの分析は、どんどん深くなっていく。パターンが見えてくる。法則が見つかる。
これは──勉強とは違う。
勉強は、答えが決まっている。教科書に書いてある正解を暗記するだけ。俺はそれが苦手だった。
でも、笑いの分析は違う。
正解がない。自分で考えて、自分で答えを見つける。それが合っているかどうかは、採用されるかどうかで分かる。
俺は生まれて初めて、「考えること」が楽しいと思った。
公立高校の受験は、なんとか受かった。
ギリギリだったと思う。合格発表を見た時、正直ホッとした以外の感情はなかった。嬉しいとか、達成感とか、そういうのはない。
「受かったのか」
父さんはそれだけ言った。褒められもしないし、貶されもしない。当然だ、という顔だった。公立に落ちたら、本当にどうしようもない。最低限のことをしただけ。
「良かったね、悠真」
母さんはそう言って微笑んでくれた。でも、俺には分かっていた。心のどこかで、兄貴と比べているんだろう。
兄貴は私立の進学校に推薦で受かった。俺は公立の普通科にギリギリで受かった。比べるまでもない。
でも、不思議と落ち込まなかった。
だって、俺には「爆笑キングダム」があった。
毎週の深夜一時。ノートとペンを持って、ラジオの前に座る。それが俺の一週間の楽しみになっていた。
そして、ある夜。
俺はノートを見返しながら、ふと思った。
「……俺も、投稿してみようか」
心臓がドクンと跳ねた。
分析は続けてきた。採用されるネタの法則も、ある程度は分かってきた。でも、それは傍観者としての理解だ。
実際に投稿して、採用されるかどうか。それを試さないと、俺の分析が正しいかどうか分からない。
でも、怖かった。
投稿して、採用されなかったら?俺の分析が間違っていたら?
今は傍観者だから、いくらでも偉そうなことが言える。でも、実際に参加したら、俺も「採用されなかった側」になる。
──お前は何ができるんだ?
父さんの声が、頭の中で響いた。
スポーツもできない。勉強もできない。友達もいない。
でも、もしかしたら。
「面白い」を作ることなら、できるかもしれない。
少なくとも、今の俺にはそれしかない。
俺はスマホを開いた。
番組の公式サイト。投稿フォーム。
ラジオネームを入力する欄がある。
何にしよう。
俺は少し考えた。
ペンネームは大事だ。採用された時に読み上げられる名前。俺という存在を表す記号。
桐原悠真。
キリハラ……キラ……。
ユウマ……UMA……。
キラー・UMA。
……ちょっとかっこつけすぎか? でも、悪くない。
俺は「キラーUMA」と入力した。
次に、ネタ。
今週のお題は「こんなラーメン屋は嫌だ」。
俺はノートを開いた。分析してきた法則を思い出す。
脳内映像化。パーソナリティの好み。文字数。リアリティのある言葉。
それらを踏まえて、ネタを考える。
一つ目、二つ目、三つ目。
ダメだ、どれも弱い。もっと、もっと。
気づいたら、深夜三時になっていた。
翌日は高校の入学説明会だ。寝ないとまずい。でも、手が止まらない。
四つ目、五つ目──。
「……これだ」
俺はスマホに打ち込んだ。
『店主が「これが本当のゲンコツラーメンだ」って言いながら、豚骨を拳で砕こうとしている』
脳内映像。店主がカウンターの向こうで、すごい勢いで拳を叩きつけてる画。
これなら──いける気がする。
俺は送信ボタンを押した。
心臓がうるさい。
送ってしまった。俺は「傍観者」「当時者」になった。
採用されるかどうかは分からない。たぶん、されないだろう。初投稿でいきなり採用されるなんて、そんな甘い世界じゃないはずだ。
でも、一歩を踏み出した。
俺は、何かを「できる」ようになるかもしれない。
その可能性に賭けてみたい。
俺はスマホを置いて、ベッドに倒れ込んだ。
窓の外は、もう薄明るくなり始めていた。
眠い。でも、悪い気分じゃない。
父さんに言われた言葉が、まだ頭に残っている。
『お前は何ができるんだ?』
分からない。まだ、分からない。
でも、一つだけ見つけた。
深夜一時の逃げ場。俺だけの居場所。
いつか、逃げ場じゃなくなるかもしれない。
いつか、俺の武器になるかもしれない。
その日まで、俺はこの六畳間で牙を研ぎ続ける。
俺の戦いは、ここから始まる。




