第8話 レッドゾーン
死体が、あたり一面に転がっていた。
動物のものもあれば、明らかに人間のものもある。
すべてが、薄いピンク色の膜に覆われていた。触れれば灰のように崩れ、さらに桃色の粉塵を空気中へ散らしてしまう。
「落ち着け……死体を見るな……」
風見 空は小さく自分に言い聞かせた。
奇妙なことに、この惨状を前にしても、呼吸は乱れていなかった。
むしろ体は素早く適応しているようだった。
この病んだ空気が、本来あるべきほど自分を拒絶していない――そんな感覚。
逃げる途中で倒れたらしい者。
壁にもたれ、運命を受け入れたかのように座り込んでいる者。
防護服を着ていた者もいたが、その多くは裂け、あるいは溶けていた。
見たところ、研究者……もしくは政府のエージェントだろう。
数メートル先の隅に、金属製の小さなブースがあった。
その周囲には死体が折り重なっている。必死に中へ入ろうとした痕跡。
空は慎重に近づいた。
「除染カプセルか……」
「無理やり壊したんだな。……遅すぎた、ってことか」
汚れた小窓の向こうに、うずくまった影が見えた。
死体だ。防護服はなく、壊れたマスクだけを着けている。
この病んだ空気の前では、何の意味もない。
空は視線を逸らした。
こういう光景は、普通の人間なら誰でも気分が悪くなる。
それでも、目を背けてはいられない。
わずかな手がかりが、生存者につながるかもしれないのだから。
エクス・マキナから与えられた能力――《パソジェニック・リーディング》を起動しようとしたが……
***
[ サポートシステム
・感染者検索:……エラー
・感染者検索:……エラー
……
・感染者検索:……エラー
周囲のウイルス濃度が高すぎるため、個体の特定ができません。
]
***
……使えない。
この飽和した環境では、完全に役立たずだ。
「勘に頼るしかないか……また」
乾いた苦笑が漏れた。
病気に関することだけは、子どもの頃から妙に勘が働いた。
知識でも経験でもない。
もっと原始的な何かが、異常を“感じ取る”。
だが、彼が望んでいたのはそんなものじゃない。
医学を学びたかった。
本当の意味で人を助けたかった。
社会の役に立つ、大人になるはずだった。
いつか、安定した家庭を築くために。
それなのに今は、“勘に従う”しかない。
言い換えれば、あてもなく歩き回るだけ。
――本来なら、そうなるはずだった。
足元で崩れる粉塵が、少しずつ減っていく。
その中から、色あせた標識が見えてきた。
ピンク色に染まっているが、まだ読める。
⚠ レッドゾーン
⚠ 侵入禁止 ― 防護服は無効
⚠ 生物学的危険度:最大
空は立ち止まった。
「初任務なんだから、もう少し穏やかな場所にしてほしかったな……」
「……それに、ほんとに“ピンクゾーン”だ。
由夢が聞いたら、変な誤解して殺されそうだけど」
上を見上げると、監視カメラがいくつもあった。
どれも、この病的な膜に侵食されている。
壁には、まだ子どもの落書きが残っていた。
マスクをつけた子どもたち。手をつなぐ家族。
「長く残るように作られてる……」
「でも、触ったら……他と同じだな」
かつては、ここも生きていた場所だった。
今は、記憶さえ不安定だ。
ここで生き延びるなんて……ほとんど不可能に思える。
「エクス・マキナ! 指示をくれ!」
崩れた空に向かって叫ぶ。
― [ エクス・マキナ:了解、ソラ……ロード中……
これから一時間まっすぐ進め。
次に左へ十分。
そうすれば、この世界を救うために必要なものがすべて見つかる。
情報が足りなければ、また聞くといい ]
……
……沈黙。
「……うん、そうはならないよな」
乾いた笑いと、少しの照れ。
自分の妄想に対して、だ。
溜息をついた。
どこへ向かっているのかは分からない。
だが、ここへ連れてこられた以上、まだ救える何かがあるはずだ。
一歩ずつ。
誰かに出会うまで。
助けるべき誰かに。
守るべき誰かに。
――そして、いつか。自分の世界へ帰るために。
亡くなった母。父。由夢。
そして、これまでにできた仲間たち。
彼らが誇れるような人間になりたかった。
霧の薄い方へと足を向ける。
ウイルスが拡散しているなら、そこに……
生の痕跡があるかもしれない。
少なくとも、もう少しマシな場所には辿り着ける。
歩く間、聞こえるのは自分の足音だけ。
長い沈黙は昔から苦手だった。
続くほど、胸を押し潰されるように重くなる。
友人たち――特に由夢のことを考えると、少し楽になる。
それでも、立ち止まる理由にはならない。
歪んだ支柱に、錆びた看板がぶら下がっていた。
風に揺れて、きしむ。
⚠ 廃棄ゾーン
⚠ 防護服着用者のみ進入可
⚠ 生物学的危険度:高
「……少しはマシ、ってところか」
この手の標識は何度も見てきた。
だが、普通なら“レッドゾーン”の警告が併記される。
今回は、それがない。
濃いピンクの霧は、しばらく現れていなかった。
それでも空は、周囲に膨大なウイルスが漂っているのを感じていた。
見えないが、確かにそこにある。
あの息苦しい霧を作るほどではない。
だが――死が、すぐそばにいることを忘れさせないには、十分だった。
床にはまだピンク色の染みが残っていた。
だが触れても、もう崩れ落ちることはない。
建物も同じだ。あの病的な膜に覆われてはいるが、接触しても分解しなかった。
この現象は、ウイルス濃度が極端に高い場所でのみ起こるのだろう。
空は確信していた。
感染の“核”は抜けた――少なくとも、そう感じる。
ここなら、生存者に出会える確率は上がる。
たとえそれが「数秒で死ぬ」から「数分で死ぬ」程度の違いだとしても。
そのとき、頭の奥で何かが反応した。
サポートシステムを使わなくても、能力のひとつが“近くに生きたものがいる”と告げてくる。
近づくと、ピンク色の肉塊がいくつも見えた。
感覚が、それらを“生きているもの”――あるいは、その名残だと教えてくる。
「……なんだ、これは」
今の自分の能力だけでは判別できない。
エクス・マキナのサポートが必要だった。
***
[ サポートシステム
パソジェニック・リーディング……実行中
・解析結果:
ヒト由来の残滓。ウイルスRに完全に侵食された個体。
現在はウイルス生産の媒体として利用されている。
認知機能、運動能力、世界認識能力はすべて消失。
サンプルを回収しますか?
]
***
触れただけで桃色の粉に崩れるものもあれば、
まだ肉――あるいは有機的な脈動を残しているものもあった。
温かい。
意識も、魂もないのに、ウイルスが“役に立つ限り”死なせてくれない。
「死んでからも、ばらまき続けるわけか……」
「……効率いいな」
いくつかサンプルを回収し、再び歩き出す。
レッドゾーンを歩くのは、死んだ砂漠を進むようなものだった。
ディスポーザルゾーンを歩くのは、墓標のない墓地を行く感覚に近い。
通りの端には、即席の住居が並んでいた。
錆びたトタンの小屋、焼けたテント、湿気で腐ったマットレス。
ここで生き延びようとした者たちの、無言の証。
比較的しっかりした建物は、先に誰かに占拠された形跡がある。
おそらく、より強い者たちだ。
残りの人間は……いつも通り、残り物で生きるしかなかった。
空は足を止めた。
違和感がある。人間ではないが、確かに“生きている”もの。
しかも一つではない。
さっきの肉塊と違い、今度のそれらは動いている。
「……やっと、本物の生き物と会えそうだな」
姿はまだはっきりしないが、勘が囁く。
小さく、素早く、少し不気味。
人間ではない。
空は深く息を吸い、そのうち一匹――群れから少し離れた個体へ近づいた。
そして、見えた。
「……最初の現地生物が、ネズミかよ」
瓦礫の影から、一匹の生き物がこちらを見ていた。
灰色の毛並みには、淡いピンクの光沢――感染の証。
その目には、警戒と……わずかな好奇心。
***
[ サポートシステム
パソジェニック・リーディング……実行中
・対象:ウイルスR感染哺乳類
・適応:不完全
・環境分解への高い耐性
・生存に必要な摂食量:極小
・ユーザーへの脅威レベル:低
サンプルを回収しますか?
]
***
「まあ、ボスじゃないだけマシか」
素早くサンプルを採取する。
ネズミは逃げなかった。
空が見て、ネズミが見返す。
一瞬、奇妙な沈黙が流れる。
“深淵を覗くと、深淵もこちらを覗き返す”――
そんな言葉を思い出した。
ただし、この深淵にはヒゲがあり、湿った匂いがした。
空は昔から動物に好かれた。
子どもの頃、野良を何匹も世話したことがある。
それが役に立つかもしれない。
ゆっくりと手を伸ばす。敵意がないように。
ネズミは下がらなかった。
警戒しつつも、その場に留まる。
友好的……にも見える。
だが、ここは異世界で、相手は病んだ獣だ。本来なら襲われてもおかしくない。
突然、甲高い鳴き声。
指を引っかかれ、ネズミは後退した。
「いっ……!」
傷口はすぐに塞がり始める。
《バイオ・レジリエンス》が、黙って仕事をしていた。
「……人間に慣れてないんだろうな」
空は息を整え、別の手を打つ。
《ウイルス親和性》を起動。
さっき逃げなかった理由は、これかもしれない。
***
[ サポートシステム
ウイルス親和性……実行中
・部分的接続を確認
・ウイルス核が前回のサンプルを完全処理できていません
・対象はあなたの存在に対し平静を維持
……
……
・複雑な命令の受信は不可能
]
***
「よし……悪いけど、少し付き合ってもらうぞ」
ネズミは警戒を解き、毛づくろいを始めた。
空はそっと撫でる。
――そして、また噛まれた。
「なんでだよ?! 親和性あるのに!」
さすがに二度目は堪えた。
この世界で、少しくらい友達が欲しかっただけなのに。
ネズミは少し離れ、こちらを見る。
一瞬止まり、小さく息のような音を出した。
それから、また近づいてきて……今度は大人しく撫でさせた。
「……今、同情した?」
空は苦笑しながら、そっと持ち上げる。
「ようこそ、チームへ。名前はチェスターだ。
チーズ食べたことないだろうけど……まあいいか」
新しい傷は、もう塞がっていた。
この回復の速さには、どこか覚えがある。
いつから驚かなくなったのか、思い出せない。
たぶん《バイオ・レジリエンス》のせいだ。
そう考える方が楽だった。
「ほら、もう治った。心配いらないぞ、チェスター」
ネズミは後ろ足で身体を掻いている。
空は地面に下ろし、しばらく見つめた。
「……いつから、これが日常になったんだ?」
倒れたり、空に話しかけたり、廃墟を歩いたり。
ピンクのネズミと友達になる人生。
「……まあ、悪くないか」
世界は、完全には死んでいなかった。
再利用された肉塊だけじゃない。
こうして適応した“生き物”もいる。
進み続ければ、きっともっと見えてくる。
この場所のことを。
――今は“故郷”と呼ぶしかない、この世界のことを。
【メンタルフラグメント】
アニス(ブラウン):
「ねえねえ、見て見て!ソラがピンクの肉を見つけたよ!どんな味なんだろ〜?」
メイ(ホワイト):
「ア、アニス……さっきそれ、人だったって言ってなかった……?」
アニス(ブラウン):
「ええー!?このポストアポカリプス世界で、地面に落ちてる極上肉を拾っちゃダメっての!?どんだけ世知辛いのよ〜!」
メイ(ホワイト):
「……(どうしていつも私だけが真面目に心配してるの……?)」
アリシア(イエロー):
「ところで……ユメはどこにいるの?」
アレクシア(ブラック):
「隅っこよ。前の章でソラが彼女の夢を見てから、ずっと転がったまま。」
吉住 夢:
「えへへ……大丈夫だよ、ソラ……ユメも毎日あなたの夢を見てるから……ソラぁ〜♡」
アリシア(イエロー):
「……なんで私の騎士の顔がプリントされた抱き枕なんて持ってるのよ?」
アレクシア(ブラック):
「……ユメだから。ずっと前から持ってるわ。」




