第5話 学校の日々・第三部
最後の登校日がやってきた。
式典はすでに終わっていた。ユメならきっと喜んだであろう行事だったけれど、今回は体調がそれを許さなかったらしい。後輩たちからいくつか祝福の言葉を受け取ると、教室はまるでスローモーションでほどけていくみたいに、少しずつ空っぽになっていった。
もう二度と会えないかもしれないと泣きながら、連絡を取り続けようと約束し合うクラスメイトたちの姿を、俺はただ眺めていた。
俺自身は、そこまで不安じゃなかった。少し前から、俺の家は自然とみんなのたまり場になっていたからだ。父さんがほとんど家にいない、というのも大きいのだろう。
……今思えば、付き合う前に、ユメの知らない女の子たちがよく俺の家に来ていた、なんて話をユメにしたのは、あまり賢くなかったかもしれない。
まあ、ヨウスケも来てたから……それで帳消し、だと思いたい。
「なあソラ。こんなに静かな最後の日で、がっかりしてないか?」
そう声をかけてきたのは、長年の親友――ヨウスケだった。
「混沌は好きじゃないって、知ってるだろ」
俺は笑顔を返さずに答える。
「いいじゃん。みんなでお前の家に行って、卒業パーティーだ。絶対楽しいって!」
「え? は? なにそれ……」
思わず瞬きをする。
「そうそう! 全員無事に卒業できたお祝いよ! 食べ物もたくさんあるし、最高でしょ!」
そう元気よく言ったのは、薄い茶色の髪と瞳をした、いつものポニーテールの女の子――アニスだった。
「最高なのは、誰も俺に事前に言ってなかったってところだけだな」
そうぼやいたけど、正直そこまで気にしてはいない。
「ほらほら、最後の日に可愛い女の子たちに囲まれるんだよ? ラッキーじゃん」
アニスがからかう。
「お嬢さん、ここにも男が一人いるんですが?」
ヨウスケが低い声で突っ込んだ。
「……仕方ないな」
俺はため息をつく。
「じゃあ、何か頼もう。どうせ最後なんだし」
「そのことなんだけど」
アニスがやけに落ち着いた声で言った。
「メイとアレクシアは、もうソラの家に着いてるはずよ。私はその連絡をしに来ただけ。会場はもう押さえたってわけ」
「もう、いるって……?」
「簡単なことですわ、我が騎士様」
聞き覚えのある声が割って入る。金髪に青い瞳――アリシアだった。
「ユメがあなたの家の合鍵をくださったんですの。万が一のために」
「……万が一って、どんな?」
「ユメが信用していない女の子と一緒にいた場合、とかですわ」
一切の迷いもなく言い切る。
「まあ、あなたですもの。一人や二人、女の子が家にいてもおかしくありませんけれど」
その一言で、俺は思わず足を滑らせそうになった。
「アリシア、俺を女たらしみたいに言わないでくれ」
わりと本気で焦りながら言う。
「そういう誤解で、どれだけの関係が壊れると思ってるんだ」
「でも実際、そう思ってる人は多いと思うぞ?」
ヨウスケが肩をすくめる。
「それに、パーティーの資金はアリシア持ちだ。感謝しとけよ」
「その通りですわ、ヨウスケ」
アリシアが自信満々にうなずく。
「私の騎士なのですから、もう少し丁寧に扱ってくださいませ」
少し前までは“守護者”だったはずなのに、いつの間にか俺は彼女の“騎士”になっていた。
今では象徴的に銅貨を数枚もらっているけど、実際には最初に彼女の金貨や銀貨をこの国のお金に両替する手助けをした時点で、もう十分すぎるほど世話になっている。
正直なところ、きちんと報酬をもらうのは気が引けて、見た目が好きだという理由で銅貨だけ受け取ることにしたのだ。
……とはいえ、今回のパーティーの資金に、銀貨や金貨が使われていないわけがない。
「さすがは我が姫君」
俺はそれっぽく胸を張る。騎士なんてゲームや映画でしか見たことがないけど。
「この卑しいしもべは、これまでお仕えできたことを誇りに思います」
「も、もう……やめてください、騎士……ソラ」
アリシアは少し頬を赤くして言った。
「もうそんなふうに振る舞わなくても、この世界のことは分かってきましたから」
「うわぁ、これ一年生の頃を思い出す。相変わらずぶっ飛んでるわね」
アニスが笑う。
「ああ、あの頃はアリシアの金の使い方が心配で仕方なかったよ」
ヨウスケも苦笑しながら続ける。
「人混みをどかすために札束をばらまいて、ソラと二人きりになる時間を作ってたっけ……。ほんと、お金の力って恐ろしいわ」
「べ、別にお金がなくなるわけじゃありませんでしたもの!」
アリシアが腕を組んで反論する。
「ただ、騎士の仕事を楽にしてあげたかっただけですわ。べ、別に二人きりになりたかったわけじゃ……」
……本当に、いろんなことがあった。
家に着くと、アレクシアとメイはもうそこにいた。
俺の家で。
いつか本気で、防犯をどうにかしないといけない。
父さんが何の予告もなく帰ってきて、女の子たちと一緒にいるところを見られたことを今でも覚えている。普段ならただ友達同士で集まっていただけ――それだけで何も問題なかったはずなのに、ちょっとした事故のせいで、妙に気まずい体勢になってしまった。外から見れば、とても無実とは言えない光景だっただろう。
その頃には、近所から「どうしようもない女たらし」だと思われるのも、もう受け入れていた。
でも、それを父さんにまでそう思われるのだけは、どうしても避けたかった。
幸いその日はユメも一緒にいて、たった一言で片付けてくれた。
『……本気で思ってるんですか? この人に、そんな度胸があるって』
あの一言は、驚くほどよく効いた。
「卒業おめでとう。みんな、学校は終わりよ」
そう言ってアレクシアは、穏やかな笑みを浮かべながらグラスを掲げた。
「これからが、本当の意味で大変になるのだから」
彼女はすでに去年卒業していて、今は法学を学んでいる。
いつも何もかも把握しているような、余裕のある雰囲気――昔、留年していた反抗的な彼女とはまるで別人だった。
長い黒髪は相変わらず、さらりと美しく流れている。
紫の瞳も、在学中と変わらない凛とした強さを宿していて、男子の視線を引き寄せていた。
「皆さん、どうぞ料理を楽しんでください」
メイが軽くお辞儀をする。
短い白髪が、同じ色のリボンと一緒に、リビングの光を受けてきらりと輝いた。
「わあ、早く全部食べてみたい!」
テーブルいっぱいの料理を見て、アニスが目を輝かせる。
「じゃあ、もう家業を継ぐって決めたのか?」
ヨウスケがジュースを注ぎながら尋ねた。
「はい」
メイははっきりとうなずく。
「大学には行かず、料理人として本気でやっていくことにしました」
「なるほど。それはいいな。君の料理は本当に一級品だ」
そこにアリシアが、少し大げさな笑顔で割り込む。
「王族に仕えてもおかしくないわ。さあ、私の王国へいらっしゃい。王家専属の料理人にしてあげますわ」
「ありがとう、アリシア」
メイは少し戸惑いながらも微笑んだ。
「でも、もう決めているんです。ここに残って、家の店を継ぎます。もっと大きくします……たとえ、そのせいで他のお店が消えることになっても」
「うわあ……完全にユメとアリシアの影響を受けてる気がする」
アニスが笑いながら言う。
「でも私にとっては、ずっと大事な親友よ。おいしいものを分けてくれる、大好きな友達」
「はいはい……割引くらいはしますよ」
メイが控えめに笑った。
「じゃあ他のみんなは?」
ヨウスケがグラスをテーブルに置く。
「学校が終わって、何をするつもりなんだ?」
「ソラは医学部だろ?」
彼はちらりと俺を見る。
「ユメの家とコネがあるしな」
「ちょっと待て!」
俺は眉をひそめて抗議した。
「打算で言ってるみたいに言うなよ。人を助けたいって、ずっと思ってたんだ。ユメとは……無関係とは言わないけど、全部じゃない」
「はいはい、分かってるって」
アニスが笑う。
「昔、街中でケガした動物を拾って回ってる怪しい男の子の噂があったでしょ。怖い話みたいに。でも結局、ただ優しいだけだった」
「都市伝説みたいになってたな」
ヨウスケが付け足す。
「……何度か、見てました」
メイが遠い目で言う。
「でも、自分から話しかける勇気がなくて」
「話が逸れてる」
俺は小さくつぶやいた。正直、あまり思い出したくない。
「俺はこの国の最高権力者になる」
ヨウスケが真顔で宣言する。
「そうすれば、アニスも俺を姉の恋人として認めざるを得ないだろ」
アニスはしばらく無言で彼を見つめ――
やがて料理を一口運びながら、視線を逸らした。
「……調子に乗らないで」
「ヨウスケは政治学だ」
俺が言う。
「もう権力の味を覚えたみたいだけどな。じゃあアニスは?」
「法学よ。アレクシアと同じ大学」
「となると、残るはアリシアだな」
「え? わたくし?」
彼女は首をかしげて、あっけらかんと答える。
「働く必要なんてありませんわ。国に戻ったら、お金の海で泳ぎながら、皆さんが必死に働いているのを眺めていればいいんですもの」
満面の笑みをこちらに向ける。
「うわぁ……」
ヨウスケが苦笑する。
「俺が調子に乗ってるって言われるけど、君には働かなくていい理由がちゃんとあるな」
「でも……」
アリシアは少し声を落とした。
「それは、この国を離れるということでもあります。だから家族に、少し時間が欲しいとお願いしたんです。もし許してもらえたら……本当に、何を学びたいのか考えないと」
飲み物と料理と、行き交う冗談。
気づかないうちに、時間は静かにほどけていった。
笑い声が思い出と混ざり合い、約束が空気の中に漂う。まるで、まだ未来が無限に続いているかのように。
こうして、穏やかで幸福な俺の最後の日は、静かに幕を下ろした。
◇◇◇
遠くで、列車の音が静寂を切り裂く。
来るのに時間がかかりすぎた。街を彷徨い、決断を先延ばしにしているうちに、雪はすでに道を覆い、歩くのもままならなくなっていた。
それでも、もう関係ない。ようやく辿り着いたのだから。あとは少し待てば、またユメに会える。
そのことを思うだけで、不思議と心が落ち着いていく。
俺は、自分のことを幸運な人間だと思っていた。
信頼できる友達がいて、愛してくれる家族がいて、そして――心から愛するユメがいる。
いつか彼女と結婚するのが夢だった。もう彼女の両親からも認められていて、義父になるはずの人からは、卒業後に安定した仕事まで約束されている。
何もかもが出来すぎていた。
誰もが羨むような人生――ありのままの俺を受け入れてくれる仲間、これから増えていく家族、保証された未来。
幸せだった日々の記憶が何度も頭の中で繰り返されるたび、俺は自分に言い聞かせる。
俺は……幸運だ。
俺は……幸運だ。
俺は……幸運だ。
そう……幸運……幸運……本当に、幸運なはずなんだ。
列車の音が、どんどん近づいてくる。
それなのに、もし本当に俺がそんなに幸運なら――どうして、こんな疑問が浮かぶんだ?
「……どうして俺は、いま線路に飛び込んだんだ?」
それでも、後戻りしようとも、命乞いをしようとも思わなかった。
ただ、これが正しい気がしていた。これでいい、と。すべてが、もうすぐ終わるのだと。
迫りくる列車を前に、頭に浮かんだのはただ一つ。
「……遅くないか? まだ来ないのか……」
列車はますます近づき、時間は終わりへ向かって引き伸ばされていく。
母さん、父さん、みんな、ユメ……ごめん。
他に、どうすることもできなかった。
そして――
叫びたくなるほど待ちわびたその瞬間、夜の最終列車がついに俺に追いついた。
体は一瞬で砕け散り、
その最後に残ったのは、ただの静寂。
俺の物語は、あまりにも唐突な結末を迎えた。




