第4話 学校の日々・後編
まだ卒業してから、そんなに時間は経っていないはずなのに。
それでも、ソラの胸にはもう懐かしさが広がっていた。
これって、いいことなんだろうか。
それとも――本当に大切な時間を過ごした証、なのか。
「短い間に、いろいろありすぎたな……」
ぽつりと、誰に向けるでもなく呟く。
まさか、ここまで楽しいと思えるなんて。
……正直に言おう。
「ユメの気持ちに対して、俺は最低だった」
最初から、もう少し勇気があれば。
そうしていれば、きっと、もっとたくさんの思い出を一緒に作れたはずだ。
過去は変えられない。
それは分かっている。
それでも――遅すぎたとしても、想いを伝えることができた自分を、少しだけ誇らしく思った。
◇◇◇
二年生の終わり。
ユメは、ずっと強かった。
それだけは、一度も疑ったことがない。
友達は増えた。男女問わず。
でも、俺にとって彼女は、代わりのきかない光だった。
ただ――彼女の身体は、あまりにも弱かった。
体調が悪くなっても、何もないふりをする。
笑って、冗談を言って……まるで、何も怖くないみたいに。
でも。
気づかないわけがなかった。
ある時は、理由をつけて皆を家に集めた。
ある時は、「出かける気分じゃない」と言って、ただ隣にいた。
どんな言い訳でもよかった。
彼女を、一人にしないためなら。
……それでも、何も解決していなかった。
ただ、問題から目を背けていただけだ。
学年末が近づいた頃。
ユメは、学校に来なくなった。
電話をかけても、返ってくるのは同じ言葉。
「大丈夫だよ。すぐ戻るから」
そして、ある日。
小雨の中、友人たちと帰宅していたとき――感じた。
初めて彼女に会ったときと、同じ感覚。
「ごめん。俺、先に行く」
「え? ソラ? どこ行くんだよ?」
ヨウスケの声が聞こえたけど、答えなかった。
走った。
駅にいた。
一人で、立ち尽くしていて……まるで、ずっとそこにいたみたいに。
待っていたのか、迷っていたのか。
濡れてはいなかった。
でも、寒さは厳しかった。
彼女の身体は、強くない。
「ユメ? 何してるんだ。家にいなきゃ……何かあったら、俺が――」
そっと近づく。
心配で、怖くて。
彼女はすぐには答えなかった。
ただ、こちらを見る。
いつも生き生きしていた瞳が――どこか、曇っていた。
「……うん。たぶん、私ってさ。面倒な女なんだよね」
声は、静かで。
遠くて。
いつもの自信に満ちた調子とは、まるで違った。
「可哀想な人」
目に、涙がにじむ。
「な……」
「正直に言って」
彼女は続けた。
「同情してるんでしょ? 私のこと。そんなの、嫌だった。ずっと」
「違――」
言いかけた言葉は、遮られる。
「バカだと思ってる?」
声が震える。
「分かるよ。言い訳してるのも、態度が違うのも。欠陥品みたいな女のそばにいる理由なんてないでしょ」
……命令みたいだった。
でも、その声は壊れていた。
そのとき、父親が現れた。
責める目でも、怒りでもない。
ただ――娘を守ろうとする父親の、疲れた真剣さ。
「ソラくん」
低く、はっきりとした声。
「父親として、私の最優先は娘だ」
ユメに毛布をかけ、車へと導く。
彼女は小さく、「少し外の空気を吸っただけ」「会ったのは偶然」と呟いた。
俺は、雨の中に取り残された。
ずぶ濡れだった。
これまで、病気なんてほとんどしたことがない。
身体が言うことをきかない感覚も、知らなかった。
でも――あのときだけは。
胸が、どうしようもなく痛かった。
ユメは、冗談で不安を隠す。
自信満々に見えて、その奥では怯えている。
それを一番分かっているつもりだった俺が――
彼女を、追い詰めた。
そのとき、問いが浮かんだ。
――どうして、立ち止まって嘆いてる?
彼女は、今も君を必要としているのに。
「……本当に、バカだな」
小さく、自分に言う。
だから。
俺は、探した。
まずは家。いなかった。
次に、昔手伝っていた病院――ユメの家族が経営する場所。
知り合いはいた。
でも、皆、口を揃えて言う。
「ユメはいない」と。
嘘だ。
確信があった。
少し食い下がるだけで、通してもらえた。
そして――ようやく。
「ソラ……?」
驚いた顔。
「どうしてここに? 通さないって――」
「じっとしてられなかった」
深呼吸する。
回り道はしない。
隠さない。
「ユメ。俺と付き合ってほしい。真剣だ」
言葉は、勢いのまま飛び出した。
不器用で、正直で――俺の全部。
「……本気?」
「今までで、一番」
「欠陥品でも? 面倒でも? 離れようとしたのに?」
「それでも」
迷いはなかった。
「好きだ。ユメは、ユメだから」
心臓が、うるさい。
数秒の沈黙。
そして――小さなため息。
「……遅いよ」
「え?」
「もっと派手に転ばないと気づかないと思ってた。でも……悪くなかったかな」
少し照れたように、でも、まっすぐに見てくる。
「ずっと前から好きだったよ、ソラ。でも、気づかないでしょ。鈍くて、迷って、信じられないくらい遅い」
何か返そうとした。
でも、言葉が出ない。
彼女は手を差し出した。
そっと取ると、指を絡めてくる。
離す気は、ないみたいだった。
「じゃあ……これで、付き合ってるってことでいいよね?」
頷いた。
信じられないくらい、幸せだった。
「よかった」
囁いて、手をぎゅっと握る。
「大好きだよ。知ってた?」
俺は、ただ少しだけ彼女の手を強く握り返した。
胸の奥から溢れそうになる感情を、必死に抑えながら。
その瞬間、すべてが噛み合った気がした。
本気で俺を想ってくれる恋人がいて。
頼れる仲間がいて。
母はもういないけれど、父はそばにいる。
――久しぶりに。
本当に久しぶりに。
自分が、ちゃんと満たされていると感じた。
でも、何か言おうとする前に。
ユメが、くいっと手を引いた。
距離が、一気に縮まる。
一瞬だけ、いたずらっぽい笑顔。
そして――
キスされた。
速くて、不意打ちで。
まるで、稲妻みたいな。
目を見開いた瞬間、心臓が跳ね上がる。
……倒れるかと思った。
「えへへ……初キス、だね」
照れたように笑いながらも、どこか自信満々。
頬は、はっきり分かるくらい赤かった。
「ソラがするの待ってたら、何年かかるか分からないし……アニメだったら、二期か映画まで進まないでしょ」
言い方がずるい。
俺は何も言えず、ただ見つめていた。
その反応を、楽しんでるみたいに。
彼女は、もう一度しっかりと手を握る。
――離すつもりは、ない。
そして。
今度こそ、俺は逃げなかった。
身を乗り出して、彼女に応える。
驚かせるだけじゃない、ちゃんとしたキス。
そのあとの日々は、穏やかだった。
……もしかしたら、穏やかすぎるくらい。
ユメと俺は、いつも通り話した。
笑ったり、黙ったり。
二年生の終わりは、
あたたかい記憶と、ふいの抱擁と、
言葉のいらない視線で満たされていた。
体調は、相変わらず安定しなかったけど。
彼女は「平気だよ」と言い続けた。
だから俺は、心の中で誓った。
どんな状態でも、彼女を愛する、と。
俺の人生で――
彼女は、唯一の例外になった。
怖くなっても。
迷っても。
それでも、隣にいる。
一緒に歩く。
だって、これで終わりじゃない。
俺たちの物語は――
まだ、始まったばかりだから。
◇◇◇
歩き出すと、周囲に積もる雪が、さっきよりも増えていることに気づいた。
「……雪が降っても、降らなくても。結局、いつもの道だな」
もうすぐ、この道を通る必要もなくなる。
大学へ行くには、別のルートがある。
いよいよ、医学部での生活が始まる。
ずっと望んでいたことだ。
「……ちゃんと、全部の授業に間に合うかな」
苦笑しながら呟く。
高校のときですら、遅刻しかけた日があった。
大学は、もっと遠い。
……ちゃんとしないとな。
これも、成長ってやつだろう。
◇◇◇
三年生
朝の光が、閉じたカーテンの隙間から容赦なく差し込んでくる。
ゆっくりと、ドアが開いた。
「……父さん」
半分眠ったまま、呟く。
「勝手に入らないでって言ってるだろ」
「息子よ」
腕を組み、苦笑する。
「ここは私の家だ。ほら、急ぎなさい。初日から遅刻するぞ。ユメちゃんがいないからって、気を抜く理由にはならん」
時計を見る。
「……やばっ! 7時35分!?」
飛び起きた。
「8時からだろ、授業!」
慌てて着替え、パンを一切れ掴み、
鞄を肩にかけて飛び出す。
なんとか、バスには間に合った。
三年生の初日から遅刻なんて、さすがに避けたい。
道中は意外と早く、
降りてから少し歩けば、もう校門だ。
……助かった。
「おーい! ソラ!」
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、そこにいたのはヨウスケ。
俺にとって、最初で、最高の親友。
「ヨウスケ!」
思わず笑顔になる。
「休み前から会ってなかったよな」
「まあな……ちょっと、特定の女子に目をつけられたくなくてさ」
そう言って、茂みの方を警戒するように見回す。
「え? どういう意味だ?」
「うーん……やっぱ忘れてくれ。まあ、どうしても聞きたいなら――」
「はーい、ソラ! ヨ・ウ・ス・ケ~!」
やけに明るい声が、後ろから割り込んできた。
振り返る。
近づいてくる二人の少女。
明るい栗色の髪と瞳、いつも通り眩しい存在感のアニス。
そして、少し小柄で、白い髪と白い瞳を持つメイ。
柔らかな雰囲気だけど、感情が読みにくい。
アニスは真っすぐヨウスケに近づき、
無邪気とは言い難い笑顔を向けた。
「ねえ、ヨウスケ。何を言おうとしてたの?」
ヨウスケの顔色が一気に変わる。
「あ、えっと……あはは! 俺も記憶障害かな。医者に診てもらったほうがいいかも」
頭をかきながら、必死の作り笑い。
「こんにちは、ヨウスケ。こんにちは、ソラ」
メイが静かに挨拶する。
いつも柔らかな声だけど、今日は少し元気がなかった。
アニスは笑顔のまま。
でも、視線が合った一瞬だけ――表情が固まった。
それに気づいて、ヨウスケが口を挟もうとする。
「ねえちゃん――」
次の瞬間。
アニスがヨウスケの襟首を掴んだ。
「何て言ったの?」
にっこりと、かなり危険な笑顔。
「よく聞こえなかったんだけど。もう一回、言ってくれる?」
アニスはまだ、
ヨウスケが自分の姉と付き合っていることも、
将来、家族になるかもしれないことも、受け入れていない。
普段は全力で無視。
でも、こういうときだけは別だった。
「い、いや、アニス!」
即座に言い直す。
「ごめん、俺が悪かった! あ、そうだ。こないだ母さんの誕生日でさ……ケーキが少しあるんだけど、どう?」
アニスの目が輝いた。
「……ケーキ?」
空気が一変する。
まずヨウスケを値踏みするように見て、
次にケーキ。
そして、小さくため息。
「……あれ? 私も記憶がおかしいみたい。何を言おうとしてたんだっけ?」
大げさに言いながら、妙に丁寧な動きでケーキを受け取る。
「ほんと、どうかしてるわ」
それを大事そうに鞄にしまってから。
「悪くない供物ね。ありがとう」
「メイ。君が作るほどじゃないけど、あとで一緒に食べよ」
アニスが付け足す。
メイは小さく微笑んだ。
でも、その笑顔は、目まで届いていなかった。
そして、アニスは俺を見る。
「おめでとう、ソラ。ユメと付き合い始めたんだって?」
「すごい変わりようよね。前は、完全にぼっちだったのに」
「え? なんで知ってるんだ?」
「ソラ。女の情報網、甘く見ないことね」
平然と答える。
俺はメイに視線を向けた。
どこか落ち着かない様子。
「そういえば、メイ。大丈夫か? ちょっと緊張してるように見えるけど」
近づこうとした瞬間、アニスが間に入る。
「近づきすぎ。メイは風邪明けなの」
メイはすぐに頷いた。
「うん……まだ少し弱ってるだけ。でも、もう平気」
――嘘だ。
メイは風邪なんてひいていない。
それでも、俺はそれ以上踏み込まなかった。
「そっか……無理するなよ」
「ありがとう……」
小さな声。
アニスはメイの手を優しく取って、そのまま二人で離れていった。
その背中を見送るとき。
メイが、ほんの少しだけ振り返った気がした。
その表情に浮かんでいた影。
……気のせい、だったのかもしれない。
「ヨウスケ」
二人の姿が消えてから言う。
「もう行ったぞ。壁と一体化するのやめろ」
「はあ……助かった」
安堵の息。
「非常用のお菓子、まだ少し残ってるけどな。アニスにやられる前に」
「アニスは優しいだろ」
俺は言った。
「落ち着いて対応すればいい」
ヨウスケは、真剣な目を向けてくる。
「……それは、お前があの家に婿入りする予定じゃないからだ」
小さな声。
「え? 何か言ったか?」
「いや。なんでもない」
それから、少しだけ表情を和らげる。
「ユメと付き合えてよかったな。年末にいなくなったときは心配した。大金失うところだったし」
「……今、俺の人生で賭けてたって言ったよな」
「ここまで来ると、もう驚かないけど」
アレクシアは、すでに大学へ進学している。
残るのは、あと一人。
「よく私のガーディアンを務めてくれました。でも、少し休んでもいい頃合いです」
胸に手を当て、穏やかに微笑むアリシア。
俺とヨウスケは顔を見合わせた。
……まだ、そんな話し方してたっけ。
「どうしたんだ、姫様」
困惑して聞く。
「まるで、傷ついた馬でも処分するみたいだな」
ヨウスケも付け足す。
「そんな残酷なこと、するわけないでしょう!」
即座に否定するアリシア。
「それに、その馬を養うお金だってありますし……って、話が逸れましたね」
少し咳払いしてから、続ける。
「今は、この結果を受け入れます。少なくとも、今は」
「あなたはもう、私のガーディアンではなく、ただのソラ」
少し考えて。
「……でも、それだと少し寂しいですね。やっぱり、ガーディアン。もしくは、騎士」
「あなたは、私にとってそういう存在ですから。こっちの方が好きですし、もう慣れました」
「別に、構わないよ」
俺は言った。
「ガーディアンでも、騎士でも。しばらくは、まだ一緒だしな」
アリシアは小さく笑って、視線を逸らした。
それでも、頬がわずかに赤いのが見えた。
「……決まりですね」
小声で。
「そう考えれば、まだ一年はありますし。状況を覆す時間は」
冗談とも、本気ともつかない言葉。
誰も、答えなかった。
こうして。
小さな笑い声と、始まりの中にある別れの気配を抱えながら。
俺たちは、またいつもの学校生活へ戻っていった。
――この穏やかな日々が、永遠に続けばいいと、密かに願いながら。
◇◇◇
けれど、いつかは終わる。
それは、避けられない。
時間は進む。
望もうと、望むまいと。
やがて、誰もが歳を取る。
「……ヨウスケ、アニスのお姉さんと結婚するのかな」
雪が、静かに舞い落ちるのを見ながら、微笑む。
「それを、ユメと一緒に見られたら……楽しそうだな」




