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第35話 エピローグ【薔薇色の疫病編・完】

——ありふれた一日——


空は目を開けた。見慣れた自室の天井が、柔らかな朝の光に照らされている。ゆっくりと上体を起こし、鋭い痛みに顔をしかめながらこめかみに手を当てた。それから壁のカレンダーへと視線を向ける。


「やば……」


ぼさぼさの髪をかきながら、小さく呟く。


「夢に会いに行く予定だったよな。……待て、もう行ってなかったっけ?」


記憶の断片が脳裏に滲む。駅へ向かう準備をしていたはずなのに、雪が降り始めたことに気づいて、その日は見送った――そんな曖昧な光景。


頭の中はどこか霞がかかったようで、深く考える気にはなれなかった。


(あとで夢に謝らないとな……早く会えたらいいけど)


立ち上がろうとした瞬間、強い眩暈に襲われ、再びベッドへと倒れ込む。まるで長い夢の底から無理やり引き上げられたかのように、身体がひどく重かった。


そのとき、不意に――


色の閃きが、意識を貫いた。


「ピンク……やけに、ピンクだ……」


思わず、かすれた声が漏れる。


ふと、くだらない考えが浮かんで、口元が緩んだ。


「夢にピンクの何か、買ってやるのもありかもな。……いや、あいつはオレンジの方が似合うか」


夢の姿が脳裏に浮かぶ。だが、そのイメージに重なるように、見覚えのない少女の姿が滲んだ。


桃色の髪。桃色の瞳。そして――どこか引っかかる笑み。


「……ああいうやつ、知り合いにいたか? まあいいか。夢に心の中を読まれなければ問題ない……よな」


軽く頭を振り、キッチンへ向かう。


朝食を用意する。手間はかけなかった分、内容はかなり簡素だ。ひと口食べたところで、手が止まった。


「……美味くないな。何もかも足りてない」


ぼそりと呟く。


それなのに、胸の奥にじんわりとした温もりが広がっていく。


「なんでだ……これが、今までで一番美味い気がするんだ? 誰かと分けたくなるなんて……」


気づけば、涙が頬を伝っていた。


理由はわからない。だが、この瞬間、少し泣くことは悪くない――そんな気がした。


皿。自分の服。静かな部屋。そして、生きているという当たり前の感覚。


どれも取るに足らないもののはずなのに――なぜか、ひどく大切に思えた。


食事を終えると、スマホを手に取り、夢へと電話をかける。彼女の声を聞いた瞬間、それだけで心が落ち着いていくのを感じた。


「はは……俺って、ほんとに恵まれてるな」


通話を終え、ぽつりと呟く。


「近いうちに、ちゃんと会いに行かないとな」


メッセージアプリを開くと、未読がいくつも溜まっていた。アレクシア、メイ、アニス、佐藤陽介――他にも何人か。


内容は、どれも同じだった。


『君は一人じゃない』


『いつでも頼ってくれ』


『俺たちが支える』


いくつか目を通しながら、首をかしげる。


「……なんだよ、みんな。急にどうしたんだ?」


もし、これらのメッセージがもっと早く届いていたら――もし、もっと早く目にしていたら――


その先の思考に、ほんの一瞬だけ、表情が強張る。


だが、すぐに首を振った。


「大丈夫だ。……全部、問題ない」


ふと、赤と桃色に染まった大地の光景が脳裏をよぎる。耳鳴りのように、どこか遠くから悲鳴が重なった。


ぞくりと、冷たい汗が背を伝う。


「またかよ……悪夢はもう終わったと思ってたのに」


立ち上がる。今日は普通に過ごすと決めた。


外では、何事もなかったかのように太陽が輝いている。


――目の前に、静かに浮かんでいるそれを、


見なかったのか。


あるいは、見ないことにしたのか。


[おめでとう:任務完了。薔薇色の疫病は、あなたの一部となった。]


空は、穏やかに微笑んだ。


心配する必要なんてない。


ただ、これまで通り日常を生きればいい。


そう――それでいいのだから。


◇◇◇


——残されたもの——


冷たい風が吹き抜け、砂埃と枯れ葉を巻き上げる。頭上を覆うものはなく、動く気力もなかった。古びて忘れ去られた橋の下、静かに流れる川のほとり。


その荒れ果てた場所に、サラはいた。地面に座り込み、かつて焚き火の煙で黒く煤けた壁にもたれかかっている。


整えられていたはずの淡い金髪は、今では乱れた束となって顔にかかっていた。分隊の制服は埃と乾いた血の染みで汚れきっている。


かつて左手があった場所には、今や何もない。ただ、汚れた布切れで乱雑に巻かれた包帯があるだけだった。硬く乾いたその布は染みだらけで、出血こそ止まっているものの、それと引き換えに彼女の力の大半も失われていた。


あの最後の瞬間、もしこの手があったなら――あるいは、引き金を引けたかもしれない。リンネの仇を討てたかもしれない。


だが、できなかった。


その事実は、どんな傷よりも重く、深く、彼女を縛りつけていた。


かつて決意と怒りに満ちていた灰色の瞳は、今や空虚に濁っている。


「……お姉ちゃん……」


かすれた声で呟く。


その言葉は虚しく反響し、まるで嘲笑うかのように返ってきた。


この世界で目を覚ましたとき、サラは悪夢の中にいるのだと思った。リンネを失い、任務にも失敗し、残されたのはただ死ぬことだけ――そう信じていた。


だが、時間は過ぎても――悪夢は終わらなかった。


薔薇色の疫病もなければ、従うべき命令もない。自分を支えていたすべての枠組みは崩れ去っていた。そして、唯一大切だった存在――リンネは、もうどこにもいない。


残された右手で、地面に落ちていたガラス片を拾い上げる。それを顔の前に掲げた。


映ったのは、青白い肌、乾いた唇、疲労に刻まれた顔。


その姿に、胸が軋む。


それは、自分であり――同時に、自分ではない。


双子の姉の面影を宿した、その顔。


指先から力が抜け、ガラスは滑り落ちて地面で砕け散った。


「……私は、何なんだろう」


呟きは風に溶け、かつてのすべてと同じように、どこかへ消えていった。


死のうとした。本気で、何度も。


けれど、そのたびに――頭の奥で響く声があった。


『死ぬな』


冷たく、見えない鎖のように、その命令は彼女を縛り続ける。


どうして。


なぜ、あの存在は――姉を殺し、自分をここへ連れてきたそれは――


せめて、終わることすら許してくれないのか。


膝に額を押しつけ、身体を小さく丸める。まるで居場所を求める子供のように。


もし誰かがその姿を見れば、こう思っただろう。


これは、壊れて捨てられた人形だと。


誰にも望まれない世界の、橋の下に転がる、ただの残骸だと。


響くのは、途切れがちな呼吸だけ。


半ば死んだ身体に刻まれた、しぶとい鼓動。


殻だけが残り、それでもなお息をしている。


目的もなく生きながら――


ただ、すがれる何かを、静かに待ち続けていた。


◇◇◇


——新たな宿主——


暗い。

血の匂い。

灰の匂い。


走った。石の隙間や穴の中へ潜り込む。小さな身体が震えていた。


空気は焼けるように熱く、すべての音がやけに大きい。


ドン、ドン、ドン。


叫び声。重い足音。金属の棒を持った人間たちが火を吐いている。


人間同士が、殺し合っていた。


わからない。ただ、元に戻ってほしかった。それだけだった。


やがて時間が過ぎ、ようやく音は止んだ。


少しだけ外へ出て、ひげを動かす。桃色の粉塵が、不吉なもののように漂っていた。


死体が見えた。仲間の姿も。引き裂かれ、押し潰され、焼かれたネズミたち。


動かない人間たち。虚ろな目。


そして――彼女もいた。


アメリアは動かなかった。頭に穴が空いている。


近づいて、その手を舐めた。


冷たい。


「チュル……」


何か言おうとしたが、漏れたのはかすれた鳴き声だけだった。


主人は強い。


きっと、どうにかしてくれる。


だから、待てばいい。


主人が倒れるのを見たとき、敵に飛びかかりたくなった。けれど、役に立たないことくらいわかっていた。


仲間たちが戦いへ呼ばれたときも、自分に戦えとは言われなかった。


何もできなかった自分が、ただただ悔しかった。


アメリアが優しく撫でてくれたことを思い出す。あの柔らかな手触り。毛並みを気に入ってくれていた。


その記憶が、少しだけ心を落ち着かせた。


もう一度、笑ってほしい。


身体は治りかけているように見える。主人が戻ってくれば、きっと――


『ここを離れろ』


再び、主人の声が響いた。


意識が途切れ、ただ自分の足が勝手に動いていく感覚だけが残る。


どれほど時間が経ったのか、わからない。


気がつけば、アメリアの身体はまだそこにあった。


これからどうすればいいのか、わからなかった。


ただ、待つしかない。


一日。

一週間。

一ヶ月。


食べる必要も、飲む必要もなかった。


ただアメリアの傍に丸まり、彼女が目を覚ますのを待ち続けた。


時折、桃色の粉塵が彼女の身体を覆い始める。それを払い落とした。


呼吸は感じる。けれど、動く気配はない。


どうして、起きない?


そのとき、懐かしい気配を感じた。


主人だ。


姿は見えない。それでも、確かにそこに“彼”がいる。


その気配は、アメリアのもとへと近づいていく。


悲しんでいるのが、わかった。


鳴いて、服を噛んで、腕に噛みついて、目を覚まさせようとする。


彼女は主人に興味を持っていた。だから、きっと――その気配があれば目を覚ますかもしれないと思った。


けれど、何も変わらない。


どれだけやっても、目を覚まさない。


自分は小さな存在だ。あの巨大な者たちに比べれば、できることなどほとんどない。


やがて、主人の気配は薄れていった。


何が起きているのか、理解できないまま。


[通知:サポートシステムが新たな宿主と統合されました]

[サポートシステム:病理コアの複製を取得]


頭の中に、奇妙な声が響く。


同時に、温かな何かが身体を巡り始めた。


かつて主人がいた場所に、小さな光が見える。


それが、次々と自分の中へと流れ込んでくる。


心臓が、早く打ち始めた。


[通知:宿主の記憶を補完中——病理コアおよびサポートシステムの制御向上のため]


突然、自分のものではない記憶が流れ込んできた。


笑い声。悲しい瞬間。知るはずのない知識。


これまで理解できなかった言葉が、今ははっきりとわかる。


どうしてかはわからない。


けれど、感じた。


救いたい。守りたい。


そして――絶望。


捕らえられたことで刻まれた、深い痛み。


それは怒りへと変わり、自分の中に宿る。


それはもう、空だけの感情ではない。


今は、自分のものでもあった。


意識が広がっていく。


もはや匂いと音だけではない。


思考が繋がる。顔を覚える。自分たちを傷つけた存在を理解できる。


誰が主人を、アメリアを傷つけたのか。


噛み砕いてやりたい――いや、それでは足りない。


自分の足を見る。


ネズミのままだ。小さく、弱い。


だが――


自分がやらなければ、誰がやる?


冷たくなったアメリアの胸の上に乗る。


弾丸が頭を貫いていた。身体はどういうわけか回復しているが、それで記憶や人格が戻るとは限らない。


目を閉じる。


あの者たちが与えたすべての痛みを、思い出しながら。


***

[サポートシステム:

スキル統合中……

<> 習得スキル:「疫病適応」

<> 習得スキル:「生体耐性」

<> 習得スキル:「ウイルス親和性」

<> 習得スキル:「病原読解」

……前宿主の制限を解除

***


自分が知るアメリアは、もう戻らない。


主人の気配も消え、自分は一人きり。


この世界は、自分をただの害獣としてしか見ない。


最後の戦いで、自分は何もできなかった。


何も成し遂げられなかった。


――だが、もう同じではない。


無知と慢心が、この惨劇を招いたのなら。


この世界にあるすべてから学び尽くし、この痛みを必ず返してやる。


主人には敬意を抱いている。


だが、あの人のような甘さは持たない。


理解する時間すら与えず、こちらから仕掛ける。


自分が創る新しい世界に逆らうものは――


すべて、滅ぼす。

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