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第29話 同じ月の下で

POV――ソラ


また一日が終わった。


用意してもらった部屋で休みながら、チェスターを腕の中に抱いていた。この辺りはRウイルスの濃度が低く、空を覆う薔薇色の霧に遮られることなく月を見ることができる。野宿するよりは、ずっとましだった。


これから、僕はどうするべきなんだろう。


この世界に、あとどれくらい居られるんだろうか。


「君なら……僕の立場だったらどうする?」

そう言って、チェスターに問いかける。


彼はただ、ぴくりと耳を動かしただけだった。


答えが返ってこないことくらい、分かっている。

それでも――誰かに聞いてもらえている、そんな気が欲しかったのかもしれない。


たぶん、人がペットを好む理由もそれに近いんだろう。自分の悩みを聞いてくれている気がして、想像の中で「大丈夫だよ」と寄り添ってくれているように感じられるから。


僕はいつだって、できる限りのことをしてきた。

体調が優れないときでさえ、手を抜いたつもりはない。


それでも――なぜか、いつも足りない気がしてしまう。


結局のところ……僕はただの普通の人間だ。

自分が期待に応えられていないんじゃないか、そんな感覚を拭えない。


そのとき、扉がノックされた。


「アメリア」

声が聞こえるより先に、僕はそう言った。

「入っていいよ」


扉が静かに開く。


「ありがとう、ソラ……少し、話せる?」


「もちろん。来てくれて嬉しいよ」


彼女は僕の隣に腰を下ろした。

数分のあいだ、僕たちは何も言わなかった。ただ、同じように月を眺めていた。


「今夜の月……きれいだね」

深く考えもせず、ぽつりと呟く。


「ソラと一緒に見てるから、きれいなの」


彼女はそう答えた。


なぜだろう。

僕の問いかけと彼女の答えが、どこかで聞いたことのあるやり取りのように思えた。

けれど、その記憶がどこから来たものなのか、どうしても思い出せない。


沈黙が、少し重くなる。


「ソラ……」

彼女の声が、わずかに震えた。

「前に言ったこと……考えてくれた?」


どうやら、ついにこの話をはっきりさせる時が来たらしい。


「うん」

僕はゆっくりと答える。

「どう答えるのが一番いいのか、ずっと考えてた」


彼女の方は見なかった。

けれど、彼女がどれだけ緊張しているのかは、はっきり伝わってきた。


「……答え、聞いてもいい?」


僕は深く息を吸った。


「僕は、本当に君のことを大切に思ってる。君が経験してきたことを考えれば……それでも立ち上がった君は、本当にすごいと思う。僕だったら、きっと立ち直れなかったかもしれない。君は、自分が思っているよりずっと強い。だから――僕は君を尊敬してる」


言葉は、最後まで口にする前から胸を締めつけてきた。


「でも……君の気持ちには応えられない」


せめてもの礼儀として、僕は彼女の顔を見なかった。

涙を見ることになるのは、きっとつらいから。


「……じゃあ……私じゃ、足りないんだ」


彼女は小さく呟いた。


「ただの思い込みだったのかな……?

私……ずっと、ソラの迷惑だった?」


たぶん、最悪の答え方だったと思う。

それでも僕は、質問で返した。


「アメリア……どうして、僕と一緒にいたいんだ?」


彼女は戸惑ったように顔を上げた。


「……私には、お母さんしかいなかった。

そのお母さんが死んで……そのとき、私に価値があるって思わせてくれたのは、ソラだけだった」


彼女の声は、かすかに震えていた。


「ソラがいなかったら……きっと、みんな私を気味悪がって見てた。

だから、私にとってソラは全部なの。

怖いの……すごく怖い。ソラがいないあの頃に、また戻るのが」


彼女は拳を握りしめる。


「だから……お願い。

私の人生を、受け取って」


胸の痛みが、さらに強くなった。


「君は物じゃない」

僕は静かに言う。

「誰かに差し出せるものじゃない。……それは君自身だって同じだ」


少しだけ言葉に詰まってから、続けた。


「もしそうなったら……僕が故郷に帰るとき、君はきっと耐えられない」


彼女はぴたりと動きを止めた。


「……故郷?」

声が崩れる。

「ずっと一緒にいるんじゃないの……? 何を言ってるの?」


僕は、ようやく彼女を見た。


「アメリア……僕は、この世界の人間じゃない。

いつか、ここを離れる日が来る。

そして、そのときが来たら……もう二度と会うことはない」


最後まで言い切るのが、ひどく苦しかった。


「……ごめん」


彼女の脚から力が抜けた。

まるで、突然すべてを奪われたかのように。

そのまま床に崩れ落ち、膝をつく。


ほんの一瞬、僕は迷った。


この世界に来たとき――

「一人だけなら連れて帰っていい」と言われたことを、伝えるべきかどうか。


でも、もしそれを言ってしまえば……

彼女は、きっと一生この依存から抜け出せない。


僕は、完璧な人間なんかじゃない。

多くの人が思っているような、崇められる存在でもない。


だからこそ――

彼女には現実を見せなければならない。

そうしなければ、彼女は前に進めない。


僕を憎むかもしれない。

そう思っていた。


だけど彼女は――


必死に僕へと縋りついてきた。


震える彼女の体を抱きしめながら、僕はいつものことを思う。


結局――

彼女を苦しめているのは、僕だ。


それでも……

これが正しいことだと、まだ信じている。


その夜、月は静かに輝いていた。


僕たちの感情など気にも留めず、

世界はただ、前へ進み続けていた。


◇◇◇


POV――研究員


一か月前、私たちは新しい研究施設へ移動するよう命じられた。表向きの理由は昇進だった。薔薇色の疫病の研究に直接関わり、パンデミックを終わらせる可能性のある治療法の開発に参加できるというのだ。


最初は胸が躍った。

それは人類史に残る偉業になるかもしれない。そして、その一端を担う機会が自分に与えられたのだから。


だが、その高揚はすぐに不安へと変わった。

新しい研究センターへ向かうには、地下施設へと続くエレベーターに乗らなければならなかったのだ。下降時間は三十分。延々と、地下へ、地下へと降りていく。


到着したとき、私たちを迎えたのは白い照明と、防護服を着た兵士たちの整然と並ぶ列だった。研究員一人ひとりにアクセスカードが配られ、その瞬間から、私たちは割り当てられた区画以外への立ち入りを禁じられた。


そして今、私は封鎖モジュールの中で怯える一人の人物を前にしていた。


「お願いだ……頼む……帰りたいんだ……」


どうやら、私たちが扱うのはウイルスのサンプルだけではないらしい。


この「サンプル」は、見た目だけなら完全に健康な人間にしか見えなかった。腫瘍も、奇形もない。感染者に見られる特徴など、どこにもない。


それでも、彼らはここにいる。


「私にはどうにもできない」

私は淡々と言った。

「これは仕事なんだ」


最初に彼らを見たとき、私は思った。

――これは人間じゃないのか?

――こんなことは間違っているんじゃないのか?


だが、そんな考えはすぐに捨てる必要があった。


同じことを口にした者たちは、皆――死んだからだ。


ここから出て、元の生活を取り戻す唯一の方法。

それは、治療法を合成すること。


だから私は、ただ一つの結論に辿り着いた。


――彼らは人間じゃない。


ウイルスを理解するため、私たちはその構造を調べるだけではなかった。サンプルの限界を試す実験も行った。


ときには計画的な切断。

あるいは様々な化学物質への曝露による生体反応の観察。


すべての被験体は独立したモジュールに収容され、常時AIによって監視されていた。どんな異常も即座に検知されるように。


このシステムは、被験体の脱走や予期せぬ行動だけでなく、彼らが保持するウイルスそのものの異常も防ぐために設計されている。


だが、それだけの設備を持ってしても、私たちはまだ治療法を合成できていなかった。サンプルを採取するたび、彼らの体内に存在するウイルスの変異体は安定性を失い、研究材料として使えなくなってしまう。


現状の技術では、どうやら再現そのものが不可能らしい。


「研究員各位に通達」

スピーカーから、監督官の声が響いた。

「モジュール1から20を担当する研究員には、新しいサンプルを割り当てる。現在のモジュールは他チームへ移管される」


そのとき、私は少し安心した。

人間の姿をしたサンプルを、これ以上扱わなくて済むと思ったからだ。


もう、これ以上ひどいものはないだろう――そう思った。


……それは間違いだった。


新しく割り当てられた区画の隔壁が開かれたとき、私たちは特殊モジュールの内部を目にした。


そこにあったのは――


薔薇色の肉の塊だった。


脈打つ肉の山。

まるで呼吸するかのように、ゆっくりと膨張し、収縮している。


その表面には、無数の目が様々な方向に開いていた。

さらに、歪んだ口がいくつも開閉を繰り返し、まるで絶えず苦しみ続けているかのようだった。


隣にいた研究員の一人が口を押さえ、そのまま床に吐き出した。


責める気にはなれなかった。


この場所に慣れている人間でさえ――

あれは、あまりにも異様だったからだ。


「お前たちの役目は、その物体の体液を再現することだ。迅速な成果を期待する」


監督官が冷たく命じた。


またしても、無茶な命令だ。

だが、この研究施設の兵士たちの存在を思い出し、誰一人として抗議はしなかった。


同僚たちがどう研究を進めるべきか議論している間、私は肉片をほんの少しだけ採取し、生体分析装置へと入れた。


どうせ、また失敗した結果が出るだけだろう。

それでも、解析が終わるまでの数分間くらいは休める。


そう思っていた。


だが――


モニターの色が変わった。


サンプルを解析するシステムが、同時にいくつもの警告を表示し始める。


「これは……」


結果を見つめながら、私は理解できなかった。


「目の前のこの生物……すでに治療薬を生成している」


完璧なエリクサー。


人類が何世紀にもわたって求め続けてきた万能薬――パナケイア。


それが、あの脈打つ肉と眼の塊から生み出されている。


私は唾を飲み込み、もう一度その生物を見た。


薔薇色の疫病という“病”の時代は、終わったのだ。


もう新たなサンプルを探す必要はない。

治療法はここにある。すでに、使用できる形で。


もしそれが本当なら――

ようやく、私たちは解放されるのかもしれない。


そう思いながら、私はすぐに報告書の作成に取りかかった。


◇◇◇


POV――ソラ



夜が明けても、アメリアはまだ僕の部屋で眠っていた。

最初に彼女をここへ連れてきたときと、まるで同じ光景だ。


目を覚ましたとき、彼女がどんな顔で僕を見るのか――それは分からない。


でも、どんな反応だったとしても、僕は受け止めるしかない。


一日の準備をしていると、チェスターが駆け寄ってきた。

その後ろから、もう一匹のネズミが慌てた様子でついてくる。興奮したように甲高く鳴いていた。もちろん、言葉が分かるわけじゃない。


それでも――


薔薇色の疫病との繋がりのおかげで、その意図は理解できた。


どうやら人を見つけたらしい。

チェスターと一緒に、それを知らせに来てくれたのだ。もっとも、今ではチェスターはこの辺りのネズミたちのリーダーのような存在になっているけれど。


僕は少しだけ意識を集中させた。


この世界に来たばかりの頃、薔薇色の疫病の粒子は、感染者の存在を感じ取ることを妨げていた。

でも今は違う。体が完全に適応したことで、むしろ逆の効果が生まれていた。


集中すれば、かなり遠くの気配まで感じ取れる。


感知範囲は大きく広がっていた。

本気で意識を向ければ、数キロ先の存在さえ分かる。


そして今、僕たちのグループに最も近い人間は――

避難所からおよそ二キロほど離れた場所にいた。


これなら、チェスターの“友達”…いや、部下に案内してもらう必要はなさそうだ。


もしかしたら、こういうことに集中していれば、アメリアのことも考えずに済むかもしれない。


「ラエル、ちょっと人を迎えに行ってくる」

僕は声をかけた。

「一緒に来てくれる?」


「場所を教えてくれれば、俺たちが連れてくるさ」

ラエルはすぐに答えた。

「お前がそんなことまで気にする必要はない」


僕は首を振る。


助けてくれるのはありがたい。

でも、少し頭を冷やしたかった。


結局、向かったのは五人だった。

ラエル、仲間が三人、そして僕。


男を見つけたとき、ラエルは眉をひそめた。


「この人、薔薇色の腫瘍がないな……。だが、誰だったか思い出せない」


「僕たちのグループも、ずいぶん大きくなったからね」

僕は肩をすくめた。

「仕方ないよ」


僕自身も覚えていない、とは言わなかった。


でも、彼の血の中をRエヴォ・ウイルスが流れているのは、はっきり感じ取れる。

だから間違いなく、彼は“仲間”だ。


ラエルたちは、こんなことは僕にさせられないと言って、その男を担ぎ上げた。

そのまま、僕たちは避難所へ戻り始める。


そのとき――


ある気配を感じた。


アメリアが目を覚ましたのだろう。

そしてきっと、昨夜のことについて話したがっている。


そう思うと、自然と胸が落ち着かなくなった。


「何か話したいことがあるんだろう」


ラエルが、ふいに言った。


「俺や皆のことは信頼していい。分かってるだろ?」


僕は少しだけ迷った。


それでも結局、昨夜の出来事を話すことにした。


ラエルは黙って聞いていた。


「なるほどな……」

やがて彼は小さく呟いた。

「お前でも、どう扱えばいいか分からないことがあるのか」


「誰かを断るのは初めてじゃない」

僕は答えた。

「でも……彼女にとっては大事な時期なんだ。もしかしたら、間違ったことをしたんじゃないかって思い始めてる」


ラエルは小さく笑った。


「昔の俺だったら、全部受け取っとけって言ってただろうな」


僕は思わず彼を見た。


「でも、それがお前のやり方じゃないってことくらい分かってる」

彼は続ける。

「男として自分の決断を受け入れて、貫けばいい。時間が経てば、全部落ち着くさ。もしかしたらアメリアも、それで成長するかもしれない」


特別な言葉じゃない。


それでも――

この世界での旅の、ほとんど最初から一緒にいた彼に言われると、不思議と心が軽くなった。


避難所へ戻ると、アメリアがそこにいた。


どうやら、僕を待っていたらしい。

目は赤く腫れている。さっきまで泣いていたのだろう。


それでも彼女は、まっすぐ僕の方へ歩いてきた。


――もう、この話から逃げることはできない。


そう思った。


皆に少し席を外してもらおう。

そう言いかけた、そのとき――


乾いた銃声が、空気を裂いた。


ラエルの足が途中で止まる。


一瞬、何が起きたのか理解できなかった。


だが次の瞬間、周囲の人々の悲鳴が爆発するように響き、僕は我に返った。


振り向いたとき、見えたのは――


彼の頭を貫いた、穴だった。


ラエルの体は、音もなく地面に崩れ落ちる。


何が起きているのか理解しようとした。

でも、僕の思考は間に合わない。


逃げろと叫ばなければ。

緊急事態だと伝えなければ。


そう思ったのに、言葉が口から出る前に――


僕の視界は、闇に沈んだ。


【メンタルフラグメント】


アニス(ブラウン):えっ……? 今の断り方、ずいぶん早かったわね。もっと上手く言う方法、いくらでもあったでしょうに。


ユメ(オレンジ):うん……。ソラに「女の子の断り方」なんて教えたことないし、たぶんすごく下手なんだと思う。


アレクシア(ブラック):……それで、アリシア。あなたは“断られた側”の経験はどうだったの?


アリシア(イエロー):ち、違います! 私の騎士様は私を拒んだわけじゃありません! ただ、すでに想い人がいると言っただけです!


ユメ(オレンジ):……まあ、あのオレンジ色の髪のご令嬢と付き合う前に告白していれば、もう少し話は違ったかもしれないけどね。


アリシア(イエロー):そ、その話は忘れましょう……! い、今の状況に戻りましょう!


メイ(ホワイト):ソラは……自分が元の世界に戻るとき、彼女を傷つけないようにしたかったんだと思う……


アレクシア(ブラック):ええ、私もそう思うわ。彼の成長を示している行動ね。


アニス(ブラウン):あるいは、単に恋愛に関して相変わらず不器用なだけかもね。


……


メイ(ホワイト):ねえ……なんだか今、嫌な感じがしなかっ—


ユメ(オレンジ):え……?


アレクシア(ブラック):待って……今の音って—


アリシア(イエロー):まさか—


アニス(ブラウン):—


メイ(ホワイト):ソ—


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