第23話 俺の映し身
POV――ラエル
ソラ――俺たちの救世主がこの場所に現れ、手を差し伸べてくれてから、もう数か月が経っていた。四か月……いや、五か月は経っているかもしれない。
思い返せば、最初は俺の小さなグループでさえ、彼に対して無礼な態度を取っていた。もちろん、俺もその一人だ。
今では、そのことを思い出すたびに胸が痛む。
だが――それでも、今俺たちが相手にしている連中に比べれば、あの頃の俺たちなんてまだ可愛いものだ。
あいつらは、自分たちを救おうとした人間に石を投げ、罵声を浴びせる。
ソラが何を成し遂げられるのか、その証拠を目の当たりにしてなお、だ。
どうしようもない恩知らずどもだ。
「ラエルさん……あの、救世主様のご様子は……?」
そう声をかけてきたのはエルヴィラ。昨日、ソラ様が連れてきた人物に向かって「それ」と言ってしまった女性だ。
責める気にはなれない。俺だって、ソラがその名を口にするまで、あれが少女だとは分からなかった。
アメリア――それが彼女の名前だ。
「心配するな。ソラ様は恨みを抱くような方じゃない。ただ……アメリア様に対して、見た目で判断するような真似は二度とするな」
「……はい。次にお会いしたら、きちんと謝ります」
無理もない。
あの少女の姿は、悪夢から抜け出してきたかのようだった。
腫瘍に侵された者や、極端に痩せ衰えた感染者よりもなお、見る者の背筋を凍らせる。
“桃色の疫病”と共に生まれた者は、特に残酷な歪みを背負う――そんな噂があった。
俺たち感染者が神に見放された存在だとするなら、
あの者たちは――まるで神に吐き捨てられた存在のようだ。
不幸の格が違う。
「ラエル、ソラはどこだ?」とゲーンが苛立たしげに言った。「今日はこれからどうするか話すって言ってただろ」
本音を言えば、ゲーンはここを離れたがっている。
感染者を救うというソラの方針に反対しているわけじゃない。ただ――あの人が罵倒され、物を投げつけられるのを見るのが耐えられないのだ。
「分からない。部屋を見てくる。昨日は特に辛そうだった……アメリア様を治療した後だ。きっと疲れている」
「そうだよな……。いっそあの連中を見捨てるって言ってくれればいいのに」
「……俺も、そう願っている」
俺は廊下を歩き、彼の部屋の前で立ち止まった。
扉には、見慣れない響きの名が刻まれている。
――ソラ・カザミ。
この地方では聞かない名だ。
だが彼は最初から言っていた。自分はこの世界の人間ではない、と。
昔の俺なら笑い飛ばしていただろう。
だが今は違う。たとえ「空と大地は逆さまだ」と言われたって、俺は疑わない。
「ソラ様、ラエルです。入ってもよろしいでしょうか」
「……ああ、いいよ」
返事はかすれていた。
休んでいるところを邪魔したかもしれないと、少しだけ胸が痛む。
「――っ……」
扉を開けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
ベッドの上に、裸の少女が座っていた。
鮮やかな桃色の髪。
同じ色の瞳。
年齢は、俺よりずっと下だろう。だが、その身体つきは既に成熟の兆しを見せている。
とはいえ――彼女は俺を見ても驚く様子がなかった。
それどころか、自分の身体を確かめるように、戸惑いを浮かべている。
「どうした、ラエル?」
上半身を起こしたソラ様に、少女――アメリア様が縋りつく。
……ああ、なるほど。
「失礼しました。お邪魔いたしました」
俺は即座に扉を閉めた。
今は誰も近づけさせない。
ソラ様の御用が済むまで、俺がここを守る。
何度も俺たちを救ってくれた方の、ささやかな時間くらい守れなくてどうする。
それに……桃色の疫病が広がる前の俺も、若い頃はそれなりに無鉄砲だった。
救世主様が何を選ぼうと、それを邪魔する権利は俺にはない。
「おいラエル、どうだった? ソラ様いたか? なら俺も――」
次の瞬間、俺はゲーンを壁に叩きつけていた。
「いいか、ゲーン。今あの方の邪魔をしたら――お前を地面に埋める。俺が死ぬことになってもだ。分かったな?」
ゲーンは目を見開き、青ざめる。
「わ、分かった……落ち着けって……」
俺はゆっくりと手を離した。
……どうやら、今日は墓穴を掘らずに済みそうだ。
***
POV――アメリア
本当に……ほとんど知らない男の人のベッドで眠ってしまった。
もしカエデ母さんが生きていたら、なんて言うだろう。
けれど昨夜は――あたたかかった。
何年ぶりだろう。身体が痛まなかった夜なんて。
やわらかくて温かい何かに包まれて、まるで浮かんでいるみたいだった。夢の中にいるような、不思議で、心地いい感覚。
たとえソラがこれ以上何もしてくれなくても、私はもう十分だった。
母さん以外で、あんなふうに本気で私を気にかけてくれた人なんて、初めてだったから。
「モノ」って呼ばれたとき、あの人は怒ってくれた。
だから私は決めた。
今度は、私があの人を支える。
まだ少し眠気は残っている。でも起きなきゃ。みんなに挨拶して、少しでも役に立ちたい。
「……あ……ごめんなさい……」
部屋の鏡に映った自分を見て、思わずそう呟いた。
そこにいたのは、桃色の髪をした少女。
たぶん――私が今まで見た中で、一番きれいな子。
反射的に目を伏せる。
ごめんなさい。
こんな醜いものを見せてしまって、ごめんなさい。
ずっと、この姿で生きてきた。
『死にかけの獣みたいだな……』
『あの化け物と目を合わせるな』
ソラはまだ眠っている。
私は腕を動かし、もう一度謝ろうと顔を上げ――そして、固まった。
目の前にある腕は、傷だらけでも、歪んでもいない。
細く、整っていて、私が動かすと同じように動く。
『顔を隠せ、怖いんだよ』
『気持ち悪い。母親が死んだのも当然だ』
何度も瞬きをする。
いつもの“私”に戻るはずだと思って。
指を動かす。
鏡の中の少女も、同じように動く。
「……おかしい……どうして……?」
壊れ物に触れるみたいに、そっと鏡へ近づく。
触れなきゃ。
これはきっと、私の頭が見せている残酷な夢。
脚に視線を落とす。
前は、ほとんど支えにもならなかった脚。今は健康そうで……少しだけ、かわいい。
一歩、踏み出す。
そして、転んだ。
弱かったからじゃない。
――支えなしで歩く感覚を、忘れていただけ。
『触るなよ、汚れる』
『顔を隠せって言ってるだろ』
どうにか立ち上がる。
鏡の中の少女も、同じように立ち上がる。
手を伸ばし、冷たい表面に触れる。
念のため、鏡を少し押してみる。裏に誰か隠れているんじゃないかと疑って。
でも、そこにあるのは――ただの鏡。
「……私……だ……」
ずっと“奇形”“モノ”“化け物”と呼ばれてきた。
それが一晩で、たった一人の人のおかげで変わった。
守るって言われたとき、もう泣いてしまった。
今はただ――あの人のそばに行きたい。
ゆっくりとベッドへ向かう。
歩幅は小さく、まだぎこちない。でも転ばない。脚が弱いんじゃない。心が、まだ信じきれていないだけ。
いつか、母さんみたいに生きる。
困難を乗り越えて、友達ができて……そして私は――好きな人と結婚する。
「ソラ様、ラエルです。入ってもよろしいでしょうか」
扉の向こうから声がした。
「……ああ、ラエル。いいよ」
眠そうな声。
ラエルが入ってくる。驚いた顔をしていたけれど、そんな視線には慣れている。
「どうした、ラエル?」
ソラが目をこすりながら言う。
気づいたら、私は彼に抱きついていた。
「失礼しました。お邪魔いたしました」
ラエルは慌てて出ていく。
涙が込み上げる。
でも、見せたくない。弱いところなんて。
私は強くなりたい。あの人の隣に立てるくらい。
「わたし……ほんとうに……身体が、痛くない……」
少し震えながら言う。
「心配するな。言っただろ? 俺はお前の味方だ」
あの人は、罵倒も罰も受けながら、他の人を治してきた。
それなのに、私の味方だと言ってくれる。
もう、胸がいっぱいだった。
「……うん」
彼の目をまっすぐ見つめる。
「もう決めたの。……あなたが好き」
ソラは戸惑った顔をする。
でも私は決めた。
勇気を振り絞って――母さんに教わった通りに、そっと唇を重ねる。
「結婚して……家族になろう。ずっと一緒にいたい」
ソラはどう返せばいいのか分からないようだった。
同じベッドで眠ったんだもの。
それは、もう“そういうこと”だと、母さんは言っていた。
「服、取ってくる……すぐ戻る」
まるで逃げるみたいに、彼は部屋を出ていった。
最後の方、少し声が震えていた気がする。
私はベッドに腰を下ろす。
そのとき、部屋の隅で小さな動きがあった。
桃色のネズミ。
今まで見た個体よりずっと元気そうで、しかも――驚くことに、ためらいなく近づいてきて、私の脚の上にちょこんと乗った。
「……ソラの友達、なの?」
「チュル」
首を傾げる。肯定みたい。
「え……わかるの?」
もう一度、小さくうなずく。
思わず息を呑んだ。
震える手で撫でる。毛並みは少し硬いけれど、あたたかい。
言葉は話さないけれど、その存在だけで、不思議と安心できた。
「……あ……服……着てない……」
今さら気づいて、顔が一気に熱くなる。
「ち、違うの……母さんが、恋人同士はこうするって……だから……うん……普通、だよね……?」
胸の鼓動は全然落ち着かない。
ふと、ネズミを見る。
「ねえ……あなた、男の子?」
「チュッ!?」
激しく首を振る。
何度か聞いてみたけれど、毎回否定された。
ほっとしつつ、少しだけ拍子抜けする。
「ソラにちゃんと聞けばよかった……性別も知らないなんて、ごめんね」
それでも、最後に一つ。
「……ねえ。私とソラの結婚式って、いつになると思う?」
ネズミは、どこか諦めたような鳴き声を漏らした。
全部は通じていないのかもしれない。
それでもいい。
この子はかわいいし、他のネズミと違って、ちゃんと清潔そうだし。
――母さんが死んでから初めて。
私は今、心から「幸せかもしれない」と思えていた。
***
POV――ソラ
いい夢を見ていた。
ユメが、父さんに向かって「将来ソラと結婚します」と堂々と宣言した日のことだ。
「恋人なんてただの通過点ですから」なんて付け足して、父さんを完全に黙らせていたっけ。
思い出すと今でも顔が熱くなる。
でも同時に、胸の奥がじんわりと温かくなる、大切な記憶だった。
もう少し眠っていたかった。
けれど、扉を叩く音がする。
「ソラ様、ラエルです。入ってもよろしいでしょうか」
一瞬、父さんの声かと思った。
けれどすぐに思い出す。ここは俺の生まれた世界じゃない。
……いろいろありすぎたな。
深く息を吸い、いつものように現実を受け入れる。
昨日は正直、かなりきつかった。
体調も万全とは言えない。それでも――今日も始まる。俺を頼ってくれる人がいる。
「……ああ、ラエル。いいよ」
その直後、柔らかい感触が胸に飛び込んできた。
そして慌ただしい足音。
ラエルが入ってきて、何かを見て、すぐ出ていった。
……いや、待て。
今、誰が俺を抱きしめている?
目を開ける。
そこには――
裸のアメリア。
しかも、完全に治っている。
思考が停止した。
……これをユメが見たら、間違いなく俺は殺される。
「わたし……ほんとうに……身体が、痛くない……」
今にも泣きそうな声。嬉しさに震えている。
対して俺の脳内はパニックだった。
――やばい。服、用意してなかった。
以前は桃色の瘤が全身を覆っていた。だが今は違う。
ほとんど何も隠すものがない。というか、いろいろ見えてはいけないものが見えている。
落ち着け。
守るって言っただろ。ここは大人の対応だ。
「心配するな。言っただろ? 俺はお前の味方だ」
「……うん。もう決めたの。……あなたが好き」
「よし、分かった。じゃあ――え?」
思考がまとまる前に、唇が触れた。
「結婚して……家族になろう。ずっと一緒にいたい」
胸がぎゅっと締めつけられる。
いろんな考えが一気に駆け巡る。
でも、まず気づいたのは――彼女の手が震えていることだった。
今まで、どれだけ孤独だったのか。
生まれただけで否定され続けた時間。
少し優しくされた、それだけで、必死に掴もうとしている。
彼女にとって、この感情は本物だ。
……だからこそ、難しい。
どうやって伝えればいい?
それが救いを求める気持ちかもしれないなんて。
いや、それ以前に――俺にはユメがいる。
この世界に来ても、気持ちは一度も揺らいでいない。
そのとき、部屋の隅に光る目を見つけた。
チェスター。
壁の穴から勝手に出入りするのはいつものことだが、よりにもよって今か。
ひげをぴくぴくさせながら、じっとこちらを見ている。
……なんだその目は。
「どうする? 逃げるのか?」って言ってないか?
「服、取ってくる。すぐ戻る」
俺は勢いよく立ち上がった。完璧な逃げ道。
アメリアは戸惑った顔をしたが、引き止めはしなかった。
チェスターは数歩ついてきたあと、くるりと振り返り、アメリアの方へ戻っていく。
……気のせいかもしれないけど、あいつ、絶対に俺を裁いてたよな。
ともあれ――俺は見事にその場から脱出した。
***
POV――アメリア
ソラが戻ってきたとき、服をベッドに置き、私が着替え終わるまで外で待っていてくれた。
部屋に入ってきた彼は、何かを言いたそうな顔をしている。
「……君のこと、もっと知りたい」
静かな声だった。
うなずく。
聞きたいなら、全部話す。いいことも、悪いことも。
母のこと。
母が亡くなったあと、他人に預けられたこと。
その人たちが、笑いながら私を扱ったこと。
最初は落ち着いて話せていた。
でも、どこからか声が震え始めた。
気づいたときには、涙が止まらなくなっていた。
ソラが、そっと抱きしめる。
「大丈夫だ。これからは、良くなっていく」
優しい声。
でも――
なぜか、少しだけ。
ほんの少しだけ、違和感を覚えた。
顔を上げる。
ソラの瞳が――
さっきより、ほんのわずかに暗く見えた。
……気のせい、だよね?




