第22話 一か月の失敗
また一日が終わる。
そして、また失敗だ。
ここに来てから、もう一ヶ月が経っていた。
同じ場所に留まり続けるには、あまりにも長すぎる時間だ。まだ助けを必要としている人間は山ほどいる。何人かは行き来を続けているし、事情を説明しに行った連中も、それなりに役目は果たしているのだろう。
それでも――俺が自分であそこへ行き、皆の前で直接治療するのとは、やはり説得力が違う。
人数が減ったおかげで、頭の奥を締めつける圧迫感は以前ほどではない。だが時々、妙に物忘れがひどくなることがある。自分でも驚くほど、ぼんやりしてしまう瞬間があるのだ。
とはいえ、眠れば多少は回復する。
それだけが救いだった。
もし回復しなければ、きっと俺はとっくに内側から破裂していただろう。だが、疲労そのものは確実に蓄積している。
ラエルやゲーン、それに仲間たちもそれに気づいていた。
何度も、ここを離れようと提案された。俺があの連中のことを考えずに済むように、と。
理由は分かっている。――俺の能力の酷使だ。
「ソラ様。失礼を承知で申し上げますが……そろそろ撤退すべきかと」
ラエルが真っ直ぐ俺を見つめる。その声音には遠慮があったが、意志は固い。
「お救いになりたいお気持ちは分かります。ですが、あの連中はあまりにも卑劣だ。……正直、あの馬鹿どもの顔を殴り飛ばしたくなります」
「……チッ。俺もラエルに賛成だ」
ゲーンが苛立ちを隠さず続ける。
「ここにいる連中は皆、あなたに救われた。どんな病も治せるってことも知ってる。だが……その代償で、あなたが苦しんでいることも分かってるんだ。無理して平気な顔をしてるだけだろ? ……もう十分じゃないのか?」
否定はできなかった。
俺だって、自分の体が傷つくのは嫌だ。
時間をかけて築き上げてきた“今の自分”を侮辱されるのも、不快ではある。
だが――どうせ元に戻るのなら。
なぜ、わざわざ憎しみを抱く必要がある?
俺を憎む者たちでさえ、きっと被害者だ。
そうでなければならない。
……もし救うべき相手がいないのなら。
それはつまり、俺の失敗を意味するのだから。
「ここにいる大半は、救われたいなんて思ってないわ」
数ヶ月前に俺たちが助けた女性が、静かに口を挟んだ。
「私たちを見る目は、憎しみそのものよ。話す気すらない人たちのために、そこまで命を削る価値があるの?」
正論だ。
俺は、ただ意地になっているだけなのかもしれない。
「……分かってる」
遠くに見える学校を見つめながら、できるだけ平静を装って答えた。
「少し歩いてくる。明日の朝、今後の方針を伝えるよ」
廃墟同然になった校舎を見ていると、どうしても思い出してしまう。
ユメや、友人たちと過ごした日々を。
あの高校生活も、やがて終わった。
何事も、永遠には続かない。
俺たちも、いずれここを去る。
校舎を眺めていると――中に“違和感”を感じた。
視認せずとも分かる。
[病原読解]のおかげで、感染者の存在は把握できる。
最近、明らかに異質な反応があった。
正体までは掴めない。だが、大まかな位置は分かる。
向こうから近づいてこないということは……来る気がないのか。それとも、来られないのか。
ならば。
今度はこちらから近づく。
“桃色の疫病”は、本来なら万物を分解する霧へと変異できるはずだ。
限界まで強引に引き出せば、壁を破壊し――その直後に霧を散らすことも可能かもしれない。
そうすれば中の誰かと直接話せる。
協力者を得られれば、他の連中を説得することもできる。
俺が詐欺師ではないと、証明できる。
[ウイルス適性]で支配しているネズミたちは、周囲を巡回している。
俺の感覚の死角を埋めるための目だ。
全て静かだ。
異常なし。
――そのはずだった。
次の瞬間。
何かが砕けるような、乾いた破裂音が響いた。
気配は、すぐ近くにあった。
悲鳴は聞こえない。少なくとも、致命的な事態ではないはずだ。
俺は慎重にそちらへ歩きながら、どう名乗るべきか考えていた。
「こんにちは、俺はソラ……」
小声で呟いて、すぐに首を振る。
「……いや、単純すぎる。詐欺師と間違えられかねないな」
やがて、辿り着いた。
そこにいたのは――桃色の腫瘍に覆われた、人影。
腕も脚も背中も、異様に肥大したウイルス性の隆起で埋め尽くされている。顔さえも原形を歪められていた。
両腕は不自然な角度に折れ曲がり、這いずった跡には血が線を引いている。
多くの人間には、もはや人には見えないかもしれない。
だが俺には分かる。
彼女は人間だ。
そして――明らかに、苦しんでいる。
俺が自己紹介の言葉を探している間も、彼女は必死に前へ進もうとしていた。壊れた身体を引きずりながら。
その姿を見た瞬間。
久しぶりに、俺は自分自身に嫌悪を覚えた。
口が震えている。
まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように。
「や……やだ……いや……お願い……」
涙が頬を伝う。それでも止まらない。
執念のような意志で、這い続ける。
――結局、俺は思っていたほど成長していないらしい。
自分への苛立ちに時間を割く余裕はない。
俺はそっと彼女のそばに膝をついた。
触れただけで砕けてしまいそうなほど、脆い。
「……大丈夫。落ち着いて。必ず助ける」
内心は焦燥でいっぱいだったが、声だけは穏やかに。
彼女は叫ばなかった。
逃げようともしなかった。
ただ、俺を見つめる。
その瞳には混乱と――言葉にできない何かが宿っていた。
俺にも、完全には理解できない感情。
「動かないで」
少し身を屈める。
「腕も……身体も……このままじゃ駄目だ。そんなふうに這いずるべきじゃない」
その瞬間、彼女は泣きながら謝り始めた。
胸が、締めつけられる。
「ご……ごめんなさい……ごめんなさい……わたし……」
俺はすぐに[病原読解]を発動し、支援システムに状態解析を委ねる。
***
《システムメッセージ》
支援解析:病原読解
解析中……
生命状態:危篤
・未治療の複数骨折
・重度の筋萎縮
・長期的肉体的外傷の痕跡
ウイルス共鳴:高位[先天性起源]
・被検体はR型ウイルス活性株を先天的に保有
・高度かつ不安定な共生状態
重大所見:
・構造自己修復の反復試行
・骨格/組織再構築の累積失敗
・不完全再生による進行性変形
検体を採取しますか?
***
……何年も、苦しんできたのか。
身体的外傷だけではない。
あの目は、心も壊されていると告げていた。
誰が、こんなことをした?
ウイルスとの不安定な共生は一因だろう。
だが、もし人間がここまで追い詰めたのなら――
そいつに赦しなど必要ない。
「……これは、酷い」
気づいたときには、口に出していた。
彼女の表情が、揺れる。
……あ。
声に出ていたのか。
まさか――俺が彼女自身を指して言ったと思ったのか?
瞳に、さらに涙が溢れる。
「ち、違う! ごめん、泣かないで」
慌てて言い直す。
「傷のことだ。診ていただけだ。……俺はよく、女性の気持ちが分からないって言われるんだ」
「え……?」
彼女は困惑した顔をする。
……ユメやアリシアがいたら、きっと俺は説教されている。
深く息を吸う。
「つまり……君を助けたい。俺に、救わせてほしい。君のそばにいたい」
「どうして……? わたし、気持ち悪いのに」
確かに、彼女の身体は他とは違う形で侵食されている。
だが、嫌悪など一欠片も湧かない。
「気持ち悪い?」
俺は眉をひそめる。
「どうしてそんなことを言う。君はこの世界の被害者だ。そんな痛みを抱えて生きるべき人間じゃない」
「全部……気持ち悪いの。顔も……声も……いいところなんて、ひとつもない。ただ……誰にも望まれないから、まだ……」
「違う」
はっきりと言い切る。
「君は気持ち悪くなんかない。いいところがないなんて言うな」
俺は慎重に彼女を抱き上げた。
軽い。
あまりにも軽い。
最初は抵抗したが、やがて俺の服をぎゅっと掴む。
まだ、信じたい部分が残っているのだろう。
「俺はソラだ」
目を合わせる。
「必ず助けると約束する」
しばし沈黙。
だが、まだ聞かなければならない。
「……君の名前を教えてくれたら、嬉しい」
「……アメリア……ママが……くれたの」
母が付けたのは当然だ。
それでもわざわざ口にしたことが、彼女にとってどれほど大切な記憶かを物語っていた。
「綺麗な名前だ。アメリア。会えて嬉しい」
返事はない。
瞳がわずかに揺れ、俺を探る。
やがて抵抗が消えた。
それを、静かな了承と受け取る。
俺はアメリアを抱いたまま、拠点へ戻った。
扉をくぐった瞬間、室内が凍りつく。
全員の視線が、こちらに集まった。
「……な、何それ?」
三つ編みの女が、恐怖と驚愕を混ぜた声を漏らす。
アメリアは瞬きをし、視線を落とす。
慣れているのだろう。その言葉に。
胸の奥が、冷たくなる。
「無駄な発言をする時間はない」
思ったよりも強い口調になってしまった。
「彼女の名前はアメリアだ。もう一度“それ”と呼ぶなら、俺の仲間ではいられない」
腕の中のアメリアが、びくりと震える。
……駄目だ。やり方が違う。
「ち、違います! その……すみません!」
女は慌てて後ずさる。
「こんな姿の人を見たことがなくて……」
俺は息を吐く。
彼女のせいではない。未知への恐怖は本能だ。
深呼吸する。
今、感情に呑まれてはいけない。
「……こちらこそ、言い方が悪かった」
落ち着いて言い直す。
「でも、彼女は俺にとって大切だ。ああいう言い方は、二度としないでほしい」
「はい……分かりました、ソラ様。二度といたしません」
彼女は深く頭を下げた。
腕の中で、アメリアは小さく震えながら――それでも、俺の服を離さなかった。
やがて、ラエルが部屋の前に現れた。どうやら事情はすでに耳に入っているらしい。
「ソラ様。そのお嬢様はどちらへお休みいただきますか? この建物にはまだ空き部屋がございます。ご希望でしたら、すぐに整えますが」
アメリアはまだ意識を保っている。だが、その状態は最悪だ。
静かに休める場所が必要だし、何より――すぐに治療を始めなければならない。
「俺の部屋に連れていく。終わるまで、誰も入らないでくれ」
「……え?」
腕の中で、アメリアがびくりと強張る。
仲間たちのおかげで、俺の部屋は拠点の中で一番清潔で整っている。安宿にも劣るだろうが、この“桃色の疫病”に蹂躙された世界では十分すぎる空間だ。
運びながら気づいた。
アメリアは周囲を警戒するように見渡している。まるで、いつ誰かに殴られるか分からないとでも思っているように。
部屋に着き、慎重にベッドへ寝かせる。
彼女は視線を落とした。まるで、自分がシーツに触れていいのか迷っているかのように。
借りを感じているのか。
それとも――なぜ自分がこんな扱いを受けるのか、理解できないのか。
身体を整えていると、彼女の緊張がわずかに強まる。
男に部屋へ運ばれたことを警戒しているのか?
……いや。おそらく長年の痛みと虐待が染みついた反応だ。
歪んだ骨の矯正は難しい。
だがウイルスと病原体を操作できる俺なら、再配列は可能だ。体内のR型ウイルスも調整できる。
複雑だが、不可能ではない。
ただ――問題がある。
「アメリア。これから君の骨格と体内ウイルスを改変する。軽い処置じゃない」
初めてゲーンに施したとき、俺のミスで彼は絶叫した。
あれは、もう繰り返したくない。
「……ねえ」
アメリアの声は小さい。
「寝てる間に……捨てるんでしょ」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「違う。待ってくれ。そんなことは絶対にしない」
即座に否定する。
「約束しただろう。治すって。でも俺は完璧じゃない。下手をすれば、強い痛みを与えるかもしれない。だから、先に眠ってもらった方が安全だと思ったんだ」
深く息を整える。
焦っているように聞こえてはいけない。
「でも決めるのは君だ。嫌なら、別の方法を探す。時間はかかるかもしれないが、君の意思を優先する」
沈黙。
彼女の指が、シーツをぎゅっと掴む。
「……あなたがやるなら……いい」
かすれた声。
「信じる」
俺は彼女を見つめる。
「ありがとう。大丈夫だ。約束する。……少し眠って」
アメリアの瞼がゆっくりと閉じていく。
やがて完全に意識を失った。
本気になれば、R型ウイルス感染者はシステムを介さなくても支配できる。
だが俺はそれをしない。
制限は俺自身の意思だ。
――作業を始める。
変形した部位へ慎重に干渉する。必要な箇所には直接手を添え、骨格の位置を修正する。再生はR-EVO系統で補完する計画だ。
だが。
「……足りない」
アメリアの体内にある原初株が予想外の反応を示す。
外部改変を吸収し、歪める。
停止命令を出すことは可能だ。
だが長期的には不安定化を招く。
彼女に適応した、より自然な変異が必要だ。
俺は再びシステムにアクセスする。
頭が、焼き切れそうになる。
情報処理が暴走する。限界を超え、脳が無理やり回転させられる。
その末に誕生したのが――
[ウイルス適性]の応用変異。
彼女専用の共鳴型改良株。
名付けた。
[R-EVO2型ウイルス]
名前に創意はない。
だが機能がすべてだ。
あとは経過観察のみ。
処置が終わっても、アメリアは深く眠っている。
まるで死体のように静かだ。
だが生きている。分かる。
高度改変は消耗が激しい。
身体が重い。
視界が赤く染まる。
「……拭かないと」
目と耳から血が流れている。
もう驚きはない。
初めてR型を改変したときも同じだった。抵抗はある。だが最終的に、俺の身体は再構築される。
ベッドで眠る彼女は、そんな幸運を持っていなかった。
「もし……本当に、誰かが意図的に彼女を傷つけていたなら」
静かな部屋で、独り言が零れる。
「どうやって、同じ痛みを返せばいい?」
沈黙。
ずっと考えていた疑問がある。
治癒ではなく、逆へ極端化させたら。
ウイルスを“破壊”の方向へ押し切ったら、何が起きる?
ふと顔を上げる。
鏡に映った自分と目が合った。
――ぞっとする。
俺は、何を考えている?
一瞬、思考が白く飛ぶ。
足元に広がる血を見て、理解した。
彼女を治すために限界まで力を使い、余計な痕跡を残した。
この光景だけ見れば、殺人現場だ。
黙って掃除を終える。
そして、ベッドへ視線を戻す。
穏やかに眠るアメリア。
初めて、苦痛のない表情。
……それだけで、十分だ。
呼吸が安定しているのを確認し、俺は離れる。
自分も休む準備をする。
嫌な感覚が残っている。
何かを、無理やり捻じ曲げたような違和感。
眠れば治るだろうか。
少なくとも、彼女が目覚めるときには平静を装わなければならない。
怖がらせたくはない。
最近、よく学校時代の夢を見る。
今夜も、そうであればいい。




