第18話 アメリア――後編
視点:アメリア
私は、ペットを飼ったことがなかった。
でも、ママは言っていた。
ペットは小さな命で、家に喜びを運んでくれる存在だって。
見返りを求めない、まっすぐな愛で家族の一員になるんだって。
……ほんの一瞬だけ、私は馬鹿みたいなことを考えた。
もし私も「ペット」みたいに誰かに“渡される”のなら。
誰かが、私を必要としてくれるかもしれない。
どこかに、居場所ができるかもしれない。
その幻想は、すぐに壊れた。
ママが死んでから数日後、レイジは私を他の大人たちと一緒に、もっと大きな集落へ連れていった。
うまくいけば、安全と食料と守りが手に入るらしい。
私はよく分からなかった。
ただ、引きずられるまま歩かされていただけ。
誰も話しかけてこなかった。
誰も、私を見なかった。
その場所は、とても大きかった。
いくつもの区画があって、「学校」と呼ばれていると聞いた。
子どもたちが勉強して、遊んで、友達を作る場所。
ママは言っていた。
ここで初恋をして、一生忘れられない思い出を作ったんだって。
でも――私は、そんな場所のために来たんじゃない。
私は、どの家族にも属していなかった。
人ですらなかった。
ただの、モノ。
その場所の責任者は、灰色の髪をしたダザイという男だった。
「……なんだ、それは?」
レイジが私を前に突き飛ばしたのを見て、ダザイが言った。
「……贈り物だ」
レイジは乾いた声で答えた。
「資源を食わない。しかも、かなり丈夫だ。変な生き物だから……ペットくらいには使えるだろうと思ってな」
ダザイは、しばらく無言で私を見下ろしていた。
それから、部下たちのほうを向く。
「気味が悪い……人間にも見えん。生きているのか?」
レイジは迷わなかった。
私の背中を蹴った。
鈍い音を立てて、横倒しになる。
私は悲鳴を上げ、助けを乞う獣みたいに丸まった。
「動いてますね」
誰かが笑いながら言った。
ダザイが、口元を歪めた。
「はは……面白い。いいだろう、置いていけ。
物の趣味がいい連中は、歓迎だ」
レイジは息を吐いた。
周囲の大人たちは、ほっとしたように目を合わせる。
誰も、私の状態を気にしなかった。
誰も、礼を言わなかった。
私の意思を気にする人間など、誰一人いなかった。
私は、ただの物として引き渡された。
その日から、私は怒りをぶつけるための肉袋になった。
生きていてはいけない化け物だと言われた。
こんな姿で生まれたのなら、私も、家族も、そうなる運命だったんだと。
その意味が、分からなかった。
何が、いけなかったのかも。
「……ママ……カエデ……」
そう言おうとした。
嘘だって、ママは優しい人だって、伝えたかった。
でも、うまく喋れなかった。
言葉は口の中で壊れて、外に出る前に形を失った。
それを繰り返すたび、彼らはもっと苛立った。
話せなくなるまで、蹴られた。
何もしていなくても、退屈すると、首に縄をかけられて廊下を引きずられた。
床に体を打ちつけながら転がる私を見て、笑っていた。
腹が減れば、怒鳴られた。
まるで、その空腹が私のせいみたいに。
「動け!」
唸り声。
蹴り。
私は床を転がった。
泣かなかった。
叫ばなかった。
どちらも、状況を悪くするだけだと、すぐに学んだから。
泣けば「うるさい」と言われ、
喋れば、もっと怒らせた。
だから、黙った。
存在しないふりをすることを覚えた。
消えることを。
いつか、見えなくなる日を待つことを。
時々、人がいなくなった。
治る方法を見つけたとか、誰かが救ってくれるとか、そんな話をして。
それは、ダザイをひどく苛立たせた。
「……クソ。なんでそんなに馬鹿なんだ」
彼は私の首を掴み、簡単に持ち上げた。
「本気で、こんなモノみたいになりてえのか?」
唾を吐くように言う。
「呪われた出来損ないだ。家族も、きっと詐欺師みたいな連中だったんだろう。
ほら、末路がこれだ」
体が宙に浮く。
息が、できない。
「……どうして……?」
そう聞こうとした。
答えは、返ってこなかった。
その時、分かった。
私の居場所を。
私は見本だった。
警告だった。
嘘を信じたら、こうなるという証。
救いを待ったら、こうなるという末路。
ママ……
どうして、まだ私にこんなことをするの……?
あなたが話してくれた世界なら、
きっと、人は優しかった。
きっと、こんなにずっと、痛くはなかった。
私がのたうつのを見て、笑う声が聞こえる。
「まだ動いてるぞ!」
「今度はもっと血が出るかな?」
「もう一周したら、俺の勝ちだ」
四つん這いで、ある場所を走らされた。
最初は分からなかった。
でも、すぐに理解した。
ここは、遊ぶ場所じゃない。
壊すための場所だ。
私は、いつも下だった。
一番、下。
彼らが――
少なくとも自分たちは私じゃない、と安心するための存在。
体を引きずるたび、壊れていく。
それでも、残酷なくらい、また治った。
完全じゃない。
日に日に、人の形が薄れていく。
子どもの頃、転ばずに歩けた日のことを覚えている。
嬉しくて、ママに見せたかった。
「大丈夫だよ」って、安心させたかった。
今は、一歩ごとが罰だった。
脚は震え、腕は言うことをきかない。
体そのものが、叫んでいた。
――もう、やめろ。
――続ける価値なんてない。
私は、もう人間じゃないのかもしれない。
日ごとに、そうじゃなくなっていく。
それでも、考えるのは彼女のことだけ。
ママ……
もし、こんな私を見たら……悲しむ?
……失望する?
「……ママ……会いたい……」
本当に、死にたいと思うこともあった。
それでも、消えきらない火種みたいなものが、胸の奥に残っていた。
まだ、諦められなかった。
ママは言った。
強くなりなさい、と。
全部が痛くても、いつか誰かが私を愛してくれる日が来る、と。
信じなきゃいけなかった。
それを失ったら、もう何も残らない。
闇しか、残らないから。
◇◇◇
ここに来てから、何年が経ったのか。
もう、分からない。
時間も、殴られた回数も、眠れなかった夜も、数えるのをやめていた。
叫ばないために、痛みに耐えることだけが、日常になった。
私は、もう子どもじゃなかった。
「お嬢さん」
そう呼ばれて、笑われた。
体が成長することすら、彼らにとっては残酷な冗談だった。
私だけじゃなくなった。
私みたいに、捕まって、壊れた人間が増えた。
そのおかげで、しばらく放っておかれることもあった。
……残酷な休息。
それでも、彼らにとっての私は変わらなかった。
ただの、モノ。
誰かが退屈すれば、蹴られた。
誰かの機嫌が悪ければ、使われた。
そして私は……ただ、耐えられるだけ耐えた。
痛みは、もう怖くなかった。
空気みたいに、寒さみたいに、ずっとそこにあるものだった。
決して落ちない汚れみたいに。
気づかれないために、私は死体の間に隠れるようになった。
機会があれば、動かない体の中に紛れ込んだ。
もう、ママが助けに来てくれると夢見る子どもじゃなかった。
その夢は、ずっと前に死んだ。
ある日、廊下の向こうで声がした。
「チッ……“救い”がどうとか言ってる馬鹿が来たらしい」
「は? 俺たちを舐めてんのか?」
「ピンクの病気を治せるリーダーがいるとか言ってたぞ。どうせ狂った宗教だろ」
……救い、だって。
馬鹿みたい。
もし、そんな存在が本当にいるなら、
今までどこにいたの?
私たちが一番必要としていた時は?
それに、今さら来て、私を見てどうするの?
唾を吐く?
ほかの人たちみたいに、化け物って呼ぶ?
「近づいてきてるらしいぞ。どうする?」
拷問されていた何人かが、一瞬だけ顔を上げた。
ほんの一瞬の、火花。
すぐに、消えた。
「誰がそんな嘘を信じるんだよ。前にも詐欺師はいただろ。
あいつら、必ず何かを欲しがる」
……その通りだった。
いつも、何かを奪いに来る。
いつも。
「見かけたら、手に持ってるものを全部投げつけろ」
監視通路の上から、ダザイの乾いた声が響いた。
「聖人も救世主もいらん。
疫病だけでも十分なのに、詐欺師の相手までしてられるか」
ママ……
どうして、みんなこうなの?
どうして、自分のことしか考えないの?
……もう、私たちは人間じゃないの?
それとも、私だけが、違うの?
その時だった。
理由は分からない。
でも、何かが近づいてくるのを感じた。
そして――聞こえた。
「僕の名前は、ソラです」
澄んだ声。
「早く! 瓶を投げろ!」
誰が投げたのかは見なかった。
どうでもよかった。
私は、動かなかった。
怖かったわけじゃない。
もう、新しい何かを信じる力がなかった。
甘い嘘なんて、これ以上の痛みを生むだけ。
「暴力は必要ありません」
彼は、まだ落ち着いたままだった。
「お前なんかいらない!」
そう叫んだのは、いつも私を肉袋にしていた人たち。
そして、彼は去った。
「追うか?」
「馬鹿か? あいつ、信者がいるらしいぞ。一人で来るわけない。
割に合わねえ」
「突然現れた救世主なんて、信じるほうがどうかしてる」
「いいか」
壊れている私たちを見下ろして、誰かが言った。
「そんな作り話を信じるな。
見た目がまともな奴ほど、最初に来て騙すんだ。
最後まで残る奴らは、もう感染してる……偽りの希望を信じてな」
すべてが、元の“日常”に戻った。
……はずだった。
「僕はソラです。
もう一度、機会をもらえたら……」
また、彼の声。
何がしたいの?
誰も、あなたを望んでいないのに。
「チッ……またあの馬鹿か」
「死にたいのか?」
怒鳴られ、物を投げられ、また去った。
それなのに――
三度目。
「……また来ました、ソラです。
できれば、もう投げないでほしいです。少し、痛いので」
……痛いのに、戻ってくる?
愚かなのか。
傲慢なのか。
それとも、ただの無知?
分からない。
分かろうとしなかった。
気にしちゃいけない。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
彼を見ることすら、できなかった。
見れば、殴られる。
同情したと責められる。
逆らったと罰を受ける。
だから、動かなかった。
いつも通り。
飽きて、去っていくのを待った。
……人は、最後にはそうするものだから。
でも、彼は去らなかった。
翌日も。
その次の日も。
また、その次も。
壁を越えようとするみたいに、
いつも、できるだけ大きな声で話した。
何を投げられても、何を言われても、同じ言葉を。
「治してほしい人がいるなら……僕は、ここにいます。
誰も、無理にはしません」
小さな囁きが、広がり始めた。
――試してみてもいいんじゃないか。
――もしかしたら、本物かもしれない。
でも、ダザイやレイジ……
上にいる人間たちは言った。
詐欺師だ。
化粧や仮面で誤魔化しているだけだ。
信じたら、私みたいになる。
……肉の塊。
人の形をしただけの。
私たちのほとんどは、彼らをちゃんと見ていなかった。
門の近く、上の階を見張っている人間しか知らない。
ほんの、数人。
……それでも、十分だった。
自分たちを所有者だと思っている者たちの怒りを、呼び起こすには。
詐欺師が来る。
希望の影が見える。
それだけで、彼らは我慢ならなかった。
暴力は、増えた。
ほんの小さな期待すら、残酷に潰された。
私は……消えようとした。
何時間も、動かず、隅で丸まった。
息をしていないふり。
見ていないふり。
存在していないふり。
動かされることのない死体と同じになるために。
それが、唯一の方法だった。
そうやって、死んだふりをしていた時――
血が凍るような声を聞いた。
「……なあ」
門を守っている一人が、震える声で囁いた。
「あいつら……ソラと一緒にいた連中……
誰も、腫瘍も奇形もなかった。おかしくないか?」
重い沈黙。
そして、もっと小さな声。
「……待て。今、あいつ……何て言った?
……本物、なのか?」
「シッ……言うな」
「本当だとしても、ダザイに逆らったら居場所を失う。
割に合わない。
それに……信じるのか?
見た目がいい奴ほど、最初に騙しに来るんだ。
最後まで残る奴らは……感染してる。
偽りの約束を信じてな」
体が、震えた。
寒さじゃない。
胸の奥に、何かが生まれた。
……希望?
……それとも、恐怖?
分からない。
私は、必死に動かないようにした。
考えすぎても、いいことなんて一つもない。
そう、分かっていたから。




