第17話 アメリア――前編
POV:カエデ
カエデは、幸せな人生を送ってきた。
愛してくれる両親がいて、気の置けない友人がいて、そして優しい夫がいた。
だが、それと同じ幸せを、娘が手にできたわけではなかった。
娘の夫は、少し金を稼げるようになった途端、より若い女のもとへ消えた。
子どもたちを残し、娘を一人きりにして。
カエデは、その男を心の底から憎んだ。
同時に、見捨てられてもなお、必死に前を向いた娘の強さを、誰よりも誇りに思っていた。
やがて、カエデは仕事を退いた。
医療の世界は急速に変わり、彼女の知識は時代遅れになっていたが、それを悔やむ気はなかった。
夫は数年前、交通事故で亡くなっている。
それ以来、彼女の中には――いつか再び会えたら、という淡い願いがあった。
それまでは、残された時間を、娘と孫たちのそばで静かに過ごすつもりだった。
しかし、世界はそれを許さなかった。
「ピンクの疫病」が、前触れもなく現れた。
最初は噂話だった。皮膚に淡い桃色の斑点が浮かぶだけの病。
中には「可愛らしい」などと笑う者さえいた。
だが、遠くの出来事だったはずの惨状は、少しずつ、確実に近づいてきた。
流行を知ったとき、カエデは迷わなかった。
長年の貯金をすべて集め、娘に渡した。
「多すぎるわ」
娘はそう言って首を振った。
「いいえ」
カエデはきっぱりと言った。
「子どもたちを守りたいなら必要よ。いい加減、頑固なのはやめなさい」
無料の治療を、彼女は信用していなかった。
それが偏見だったのか、経験だったのか、自分でもわからない。
だが、空虚な約束に家族を預けるくらいなら、何も持たない方がましだった。
その後、家族の必死の引き止めを振り切り、カエデは隔離施設に自ら入った。
貧しく、病に侵され、頼るもののない人々が集められる場所だった。
本当は必要ないと思っていたが、心配する家族のために杖だけは持った。
安心させるため、それだけの理由だった。
最初のうちは、腐りかけの食事と、形だけの診察があった。
想像していた老後とは程遠いが、文句を言うつもりもなかった。
――その日が来るまでは。
兵士たちが、武器を手に現れた。
薬は、持っていなかった。
何の警告もなく、発砲が始まった。
撃ちながらも躊躇する兵士がいた。
女や子どもを前に、銃を落とした者さえいた。
その一瞬の迷いのおかげで、何人かは逃げることができた。
カエデは、自分が助かるとは思っていなかった。
だが、ここで動かずに死ねば、共に過ごしてきた人々の心を折ってしまう。
そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。
彼女が辿り着いたのは、「廃棄ゾーン」と呼ばれる場所だった。
有毒な空気に満ち、感染していない者は数分で体が崩壊する――地獄。
本来なら、ここで終わるはずだった。
年老いたこの体に、もう耐えられるはずがない。
それでも、そこには子どもたちがいた。
彼女がかつて享受した人生を、一度も味わうことなく終わる子どもたちが。
責任を感じる必要はない。
何も悪いことはしていない。
それでも、胸が痛んだ。
小さな体には、すでに桃色の腫瘍が浮かんでいた。
もし、もっと大人がいれば――
自分はもう戦うのをやめ、どこかで静かに死ねたかもしれない。
だが、カエデはそういう人間ではなかった。
時が経つにつれ、体力のある大人たちは去っていった。
何も言わずに消える者もいれば、
「クリーンシティに行って助けを求める」と約束する者もいた。
誰一人、戻らなかった。
「カエデ……子どもたちを頼む。少しの間だけでいい」
彼女は、理由を聞かずにうなずいた。
少しの間は、永遠になった。
子どもたちにとって、カエデはただの老人ではなくなった。
看護師であり、教師であり、祖母であり――
やがて、母になった。
自立できる年頃になると、彼女は信頼できそうな大人を探し、なんとか説得した。
「馬鹿なこと言わないで」
そう言って笑う。
「働き者よ。この子たちは。あなたが私みたいに年を取ったら、きっと助けになるわ」
年月とともに、脚は震えるようになった。
朝、立ち上がる前に座り込んでしまうことも増えた。
体が言うことを聞くのを、黙って待つしかない日もあった。
杖は、慰めではなく必需品になった。
それでも彼女は、子どもを拾い、育て、疲れを悟られる前に見送った。
彼女の体を支えていたのは、意志だけではない。
病は彼女を蝕みながら、同時に死を拒んでいるようだった。
使命が終わるまで、離さないとでも言うかのように。
ある夜、古い毛布にくるまりながら、彼女は本気で考えた。
腫瘍を一つ壊して、すべてを終わらせることを。
「……もう、十分よ」
そう呟き、目を閉じた。
そのとき、思い出した噂があった。
――妊娠した女が、助けを求めている。
――子どもごと死ねばいいのに。
この世界では、子どもはほとんど生まれない。
ウイルスは欲情すら奪い、受胎は奇跡に近かった。
女はクリーンシティ出身だと言われていた。
だから誰も助けなかった。
恵まれていた者への、嫉妬と憎しみ。
だが、カエデには関係なかった。
自分の娘も、見捨てられた。
だからこそ、同じ目に遭う妊婦を、見過ごすことはできなかった。
彼女は迷わなかった。
重い体を起こし、今や手放せない杖を握り、女を探しに行った。
かつて世話をした人々に声をかけ、協力を得て、
彼女たちは廃棄ゾーンの境界付近で、その女を見つけた。
震え、痩せ細り、意識も朦朧としていた。
女は語った。
自分に執着した男がいたこと。
地位を上げてやると約束されたこと。
そして、妊娠がわかった瞬間、
その男がコネを使って、自分を追放したことを。
「……まだ、死にたくない」
女はかすれた声で言った。
「助けて……お願い……」
カエデは、そっとその手を握った。
「泣くのはやめなさい」
静かに、しかし確かに言った。
「あなたも、その子も、死なせない」
育てた若者二人の助けを借り、彼女は女の世話を続けた。
何年も感じなかった不安が、胸をよぎった。
自分の手は、もう十分に動くだろうか、と。
やがて、出産の時が来た。
すべてが痛みだった。
知識はあっても、こんな環境で立ち会ったことはない。
それでも――
どうにか、赤ん坊は生まれた。
だが、運命は残酷だった。
母親は、耐えきれなかった。
生まれたばかりの赤子は、全身を腫瘍に覆われていた。
肌は均一な桃色で、脚には明らかな異常があり、片腕はもう一方より短い。
泣き声はなかった。
代わりに、小さく、かすかな声を漏らすだけだった。
まるで――生まれてきたことを、謝っているかのように。
手伝いに残っていた一人が、思わず一歩引いた。
「……変な見た目だな」
「やめなさい!」
カエデは唸るように言い、少女を毛布で包み込んだ。
「二度と、そんなこと言うんじゃない」
「で、でも……本当に育てる気か?」
気まずそうに尋ねられる。
「ええ」
即答だった。
「他に誰も、やらないもの」
カエデが杖を持ち上げると、若者たちは距離を取った。
こうして、アメリアとの生活が始まった。
決して楽ではなかった。
食事は、集めたキノコをすり潰した粥が精一杯だった。
最初はほとんど吐いてしまったが、不思議なことに、状態は悪化しなかった。
ほとんど食べられなくても、命は繋がれていた。
腫瘍は、常に不安の種だった。
初めて歩こうとして転んだとき、カエデは血の気が引いた。
どこかが破れたと思ったのだ。
だが、傷は――勝手に塞がっていった。
アメリアにとって、生きることは簡単ではなかった。
生まれつき、手足は弱い。
赤ん坊の頃は這うことすら難しく、成長してからも、歩くのがやっとだった。
走ることは、一度もできなかった。
時間が経てば回復するようにも見えたが、少し無理をすると、必ず痛みが伴った。
話すことも同じだった。
彼女は努力した。必死に。
その姿を見るのが、カエデには辛かった。
言葉は、くぐもった唸り声にしかならない。
まるで、喉そのものが、話すために作られていないかのようだった。
それでも、気づいたことがあった。
アメリアの耳は、異様なほど良かった。
わずかな囁きでも、すぐに目を覚ます。
腫瘍に覆われていない片目もまた、同じくらい優れていた。
――これなら。
いつか、生き残れるかもしれない。
そう思えることが、わずかな救いだった。
「……もうひとつ……おはなし……」
毎晩、かすれた声でせがんだ。
「ええ、いいわ」
カエデは微笑む。
「でもね、あまり期待しないで。おばあちゃん、忘れちゃうところもあるから」
「……だいじょぶ……」
アメリアは、恋の話が好きだった。
あるとき、亡き夫のことを語りながら、カエデは思わず胸が熱くなった。
今は老人でも、かつては恋に夢中な少女だったのだ。
だが、じっと聞くアメリアの視線に気づき、ふと思った。
――残酷ではないだろうか。
この子が、決して得られないかもしれないものを語るのは。
「……あい……」
話を聞き終えたあと、アメリアが尋ねた。
「アメリア……も……?」
カエデは息を呑んだ。
真実を言おうとした。
――たぶん、ない。
――たぶん、誰も。
でも、できなかった。
「いつか、きっと」
そう言って、優しく頭を撫でた。
「私みたいに、あなたを見る人が現れる。
この腐った世界より、あなたのほうが大切だって、わかる人が」
「……うん……」
「だから、生きなさい」
「諦めちゃだめよ」
「……アメリア……がんばる……」
年月が流れ、アメリアは十歳になった。
体の状態は変わらなかったが、言葉は少しずつ滑らかになった。
穏やかで、我慢強く、よく周囲を見ていた。
弱い体でも、母の役に立とうとした。
カエデは、終わりが近いことを悟っていた。
横になる時間は増え、もうすぐ、自分では動けなくなる。
だから最後の力を振り絞り、アメリアを連れて、引き取り手を探した。
だが、感染者ばかりの世界でも――
「普通でない」子どもを欲しがる者はいなかった。
「悪いが……無理だ」
「うちも余裕がない」
何度も、そう言われた。
カエデは答えなかった。
ただ、アメリアの髪を撫で、前へ進んだ。
そして――運命の巡り合わせか。
彼女はレイジと再会した。
かつて、廃棄ゾーンで守った子どもの一人。
もう子どもではなかった。
仲間がいて、簡易ながらも秩序ある拠点を築いていた。
「……カエデ。その子は?」
「アメリアよ」
「私の……最後の娘」
「あなたたちのところで受け入れてもらえたら、私は、やっと休める」
レイジは少女の前に膝をつき、静かに見つめた。
「ようこそ、アメリア」
「これからは、俺が守る」
カエデは、うなずいた。
その夜――
眠ったまま、彼女の体は、ついに力を失った。
正しい選択をしたと信じながら。
*¨**
POV:アメリア
「……ママ……まま……おきて……」
そっと、体を揺する。
そこにいる。
眠っているみたいなのに、何度呼んでも、返事はない。
「……おねがい……ママ……」
冷たい手を握りしめ、囁いた。
周りには、人がいた。
ママが昔、守った人たち。
私と同じ、だと言っていた。
でも今、向けられるのは――嫌悪の目。
ママは、全部だった。
声も、腕も、温もりも。
なくなったら、どうすればいいのかわからない。
ただ、目を開けてほしかった。
大丈夫だって、言ってほしかった。
「……まだそこにいる気か?」
男の、冷たい声。
「いいや」
レイジの声だった。
「カエデさんを安心させるために、そう言っただけだ」
「いい人だな」
仲間の一人が言った。
「死んだんだ。もう、この……モノの心配はしなくていい」
「だな」
「処分するだけだ」
「ペットにしてやるか?」
「どっかの大所帯に。面白がるだろ」
「それいいな」
笑っていた。
小声ですらなかった。
私は、人じゃなかった。ただの、醜くて変なモノ。
でも、動けなかった。ママは言った。
聞きなさい。従いなさい。諦めちゃだめ。
「……ママ……ママ……」
顔に触れながら、震える声で呼ぶ。
突然、腹に激痛が走った。
何かが、内側で壊れたみたいだった。
「チッ。ママなんて呼ぶな」
「お前がいなきゃ、生きてたかもしれないのに」
「……ま……」
言いかけた瞬間、息が止まる。
「壊れないんだろ? どれだけやっても」
「いいストレス解消になる」
笑い声。
私は、ただ戻ってきてほしかった。私のせい? 私が悪かった?
ごめんなさいって言えば、許してくれる?
また、抱きしめてくれる?
お願い。
一人にしないで。
こわい。
ママ……お願い……目を、開けて……。




