第15話 静けさの感覚
目が覚めていた。
最後に目を閉じたときは、頭が割れそうなほど痛かったはずなのに、今は嘘みたいに平気だった。
ここは……あの小屋……いや、掘っ立て小屋?
まあいい。感染者たちを見つけた、あの避難所だ。
相変わらず半壊状態ではあったが、今回は明らかに片づけられていた。
僕が少しでも快適に過ごせるよう、気を使ってくれたのだろう。
そこまでしなくてよかったのに。
それでも――素直に、ありがたかった。
この世界に来てからというもの、不思議なことに、ずっと居心地がよかった。
昔の僕なら、友人とも呼べない人たちに囲まれる状況は、それだけで消耗していたはずだ。
正直に言えば、長い間、友達なんてユメだけで十分だと思っていた。
あの頃、周囲に人が集まり始めたのも、全部――彼女の笑顔が見たかったからに過ぎない。
でも、ここでは無理をする必要がなかった。
演じる必要も、期待に応える必要もない。
ただそこにいて、彼らと一緒に前へ進めば、それでよかった。
きっと、助けることができたからだろう。
置かれている状況を考えれば不思議なくらい、僕の心は静かだった。
差し出された食事は、死んだネズミが二匹と、薔薇色のキノコ。
理論上は食べられる――彼らにとっては、だ。
僕の元の世界でも、さすがにアニスでも手を出さないだろう。あの子は形があれば何でも食べるのに。
気持ちはありがたく受け取った。
体は必要とあらば毒にも耐えられるが……それでも、これは遠慮したい。
普通の人間が口にするものじゃない。
……とはいえ、どんな味がするのか、少し気になったのも事実だ。
「――待って、チェスター!」
思わず声を上げた。
「どうしました、旦那様? どこかお加減でも……?」
周囲が一斉にざわつく。
一瞬、最悪の想像が頭をよぎった。
――まさか、友人を料理したんじゃ……?
だが、その直後。
影の奥から、一匹のネズミが姿を現した。
脳内ではなぜか壮大な音楽が流れ、チェスターはこの世界のラスボスのように君臨し、存在するだけで勢力図を塗り替えそうな威圧感を放っていた。
……いや、さすがに盛りすぎか。
それでも、無事な姿を見て心底ほっとした。
「この子は僕の友達だから。食べないであげて」
ペットだと説明したあと、僕は本題に戻った。
――まだ、治療が終わっていない。
一人ずつ診ていく。
若者はいなかった。三十歳未満はいない――少なくとも、そう見える。
痩せ細った体。ひび割れた皮膚。
汚れた包帯の下で脈打つ、薔薇色の腫瘍。
僕が近づくと、彼らが身を強張らせるのも無理はない。
だが、治療するには――初めて、直接触れる必要があった。
僕の能力は、距離があるとうまく働かない。
幸い、基礎となるウイルスはすでに改良済みだ。
システムが、僕の介入なしでもRウイルスを複製できる。
それでも――
使うたび、説明できない違和感が胸の奥に溜まっていく。
何かが、深いところで拒絶しているような感覚。
「……若いの、大丈夫か?」
目の前の誰かが、そう声をかけてきた。
返事が遅れた。
……誰だ?
視線を落とす。
僕の手は、彼の腕に置かれていた。
どうやら、治療の途中だったらしい。
「心配しないで」
ようやく口を開く。
「ちょっと……考え事をしてただけだ。ごめん」
いつから始めていたのか、覚えていなかった。
処置は滞りなく進んだ。
すでに僕の作ったウイルスを保有している者もいれば、まだ治療中の者もいる。
一度体内の株を調整してしまえば、多少距離があっても、個別に最適化できる。
……それを見て、ふと、思ってしまった。
もしかしたら――進化させることも、できるんじゃないか?
【警告:能力がサポートシステムの管理範囲を超過しています。手動制御が必要です】
その考えは、浮かんだ瞬間に霧散した。
まだ、サポートシステムなしでは無理だ。
そもそも、この行為は想定外。
自分の能力だけで無理やり進化を促せば、高確率で失敗する。
彼らは、もう十分すぎるほど苦しんできた。
薔薇色の爆発を起こしたり、即死する異形に変えたりなんて――
そんな結末だけは、絶対に避けたかった。
だから、安全策を取る。
ウイルスは完全に制御下にある。
元の名前は正直ぱっとしなかったが、R-EVOと名付け直した。
やったことは一つ。
おそらく、開発者たちが本来目指していた状態へ戻しただけだ。
処置が終わると、数人が膝をついた。
祈っている。
……僕に?
周囲もそれに倣い、仲間の様子をちらちら確認しながら、見よう見まねで頭を下げる。
慌てて手を上げ、制止した。
必要ない。
そんなこと、望んでいない。
確かに、神に送られてきた身ではある。
だが、それを語るには――まだ早い。
「食わねえのか?」
不意に、ゲーンが首を掻きながら言った。
相変わらず、紙やすりみたいな声だが、どこか遠慮がちだ。
本気で気を使っているのが伝わってくる。
「気持ちは嬉しいけど、食事は必要ないんだ」
正直に答える。
ゲーンは舌打ちした。
「それが……普通なのかは知らねえけどよ。腹に何か入れた方がいいんじゃねえのか? ほら、元気出すためにも……」
驚いた。
少し前まで、真っ先に罵倒してきた男だ。
今はまるで、上官に話しかける兵士みたいに、ぎこちない。
……悪くない。
不器用で、少し可愛い。
ラエルが腕を組んで口を挟んだ。
やつれた顔は相変わらず無表情だ。
「放っておけ、ゲーン。こいつは俺たちとは違う。同じ理屈で動いてない」
「……ああ、見りゃ分かる」
ゲーンは視線を落とす。
「それでも……礼儀ってやつだ」
――礼儀。
その言葉が、彼らの口から出るのが不思議だった。
でも、ちゃんと受け取った。
不格好ながらも、努力は伝わってくる。
彼らの視線には、敬意と罪悪感、そして――恐れ。
まるで、僕がいつか消えてしまい、唯一の希望ごと失うのを恐れているかのようだった。
体調は、だいぶ安定してきた。
完全ではないが、動ける程度には回復している。
そろそろ、最優先事項に集中すべきだ。
――ウイルス。
これは自然発生のものじゃない。
明確な意図をもって、設計された存在だ。
エクス・マキナが残してくれたサポートシステムを起動し、
これまでに得た情報を、改めて解析することにした。
【病原体読解を起動】
【解析:病原核内に封入されたRウイルス】
【Rウイルス ― 現行バージョン
感染状態:
体内に侵入すると、Rウイルスは循環系に定着し、宿主の免疫系を段階的に置き換える。Rウイルス自身が、他のウイルスや病原体の侵入を阻止する役割を果たす。
その過程で、食欲、生殖衝動、感情反応が徐々に低下するが、影響の度合いは個体差がある。
また、外部に腫瘍を形成し、その内部で新たな胞子を培養する。これが破裂した場合、宿主の身体は即座に崩壊する。
高濃度ウイルス環境下では機能を維持できるが、そうでない場合、数日以内に劣化し死亡する。
死後挙動:
個体の死亡後、遺体は強力な感染力を持つ微細胞子を生成し始める。その拡散範囲は数千メートルに及び、大量の熱を加えない限り消滅しない。
この過程は、遺体が完全に消滅するまで数か月にわたって続く】
……危険極まりない。
要するに、人間を“道具”として使うウイルスだ。
拡散する理由がない状況では、多少“穏やか”に振る舞うだけ。
清浄な環境では、感染者はすぐに死ぬ。
その意味で、Rウイルスは異常なほど効率的だった。
そこまで見て、ようやく理解した。
これを作り、あるいは運用していた連中の――本当の目的が。
【R-EVO(進化再生型)
概要
R-EVOは、薔薇色の疫病に対抗するために設計された、R株の再構築個体である。
二次的免疫系として機能し、外部からの感染を検知・無効化するほか、組織の再生を促進し、細胞残骸や単純鉱物といった非生体物質からエネルギーを合成する能力を持つ。
他者への感染能力は極めて低く、またウイルスの生命サイクルは宿主の生存状態に直接依存する。
宿主が死亡した場合、R-EVOは即座に活動を停止し、周囲の環境を汚染することはない】
――ほぼ万能治療。
少なくとも、“知性を持ったウイルス”にできることとしては、限界に近い。
これのおかげで、人々はRウイルスが蔓延する環境でも、ほとんど飲食せずに生存できている。
インターフェースは存在せず、情報は直接、即座に脳へ流し込まれる。
正直に言えば――かなり便利だった。
システムをオフにする。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
身体が、少しずつ落ち着いていくのを感じた。
解析で得られた情報は多い。
だが今、必要なのは――ウイルスのデータではない。
この世界そのものの情報だ。
「……よし」
少し声を張る。
「頼みたいことがある」
即座に反応が返ってきた。
全員がこちらを向き、緊張した空気が走る。
次の瞬間、ゲーンとラエルが同時に膝をついた。
……胃がきゅっと縮む。
「ち、違う! そうじゃなくて……!」
慌てて両手を上げる。
「必要ない。本当に。僕は神でも何でもないから」
ゲーンは頭を下げたまま、何かを小さく呟いた。
聞き取れなかったし――聞かない方がよさそうだった。
たぶん、祈りだ。
その隣で、ラエルが拳を握りしめる。
言葉を選んでいるのが、はっきり分かった。
「分かっています、空さん……ですが、あなたは……明らかに違う。
神だとは言いません。ただ、もしそうだったとしても……文句はありません」
ため息が漏れた。
今は、神話談義をしている余裕はない。
立っているだけでも、結構きついのだから。
「この病気は、治療できる。
でも、一人じゃできないことがある」
視線を巡らせる。
「この世界を理解することだ。
ここがどんな場所なのか、最近何があったのか、どんなルールで人が生きているのか……何も知らない。
自分が今どこにいるのかすら、正確には分かってない」
「だから――知っていることを、全部教えてほしい」
沈黙。
気まずそうに視線を交わす者。
俯く者。
そして――
「も、もちろんです、救世しゅ……いえ、空さん」
ゲーンが咳払いし、無理に丁寧な口調を作る。
「まずは……その……重要なところから。
確か、始まりは二十年くらい前で――」
「二十五だ、この馬鹿!」
奥から、錆びたノコギリみたいな声が飛んできた。
「若き啓示者に嘘を吹き込むな!」
「何が分かるってんだ、干からびた鼻くそ野郎!
指の数だって数えなきゃ分からねえくせに!」
「少なくとも、ラジオの話を鵜呑みにするお前よりはマシだ、情弱!」
「年代の話はどうでもいい!
粛清部隊の話からだろ、今は!」
「黙れ、獣!
清浄都市が最優先だろうが、常識だ!」
――出た。
ポストアポカリプス版・組織だった混沌。
混乱しているだけだ。
全員、助けたい気持ちはある。
ただ、意見がまとまらない。
時間はかかりそうだ。
中には、話し方ひとつを問題視して言い合う者までいる。
情報の渦。
調子外れの怒鳴り声。
中途半端な跪礼。
「……まあ」
苦笑しながら思う。
「家と、そんなに変わらないか」
ユメ、アニス、メイ、アレクシア、アリシア。
昼食の場所、観る映画、誰がドレスを一番似合うか、誰が先に恋人を作るか――
何でもかんでも、よく揉めていた。
なぜか最後は、いつも僕を見る。
意見を求めているのか?
いや、僕は男だし。
恋人を“作る”側じゃないし……
まさか、そういう趣味があると思われてた?
あの頃の議論に比べれば――
これは、ずっと楽だ。
「はい、ストップ」
手を上げて制止する。
「一人ずつでいい。急がなくていいから」
今まで、もっと酷い状況を生き延びてきた。
これくらい、どうってことない。
……この世界に来てから、あまりにも物事が噛み合いすぎていた。
だから、きっと――
みんなが幸せになる結末があるんだと、そう信じていた。
【メンタルフラグメント】
アリシア:
「ほら見て、夢。私の騎士はもう元通りよ。少し信じる心が足りなかっただけじゃない?」
吉住 夢:
「わ、分かってる、分かってるってば! ちょっと大げさだったかも……だから、そろそろ解いてくれない?」
アニス:
「そのままでいなさい。まだ数時間は残ってるわ」
メイ:
「夢さん、『あーん』してください」
アニス:
「ちょっと、メイ! ケーキをあげすぎないで!
“行き遅れ”なんて呼んだ罰を受けてる最中なんだから」
アレクシア:
「まあまあ、アニス。悪気があって言ったわけじゃないでしょう」
吉住 夢:
「その通り! 私はただ、客観的な事実を再確認しただけで――」
アリシア:
「ふぅん……だったら、ライバルの刑期を一日延長するのを提案するわ」
アレクシア/メイ/アニス:
「賛成」
吉住 夢:
「ちょっと!? 恋人持ちへの差別じゃない、それ!」
メイ:
「はぁ……
騒ぎすぎて、今日の出来事について話すのを忘れてましたね……」




