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第13話 過去の夢 ――アリシア

避難所の荒れた床に、風見 空の身体が横たわっていた。

少し前まで目から流れていた血は、すでに乾き、頬に黒い筋を残している。


場を支配していた沈黙。

それを破るように、ラエルがようやく一歩前に出た。


「……呼吸はしてる。ただ眠ってるだけみたいだ」


その言葉に、ほとんど聞こえないほどの安堵の息が、空間を巡った。

誰も、こんな若者が目の前で死ぬところなど見たくはなかった。


ゲーンは、まだ膝をついたまま、自分の両手から視線を外せずにいた。

ゆっくりと持ち上げる。

乱暴に動かせば、何年も彼を蝕んできたあの痛みが、また戻ってくる気がして。


……だが、何も起こらなかった。


久しぶりに、心が静かだった。

影のように付きまとっていた痛みが、確かに弱まっている。

自分の身体を、自分で支配している感覚が戻ってきていた。


いつの間にか隣に来ていたラエルが、しばらく無言で彼を見つめる。

さっきまで、死にかけていた友人。

それが今は――生きている。


「……どうだ? 調子は」


緊張を断ち切るように、ラエルが声をかけた。


ゲーンは顔を上げた。

その目は潤んでいたが、熱のせいではない。

初めて、トンネルの先に光が見えた気がした。


「……ああ」

かすれた声で、彼は答える。

「正直、理由は全然わからねぇ。でも……痛くないんだ」


首元に手を伸ばす。

何年ものあいだ、病んだ第二の心臓のように脈打っていた腫瘍。

まだそこにある。だが、焼けるような感覚はなく、ただの死んだ皮膚の塊のようだった。


考えるより先に、確信に近い衝動が彼を動かした。


――潰した。


「おいっ!? 何やってんだ、ゲーン!!」


ラエルの叫びが響く。

腫瘍が破裂する、湿って不快な音。

腐った果実が弾けるようだった。


全員が身構えた。

これまで何度も見てきた光景。

苦しみに耐えきれず、最後を迎える瞬間。


だが――何も起こらない。


鈍い痛みと、短い灼熱感。

それだけだった。


ゲーンは荒い息を吐き、視線を落とす。

流れ出ているのは、ただの赤い血。

濃く、普通の血液だ。


まるで、死刑宣告だったはずのそれが、ただの擦り傷に変わったかのように。


「……なあ、見てくれ」


震えながら、彼は言った。

かつてなら自殺同然だった行為のあとで。


「何も起きねぇ」


顔を上げる。


「空が俺の手を掴んだ時……一瞬、死んだと思った」

「生きたいって思ってた。嘘ついてたんだ。怖かった」

「でも、急に痛みが止まって……死ななきゃ得られないと思ってたくらい、静かになった」


床に倒れたままの風見 空を見る。


「また詐欺かと思った……俺が、間違ってた」


ラエルはすぐには答えなかった。

近づき、しゃがみ込み、友の肩に手を置く。

強く、確かめるように。


「疑ったことを、誰も責めないさ」

低い声で言う。

「疑いは、薬よりも俺たちを救ってきた。でも今日は……ほんの一瞬、それを手放した」

「それで、こうなった。……奇跡みたいなもんだ」


ゲーンが笑った。

喉に引っかかる、ざらついた笑い。

だがそこに、哀れみはなかった。


「……ああ。本当に、奇跡だな」


空気が変わる。

霜が陽に溶けるように、避難所の緊張が、ゆっくりとほどけていった。


一人、また一人と、人々が影から姿を現す。

言葉を発せない者。

一歩だけ踏み出す者。

それでも、ここ数年で一番の変化だった。


背中を丸め、傷と包帯だらけの女性が、震える声で呟く。


「……あの子は、私にも同じことをしてくれると思う?」


ゲーンは短く笑い、即答した。


「さあな。全然わからねぇ」

「でも……久しぶりに、確かめてみたいと思ってる」


その避難所で、希望が初めて息を吸う頃。

風見 空は、まだ自分だけの沈黙の中にいた。


身体は動かない。

だが、意識の奥で、記憶と夢が溶け合い始めていた。


【精神衛生維持プロセス進行中】


◇◇◇


――ソラ視点――


太陽が、制服姿の俺の顔を容赦なく照らしていた。

学校へ向かう道。正直、気持ちいいとは言えない。

でも、眠気覚ましにはちょうどいい。


「……あぁ、眠い……」


あくびが漏れる。


普段ならバスに乗る。

でもその朝は、少しおかしかった。

目覚ましが鳴る前に、自然と目が覚めたんだ。


――そんなの、惑星直列が起きるくらいありえない。


せっかく起きたんだし、歩いて行くか。

また寝落ちするよりはマシだろ。


通りは静かだった。

人影もまばら。

そんな中、耳に入った噂話。


「……変な女の子が、自販機と喧嘩してるらしい」


寄り道なんてしない方がいい。

そう思ったのに、好奇心が勝った。


で、見つけた。


金髪の少女が、自動販売機の前で革袋を振り回し、言葉を詰まらせている。


「な、なんで!? お金、いらないの!?」

「おねがい……飲み物、ちょうだい……」


必死そのものだった。


……マント?

何だこれ。大道芸? コスプレ?

それとも、どこかの秘境から来た人?


事情はともかく、困っているのは確かだ。


俺は、ため息をついて――声をかけることにした。


「……あの、失礼。自販機で困ってる?」


「えっ? な、何を言ってるの?」

少女は一瞬だけ目を泳がせ、すぐに無理やり笑顔を作った。

額には汗が浮かんでいる。今にも溶けそうだ。


「これは……そう、新しい使い方なの。この飲み物の箱の。だから心配しないで」


……完全に強がっている。

その妙なプライドの高さが、どこか夢を思い出させた。


少し考えてから、俺は逃げ道を用意してやることにした。


「ああ、なるほど。最近よく聞くよ。そういうの」


「でしょ? この区画、変な人が多くて……」


小声とはいえ、軽くディスられた気がする。


「区画……? 街のこと?」


そう聞くと、彼女の表情がさらに硬くなった。


「あ……うん、街。そう、街よ」

「外国から来たから、たまに変な言い方になるの」


その時、ようやく気づいた。

彼女、俺と同じ学校の制服を着ている。


ということは、同級生か、これからそうなるか。

留学生? そんな話は聞いていないけど、まだ知り合いでもない。深く突っ込むのはやめた。


俺は財布から硬貨を取り出し、自販機に入れる。

ボタンを押すと、ゴトン、と音を立てて一本落ちてきた。


「よかったらどうぞ」

「正直、この味あんまり好きじゃないし、喉もそんなに乾いてないから」


「親切なのね。でも遠慮するわ。私、自分のお金を持ってるもの」

そう言って、手をひらひら振る。

――もう行っていい、という仕草だ。


可愛い人ではある。

ただ……本気で、こういう基本的なことが分かっていないのでは、と不安になってきた。


俺はいったんその場を離れた。

……が、数分後、やっぱり気になって戻ってしまう。


ガコン、ガコン、ガコン。


自販機が嫌な音を立てている。

彼女はまた、サイズの合わない硬貨を押し込もうとしていた。


「やあ、奇遇だね」


できるだけ自然に声をかける。


彼女は一瞬で顔を赤くした。


「こ、これは……!」

「あなたが行った後で壊れたの。私は……修理してただけよ。そう、修理」

「だから、もう行っていいわ」


……無理がある。


多分、引っ越してきたばかりで。

知り合いもいなくて。

この国の仕組みも、何も分からないんだろう。


「ねえ、その硬貨、ひとつ見せてもらってもいい?」

「綺麗だから、ちゃんと見てみたくて」


「そんな手に引っかかると思ってるの?」

彼女は革袋を抱きしめた。泥棒から守るみたいに。


財布じゃなくて袋。

まあ、今さら驚くことでもない。


「本気だよ。騙す気はない」

「それに……もう一本、俺が飲み物を買う。その代わりに、見せてくれない?」


そう言って、もう一本取り出す。


「少しだけでいいから」


しばらく警戒していたが、やがて彼女は小さく息を吐いた。


「……分かったわ。そこまで言うなら、信じる」

「後で、ちゃんとお金は返すから」


彼女は硬貨を一本、瓶と交換するように渡してきた。


受け取って、じっと観察する。

銀色の硬貨。片面には盾、もう片面には王冠。

やけに精巧だ。


「これ……古い硬貨とか?」


「違うわ!」

「私の国の銀貨よ。純銀なの。美しいでしょう?」

「ここに、国の紋章があるの」


純銀?

もし本物なら、それなりの価値があるはずだ。

……全部これだったら、相当まずい。


「なるほど。確かに綺麗だ」

「でも……この国では使えない」


「えっ!? どうして!?」

「銀よ? 素材そのものに価値があるじゃない!」

「そんなのおかしいわ……!」


明らかに焦っている。


「大丈夫。たぶん、金や銀を現地通貨に替えてくれる場所がある」

「よければ、案内するよ」


「……どうして、そこまで親切に?」


「同じ学校の制服を着てるから」

「また会う可能性、高いでしょ」


彼女は俺をじっと見つめ――

何かを測るように、そして微笑んだ。


「なるほど」

「じゃあ……仕事を依頼してもいい?」


「仕事?」


「ええ」


「ここで?」


「今すぐ」


一瞬、言葉に詰まる。


「待って待って」

「普通、同級生を雇おうとはしないでしょ。名前も知らないのに」


「それもそうね」


彼女は素直に頷いた。


「私の名前は、アリシア・ルクス・オルビス」

「アリシアでいいわ。よろしく」


「風見 空。ソラって呼んで」


「じゃあ、ソラ」

「私のために働いてくれる?」

「護衛よ。将来、騎士に昇格させてあげてもいいわ」


「……考えておく」


そんなやり取りをしながら、俺たちは並んで歩いた。

彼女は時々、仕事の“利点”を熱心に語った。


誇り高い話し方。

でも、不思議と嫌じゃなかった。


――ただ、時間を忘れていた。


結果、学校には遅刻。

アリシアは初日だから許されたけど、俺は――


また、しっかり叱られた。

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