第12話 モジュレーション
避難所の静寂が破られた。
ソラが来てからというもの、口論は絶えなかった。まだ声を出す力が残っている者たちが、次々に声を荒げる。
「賭けてみるしかないだろ」
誰かが言った。
「どうせ、もう失うものなんてない」
「“賭け”の問題じゃない」
別の声が返す。
「前に俺たちを騙した連中が、地獄で笑う材料を与えないためだ」
「俺がやる」
ラエルが続けた。
「どうせこの疫病で死ぬ。治る可能性があるなら、もう一度くらい試しても同じだ」
治療の可能性を語るソラは、誰かを無理やり従わせるような人間には見えなかった。
だが、見た目だけで判断するのは危険だ。
ソラは一歩身を引き、避難所の奥の隅に腰を下ろした。沈黙を保ち、ただ見守る。少なくとも、議論に割って入ることはしなかった。
偽りの希望を憎むことを覚えたゲーンは、もう堪えきれなかった。
影の中から睨みつけ、胸の奥で怒りが膨れ上がる。
重い体を引きずるように立ち上がる。汚れた包帯に覆われた身体、その下からは桃色の斑点と腫瘍が覗いていた。
「……また、これか?」
掠れた声で怒鳴る。
「お前までか、ラエル」
ラエルは黙ったままだった。
見知らぬ相手を信じることは、長年の友であるゲーンを裏切るに等しい。
「どうしたんだ、お前ら」
ゲーンは集団を見回し、言葉を重ねる。
「助けるって言って現れた連中を、もう忘れたのか? 約束だけして、二度と戻らなかった奴らを」
そして、ソラの方を指差した。
「あのガキは、いい顔をしてる。清潔で、俺たちをゴミみたいに見ないかもしれない。……だから何だ。真実を言ってる証拠にはならない」
出口へ向かって歩き出す。
一歩ごとに痛みが走るが、止まらない。
「で、次は何だ?」
「ポケットから治療薬でも取り出すのか?」
「それで、めでたしめでたしか?」
「ゲーン……」
ラエルが小さく呼ぶ。
「もう、やめろ」
「黙れ!」
ゲーンは怒りを爆発させた。
「指図されるのはもううんざりだ! この体が腐っていくのを、座って待つのもな!」
「何度も何度も騙されるのを、もう見たくない!」
「お前ら、まだ分からないのか!」
蔑むような視線をラエルに突き刺す。
「お前は行くな。俺が行く」
「俺が死んだら、その責任はお前が取れ」
返事を待たず、ゲーンは避難所を出ていった。
ふらつき、荒い呼吸をしながらも、声だけは最後まで強かった。
◇◇◇
――ソラ視点――
他人の会話を盗み聞きするのは、昔から得意じゃない。
まして、あれほど苦しんできた人たちの言葉なら、なおさらだ。
皆が言い争う中、俺は距離を保つことにした。
ふと空を仰ぐ。
薄く溶けたような桃色――奇妙で……どこか美しい。
もちろん、口に出すことはない。この“美しさ”のせいで、すべてを失った人たちの前では。
ため息をつく。
その瞬間、何事もなかったかのように、“友人”が戻ってきた。
あっさり俺を見捨てた、あの友人だ。
「やあ、元気? 相棒」
チェスターが甲高く鳴き、俺のそばに身を寄せる。
疲れた笑みが漏れた。
別れてから、そう時間は経っていない。それでも、再会できて素直に嬉しい。
抱き上げようとして、ふと迷う。
――汚染されたネズミを撫でるのは、普通なのか?
……いや、今さらだ。もっと異常なことが、山ほどある。
「普通の人間なら、居心地悪いよな……」
小さく呟く。
無視できない現実に、胸の奥で苛立ちが膨らむ。
この世界に来てから、俺は食べてもいない。飲んでもいない。眠ってもいない。
それなのに、体は何事もないかのように動いている。
以前と同じ意味での“人間”じゃない。
その考えが、どうしても好きになれなかった。
でも、避けられない。
ここは、そういう世界だ。
チェスターが強く鳴き、感傷に浸るなとでも言うように、容赦なく噛みついてきた。
「いてっ! 落ち着けよ!」
「考え事してただけだろ……そんな凶暴になるなって」
――こいつが、この世界での俺の親友。
たぶん、正しい。変えられないことを、考えすぎても仕方ない。
……味が良かったから噛んだんじゃないと、信じたいけど。
「……別のこと考えるか」
思考は、自然と過去へ向かった。
「父さん……どうしてるかな」
出張から、もう戻っている頃だろうか。
母の命日、家族が集まったあの日。
遠い親戚まで来てくれた。
そこに父がいなかったことが、胸に引っかかる。
理由の分からない、鈍い痛み。
それ以上考える前に、意識を切り替えた。
「やれ!」
ゲーンの声が、唐突に記憶を引き裂く。
「信じさせたいなら、この腐った体を直せ!」
「今すぐだ、クソ野郎!」
「なあ、チェスター……また噛む気か?」
無意識に呟く。
首元で、ネズミがわずかに口を開けていた。獲物にとどめを刺す直前の捕食者みたいに。
不安げな鳴き声を無視し、俺は目の前の男に意識を集中させる。
ゲーンは、足を引きずりながら近づいてくる。
無理やり体を前に進めているのが分かる。
俺は顔を上げ、静かに息を吐いた。
「……本当に、いいのか」
低く問いかける。
「何も、証明する必要はない」
「まだ誤魔化す気か?」
ゲーンが吐き捨てる。
「じゃあ、始めよう」
立ち上がり、ゆっくりと近づく。
両手を、慎重に上げる。
反射的に、ゲーンが一歩下がった。
「おい……何をする」
唸るように言う。
「薬は? 治療薬は出さないのか」
一瞬だけ、迷う。
「……いらない」
「触れればいい。手を取るだけで」
自分でも、奇妙だと思う。
皆が期待しているのは、ワクチンや錠剤、目に見える“治療”だ。
これは、まるで儀式だ。
パンデミックを、呪術で止めようとするみたいな。
ゲーンが乾いた笑いを漏らす。
「はっ。隠す気もないってわけか」
背後で、ざわめきが広がる。
正直、俺自身も居心地が悪かった。
本物の医療で助けられるなら、そうしたかった。
でも、これしかない。
受け入れるしかない。
俺は手を伸ばし、ゲーンの病んだ腕に触れた。
***
【サポートシステム】
病原体解析中……
・宿主:『ゲーン』
・推定年齢:55
・状態:Rウイルス感染・末期段階
解析結果:
・重度の細胞変性
・ウイルス由来の炎症性腫瘍を複数確認
※いずれかが破裂した場合、感染プロトコル最終段階へ移行
・不可逆的多臓器不全の高リスク
……
サンプルを採取しますか?
***
わずかな震えが、指先を走った。
「……この世界の人間は、本当に興味深いな」
思わず、呟く。
「どうした、小僧」
ゲーンが嘲る。
「怖気づいたか?」
「いいや」
俺は平静に答える。
「問題ない。続ける」
このウイルスは自然の産物じゃない。
人間用に作られ、そして失敗した。
ネズミの方が、適応が早かった。
チェスターが証明だ。初期適応は不完全だったが、少し調整するだけで理想形に到達した。
人間は違う。
宿主を強化せずにウイルスだけを排除すれば、それは治療じゃない。死刑宣告だ。
感染者は、このウイルスによって生き延びている。
俺はゲーンの両手を取った。
治療を開始する。
ネズミ一匹で丸一日かかった。
人間なら――どれほどかかる?
だから、加速させる。
そして、それは起きた。
感染者の体内で、激しい反応が発生した。
ゲーンの体に浮かんでいた腫瘍のいくつかが、湿った不快な音を立てて破裂する。
「な、何をしやがった……!?」
ゲーンが叫ぶ。
桃色の液体が一気に噴き出し、即座に蒸発した。
濃密な霧となって空気中に拡散し、ウイルス濃度が急激に跳ね上がる。
「……安定する。少しだけ、時間をくれ」
ソラは、必死に冷静さを保とうとする声で言った。
連鎖反応は、内側からゲーンの肉体を食い尽くそうとしていた。
臓器が次々と機能不全を起こし、血圧は低下し、皮膚から血の気が失われていく。
***
【獲得された菌株】
【状態:攻撃性レベル・極限】
【警告:多臓器系が崩壊寸前】
***
ソラは警告を無視し、必死にゲーンの体内に存在する特異な菌株を解析していた。
ウイルスは、おそらく改変されることを拒むかのように、宿主を生かす必要がないと判断したのだ。
求めているのは拡散。
生命そのものを燃料にして、増殖することだけ。
――それが、最終段階。
やがて肉体は徐々に縮退し、感染者は桃色の肉塊と化す。
そして粉になるまで、ウイルスを撒き散らし続ける。
(……本当に、美しいパターンだ)
ゲーンは、激痛に沈み込み、その呟きを聞くことはなかった。
【警告:宿主はまもなく死亡します。介入を推奨――】
「そいつから離れろ!」
背後で、ゲーンの仲間の一人が叫ぶ。
ソラは無視した。
ゲーンが絶叫する。
苦痛に体を折り曲げる。それは肉体だけの問題じゃない。
死を恐れないと何度も口にしてきた――だが、いざ目前に迫ると、恐怖は抑えられなかった。
膝から崩れ落ち、血を吐く。
喘ぐが、空気が肺に入らない。
「やめろ! そいつを傷つけてる!」
ラエルが駆け寄り、ソラの手に触れた。
一瞬、ソラが視線を上げる。
何も言わない。
ラエルは全身を強張らせ……まるで大切な何かを思い出したかのように、手を引っ込めた。
理由も分からぬまま、一歩後ずさる。
開始から、まだ数秒しか経っていない。
だが、ソラは悟った。
――これ以上、気を逸らすわけにはいかない。
「……もう、いい」
低く囁く。
体内で、病原核に捕獲されたウイルスが隔離され、分解されていく。
構造を理解し、それを“自分の一部”として取り込む。
だからこそ、命令できた。
――止まれ。
ゲーンの劣化は止まった。
損傷は残ったが、感染の進行は完全に停止した。
「な……何だ、今の……」
ゲーンは荒く息をしながら呟く。体は震えているが、痛みは増していない。
「もう少しだ」
ソラは静かに答えた。
ゲーンは困惑したまま彼を見つめた。
本能が叫んでいる。
――あの、落ち着いた目をした少年は、自分たちと同じ人間じゃない。
あるいは、人間だとしても、遥か上の存在だ。
ウイルスはまだソラの体内を巡っている。
だが【適応疫病】の能力が、それを即座に改変し、制御可能な形へと調整していた。
同時に、ゲーンの体内に残るウイルスへ、沈黙の命令を送り続ける。
***
【ウイルス配列および封じ込めを開始……】
【適応疫病 進行中……】
***
本能的にできることは多い。
だが、これは別次元だった。
ここまで複雑な運用は、精神に凄まじい負荷をかける。
それでも一瞬、彼はその過程の“美”を見届けた。
そして、そのウイルスの“正の形”を創り上げる。
体が悲鳴を上げる。
両眼から血が溢れ出した。
限界を越えていた。
ウイルスの封印、自己再生、構造の再書き換え、さらにゲーンを崩壊死から守る制御。
【生体耐性】でさえ、すべてを補いきれない。
それでも、止まらなかった。
どう見られるかなど、どうでもいい。
血を流すことに意味はない。
――終わらせる。それだけだ。
「……俺、死なないのか?」
ゲーンが困惑した声を出し、そして凍りついた。
「おい……血の涙……? まさか……命を、分けてるのか?」
歯を食いしばる。
胸に浮かんだ感情が、罪悪感なのか、それとも羞恥に近い何かなのか、自分でも分からなかった。
ソラは答えなかった。
***
【適応疫病:完了】
【新規ウイルスプロトコル取得:宿主への受動的モジュレーション】
【再挿入:正常完了】
【次回以降、そこまで無理をする必要はありません……】
***
「……終わった」
ソラが呟く。
「これで、全部だ」
沈黙。
視界が歪む。
流れ続ける血が鬱陶しく、頭痛は頭蓋を砕かれるようだった。
――休みたい。ただ、それだけ。
***
【警告:精神負荷が限界値に到達。冷却プロトコルを起動】
***
すぐに理解した。
悪いものじゃない。
身を委ねて、休めばいい。
「おい! 坊主!」
ゲーンが叫び、ソラを揺さぶる。
「死ぬな! 大丈夫か!? 答えろ!」
ソラは、かろうじて顔を上げた。
「落ち着け……」
掠れた声。
「心配するな。ただ、少し……出血してるだけだ」
「大人が、そんなに取り乱すのは珍しいな……」
唇すら、思うように動かない。
体が震える。
【意識機能:一時停止】
「大丈夫……」
「少し……眠るだけ……」
前のめりに倒れながら、最後に思った。
――最高だ。
――また、意識を失うのか。
――いいことをしたはずなのに。誇らしいはずなのに……
――どうしてだ?
――致死的なウイルスを“役に立つもの”に変えることが、こんなにも不快なのは……。
その思考を最後に、すべてが闇に沈んだ。
【内部プロセス:メンテナンス進行中…… 推定時間:60分】
【メンタルフラグメント】
ユメ(オレンジ):
「ソラ!! いつもこうなるじゃない……! もし今回は、目を覚まさなかったら……?」
アニス(ブラウン):
「誰か、ケーキいる?」
メイ(ホワイト):
「……どこでケーキを見つけたの?」
アニス(ブラウン):
「アレクシアが紅茶を出してきたのと、同じ場所よ」
アレクシア(ブラック):
「はい、メイ。カップどうぞ。ユメも飲みなさい。少しは落ち着くわ」
ユメ(オレンジ):
「なんでそんなに平然としていられるの!?」
「ソラ、今まさに倒れたばかりなんだよ!?」
アレクシア(ブラック):
「まあ……そうね。でも数話前で、彼、一度分解されたでしょう?」
「文字通り。で、何事もなかったみたいに元に戻った」
アリシア(イエロー):
「そうそう。だから今回は、むしろ……可愛い部類よ」
ユメ(オレンジ):
「ひどい!! 無神経!! 化け物!!」
「だから彼氏できないんだよ!!」
アニス(ブラウン):
「まあまあ。まずは紅茶を飲み終わってからにしましょ」
「自分たちの生存競争を始めるのは、その後でも遅くないわ」




