第11話 向こう側から
POV:ラエル
俺はうつむいた。
もう、できることなんてほとんど残っていない。ただもう一日耐えること。最低限の呼吸をして、二度と戻らないものを考えないようにすること。
時々、別の物語を想像してしまう。
息子がきちんと治療を受けられた世界。
妻が、あの白い服のクソ野郎どもに引きずられていかなかった世界。
そして――俺が死んで、あいつらが生き残った世界。
だが、それはただの幻想だ。
そして、この場所で幻想は、人を救うどころか、さらに深く引き裂くだけだった。
沈黙が重くのしかかる。
生き残っているのが何人いるのか、もう分からない。
昔は二十人……いや、二十四人いたか。
今は……六人? 五人?
俺を含めて?
日によっては、自分が生きているのかどうかすら曖昧だった。
「……おい、ラエル」
隅のほうから、しゃがれた声が聞こえた。
「まだ生きてるか?」
「たぶんな」
顔を上げずに答える。
「少し、昔のことを思い出してただけだ。ゲーン」
「自分を痛めつけるな……過去とか、綺麗な街とか。
俺たちにはもう届かないもんだ」
――綺麗な街。
そこでは人は恐怖もなく呼吸できる。
一方で俺たちは、回収されなかったゴミだ。
いつか受け入れてもらえるなんて信じていたのが、そもそも間違いだった。
俺たちの“住処”は、ほとんどゴミ捨て場だった。
入口には、仲間だった連中の死体が積み上がっている。
服は、かつて“桃色の疫病”に対抗できると信じられていた包帯で覆われている。
だが、希望と同じように、それらも時間と共に腐っていった。
疫病は肉体だけじゃない。
俺たちが縋っていたものすべてを、少しずつ蝕んでいった。
だから、裸の人間を見ることも珍しくなかった。
食い物も同じだ。
昔ほど空腹は感じなくなったが、それでも何かを口に入れなきゃならない。
ネズミを食った。
不快な桃色をしたそれは、焼けたゴミと腐った肉の味がした。
必要なら素手で捕まえた。
料理なんて贅沢は、もう存在しない。
食っても病気にはならなかった。
……あるいは、もうどうでもいいほど、俺たちは壊れていたのかもしれない。
一人、また一人と、諦めていった。
責める気にはなれない。
ここでは誰もが、かつての自分の残骸にすぎない。
時間が経つにつれ、俺たちはただ腐っていった。
身体中に、桃色の斑点と瘤が浮かんでいる。
俺も例外じゃない。
小さくて気にならないものもある。
だが、違うやつもある。
痛くて、脆くて、無視できないやつだ。
昼も夜も脈打つ。
まるで第二の心臓みたいに。
――まだ生きていると、半分だけ思い出させるために。
その瘤を、思いきり一度だけ握り潰せば……
すべて終わる。
永遠の安らぎ。
痛みもない。
寒さもない。
空っぽの顔を見る必要もない。
「……痛いと思うか?」
奥のほうから、動かずに誰かが呟いた。
「分からん」
俺は答えた。
「だが、今さら誰が気にする?」
「黙れ」
ゲーンが唸る。
「やる度胸があるならやれ。
このクソみたいな世界を捨てても、誰も責めねえ」
乱暴だが、嘘じゃない。
ここで残された唯一の選択は、いつ死ぬかだけだった。
それでも結局、誰もやらなかった。
去る勇気を持つ奴はいなかった。
俺は目を閉じた。
一瞬、彼女のことを思い出してしまった。
俺が不機嫌な時、息子を抱きしめれば治るって、よく言ってた。
当時は気にも留めなかったが……いつも通り、あいつは正しかった。
「パパ」
そう呼んで、小さな腕で抱きついてくる。
まるで一生離さないみたいに。
ありふれた光景だった。
今では、この汚れた手では二度と届かない。
歯を食いしばる。
考えるな。
意味がない。
ただ、また少し裂けるだけだ。
――その時、足音が聞こえた。
俺たちのものじゃない。
生き残りは全員、ここにいるはずだった。
入口に近づいてくる。
“扉”と呼んでいるが、半分ぶら下がった鉄板に過ぎない。
「……何だ、あいつ」
近くの誰かが囁いた。
狂人か。
あるいは最悪――浄化部隊。
もっとも、あいつらは扉なんて叩かない。
入ってきて、すべてを消すだけだ。
身構える者もいれば、無反応な者もいた。
どうせ終わりなら、さっさと来ればいい。
人影は入口の前で止まった。
すぐには何も言わない。
ただ、俺たちを見ていた。
一瞬、頭がおかしいのかと思った。
壊れすぎて、声をかける価値もないものを見る目だった。
だが――
なぜか、違うと感じた。
薄暗い中でも、その存在からは不釣り合いな温かさが滲んでいた。
まるで、俺たちを“ただの残骸”として見ていないみたいに。
あまりに異質で、馬鹿げていて、気味が悪い感覚だった。
その人物は身を正し、表情を整え、そして口を開いた。
「……すみません。
邪魔をするつもりはありません。
ただ……助けたいんです」
沈黙が落ちた。
その言葉は、古い火薬の上に落ちた火花みたいに宙に浮かぶ。
「芝居はいらねえ」
誰かが顔も上げずに唸った。
「殺すなら、さっさとやれ」
「チッ……落ち着け」
ゲーンが舌打ちする。
「浄化部隊なら、喋ってねえ。
もう全員、掃除されてる」
苛立たしげに続ける。
「それに、最近じゃ珍しいくらい若いな。
どうせ怯えたガキだろ」
彼は苦労して立ち上がった。
骨が枯れ枝みたいに軋む音を立て、入口へ数歩進む。
しばらく、何も言わずに相手を見つめた。
「……クソが」
表情が歪む。
「何しに来た?」
今度は、露骨な憎しみを込めて吐き捨てた。
「俺たちが馬鹿だと思ってんのか?
言うこと聞くとでも?
消えろ。顔面叩き潰される前にな」
「ま、待ってください。
もしチャンスをもらえれば、僕は――」
少年は早口で言いかけた。
ゲーンは遮った。
「で、何だ?」
怒鳴る。
「薬でも持ってきたか?
奇跡の治療法か?
それとも“救世主”様か?
ふざけるな!
お前も、今まで来た連中も、まとめて地獄に落ちろ!」
少年――後に名乗った名は、風見空だ。
だが、その時はまだ知らない。
彼は一歩も引かなかった。
弁解もしない。
ただ、そこに立って、黙って聞いていた。
それが、さらにゲーンを逆上させた。
「妹がな!
お前みたいな奴を信じて、最後にゴミみたいに捨てられるのを見る気持ちが分かるか!?」
声は、今にも砕けそうだった。
「希望を語る、身なりのいいクソ野郎を信じて、人が死んでいくのを見たことがあるか!?
なあ、ガキ!!」
歯を食いしばる。
「今度は何だ?
綺麗事と、空っぽの注射器を持った別のクズか?」
それでも、少年は崩れなかった。
「見知らぬ相手を疑うのは当然です」
場違いなほど落ち着いた声で言う。
「ですが、証明できます。
僕はただ――」
「黙れ!」
ゲーンが乱暴に手を振った。
「何を証明する!?
咳もせずに息してることか!?
その綺麗なツラが無事なことか!?
もう十分だ!
偽りの希望を売りつけられて、前より酷くなった!
俺たちは実験用のネズミだったんだ!」
空は微動だにしなかった。
その落ち着きは、この場所にはあまりにも不釣り合いで、逆に滑稽にすら見えた。
「触ってもいいですよ」
感情を乱すことなく、彼は付け加える。
「隠しているものは何もありません」
「殴り飛ばすって意味なら、そっちの方が助けになるがな!」
ゲーンが拳を握りしめ、今にも飛びかかりそうに唸った。
俺は深く息を吸い、一歩前に出て間に入った。
「……もういい、ゲーン」
力を絞り出すように呟く。
「少しだけ、話をさせろ」
怒りに満ちた視線を向けられたが、彼は何も言わなかった。
もう力が残っていないことを、本人も分かっていたのかもしれない。
俺に使うほどの価値も、ないと。
正直に言えば、俺たちの集団は比較的おとなしい方だった。
他の場所じゃ、来訪者を本物のゴミみたいに扱う連中もいる。
俺は視線を少年へ戻した。
「いいか、ガキ……」
荒れた声で言い放つ。
「ここは俺たちの場所だ。入るなら、俺たちのルールに従え。
ついでに、くだらねえ戯言は控えろ」
その時、初めて彼をちゃんと見た。
――そして、ゲーンがあれほど怒った理由が分かった。
俺たちみたいな顔を想像していた。
腫瘍に覆われ、歪み、瘡蓋や傷跡だらけの、見慣れた不幸の形を。
だが、違った。
肌は、綺麗だった。
服も――
状態が良すぎる。
この場所には不釣り合いなほど。
垂れ下がってもいないし、硬くもない。
桃色の疫病に食い荒らされた痕跡もない。
一瞬、こいつはもう壊れたこの世界の住人じゃないんじゃないか、
そんな馬鹿げた錯覚すら覚えた。
そしてそれは、安心よりも先に、嫌悪を呼んだ。
「風見 空です」
静かに名乗る。
「空と呼んでください。ここにいる皆さんも同じで構いません」
彼は俺に向かって手を差し出した。
その仕草が、無性に癇に障った。
ゲーンほど衝動的じゃない俺でも、殴りたい衝動を抑えるのに苦労した。
「今まで、何人が俺たちを騙そうとしたと思ってる?」
吐き捨てる。
「これ以上、偽物の相手をする余裕はない。
居座るつもりなら、ルールを守れ……それと、ゲーンに寝首を掻かれないよう、倍働け」
「さっきも言いましたが」
彼は少しも動じない。
「触っても構いません。仮面も化粧もしていません。
ご自分で確かめてください」
普通なら、もうとっくに追い返している。
ただの口達者な詐欺師だ。
だが、何かが違った。
彼の目には、侮蔑がなかった。
あの、嫌悪よりも痛む偽りの同情も。
鼻を押さえながら診察する医者とも、
害虫を見る目をした浄化部隊とも、違った。
避難所の奥から、声が上がる。
「クソくらえ。また詐欺師か」
「安っぽい嘘は聞き飽きた」
「今度こそ治るって、何回言われたと思ってる」
仲間たちは、彼を追い出したがっていた。
俺も、別の状況なら同調していただろう。
「僕は一度も病気になったことがありません」
空は、はっきりとした声で一言一言を刻む。
「人生で、一度もです。
でも、病に近い場所で生きることは知っています。
裏はありません。利用するつもりもない。
信じられないなら……調べてください」
俺たちを、まだ“人間”として見ていた。
「その善人面で、信じてもらえると思ってるのか?」
俺は、ほとんど軽蔑を込めて言った。
「分かりません」
視線を逸らさず、正直に答える。
「でも、試すことはできます」
なぜか分からないまま、俺は近づいた。
無言で彼を見つめ、そして乱暴に触れた。
顎、頬骨、額。
罠を探すために。
偽の瘡蓋。
化粧。
何かしらの細工。
だが――なかった。
本物の皮膚だった。
温かく、生きている、人間の皮膚。
手を下ろしたとき、指が服の布に触れた。
それもまた、温かい。
一瞬、眉をひそめたが、確かめるのをやめなかった。
二度。三度。
それでも、何も出てこない。
「……何もない」
ほとんど聞こえない声で、呟いた。
「騙されたのは、これが初めてじゃねえ」
背後で、ゲーンが言う。
怒りよりも、疲労が勝った声だった。
「それで、次はどうなる? 覚えてるだろ……」
「いや」
俺は少年から目を離さずに答えた。
「これは……違う」
触れた瞬間から、胸の奥で何かが目を覚ましていた。
柔らかい声。
本能みたいな囁き。
――信じろ。近づけ。俺の言うことを聞け。
信じたくなかった。
信じるべきじゃない。
それでも、信じたいと思ってしまった。
それが一番、最悪だった。
長い間、消えていた火種に、
小さな火花が落ちたみたいだった。
俺は、最後にもう一度だけ彼を見た。
ただ、そこに立っている。
俺たちの惨状の中で。
恐れも、嫌悪もなく。
その落ち着き――
その、忌々しいほどの落ち着きが……どうしても憎めなかった。
そして、不意に、
ずっと軽蔑してきた言葉を思い出した。
――「選ばれし者は病に倒れない。血を流さない。震えない。腐らない。神に愛されているからだ」
ずっと、戯言だと思っていた。
言い訳だと。
生きる価値のある者と、そうでない者を分けるための言葉だと。
だが今、
瓦礫の中で、あまりにも無傷な彼を見て。
まだ誰かを想う目をした彼を見て。
それを完全に否定することが、できなかった。
信じたわけじゃない。
まだ、そこまではいかない。
ただ……
なぜか、信じたくないとは思わなくなっていた。
そしてそれが、
本当に久しぶりに――悪くないと思えた。




