第10話 生命の痕跡
この世界で死に、そして再び目を覚ましてから、すでに数日が経っていた。
最初のうちは食料や水のことを気にしていたが、ほどなくして奇妙な事実に気づいた。空腹にもならず、疲労も感じない。能力のおかげなのか、眠る必要すらなくなっているような感覚さえあった。
それでも一日に数時間は横になるようにしていた。体は求めていなくても、心のほうがそれを必要としていたからだ。
「見てくれ、チェスター。またネズミだ」
瓦礫を素手でどかしながら、風見 空はそう声をかけた。
肩に乗った小さな毛玉が、じっとその様子を眺めている。ネズミたちは、人間よりもはるかにこの世界に適応しているようだった。どんな環境でも、生き延びる術を見つけ出している。
「一匹……また一匹……」
数えるように小声でつぶやく。その単純な行為が、なぜか心を落ち着かせてくれた。
ふと足を止め、空はチェスターを見つめた。そして少し気恥ずかしそうに尋ねる。
「なあ……お前は、家族が恋しくなったりしないのか?」
チェスターは小さな輝く瞳でちらりと彼を見ただけで、何事もなかったかのように体を掻き始めた。
「……そっか。ずいぶんドライだな」
空は神経質な笑いを漏らした。
「まあ、元気そうならいいや」
そう言って、彼はある決断をした。
チェスターから採取した〈薔薇色の疫病〉のサンプルを解析し、丸一日かけて改良型を作り上げたのだ。処理中も移動は可能だったが、頭に絶え間ない負荷がかかっていた。決して心地よいものではない。だが、必要なことだと信じていた。
それが〈サポートシステム〉という名のハードウェアなのだから。
「ほら、チェスター。プレゼントだ」
彼はネズミの小さな体にそっと手を置いた。
眩い光も、仰々しい演出もない。ただ、新たな〈Rウイルス〉の変異体が、静かにチェスターへと流れ込んでいった。
***
[サポートシステム
病原体スキャン……進行中
対象個体:チェスター
解析結果:
・改変されたRウイルスに感染した哺乳類
・推定寿命:20年
・完全適応
・環境分解に対する極めて高い耐性
・中濃度のRウイルス環境下では栄養摂取不要
・使用者への脅威レベル:存在しない
]
***
見た目は何一つ変わらない。
だが、寿命は劇的に延びていた。もともとは一年も生きられないと見積もっていた命が、二十年だ。
空は満足そうに微笑んだ。
それでも――心のどこかで、まだ足りないと感じていた。
「……もう一歩、踏み込んでみるか?」
再び手を伸ばしかけた、その瞬間。
これまで“処置”してきた他の動物たちの光景が、脳裏をかすめた。
次の瞬間、チェスターが激しく鳴き、身をよじり、空の指に噛みついた。
「いった! わかった、わかった……噛むことないだろ」
空は諦めたように手を振った。
今回は〈サポートシステム〉を使わず、自分自身の感覚だけで改変しようとしたのだ。
システムの導きではなく、自分から生まれる、より“個人的”な結果を求めて。
――だが、それは不可能だった。
少なくとも、チェスターはそれを望んでいなかった。
小さく息を吐き、空はその考えを手放した。
二人は目的もなく、再び街を歩き始める。廃墟は果てしない迷宮のように広がっていた。チェスターは彼の傍らを軽やかに駆けていく。
明確な目的はない。
それでも空は、歩みを進めるたびに、何かへと近づいている感覚を覚えていた。
最近になって、一つの考えが頭の中で形を成し始めていた。
この感染した世界の中で、生きている人間を探し出す、新しい方法。
当面は〈サポートシステム〉の使用を最小限に抑えるつもりだった。
〈エクス・マキナ〉はそれを「補助輪」と表現していた。最初のうちだけ必要なものだと。
だが、状況次第では迷わず使うだろう。特に、新たなウイルス変異の生成や、あまりに複雑な問題に直面したときには。
街は、思いのほか原形を保っていた。
――放置された死体、積み重なるゴミ、至るところに残る暴力の痕跡を無視すれば、の話だが。
時間に焼けた黒い壁に、埃をかぶったカレンダーを見つけた。
そこには「2030年」と記されていた。
「……俺の世界と、そんなに離れてないな」
それが製造年を示しているに過ぎないことは理解している。
それでも、大まかな目安にはなった。すべてが崩壊してから、どれほどの年月が経ったのかは分からない。だが、あまり長くないことを願わずにはいられなかった。
さらに進むと、別の壁が目に入った。
薔薇色の菌糸が半ば覆い尽くし、脈打つように蠢いている。その下に、誰かが必死の想いを込めて書き残した文字があった。
「俺たちは怪物じゃない」
だが、その言葉は黒く塗り潰されていた。
まるで、その最後の願いさえ否定するかのように。
***
[サポートシステム
病原体スキャン……進行中
解析結果:
・Rウイルスにほぼ完全適応した菌類
・摂取されずとも感染胞子を放出可能
・非感染環境では急速に死滅
・Rウイルスの極端な高濃度のみが有効な損傷要因
サンプルを回収しますか?
]
***
汚染されたこの世界ですら、菌類は生き残る道を見つけていた。
だが、塗り潰された文字を見つめながら、空は心の中で問いかけずにはいられなかった。
――本当に、たどり着けるのだろうか。
菌のことではない。
人間のことだ。今なおここで耐え、生き延びている者たち。長い闇の中で、彼らの精神はどんな状態になっているのだろう。
〈ウイルス親和〉を使えば、彼らを落ち着かせられるかもしれない。
だが、神から与えられた力に依存するつもりはなかった。
贈り物には、必ず代償が伴う。
「……できれば、使いすぎたくはないんだが」
そう呟いた瞬間、胸をかすかな圧迫感がよぎった。あまりに一瞬で、無視できるほどのものだった。
空は視線を落とし、チェスターを見た。
「なあ。お前は、俺が使ったとき、どう感じた?」
チェスターは短く鳴き、首を傾げるだけだった。質問の意味が分からない、と言わんばかりに。
「だよな……深い話には向いてないか」
空は疲れたように笑った。
それでも、チェスターの存在は十分だった。
彼がそばにいるだけで、この世界の沈黙は、少しだけ軽くなる。
さらに歩みを進めた先で、かつて集落だったと思われる場所の跡に行き当たった。
そこには、確かに“共同体”の痕跡が残っていた。
汚れた衣服、即席の金属製の食器、腐った木で作られた玩具の残骸……。
そして、当然のように――遺体も。
もはや、それに驚くことはなかった。
そこにあったものは、すべてが「死んでいる」と呼べる状態ではなかった。
ここ数日で、空はウイルスの仕組みをより深く理解し始めていた。
肉体は即座に崩壊するわけではない。最初に遭遇した、あの濃密な薔薇色の霧――固体構造さえ分解するほどの異常な環境でもない限り、すべてが一瞬で消えることはなかった。
生物の場合、生命活動を失ったあとでさえ、身体はしばらくの間“機能”し続ける。
ウイルスを生成し、拡散し、やがて完全に薔薇色の粉へと分解されるまで。
脳――そしてウイルスにとって不要な部位は停止するか、あるいは喰われる。
それでも、残骸からは微弱な“生”の信号が発せられていた。
ほとんど感じ取れないほど弱いものもあれば、わずかに強いものもある。
今の空は、それらの違いを〈サポートシステム〉なしで判別できるようになっていた。
彼は一つの身体の前にしゃがみ込む。
「……これは、かなり時間が経ってるな」
表面は薄い薔薇色の粉に覆われていた。触れると、粉は容易く剥がれ落ちるが、内部構造はまだ保たれている。
それは、ただの死体ではなかった。
“有用な身体”。
機能する容器。
生きてはいない。
だが、完全に死んでもいない。
ただ、ウイルスにとって都合のいい存在であるだけだ。
空が用いていた新しい探索方法は単純だった。
これらの“身体”が残す痕跡を辿ること。
分解が進んでいないもの。
より強い信号を発するもの。
それらを追っていけば、やがて本物の人間の生が残る場所へと辿り着くはずだった。
そして――一日以上の探索の末、ついにそれを感じ取った。
これまでとは明らかに異なる信号。
残骸とは違う。より強く、より明瞭だ。
――ほぼ間違いない。
それは、本物の人間の生。
少なくとも、その可能性が最も高い。
「……やっと、見つけた」
空はそう呟くと、ためらうことなくその方向へ歩き出した。
チェスターも、すぐにその横に並ぶ。
数歩進んだところで、脚に軽い引っかかりを感じた。
ズボンが何かに引っ張られたような感覚。無理に動かした瞬間、鋭い痛みが走る。
足を止め、視線を落とした。
布地が貫かれ、小さな暗赤色の染みができている。
だが、脚そのものに傷はなかった。
仮にあったとしても、〈生体回復力〉が即座に塞いでいたはずだ。
それでも、さらに力を入れて引き抜こうとすると、再び刺すような感覚が走った。
「……妙だな」
だが、痛みはすでに消えていた。
大したことではないと判断し、空はそれ以上考えずに歩みを再開した。
空気は依然としてウイルス粒子で満ちている。
薔薇色の霧はもはや漂っていないが、ウイルスそのものは環境中に留まり続けていた。
本来なら、もっと外側――汚染の薄い場所に人間がいると考えていた。
だが、もうどうでもよかった。
今の彼は、ようやく“死体以外”へと向かっているのだから。
数分後、半ば崩落したトンネルへと辿り着いた。
天井はところどころで崩れ落ち、歪んだ瓦礫の間に、かろうじて人が通れる細い通路が残されている。
進むにつれて、空気は重くなっていった。
赤の区域ほどの濃度ではない。
それでも、ここに来てから踏み入れたどの場所よりも、明らかに濃い。
――そして、死体。
多くが寄り添うように集まっていた。最後の瞬間、温もりや誰かの存在を求めたかのように。
あるものは、腕を伸ばしたまま倒れている。何かから逃れようとした――決して逃げ切れない何かから。
「……ここは、一体……?」
呟きは、トンネルの闇に吸い込まれて消えた。
空は立ち止まり、隣を見る。
チェスターは小さな足取りでついてきていた。周囲を満たす死の気配など、まるで気にも留めていない様子だ。
空は身を屈め、そっと頭を撫でる。
「チェスター。相手が攻撃的か分からない。念のため、外で待っててくれ」
小さな身体は即座に踵を返し、迷いなく引き返していった。
振り返ることすらしない。
「……本気だぞ。外なら安全だし、俺も集中できる」
すでにいない相手に、低く言葉を投げる。
しばらくして、完全に一人になったことを確認すると、空は小さく息を吐いた。
「……本当に? 抗議も鳴き声もなし? せめて、少しは迷えよ。そんなにあっさり見捨てるな」
首を振り、歩みを再開する。
自分は助けるために、ここへ送られた。
そして、十分に進めば元の世界へ戻れると約束されている。
それは――望んでいることだ。
少なくとも、望むべきこと。
だから、引き返さない。
だから、恐怖を感じない。
だから、この状況でさえ、胸の奥に微かな高揚を覚えている。
――そういうことだ。
ただ、それだけだ。
トンネルの奥、瓦礫の向こうに、それは姿を現した。
即席で組み上げられた構造物。
“家”と呼ぶには、あまりにも粗末だった。
腐食した金属片、湿った板材、錆びたベッドの破片、歪んだコンテナ。
対称性も、合理性もない。
それでも――誰かが必死に作り上げた痕跡だけは、はっきりと残っていた。
空は、それを評価しに来たわけではない。
彼らの選択を裁くつもりもない。
足を止める。
歪で、沈黙したその構造物を前に、空は確信した。
――中に、人がいる。
彼らと出会うことに、空はどこか心惹かれていた。
錆びついた隙間から覗くと、複数の人影が見えた。
痩せ細った身体、背を丸めた者、あるいは床に横たわったままの者。
動きは鈍く、そこにははっきりとした疲弊が漂っていた。
空は黙って彼らを見つめた。
自分が場違いな存在に思えた。侵入者。招かれざる観察者。
近づくべきではない、と告げる声が心の奥で囁く。
だが、それを上回る別の衝動があった――近づかなければならない。彼らを知るべきだ、と。
母のことを思い出す。
病で亡くなってから、苦しむ人を助けたいという思いは、彼の中で消えることがなかった。
それは、ユメと出会い、他の人々と関わる中で、いつしか“責任”のような形に変わっていった。
この世界に来た当初は、ただ静かに終わりを迎えるつもりだった。だが今は違う。もう、引き返す理由はなかった。
深く息を吸う。
空は、自分を社交的だと思っていた。
それは生まれつきではない。ユメや、他の仲間たちのおかげで身につけたものだ。
誰かがそばにいれば、不安は和らぐ。
かつて自然にできていたことを、思い出せばいいだけだ。
一歩、前へ出る。
自分がどんな表情をしているのかは分からない。
ただ、昔からよく言われていたことは覚えている。
初対面の相手には、冷たく、空虚に見えるのだと。
不快なもの、取るに足らないものを見る目――触れたくもない虫を眺めるような顔だと。
だが今回は、無理に何かを作ろうとは思わなかった。
嫌悪も拒絶もない。
長年まとわりついてきた、あの居心地の悪さすら感じない。
そして、その“なさ”こそが、彼を不安にさせた。
気づいた瞬間、空は身体を強張らせ、すぐに修正を試みる。
何度も練習してきた、周囲に溶け込むための表情――
控えめで、少しだけ愛想のいい笑顔。
かつて「感じがいい」と言われた、その仮面。
だが、声はそれに追いつかなかった。
「……すみません」
ほんの少しだけ、声を張る。
「邪魔をするつもりはありません。ただ……助けたいだけです」
言葉に偽りはなかった。
表情も、本人のつもりでは無感情だ。相手を刺激しない、無色の顔。
しばらく、返事はなかった。
何人かが身じろぎし、何人かは完全に無視を決め込む。
やがて、疲れ切った声が低く呟いた。
「……もう、放っておいてくれ」
さらに奥、暗がりから、かすれた声が重なる。
「これ以上、芝居はいらない。殺すなら、さっさとやれ」
そして、三つ目の声。
荒く、しかしはっきりとした調子で、吐き捨てるように言った。
「チッ……黙れ。浄化部隊の人間なら、話しかけたりしねぇ。とっくに俺たちは処分されてる」
空は、わずかに首を傾げた。
“浄化部隊”?
完全には理解できなかったが、今は深く追及すべきではないと判断する。
ゆっくりと呼吸を整える。
緊張はしている。だが、恐怖はなかった。
病に苦しむ人を助けたい。理解したい。
それは、ずっと彼の中にあった願いであり、この世界で与えられた役割でもある。
――それだけだ。
空は、再び一歩を踏み出した。
【メンタルフラグメント】
アレクシア(黒):
空は慎重すぎるわ。サポートシステムなんて、常に使えばいいのに。神からもらったものなんだし。
アニス(茶):
知らないの? こういう物語って、だいたいいつかそれが使えなくなるのよ。そのとき頼れるのは、自分の勘だけ。
メイ(白):
そ、それはそうだけど……もしそうなったら、能力も失うかもしれないし、今までの練習が全部無意味に……。
ユメ(橙):
えへへ……見て見て。
他の人間と普通に話してるよ。まるで、昔はユメしか話し相手がいなかった反社会的ぼっちだったなんて、思えないね。
アリシア(黄):
えっ? 私の騎士様が反社会的?
ち、違うよ! ちょっとシャイだっただけ! 最初に会ったときだって、ちゃんと助けようとしてくれたもん!
アレクシア(黒):
……無愛想とは思わないけど、しばらくは対立してたわね。
ユメ(橙):
あー、それも聞いたよ。
最初は、空と同じような孤立系男子だと思ってたし、家族思いでいい人だって言うから、仲良くなれてよかったな~って思ってたんだけど……女の子だったんだよね。
アレクシア(黒):
……その暗黒時代は思い出したくない。
というか、どうして知ってるの? 二年生になるまで、学校にも来てなかったでしょ。
ユメ(橙):
えへへ……空はね、いろいろユメに話してくれるんだよ?
だってほら……ユメは彼女になったんだもん~。
メイ(白):
……幼なじみ枠って、この手の作品だと強すぎませんか。




