魔王様、それは休みにございます!
朝だ。鳥が鳴き、空気は軽く、庁舎の影は今日は動かぬ。つまり――休暇。人間界における「戦わない日」。
だが魔王に休息は似合わぬ。征くのだ、未知の街へッ!
麦の冠をかぶり、名札〈ヴァルザーク/臨時〉は外すべきか一秒悩み、結局つけた。身分を明らかにしておくのは支配者の初歩である。
鏡に向かって低く呟く。
「本日の任務――人間界の偵察と制圧……いや、見物」
宿舎を出ると、太陽はやさしく、風は甘い。いつもは紙と朱の匂いしかしない我が鼻腔に、焼けたパンの匂い、湿った土、遠い揚げ油。うむ、なかなか居心地が良い。
まず征くべきは、庁舎で人々がよく口にする「駅」。人の流れが収束し放出される、都市の大動脈、という噂だ。
坂を下り、商店を抜け、石の広場に達すると、それは口を開けていた。金とガラスの巨口。脇には「ICカード」とやらの像が掲げられ、「ピッ」と鳴くことが栄誉とされているらしい。
顎のように開閉する門――改札。歯のように並ぶ小さな羽根が、侵入者を選別している。試練か。
「通行の儀、許可を得ねばなるまい」
我は券売機とやらの前に立つ。黒い鏡面に数字、四角い石のようなボタン。触れると光り、金属の腹ががこんと鳴く。古のゴーレムに似ている。行き先の地図は線で色分けされ、迷宮のようだ。見取り図を読むのは得意だが、これは色が多すぎる。赤、青、緑、黄、紫……戦旗の博覧会か?
「迷うな。我が意を示せ!」
最寄り駅の名を適当に押し、硬貨を入れる。機械が金を呑み込み、代わりにとでも言うかのように切符を吐き出した。
――勝った。我は勝ったのだ! やはり紙の力は味方につけるに限るな。
改札の前に立つ。人々は「ピッ」と鳴る板を軽く触れて通過する。カードの魔術か。だが我は紙の戦士。切符を差し込む口を見つけ、いざ投入――
がこん。羽根が開いた。だが切符が吐き出されなかった。
「我が証はどこだ!?」
慌てて振り返ると、背後の口から切符がひょこっと顔を出していた。入口で呑み、出口で吐く。賢い門だ。握りしめてホームへ降りると、鉄の蛇が風を纏って滑り込む。人々が吞まれ、吐き出され、秩序の波が生じる。かつての我が軍の行軍より整っている。恐るべき規律……!
車内は箱庭のように密だ。座席で眠る者、光る板を撫でる者、耳に貝をはめる者。静かだが、静寂ではない。音は小さく、情報は多い。文明の真骨頂というやつだな。
しばし揺られ、中心街で降りる。地上に出ると、ビルは山脈、看板は旗、歩道は川。つまり戦場だ。いや、違う、今日は戦わないのだったな。
まず目に入ったのは、透明な箱がずらりと並ぶ一角。中に色とりどりの丸い器。その前に子どもたちの列。箱には「Gacha」とある。発音からしてなんと禍々しいものか。
「運命を試す輪……封印された宝玉……ふむ」
一台に近寄り、硬貨を投入し、頑丈な把手を回す。感触は悪くない。歯車の重み、スプリングの跳ね返り、最後の「コトン」。足元の口に、丸い透明な球が転がり落ちた。
「出た……!」
蓋を回して開ける。中から現れたのは――小さなスライムが麦わら帽子を被ったキーホルダー。
「我の肖像だと……?」
どこから見ても、麦わら。いや、我の要素麦わらしかなかった。
スライムか、だが愛らしい。愛らしさは暴力だ。財布という我が生命がゴリゴリ削られていくのが分かる。
「もう一度だ」
二度目はドラゴンがレジ袋を持っていた。
三度目はコボルトが役所の窓口で並んでいた。おい誰だこれを企画したのは。天才か。悪魔か。どちらにせよ興味深い……!
財布の中の硬貨がみるみる軽くなる。背筋に走る冷たい汗。これが「散財」か。人間界の罠、恐るべし。
「……撤退だ」
我は未練を断ち切り、角のない頭を振った。戦場から一歩離れるには、甘いものが良い。脳に糖を与えよ。
気付けば足は、香りに誘われていた。ガラス越しに見える茶色い豆の絵。扉を開ければ、焙煎の香りが胸の奥を撫でる。カフェ――人間の魔力補給所だ。
カウンターには黒い板のメニュー。「ラテ」「モカ」「フラペチーノ」。呪文の羅列。何を頼めば勝ちなのだ。迷っていると、店員が微笑んだ。
「はじめてですか?」
「うむ。我は強く、苦く、しかし甘さも欲しい。矛盾しているのは百も承知だが……」
「じゃあこれ、おすすめです」
なんと、我が言葉に寸分の迷いもなく一つの商品をお勧めされた。
自分でも難解なことを言っているつもりであったが……これがその道に生きる者の力ということか。
渡されたのは、冷たい大杯に白い泡と茶色の液体が層を成す飲み物。表面には葉の形――召喚紋だろうか。
ひと口。冷たさと甘さが、背骨に沿って落ちる。苦みはふわりと香りだけを残して、喉では暴れない。甘いが、優しい。砂糖の殴打ではなく、抱擁の類いだ。
「……勝てぬ」
我は椅子に沈み、世界の敗北を味わった。テーブルの向こうでは、若い男女が笑い、小さな端末で写真を撮り合っている。画面には猫の耳や髭が瞬時に合成され、彼らはさらに笑う。魔術ではないのか。人間はいつの間に幻術を会得したのだ。
レジ横の棚に視線を移す。小袋の菓子、焼いた豆の粉、金の字で「限定」とある。
限定という言葉は危険だ。かつての言葉に直すなら「聖剣、もしくは魔剣」か。
買うしかない。
――買った。財布が薄くなる音が聞こえる。これは幻聴ではない。
店を出ると、通りの向こうに巨大なガラスの箱。中では機械の爪がぬいぐるみを掴み、落とし、掴み、落とし続けている。人々はそれに硬貨を投じ、歓声とため息を交互に上げる。
捕獲の儀式――クレーンゲーム。狙うは、棚の奥でこちらを見下ろす大きなスライム。
「眷属よ、待っていろ。我が救い出す」
一投目――爪はスライムの端をすくい、宙を浮かせ、縁でむなしく指を開いた。
二投目――布の耳を掴み、移動し、やはり落ちる。
三投目――少し前に出た。
四投目――横に転がった。
五投目――深く潜った。
六投目――店員が無言で位置を直してくれた。優しい。だが我は敗北した。爪は平等であり、冷酷だ。
勝てぬものに硬貨を捧げ続けるのは愚者の所業。撤退。
だが、我にはまだ必勝法がある――じはんきなるものだ。
飲み物の鉄の神殿。金を入れれば確実に得るものがある。世の中、こうであってほしい。愛してるぞ、じはんきよ。
我は硬貨を入れ、見たことのない「エナジー」と書かれた飲み物を選ぶ。缶は冷たく、色は怪しく、味は
――薬草酒の悪夢のようだが、翼が生えた気がする。多分。気のせいかもしれない。
足取りは軽く、商店街へ。旗がたなびき、スピーカーから人の声が流れる。特売、半額、今だけ。『今だけ』。さっきの言葉だ。
危険だ。だが我は魔王。誘惑に負けない。
――負けた。お値引きの札がこんなに効力を持つとは。人間は剣ではなく、札で心を刺すのか。
ふと、路地に紫の暖簾。占いの館。良い。未来を覗くのは魔王の嗜み。扉を開けると、年若い占い師が水晶を磨いていた。彼女は我を見るなり、目を丸くする。
「えっと……今日はどのような……」
「我が未来――角は戻るか」
「え、角……? えっと、えっと、ではタロットで……」
出てきたのは金色の塔、杯、剣、そして――「節制」。彼女は真面目な顔で言う。
「我慢です」
「……」
「もうちょっと、我慢です」
「……」
「あと、無駄遣いが多いです。気をつけてください」
我は財布を握りしめ、そっと頷いた。占い、恐るべし。見透かされている。いや、今日は誰が見ても分かる出費だった。水晶など不要だ。
商業施設に入る。眼前に電子の大壁――巨大な画面。流れる映像は、食物、衣服、旅、笑顔。耳に柔らかい音楽。人々はベンチに座り、画面を眺め、誰も血を流さない。戦場の対義。平和は派手だ。静かなのに、色が多い。
エスカレーターに乗る。魔動の階段。足を乗せると運ばれる。魔法陣に似ているが、魔力の代わりに電気が流れているらしい。電撃魔法の応用か。
上階は玩具の聖域。木製の列車が走り、小さな人形が踊り、親は笑い、子は走り、店員は優しい。千年前も、ここだけは変わらぬのだろうか。いや、質は明らかに上がっている。恐るるべきは文明か!
ひときわ人だかりができている一角へ。
写真の匣――プリクラ。中は光り、背景が変わり、目が大きくなり、肌がつるりと輝き、現実が改竄される。
ソウルイートか。だが皆、楽しげだ。抜かれているのは魂ではなく、疲れのほうかもしれない。
ひとりで入る勇気はないので、その隣の「撮影スポット」と書かれた壁で自撮りを試みる。
宿舎の鏡で練習した「笑顔」の作法――口角は小さく、目は柔らかく、声は低く(写真には不要だが形から)。
自分用の光る板を持っていないので、庁舎より貸し出されてるものを使わせてもらう。タイマーを押して、構える。三、二、一――ぱしゃ。画面に映るのは麦わらの、角のない魔王。威厳がない。だが、少し人間に見える。保存して、印刷する。紙に出てきた我は、妙に小さく、妙に可笑しい。
腹が減った。フードコートという大広間で、列に並び、番号札を持ち、呼ばれ、受け取る。儀式は紙で進む。焼きそば、からあげ、炭酸。脂と塩と甘味の三連撃。
人間はこれで戦っているのか。強い。なるほど、心が強くなる味だ。
食後、ふと視界に「Wi-Fi」という札。風の精霊だろうか。つなぐと速いらしい。どうやってつなぐのかは分からぬが、少年が「無料ですよ」と教えてくれた。
文字列と呪文を打ち込むと、端末が世界と繋がる。情報が滝のように流れ込み、我の頭はくらくらした。千年ぶりの目覚めに、さらに千年ぶんの知識が押し寄せる。退け、情報の津波よ! 今日は休みだッ!
外に出ると、夕日がビルの谷に沈みかけていた。オレンジの光がガラスに跳ね、風が熱を和らげる。通りには屋台。串の肉、焼きたこ、甘い菓子。人は立ち止まり、笑い、何かを買い、また歩く。誰も剣を抜かず、誰も槍を構えない。戦のない時間。
ポケットの中で、ガチャのスライムがこつんと鳴る。麦わらを被ったスライムは、我に似て愉快だ。キーホルダーの輪を指にかけ、くるりと回す。陽に透ける小さな丸は、存外に美しい。
駅へ戻る。改札の口に紙を捧げ、羽根を抜け、階段を降りる。鉄の蛇は今日も律儀に来る。我は席に座り、窓の外の闇に自分の顔を重ねた。角はない。だが、笑うことは覚えた。朱の儀式も、沈黙の結界も、今日の散財も、人間の世界の一部。世界は、驚きと罠と甘い飲み物でできている。
宿舎へ戻って、荷をほどく。ガチャの球を机に並べる。麦わらのスライム、袋持ちドラゴン、臨時職員コボルト。並ぶと隊列のようだ。可笑しい。
財布の中身を数える。占い師の「節制」が胸に刺さる。
「……明日から節制」
口に出すと、少しだけ本気になれる気がした。麦の冠をランプに掛け、印筒を枕元に置く。静かな部屋に、遠くの線路の音。規則正しい金属のリズム。人間の文明は、音で安心を織る。
目を閉じる前、ふと思う。今日、何かを征服したか? いや、されっぱなしだ。駅の口に、ガチャの歯車に、爪の機械に、冷たい飲み物に。だが悪くない敗北だ。剣で斬られたわけではない。財布を斬られただけだ。死なぬ。
「フッ……散財の魔王、か」
自嘲しつつも、笑いは止まらない。世界は広く、面白く、金がかかる。
人間が強い理由が少し分かった。戦わない時間を上手に使う。これが千年の空白が教えてくれなかった術だ。
灯りを落とす直前、机の上の小さな軍勢――ガチャの眷属たちに向かって一礼した。
「本日の損害、金銭若干。得たもの、多数。よし」
眠りが来る。今日の夢は、巨大なガチャの中で転がりながら、遠くから聞こえる「ピッ」という音に合わせて笑う夢だ。人間の世界は、音が合図で、光が道しるべで、紙が鍵だ。我もまた、少しずつそれに馴染む。角はなくとも、明日も歩ける。
――明日は出勤。紙と朱と笑みの三手に、節制を添えて。
「人間の“休日”……戦わぬ日こそ、財布に最大の被害が出る。
甘い飲み物と丸い玉の罠、恐るべし」
【次回予告】
――定時。
それは、すべての労働者が夢見る“解放”の合図。
だが――魔王にその鐘は鳴らなかった。
押印は終わらず、書類は増え、係長の「これだけ」が山のように積もる。
気づけば時計は二十一時。蛍光灯は沈みゆく太陽、朱肉は血のように乾いていく……!
そして、夜の庁舎に響く謎の音――“カタ……カタ……”
残っていたのは、魔王とプリンターだけだった。
次回、「残業の恐怖――」




